神社情報
大師稲荷神社(だいしいなりじんじゃ)
御祭神:大歳神
相殿神:大宜津姫神・尾船豊請姫神
社格等:村社
例大祭:2月15日(春祭)・10月15日(秋祭)
所在地:神奈川県川崎市川崎区中瀬3-5-1
最寄駅:川崎大師駅・東門前駅
公式サイト(Facebook):https://www.facebook.com/大師稲荷神社-313091018813349/
御由緒
当神社は崇徳天皇の時代、当地の豪族平間兼乗が、往古洲の海中より、十一面観音像を拾い上げ、祀ったのが始まりと伝えられる。平間兼乗は平安時代の末、無実の罪で流刑となり、この川崎の地にて漁猟をして暮らしを立てていましたが、源義家(平安後期の武将頼義の長子通称八幡太郎が前九年の役に父に従って奮戦、後に陸奥守となり、後三年の役を鎮定。東国の源氏の基礎を固めた)の旧臣となり、この地に勢力を持ったが、神仏に対しての信仰が厚く、人望もあり、同じような言い伝えのある川崎大師平間寺の創建にも携わっており、当神社も、川崎大師平間寺の創建と同時期の大治三年(1128年)前後の創建と思われる。
永禄二年(1559年)小田原北条氏の領地となり、朱印地三石を寄附され、元禄十年(1697年)頃までは、殿町・江川町・田町・日の出町あたりまでを稲荷新田村と呼ばれ、特に新田開発に際して、霊験あらたかな御利益があるとの信仰が高まり、大師地区新田の総鎮守として繁栄した。
江戸時代半ばより、大師平間寺の別当神社となり、境内は松が生い茂り、本殿は堀に囲まれ、荘厳なたたずまいを見せるなど隆盛を誇り、特に江戸時代から、明治にかけての祭礼には流鏑馬や多数の小屋がけなどもかかり、近在の参拝者で大変なにぎわいを見せたと伝えられている。
御祭神は大歳神の神像(十一面観音立像)弘法大師作とも伝えられたが、明治四年の神仏分離に大師平間寺に遷され、同寺の宝物となっていたが戦火で焼失したと伝えられている。しかし、現在も奥殿に木彫りの十一面観音像が安置され、境内の地蔵堂には、子育て地蔵像、首なし地蔵像、弘法大師像、不動明王像が祭られている。
神社名は以前、稲荷神社や大師祠などと称されていたが川崎大師平間寺とのこの様な関係から、大師稲荷神社と称され、明治六年村社となる。
また神仏分離の際、現在の福島県古殿町で下総国小見川藩の飛領地代官松浦官兵衛が明治維新時の際に亡くなり、一子員彦(かずひこ)が叔父である川崎大師平間寺三十八世・総本山四十四世貫首隆基(佐伯・赤津)に預けられていた。明治四年、僧籍者が神職を拝命できないため、僧籍でなく、士族で平間家を一時継いでいた中村員彦が川崎大師平間寺より、分家し初代宮司に任ぜられた。
本殿・拝殿には人物や動物、花鳥などの多種多様な彫刻があり、平間寺本堂再建時に活躍した彫刻師後藤富五郎の孫、富八氏が明治初頭に制作したものと伝えられている。お手水舎は元文五年(1740年)、稲荷新田村、川中之島村、大師河原村の奉納と明記されており、再建前の鳥居は明和五年(1768年)灯籠は嘉永五年(1852年)の奉納とある。
明治九年(1876年)現在の本殿が建造されたが、拝殿と鳥居は大正十二年九月一日(1923年)の関東大震災で半崩壊し、昭和十六年十二月十五日(1941年)に社殿がすべて再建され、遷宮祭を執行された。
昭和九年に現在の大神輿が奉納され、平成六年鳥居・敷石・社名碑が再建され、平成十七年本殿(奥殿)屋根葺き替え並びの改修工事完成、平成十八年から平成十九年にかけて、拝殿大屋根の修復、並びに全面的修復工事と灰汁抜き工事等を行い、平成十九年五月十三日社殿修復奉告祭が執行、平成二十五年十月に祓所並びに社務所が新築された。
平成二十六年、崇敬者より、中国唐時代に制作されたと言われる、十一面宝瓶観音坐像(白玉石製・高百十五センチ・重参百キロ以上)の奉納を請け、拝殿、右に観音堂を設置し、平成二十七年元旦より、安置され公開された。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2019/08/31(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/01/25(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
大師地区新田の総鎮守
神奈川県川崎市川崎区中瀬に鎮座する神社。
旧社格は村社で、大師地区新田の総鎮守。
旧別当寺は「川崎大師」の通称で知られる「平間寺」で繋がりが深い。
かつて十一面観音像を御神体としていたとされ、神仏分離で「平間寺」に遷された後に戦災で焼失。
その後、平成二十六年(2014)に崇敬者より約140年ぶりに十一面観音像が奉納され、現在は希望者に一般公開もされている。
川崎大師と同様の創建伝承が残る
社伝によると、崇徳天皇の御代(1123年-1142年)に創建と伝わる。
平間兼乗と云う人物が、海中より十一面観音像を拾い上げ祀ったのが始まりとされる。
