神奈川熊野神社 / 神奈川県横浜市

横浜市

神社情報

神奈川熊野神社(かながわくまのじんじゃ)

御祭神:国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊
社格等:郷社
例大祭:8月17日前後の土・日曜
所在地:神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-1-3
最寄駅:仲木戸駅・東神奈川駅
公式サイト:─

御由緒

当社の御創建は寛治元年六月十七日(1087年)醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮主として熊野三社大権現と号し奉る。
口碑によれば、後三年の役に源義家公社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝えられる。その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(1494年)上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(1510年)権現山合戦の砌、兵火に罹、烏有に帰してしまった。次で天正五年六月(1577年)時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立奉る。
天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に祷し秘伝を修し奉りしことなど、徳川家との関係が深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(おふだ)を献上し奉ったと伝えられる。その後、正徳二年六月(1712年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、旧地には小祠を安置し社地三反八畝十歩を有していたが明治四年之を上地す。慶応四年一月七日(1868年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ明治四十年四月神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、剰え境内をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉斎す。同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月現社殿を完成遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月竣工奉祝祭を執行した。その後四十一年十一月。地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。
宮司 照本 力記(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/07/27

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

神奈川郷総鎮守の熊野三社大権現

神奈川県横浜市神奈川区東神奈川に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、神奈川郷(神奈川町)の総鎮守。
創建当時は権現山(元・幸ヶ谷山上)に鎮座し、古くは「熊野三社大権現」と称された。
現在も氏子などからは「権現様」として親しまれている。
正式名称は「熊野神社」であるが、他との区別から案内板にあった「神奈川熊野神社」とさせて頂く。
他にも現在の地名から「東神奈川熊野神社」と称される事もある。
戦後はGHQによって境内地を接収された歴史を持ち、接収解除後に再建。
境内には江戸後期に奉納された大きな狛犬がある事でも知られる。

平安時代に熊野坐大神を権現山に勧請

社伝によると、寛治元年(1087)創建と伝わる。

「醍醐寺三宝院」(現・京都府京都市)の僧・勝覚が、紀伊国「熊野坐大神(現・熊野本宮大社)」の神霊を分祀し、神奈川権現山(元・幸ヶ谷山上)に社祠を建立。
当社は神奈川郷の総鎮守として「熊野三社大権現」と称された。

勝覚(しょうかく)は、平安時代後期の真言宗の僧。「醍醐寺三宝院」に住し、応徳二年(1085)「醍醐寺」座主に就任。当社の別当寺「金蔵院」も勝覚が開基となり創建したと伝わる。
「熊野本宮大社」は、和歌山県田辺市本宮町本宮に鎮座する神社。
熊野三山の1つで熊野信仰の総本社の1つ。
熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)を御祭神の1柱とし、古くは「熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)」とも称された。
熊野本宮大社
熊野本宮大社の公式ホームページです。全国3000社ある熊野神社の総本宮全国熊野神社です。上四社、中四社、下四社の三社からなり熊野三所権現と言われます。

創建当時は、現在の鎮座地より南西にある「権現山」と呼ばれた山上に鎮座していたと云う。
これは現在の「幸ヶ谷公園」(神奈川区幸ケ谷5)にあたり、かつては急峻な山であった。

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源義家(八幡太郎)も社参し幸ヶ谷と名付けた伝承

平安時代後期、後三年の役が発生。
口碑によると、源義家(八幡太郎)が奥州征伐の途上この地に立ち寄り当社に参拝。

後三年の役は、1083年-1087年に奥州で発生した戦いで、奥州を実質支配していた清原氏の内紛に、源義家(八幡太郎)が介入した事で始まり、清原氏を滅亡に追いやった戦い。奥州藤原氏が登場するきっかけとなった。
源義家(みなもとのよしいえ)は、源頼義の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した。
関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。

奥州から凱旋の帰路、再び当地に立ち寄り、この地を「幸ヶ谷(こうがや)」と名付けたと伝わる。

幸ヶ谷は現在も地名として残る他、当社が創建した権現山も現在は「幸ヶ谷公園」として整備されている。

中世の再建と権現山合戦での焼失

応永五年(1398)、山賊等によって社祠が焼かれ焼失。
荒廃した状態が続いていたと云う。

明応三年(1495)、上田蔵人(上田政盛)が普請奉行となり、社殿が再建。
広大で立派な社殿であったと伝わる。
また当社が鎮座した権現山には「権現山城」という中世の城も建てられた。

