雑司が谷大鳥神社 / 東京都豊島区

神社情報

雑司が谷大鳥神社(ぞうしがやおおとりじんじゃ)

御祭神:日本武尊
相殿神:倉稲魂命
社格等:─
例大祭:9月上旬土・日曜
所在地:東京都豊島区雑司が谷3-20-14
最寄駅:鬼子母神前停留場・雑司が谷駅
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/ootorijinja/

御由緒

 正徳年間鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀せらる。明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称仮遷座す。此れを憂い、旧幕臣矢嶋昌郁氏自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地暫く定まる。その後、境内地を暫次拡張し現状となる。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/08/19(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/02/25(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※2017年頃より中央の朱印が変更となっている。
※初詣、夏詣、酉の市など限定御朱印あり。
※雑司が谷七福神・恵比寿神(西宮神社)の御朱印も頂ける。

[2018/08/19拝受]
(現御朱印)

[2016/02/25拝受]
(旧御朱印)

歴史考察

雑司が谷のお酉さま

東京都豊島区雑司が谷に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、雑司が谷の鎮守。
元々は「鬼子母神堂」の境内に「鷺明神」として創建。
神仏分離後に紆余曲折を経て雑司が谷の鎮守として現在地に鎮座。
11月の酉の市は大変賑わう事で知られる他、現在は雑司が谷七福神の恵比寿神を担っている。
正式名称は「大鳥神社」であるが、他との区別から「雑司が谷大鳥神社」とさせて頂く。

鬼子母神堂の境内に鷺大明神として創建

創建は、正徳二年(1712)と伝わる。
創建時は現在も近くにある「鬼子母神堂」の境内に祀られていた。

「鬼子母神堂(きしもじんどう)」の正式な表記は「鬼」の上の点がない字体。

正徳二年(1712)、松江藩下屋敷で第五代藩主・松平宣維の嫡男が疱瘡(天然痘)に罹患。
託宣によって宣維が「出雲大社」の摂社「伊奈西波岐神社」(通称:鷺大明神)に祈願したところ快癒したため、雑司が谷の「鬼子母神堂」の境内に鷺大明神を祀ったのが始まりとされている。

伊奈西波岐神社(いなせはぎじんじゃ)
島根県出雲市大社町鷺浦に鎮座する神社。
式内社「大穴持伊那西波伎神社」に比定されている古社。
「出雲大社」の摂社で鷺大明神(さぎだいみょうじん)として崇敬を集め、現在も「鷺社」「鷺宮」と称されている。
出雲では古くから疱瘡の守護神として信仰を集めた。
松江藩
出雲国を領有した藩。
藩庁は松江城(現・島根県松江市)で、越前系松平氏が藩主。
当時は当社近くの千登世橋付近に下屋敷があり、藩主・松平宣維(まつだいらのぶずみ)の嫡男・宗衍(むねのぶ)が疱瘡にかかったのも下屋敷内での事であった。
他に松江藩の下屋敷としては「大崎屋敷」と呼ばれた現在の品川区北品川付近が知られる。

こうした御由緒から痘瘡守護神として信仰を集め、鷺大明神を祀ったため、鷺様(さぎさま)と称された。

雑司が谷村鎮守であった鬼子母神堂

上述の通り当社は「鬼子母神堂」の境内に創建。

鬼子母神堂(きしもじんどう)
「法明寺」の飛地境内にあるお堂。
永禄四年(1561)に、山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。
天正六年(1576)に稲荷社があった当地に社殿を建立。
鬼子母神堂は、安産・子育(こやす)の神様である鬼子母神を お祀りするお堂として、多くの人々に親しまれています。

寛文四年(1664)、広島藩主・浅野光晟の正室・満姫の寄進によって社殿が造営。
この社殿が現存しており国の重要文化財となっている。

現在の「鬼子母神堂」は「法明寺」の仏堂とされているが、当時は雑司が谷村の鎮守という扱いで、当時は神仏習合の時代であったため、寺院や神社といった区別は明確ではないものの、神社として「法明寺」が別当寺となり崇敬を集めていた一面も見られる。
江戸時代の史料では「鬼子母神社」としても「鬼子母神堂」としても残っている。