当社や「平間寺(川崎大師)」の御由緒に見る事ができる人物。
武士であったとされるが、無実の罪で生国の尾張国を追われ、川崎に辿り着いて漁師として暮らしていたと伝わっている。
「川崎大師」の通称で知られる寺院、真言宗智山派の大本山。
平間兼乗が弘法大師像を拾い上げ、諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人が弘法大師像について話を聞き、兼乗と共に大治三年(1128)に建立。
明治三十二年(1899)には、当寺への参詣客を輸送する目的で大師電気鉄道が開業し、現在の京浜急行電鉄の基となった事でも知られる。
初詣の参拝者は全国3位の数を誇る。
十一面観音像と弘法大師像の違いはあるものの、「平間寺(川崎大師)」とほぼ同様の御由緒を持つのが当社で、「平間寺(川崎大師)」が別当寺を務めるなど大変繋がりの深い関係であった。
稲荷信仰の神社で「稲荷社」「大師祠」などと称された。
江戸時代に入り周辺が新田開発・稲荷新田村の成立
永禄二年(1559)、当地周辺は後北条氏の領地となる。
後北条氏より朱印地三石を賜った。
幕府などから寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。
江戸時代に入ると、多摩川沿いの当地周辺(大師地区新田)の新田開発が進む。
当地周辺を稲荷社であった当社から「稲荷新田村」と呼ぶようになる。
稲荷新田村・川中島村など、大師地区新田の総鎮守として崇敬を集めた。
別当寺は「平間寺(川崎大師)」が担い、当社は江戸時代中期に隆盛を迎えた。
かつての境内は、松が生い茂り、堀に囲まれた本殿を有していたとされ、祭礼には流鏑馬や多数の小屋がけなどもかかったと伝わっている。
江戸時代中期のものとして、現在も手水舎の水盤が残る。
元文五年(1740)、稲荷新田村・川中之島村・大師河原村の奉納。
明和五年(1768)、鳥居が建てられた記録も残っている。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(川中島村)
稲荷社
平間寺御朱印地の内字中瀬と云所にあり。本社二間に一間半。拝殿四間に三間。本地十一面観音立像にして長五六寸。例祭年々九月十五日、流鏑馬を執行す。村内平間寺の持。
川中島村の「稲荷社」と記されているのが当社。
村内で中瀬と呼ばれていた地に鎮座していたとあり、この地名が今も引き継がれている。
例祭になると流鏑馬を行ったとあり、かなり栄えていたのが窺える。
御神体(本地仏)として十一面観音立像があり、篤く信仰されていた。
別当寺は「平間寺(川崎大師)」が担った。
穀物の神である稲荷神と大歳神
当社は古くから「稲荷社」と称されていたように、稲荷信仰の神社である。
神道では一般的に稲荷神を「宇迦之御魂神」とする事が多い。
穀物の神として信仰を集める神。
稲荷信仰の総本社「伏見稲荷大社」の御祭神として知られる事から、稲荷神として信仰を集めている。
一方で、当社の御祭神は「大歳神」となっている。
毎年正月にやってくる神で、一年の収穫を表す「穀物の神」として信仰を集める。
現在も残る正月の飾り物は、元々はこの年神様を迎えるためのもの。
『古事記』では、素盞鳴尊(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた神とされ、両神の間の子には他に宇迦之御魂神がいる。
こうした穀物神としての要素を持つ神々は稲荷信仰として信仰を集め、特に新田開発を行った当地では篤く信仰されたのであろう。
更に神仏習合の中で、創建時に伝わる十一面観音立像を本地仏として信仰を集めた。
日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。
稲荷神や本地仏など、神仏習合時代を窺い知る事ができる逸話。
明治の神仏分離・関東大震災からの復興・戦後の歩み
明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、御神体であった十一面観音立像を旧別当寺「平間寺(川崎大師)」へ遷す。
明治六年(1873)、村社に列する。
明治九年(1876)、社殿が造営。
現存する本殿(覆殿で保護されているため外から見る事はできない)は、この時のもの。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
かつて川中島村の中瀬と呼ばれていた地名が残り、これが現在の町名にも引き継がれている。
緑円で囲ったのが「平間寺(川崎大師)」で、この頃には大師電気鉄道が開業していて大いに賑わった。
大正十二年(1923)、関東大震災によって拝殿や鳥居が半壊。
黒つぶれてしまっているが関東大震災後から戦前の社殿を見る事ができる。
現在の社殿にかなり近いため、この頃には関東大震災から再建されつつあった事が窺える。
昭和十六年(1941)、拝殿を含め社殿がすべて再建。