上田蔵人(上田政盛)は、戦国時代の武将で扇谷上杉家の元家臣。
長享の乱で活躍し、対立する山内上杉家領であった神奈川湊(現・横浜港周辺)を支配下に置くものの、永正二年(1505)に主家が降伏したため再び山内上杉家に領地を奪われる。
主家の降伏によって領地を奪われた上田蔵人は両上杉家を恨み、相模西部を制圧していた伊勢宗瑞(後北条氏の祖・北条早雲の名で知られる)に寝返る事となり、後の権現山での挙兵と繋がっていく。

永正七年(1510)、伊勢宗瑞(北条早雲)に寝返った上田蔵人は権現山城で挙兵。
扇谷上杉家・山内上杉家と対立。
これが「権現山合戦」とも呼ばれる戦いである。

(金川砂子)

上図は江戸時代に神奈川宿の様子を描いた煙管亭喜荘著『金川砂子』の1枚。権現山を紹介する際に、「権現山合戦」の様子も描いており、戦国時代の権現山は山上に当社があっただけでなく、権現山城として中世の城があった事が窺える。

上田蔵人は激しく抵抗したものの、扇谷上杉家・山内上杉家の包囲によって権現山城は陥落。
蔵人は戦死したとも、伊勢宗瑞(北条早雲)の元に逃れたとも伝わる。

この権現山合戦によって、権現山の山上にあった当社も兵火に罹る。
社殿など全てが焼失してしまった。

金蔵院による再建・権現山から現在地へ遷座

天正五年(1577)、別当寺「金蔵院」の恵賢僧都らによって社殿が再建。

天正十年(1582)、徳川家康が「黒駒合戦」に際して、当社で武運を祈願。
別当が社前に祷し秘伝を修し奉ったと云う。

黒駒合戦とは、徳川家康と北条氏直の戦い。甲斐・信濃・上野で繰り広げられた「天正壬午の乱」のうちの1つ。徳川と後北条の他に上杉や真田など在郷勢力も加わる戦いであった。

こうした縁によって徳川家康と別当寺「金蔵院」の関係が深く、天正十八年(1590)に家康が関東移封によって江戸入りすると「金蔵院」は朱印地として10石を賜った。
別当は代々登城し、御祈祷の御札を献上したと伝えられている。

正徳二年(1712)、権現山の山上が逐次崩壊。
当社は別当寺「金蔵院」がある現在地へ遷座する事となった。
旧鎮座地である権現山には小祠を安置し、これを「本宮」とした。

本宮も明治に権現山山上から現在地へ遷されている。

神奈川宿の発展・新編武蔵風土記稿から見る当社

江戸時代になると、東海道五拾三次の3番目の宿場として「神奈川宿」が成立。
相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。

神奈川町と青木町の2町があり、当社は神奈川町を始めとした一帯の総鎮守であった。

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(神奈川宿・神奈川町・十番町)
金蔵院(中略)
熊野三社
本社一間に九尺。拝殿二間半に四間。いづれも巽向なり。古は青木町の中程なる艮の方の丘にありしを、いつの頃十五日より同き十八日までなり。

神奈川宿には様々な町があり、その中の神奈川町の十番町の中で紹介。
別当寺「金蔵院」の項目に付随するように「熊野三社」として載るのが当社。
「金蔵院」の境内に置かれ、神仏習合の中で一体となった信仰を集めた。
古くは青木町の丘にあった事が記されていて、これがいわゆる権現山である。

青木町の項目には「権現山」が「小山なり」と記されている。

金川砂子に描かれた当社と例祭

文政七年(1824)に神奈川宿の住人・煙管亭喜荘によって記された『金川砂子』には当社の姿が描かれている。

(金川砂子)

中央に「熊野社」として描かれているのが当社。
隣接して別当寺「金蔵院」も描かれている。
「金蔵院」の境内にあったと云うが、実際は隣接して別々の形で鎮座。
賑わう神奈川宿の様子も窺える。

更に『金川砂子』には当社の例祭の様子が描かれている。

(金川砂子)