新編武蔵風土記稿で見る鬼子母神堂と当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』にはこう書かれている。

(雑司ヶ谷村)
鬼子母神社
村の鎮守なり。圓満具足神大黒天を配祀せり。相傳ふ當社造立の由来は、永禄四年五月村民丹右衛門と云もの、村内小名清土の畑中より一の佛像を掘出し地主柳下某かもとへ持行てかくと告げるに、佛像なれば法明寺々中東陽坊へ納め然へしとて彼坊に安置せり。其後安房國の旅僧来て彼像を奪去しに、歸國の後狂亂して云、我は是雑司ヶ谷の鬼子母神なり。いかてか此地に移るへき、急き舊地に復すへしとなり、よつて其由を懺悔して東陽坊へ返せしより、僧俗ともに参詣するもの多し。斯て天正六年四月今本地堂と唱ふる稲荷の社地へ假初の社を營み安置せり。其時の棟札今に蔵す左の如し。(※下記図)
其後寛文六年、松平安藝守光晟の室法名自昌院英心日妙か寄進にて、今の如く客殿拝殿等新に造營ありしより世に聞ふる靈地となれり。毎年正月十六日奉射祭の式あり。又近き年まて六月草薙の祭と云もありしか今は廢せり。十月八日より十八日迄は日蓮影供の會式なれば参詣の人群集しいと賑はへり。法明寺寺中大行院持。
末社。
稲荷社。弘治年中の勧請にて別に除地を附す、天正年中始て鬼子母神を此社地へ祀る故に、當社を土人は本地堂と唱ふ、因て有徳院殿御成の時は必當社へ成らせられ、夫より鬼子母神へ御立寄ありしと云。
鷺明神社。痘瘡守護神なり。祭神瓊瓊杵尊。正徳年中の勧請と云。神體は一寸五分許の白茶色の小石なり。
妙見社。
石像仁王。
銀杏樹。楠正成關東下向の時此所に松銀杏の二樹を植しが、今は此の銀杏のみ殘ると雖、幹は枯れて蘖なりと寺傳に記せり。
門前町屋。間口六十四間、歩數七百五十七、延享二年町奉行支配となる。

(新編武蔵風土記稿)

雑司が谷村の「鬼子母神社」と記されているのが「鬼子母神堂」。
「法明寺」が別当寺で、当時は神社としての扱いであった事が伺える。
雑司が谷村の鎮守であった。
特に門前には門前町が開かれ、多くの茶屋で賑わったという。

棟札には南無妙法蓮華経の題目があり、「法明寺」と同じ日蓮宗の教えを色濃く残している事も伺える。当時は神仏習合の時代であり神社と寺院の境界線は今のように明確ではなかった。

鷺明神社
痘瘡守護神なり。祭神瓊瓊杵尊。正徳年中の勧請と云。神體は一寸五分許の白茶色の小石なり。

「鬼子母神社」の項目に末社として「鷺明神社(さぎみょうじんしゃ)」と記してあるのが当社になる。
鬼子母神堂の境内の一画に鎮座していて、痘瘡守護神とされていた事が分かる。

『新編武蔵風土記稿』では御祭神は、天孫降臨の神として知られる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と記してあり、現在の日本武尊(やまとたけるのみこと)とは違いがある。
当時は大鳥神社系の鷲明神(おおとりみょうじん)ではなく、出雲系の鷺明神(さぎみょうじん)を祀っていた事に由来するのだろう。

江戸名所図会に描かれた鬼子母神堂と当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

『江戸名所図会』では「鬼子母神社」ではなく「雑司が谷鬼子母神堂」として描かれている。
多くの鳥居を見る事ができ、神仏習合時代の中、神社としての要素もかなり強い。
門前町が形成され多数の茶屋で賑わっているのが分かり、雑司が谷は江戸近郊の名所の1つでもあった。

(江戸名所図会)