昭和二十年(1945)の川崎大空襲の戦火を免れており、この時の社殿が改修されながら現存。
戦後になり境内整備が進む。
平成六年(1994)、鳥居・敷石・社名碑が再建。
平成十七年(2005)、本殿を改修。
平成十九年(2007)、拝殿大屋根の修復など改修工事が行われた。
平成二十六年(2014)、崇敬者より中国唐時代に制作されたと伝わる「十一面宝瓶観音坐像」が奉納。
拝殿の右に観音堂を設置し、翌年元旦より安置され公開となっている。
境内案内
中瀬地区の住宅街に鎮座・裏手には中瀬公園
最寄駅は川崎大師駅か東門前駅で、徒歩数分の中瀬地区の住宅街に鎮座。
綺麗に整備された社頭は平成六年(1994)に整備されたもの。
「中瀬大師稲荷神社」と記された社号碑。
立派な鳥居が建つ。
社殿の裏手には西参道。
当社の裏手には中瀬公園が整備。
公園との境界には朱色の小さな鳥居が設けられている。
江戸中期の古い水盤・江戸後期の石灯籠
鳥居を潜るとすぐ右手に手水舎。
現在も使用されている水盤がとても古い。
元文五年(1740)に奉納された古いもの。
江戸中期の古い水盤が今もこうして使用できている事が有り難い。
参道途中に一対の石灯籠。
嘉永五年(1852)に奉納された石灯籠。
狐の彫刻などが施されている。
戦火を免れた社殿・明治造営の本殿
参道の正面に社殿。
拝殿は昭和十六年(1941)に再建されたものが改修されながら現存。
屋根は平成十九年(2007)に改修されたばかりでまだ比較的新しい。
拝殿の彫刻は細かく深い彫りで見事。
旧社殿は、「平間寺(川崎大師)」本堂再建時に活躍した彫刻師・後藤富五郎の孫である後藤富八による彫刻と伝えられており、その頃のものを再建時に極力再現。
木鼻の獅子も躍動感あるよい出来。
本殿は明治九年(1876)に造営されたものが現存しているが、覆殿になっていて保護されているため、外から見る事はできない。
約140年ぶりに祀られた十一面観音像
御由緒にある通り、当社の創建は平間兼乗が海中より「十一面観音像」を拾い上げた事に始まる。
江戸時代の史料にも本地仏として、十一面観音像が祀られていた事が記されているように、創建から長い間、十一面観音像が御神体として祀られ崇敬を集めた。
日本の八百万の神々は、様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるという「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えの中で、神の正体とされる仏を本地仏と呼んだ。
明治の神仏分離によって、十一面観音像は旧別当寺「平間寺(川崎大師)」へ遷される事となり、創建以来祀られてきた十一面観音像は、神仏分離を境に当社の元を離れる事となった。
しかしながら、「平間寺(川崎大師)」の宝物とされた十一面観音像は戦災で焼失。
平成二十六年(2014)、崇敬者より中国唐時代に制作されたと伝わる「十一面宝瓶観音坐像」が当社へ奉納。
拝殿の右に観音堂を設置し、翌年元旦より安置され公開に至った。
神仏分離から約140年ぶりに十一面観音像が当社に祀られる事となった。
現在では一般公開していて、社務所にてお願いすると拝観させて頂ける。
社殿内のため外から少しだけ撮影させて頂いたが、拝殿の右手に観音堂が設置されている。
裏参道には地蔵堂が置かれる
境内社はないが、社殿の左手裏に地蔵堂が置かれている。
子育て地蔵像、首なし地蔵像、弘法大師像、不動明王像が祀られている一画。
「平間寺(川崎大師)が別当寺であった神仏習合時代の名残を感じさせてくれる。
御朱印には十一面観音の姿も
御朱印は中央に社紋の「稲荷抱き稲」、下に「大師稲荷神社之印」。
さらに十一面観音のスタンプも押して下さる。
所感
大師地区新田の総鎮守として崇敬された当社。
「大師稲荷」という社号からも分かるように、「川崎大師」こと「平間寺」と深い繋がりがあった神社であり、創建の御由緒もほぼ同様の内容になっているのが興味深い。
十一面観音像を御神体とし、穀物の神である大歳神が稲荷神として祀られ、新田開発の鎮守を担ったように、当地周辺は当社に見守られて発展した事が窺える。
戦後の境内整備や、再び奉納され祀られた十一面観音像など、今も氏子崇敬者より崇敬を集めているのが伝わり、住宅街にあり隣には小さな公園があるため、子供たちの声も聞こえる境内となっている。
こうした地域に親しまれる神社は個人的にはとても好きな神社である。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 手水舎 ]
[ 石灯籠 ]
[ 拝殿 ]
[ 観音堂 ]
[ 本殿(覆殿) ]
[ 神輿庫 ]
[ 力石 ]
[ 境内風景 ]
[ 社務所 ]
[ 地蔵堂 ]
[ 西側鳥居 ]
[ 水盤 ]
[ 案内板 ]
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