「熊野社」「夜宮祭禮」として描かれたのが当社の例祭。
当時の社殿の他、左手には舞台が置かれて神楽が演じられている。
屋台も多く出て、大勢の人手で賑わう、当地の祭りであった。

境内にいくつか御神木が描かれているが、そのうちの1つが御神木の大銀杏として今も残る。また当社のシンボルにもなっている狛犬は、この20年ほど後に奉納されるため、また描かれていない。

(金川砂子)

同じく当社の例祭の様子。
こちらは神輿渡御の様子を描いていて、神奈川宿の町を音有り歩くものであった。

当時から戦前に至るまで、「熊野三社権現」(当社)の夏祭、青木町「洲崎大神」の大祭、日枝町の「お三の宮」の大祭は、「横浜三大祭り」とも呼ばれていた。

(金川砂子)

こちらは当時の青木町にあった権現山。
当社の創建の地であり、既にこの頃には山上が崩壊していたと云うが、山上に小さな祠が建てられ、それが当社の「本宮」としての役割を担っていた。

嘉永六年(1853)、現在も残る大狛犬が奉納。
慶応四年(1868)、神奈川宿で発生した大火によって類焼。
上に描かれた江戸時代の当社も社殿など多くが焼失し、その後再建されている。

明治になり郷社に列する・戦災による焼失

明治になり神仏分離。
別当寺「金蔵院」の境内にあった当社は、正式に社地が分離される事となる。
権現山の山上にあった「本宮」も当社境内に遷された。

明治四年(1871)に権現山は上知(国の土地となる)されている。

明治六年(1873)、村社に列する。
明治十七年(1884)、郷社に昇格。

当社はかつての神奈川宿、神奈川町一円の総鎮守とされた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
神奈川宿から来た神奈川の地名や横浜の地名も記されている。
当社は神奈川宿沿いにあり、地域一帯の総鎮守として多くの崇敬を集めた。

明治四十年(1907)、神饌幣帛料供進社に指定。
同年、猟師町の村社「諏訪神社」「船玉社」、「慶運寺」境内の無格社「熊野三社大権現」、斉藤分の無格社「杉山神社」、元字飯田町の無格社「熊野大神」、「元吉祥寺」境内の「稲荷神社」と末社「琴平神社」を合祀。

これらは当時の政府が推し進めた合祀政策によるもの。

昭和十一年(1936)、御鎮座八百五十年祭を斎行。
盛大な祭りであったと云い、3日間に渡って執り行われた。

(神奈川県神社写真帖)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
「郷社 熊野神社」として紹介されているのが当社。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿を伝えている。

昭和二十年(1945)、5月29日に横浜大空襲が発生。
攻撃の目標の1つであった東神奈川駅近くは甚大な被害を受け、当社も焼失。

GHQに境内を接収・接収解除後の再建

終戦後は、GHQによって境内を接収されてしまう。
当社は西神奈川町(二ツ谷町との共有地)に鎮座していた「稲荷神社」境内に遷座し、仮殿にて存続を図った。

昭和三十五年(1960)、境内の接収が解除される。
昭和三十八年(1963)、現在の社殿が造営され元の鎮座地にて再建を果たす。
仮殿に置かれていた狛犬も同時に当社の境内に戻された。

昭和六十一年(1986)、御鎮座九百年祭が斎行。

平成二十一年(2009)、傷だらけになっていた狛犬が修復。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

東神奈川に鎮座・苦難を乗り越えた大狛犬

最寄駅は仲木戸駅もしくは東神奈川駅で、駅からもほど近い。
北東に面して賛同となっていて、大きな鳥居が立つ。
当社の社殿と共に昭和三十八年(1963)に奉納された鳥居は、戦後の復興への歴史を偲ぶ。

鳥居の両脇に、実に立派で大きな狛犬。
嘉永六年(1853)、鶴見村の石工・飯島吉六が造り上げた狛犬。
当社の歴史と共に苦難を乗り越えた狛犬として知られる。
安政二年(1855)の安政大地震、大正十二年(1923)の関東大震災、昭和二十年(1945)の横浜大空襲と、3度に渡り台座から落ち傷だらけになりながらも氏子が修復を行い残された狛犬。