「鬼子母神堂」の本社を中心に拡大したのが上図。
赤円で囲ったのが「鷺明神(さぎみょうじん)」として祀られている当社。
本社の右手に鎮座していた事が分かる。

痘瘡守護神として信仰を集めた鷺大明神

同様に『江戸名所図会』では当社について詳しく記してある。

鷺大明神祠
堂前左の方にあり。祭る神詳らかならず。あるいはいふ、出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮坐したまふ、素蓋鳴尊の妾女皐諦女なりといふ。この神は疱瘡の守護神にして、正徳の頃松平羽州侯、神告によってこれを勧請す。疱瘡寄願の輩、広前の小石を拾ひ得て守護とす。例年八月朔日祭りあり。また、毎月朔日をもつて縁日とす。

「鷺大明神祠」として記されているのが当社。
御祭神は不詳とあるものの、「出雲国神戸郡鷺村の鷺浦に鎮坐したまふ、素蓋鳴尊の妾女皐諦女」とあり、これが「出雲大社」の摂社「伊奈西波岐神社」(通称:鷺大明神)にあたるのであろう。

「伊奈西波岐神社」の御祭神は、稲背脛命(いなせはぎのみこと)という神とされる。古くから疱瘡安全の神とされていて、その他『新編武蔵風土記稿』で当社の御祭神として記してあった瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の説もあり、また素戔嗚尊(すさのおのみこと)の妾を祀っていたという説もあり、当社の御祭神はやはり「伊奈西波岐神社」からの勧請であったのだろう。

松江藩主が古くから疱瘡安全の神とされていた「伊奈西波岐神社」を、雑司が谷の「鬼子母神堂」に祀った事から、当社も痘瘡守護神として信仰を集めていた事が伺える。

神仏分離で鬼子母神堂と分離・寄進による再興

明治になり神仏分離。
「鬼子母神堂」境内に鎮座していた「鷺明神」を「大鳥神社」と改称。
「大鳥神社」を雑司が谷鎮守とした。

神仏分離の影響で「鬼子母神堂」は神社ではなく「法明寺」の飛地境内のお堂となり、雑司が谷村の氏神とする事ができなくなる。
そのため、境内の「鷺明神」を「大鳥神社」と改称して分離し、雑司が谷の氏神とする事になり、この際に御祭神も日本武尊に変更となっている。
本来は「鷺明神(さぎみょうじん)」と呼ばれていて松江藩の繋がりで出雲系の神社であったと見られるが、神仏分離に際して「鷲明神(おおとりみょうじん)」と混同され、大鳥信仰の神社として日本武尊が御祭神になったものと推測できる。

「鬼子母神堂」境内から分離したものの、当時は大門欅並木の料亭蝶屋地内に仮遷座を余儀なくされており、40坪の借地に小さな祠があるだけだったと云う。

明治二十年(1887)、この状況を見かねた旧幕臣の矢嶋昌郁が、200坪の自宅を寄進。
自ら祠主となった神社復興に努め、これが現在の鎮座地の基礎となっている。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
既にこの頃には社地を確保していた事が分かる。
橙円で囲ったのが「鬼子母神堂」で、地名として雑司ヶ谷も見る事ができる。
千登世の地名もあり、当社の創建に関わる松江藩の下屋敷はこのあたりにあったのであろう。

大正六年(1917)、社殿が新築。
昭和十五年(1940)、当社の北側を流れていた弦巻川の暗渠化に伴い、社殿配置が変換。
同年、宮司の私有宅地(境内に隣接120数坪)が寄進され境内編入。

昭和三十年(1955)、境内に隣接する土地約150坪を管理者の配慮を受け、全氏子の寄付により買取し境内に編入。

神仏分離後は借地に小さな祠しかなかった当社だが、現在の境内になるまで、多くの崇敬者や氏子、神職の努力があった事が分かり、当社に対する崇敬が伝わる歴史となっている。

昭和四十二年(1967)、兼務社であった「三杉稲荷神社」が首都高速五号線開設のため、当社境内に遷座。

昭和五十七年(1982)、旧社殿の老朽化に伴い、新たに社殿が竣工。
これが現在の社殿。

平成二十二年(2010)、境内に恵比寿神として「西宮神社」が建立。
同年、「雑司が谷七福神の会」が結成され、翌年の初詣より雑司が谷七福神巡りが開催。
当社は雑司が谷七福神の恵比寿神を担っている。

境内案内

都電荒川線の線路沿いに鎮座・珍しい造形の狛犬

最寄駅は都電荒川線の鬼子母神前停留所で、昔懐かしさが残る都電路線沿いに鎮座。
社号碑には「大鳥神社」の文字。

当社の御朱印には都電車両のスタンプも押されている。

一之鳥居の先には狛犬。
かなり個性的な造形の狛犬。
出雲構え型とも呼ばる造形で、表情も体躯も関東ではあまり見ない。

当社は出雲の「伊奈西波岐神社」から勧請された歴史を持つため、そうした御由緒を汲んでこういった出雲構え型の狛犬になっているのだろう。

一之鳥居を潜り参道を少し行くと二之鳥居。
この先が神域。

二之鳥居をくぐってすぐ右手に手水舎。
水が張られ綺麗に整備されている。

鉄筋コンクリート造の社殿・巾着の賽銭箱

社殿は昭和五十七年(1982)に造営されたもの。
大正六年(1917)の旧社殿の老朽化に伴い、現社殿に建て替えとなった。
鉄筋コンクリート造の社殿で綺麗に維持。
扁額には「大鳥神社」の文字。

特徴的なのは賽銭箱。
巾着の形をしているが、当社の社紋が「巾着」に由来する。

神前幕の他、古い石垣にも巾着(金嚢)を見る事ができ、古くから当社の社紋として使用されていた事が伺え、2013年に参拝時の古い賽銭箱にも巾着があしらわれていた。

拝殿前には一対の狛犬。
昭和十五年(1940)に奉納された戦前のもの。
いわゆる招魂社系と呼ばれる狛犬で、当時の時代を伝える。

雑司が谷七福神の恵比寿神を担う西宮神社など境内社

社殿の右手に境内社の西宮神社。
平成二十二年(2010)に「西宮神社」(兵庫県西宮市)より勧請された恵比寿神。
平成二十三年(2011)の初詣より雑司が谷七福神巡りが開催。
当社は雑司が谷七福神の恵比寿神を担っている。

古くは江戸時代に「鬼子母神堂」境内に鎮座していた頃、当社には恵比寿神も合祀されていたと云うが、神仏分離で行方不明となっていた。
都営副都心線の開通で雑司が谷駅が開設された事で、地域活性化のため、平成二十二年(2010)に雑司が谷七福神の会が創設され、当社には江戸時代に合祀されていた恵比寿神を祀る事となり、同年、えびす宮総本社「西宮神社」から御分霊を勧請した経緯がある。
創建当時は社のみ鎮座していたが、その後の整備で恵比寿神像など境内が整備された。

社殿の右手裏に三杉稲荷神社。
古くは当社の兼務社であったが別の場所に鎮座していたと云う。
昭和四十二年(1967)に首都高速五号線開設のため、当社境内に遷座した。

御朱印には鷺大明神の印・都電車両のスタンプも

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

御朱印は2017年頃より中央の朱印が変更。
右が2016年2月に頂いた御朱印で「大鳥神社」の朱印であったが、左の2018年8月に頂いた御朱印では「鷺大明神」の朱印になっていて、かつて「鷺大明神(さぎだいみょうじん)」と呼ばれた歴史を伝える。
更に右上には社紋の巾着、右下には社頭を走る都電車両のスタンプも押されている。