終戦後、当社の境内がGHQに接収される事となった。
当時は突然、当社の社頭まで米兵がブルドーザーで乗り付け、当社の大狛犬を京急の線路まで運んで土手に埋めてしまったと伝わっている。
幸か不幸か狛犬の耳が土の中から出ていて、氏子は通る度に手を合わせていた中、それを見かねた氏子によって、掘り起こされ、当社仮殿の前に置かれたと云う。

接収が解除され、昭和三十八年(1963)に当社の社殿が再建。
狛犬も同時に遷され現在もその姿を残す。
氏子によって守られた思いが伝わる狛犬で、平成二十一年(2009)に修復が行われている。

鳥居を潜ると右手に手水舎。
綺麗に水が張られている。

GHQに接収解除から再建を果たした社殿

社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたもの。
朱色の輝く鉄筋コンクリート造の立派な社殿。
横浜大空襲によって焼失した後、終戦後は境内がGHQによって接収。
西神奈川町(二ツ谷町との共有地)に鎮座していた「稲荷神社」境内に遷座し、仮殿にて存続され、接収解除後にようやく再建を果たした。
状態もよく維持されていて氏子の思いが伝わる。
扁額には「熊野大神」の文字。

戦没慰霊碑・多くの合祀殿

参道の右手に戦没慰霊碑。
その左手には合祀殿。
金比羅社・大鳥社・香取社・鹿島社の合祀殿となっている。
その左手に古い小祠が残り、当地の信仰の歴史を伝える。

社殿の右手裏には稲荷社。
地域の稲荷社が当社に遷座したものであろう。

2度の丸焼けに耐えた御神木「火伏の公孫樹」

社殿の右手裏、稲荷の小祠が並ぶ右手に、当社の御神木である公孫樹(いちょう)が残る。
見た目は黒焦げになった箇所もある無残な姿である。
慶応四年(1868)に発生した神奈川宿の大火、さらに昭和二十年(1945)の横浜大空襲によって2度に渡り丸焼けになったと云うイチョウの御神木。
その中でも驚異的な生命力で生き返り、こうした姿でも現在も秋になると銀杏の実を付ける。

こうした歴史から「火伏の公孫樹(いちょう)」と呼ばれ、氏子から親しまれている。
さらに横浜市指定名木古木にもなっている。

手水舎の裏手には「神奈川一番組之碑」。
火消しだった一番組を偲ぶ石碑となっている。

御朱印・かつて横浜三大祭りとも呼ばれた例祭

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

社務所近くの一画では涼を取る猫の姿。
神社に居着いているらしい。

当社の例祭は『金川砂子』にも描かれたように、当地一帯で賑わう祭りであった。
現在も立派な神楽殿が再建されている。

当時から戦前に至るまで、「熊野三社権現」(当社)の夏祭、青木町「洲崎大神」の大祭、日枝町の「お三の宮」の大祭は、「横浜三大祭り」にも数えられていた。

当社の例祭は8月17日前後の土・日曜。
神輿渡御が行われ賑わう。

2018年例祭は、8月18日・19日の2日間。

所感

神奈川郷の総鎮守として崇敬を集めた当社。
地域を代表する古社として、権現山にて崇敬を集めた。
江戸時代に入り別当寺「金蔵院」の境内であった当地に遷座。
その後は東海道五拾三次の宿場である神奈川宿・神奈川町の総鎮守として一帯から崇敬を集め、特に例祭は盛大であったと伝わっている。
横浜大空襲によって焼失、戦後はGHQに境内を接収されると云う憂き目に遭うが、接収解除後に再建を果たし、その際には幕末の狛犬を氏子が守るといったエピソードも伝わっている。
境内としては比較的新しいものではあるが、再建された全てから氏子による気持ちが伝わり、地域から今も親しまれる良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]



[ 大狛犬 ]








[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]

[ 神奈川一番組之碑 ]


[ 戦没者慰霊碑 ]

[ 合祀殿 ]

[ 小祠 ]


[ 神輿庫 ]

[ 稲荷社 ]

[ 火伏の公孫樹(御神木) ]



[ 神楽殿 ]

[ 参集殿 ]

[ 社務所 ]

[ 絵馬掛 ]

[ 御籤掛 ]

[ 南参道 ]

[ 裏参道 ]

[ 案内板 ]


Google Maps

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