初詣、夏詣、酉の市など限定御朱印あり。
雑司が谷七福神・恵比寿神(西宮神社)の御朱印も頂ける。

11月の酉の市・毎月開催の手創り市など賑わう境内

当社の例大祭は9月上旬の土日であるが、11月の酉の日は「酉の市」として賑わう。

酉の市(とりのいち)
例年11月の酉の日に行われる祭。
日本武尊を御祭神とする大鳥信仰系の神社で行われる事が多い特殊神事。
花畑大鷲神社」(足立区花畑)が発祥とされ、江戸時代から現在にかけては吉原遊廓に隣接していた「浅草鷲神社」の酉の市が日本最大の酉の市として知られる。
酉の市発祥の神社。花畑(旧花又村)鎮守。酉年限定頒布の鷲掴み守。11月酉の日は酉の市・起源と歴史。源義光(新羅三郎)の伝承。義光の末裔とされる秋田藩主・佐竹氏からの寄進。見事な彫刻がある本殿は必見。立派な神苑を有する境内。御朱印。御朱印帳。
日本最大の酉の市で知られるお酉さま。12年に1度の勝幟守は2017年酉の市で授与。24時間開催の酉の市・粋な熊手の買い方。幸福を呼ぶなでおかめ。酉の市起源発祥の考察。江戸時代の浅草酉の市を描いた浮世絵。浅草田圃に鎮座。御朱印。御朱印帳。

現在では、雑司が谷の「お酉さま」として崇敬を集める当社も例外ではなく、11月の酉の日に「酉の市」が開催され、熊手商なども出て境内が賑わう。

平成三十年(2018)の酉の市
一の酉:11月1日(月)
二の酉:11月13日(土)
三の酉:11月25日(金)

また当社境内では、毎月「手創り市」が開催。
画像は2018年8月開催の「手創り市」の様子。
ハンドメイド作品や飲食系などが出店されて大いに賑わう。

手創り市は、豊島区池袋にある鬼子母神・大鳥神社で毎月開催!手づくり品のお店がたくさん出店しています。(雨天中止)

同様に「鬼子母神堂」境内も会場となり、当社と行き来する人が多い。
こちらは同じく会場の「鬼子母神堂」で、同様に大賑わい。
かつて江戸時代まで当社が鎮座していた付近。
「鬼子母神堂」と云えば境内にある天明元年(1781)創業の駄菓子屋「上川口屋」。

(江戸名所図会)

『江戸名所図会』にも「鬼子母神堂」の境内に「あめや」として残る。
ジブリ映画『おもひでぽろぽろ』の駄菓子屋のモデルとしても知られる。

もともと当社が鎮座していた「鬼子母神堂」。神仏分離までは雑司が谷鎮守として当社と共に崇敬を集めた歴史を持つ。歩いてすぐ近くなので、当社と共に参拝するのがよいだろう。

所感

古くは「鬼子母神堂」の境内にお祀りされていた当社。
松江藩主によって出雲の「鷺大明神(さぎだいみょうじん)」が勧請され、疱瘡守護神の「鷺様(さぎさま)」として崇敬を集めた歴史を持つ。
神仏分離の影響で、「鬼子母神堂」と分離し、当社が雑司が谷鎮守となる。
その際に「鷺明神(さぎみょうじん)」が「鷲大明神(おおとりみょうじん)」と混同され、大鳥信仰系の「大鳥神社」になったのであろう。
分離直後は借地に小さな祠のみだったと云うが、戦前・戦後と多くの寄進によって現在の規模に整備。
多くの神社は戦後になり復興資金確保や維持のため境内を切り売りしていたのに対し、こうした当社の事実は、それだけ氏子を中心とした崇敬者や神職の努力・崇敬の賜物であろう。
最近になっても「雑司が谷七福神」などの試みが見られ、毎月開催の「手創り市」や、11月の酉の市など地域の方々にとって大切な地である事が分かる。
近くの「鬼子母神堂」と共に参詣される事をオススメしたい。

神社画像

[ 社号碑・一之鳥居 ]



[ 狛犬 ]


[ 二之鳥居 ]


[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]









[ 狛犬 ]


[ 西宮神社(恵比寿神) ]




[ 三杉稲荷神社 ]


[ 社務所 ]

[ 神楽殿 ]

[ 御神木 ]

[ 北東参道 ]

[ 社号碑 ]

[ 案内板 ]




[ 手創り市 ]





[ 鬼子母神堂(手創り市) ]












Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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