石神井氷川神社 / 東京都練馬区

神社情報

石神井氷川神社(しゃくじいひかわじんしゃ)

御祭神:須佐之男命
相殿神:稲田姫命・大己貴命
社格等:郷社
例大祭:10月第3日曜
所在地:東京都練馬区石神井台1-18-24
最寄駅:石神井公園駅・上石神井駅
公式サイト:http://www.ne.jp/asahi/hikawajinja/hikawahp/

御由緒

 この石神井・氷川神社は石神井の郷の総鎮守社です。現在の町名では、石神井台から石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む全域の鎮守(守り神)です。かつてはこの地域は、谷原・田中・上石神井・下石神井・関、の五つの村からなっていました。本社はその各村民より、長きに渡りあつい崇敬を受けてきた神社なのです。今日なお、一般に「石神井のお氷川さま」と呼ばれ、親しまれています。氷川神社が石神井郷の総鎮守であったことは、『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』などの諸本に、その社名が明記されていることからもわかります。また現存する御手洗い鉢(社殿の西側、末社の前にある石造りの鉢)にも、「石神井郷鎮守社」と刻まれています。
 神社の創建は、古く室町時代にさかのぼります。社伝によれば本社は、室町時代の応永年間(1394-1428)に、このあたりに勢力の大きかった豊嶋氏がこの地を護る石神井城の中に、城の守護神として祀ったのが創まりです。武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのです。当時の豊嶋氏が治める領地の中心は、現在の池袋から豊島園遊園地のあたりであったと伝えられており(現在の「豊島区」という地名は豊嶋氏に由来するものです)、石神井城はその領地の西方を護る砦でありました。また同時に豊かにして貴重な水源地である、石神井池(現在の三宝寺池)を護る意図もあったと伝えられています。
 しかして、やがて豊嶋氏は太田道灌に攻められ、善戦するもその甲斐なく退却を強いられました。そして遂に文明九年(1477)四月十八日、道灌により石神井城が攻略され、城主・豊嶋泰経とその息女・照姫は池に身を投げて自害されたといわれています。石神井城落城とともに、栄華を誇った豊嶋氏は勢力を失ってしまいました。豊嶋氏滅亡の悲劇は、今でも「黄金の鞍と照姫の伝説」として語り継がれています。
 石神井城落城後も氷川神社に対する村民の尊崇は篤く、鎮守の神として仰がれて現在に至っています。また、江戸時代の元禄年間には豊嶋氏の子孫、豊嶋泰盈・泰音により石燈籠一対が奉納されています。豊嶋一族が本社を篤く崇敬していた証しとも言えましょう。明治五年十一月に村社に列せられ、同七年四月に郷社に社格が昇格されました。
 社殿は本殿・拝殿ともに流れ造りです。拝殿は明治三十四年九月の落成。本殿は文政年間の建立と推測されるものでありましたが、老朽化が著しく、平成元年から行われた境内整備事業により、社務所・幣殿とともに改修されました。平成四年に新社殿が竣工し、同年九月には本殿遷座祭が約百五十年ぶりに行われ、輝くばかりの新築に御神徳を一段と深くしました。
 社殿に向かい右手にある神楽殿は、昭和十二年の建立です。その流麗な美しい姿は、都内の神楽殿の中でも特筆されるものです。また昭和四十三年には、明治維新百周年を記念して境内末社の修造、石玉垣の改修が行われています。
 二千余坪の広い境内には木々が生い茂っています。隣接する石神井公園とともに、本社境内周辺は早くから東京都の風致地区・禁猟区に指定されてきました。特に三宝寺池の沼沢植物群落は、天然記念物に指定されています。鎮守の森には多くの鳥類・昆虫類等が棲息しており、訪れる人は誰でも往昔の「武蔵野」の面影に触れることができるでしょう。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2018/05/11

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。


歴史考察

石神井総鎮守・石神井のお氷川さま

東京都練馬区石神井台に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、石神井一帯の総鎮守。
領主の豊島氏が石神井城内に、石神井城の守護神として祀ったのが始まりとされる。
太田道灌によって石神井城が落城し豊島氏が没落した後も、石神井郷の総鎮守として崇敬を集め、今も「石神井のお氷川さま」と呼ばれ多くの人々に親しまれている。
現在は隣接する石神井公園と共に、東京都の風致地区・禁猟区に指定され、緑溢れる境内を維持している。

石神井城と城主の豊島氏・石神井城の守護神として創建

社伝によると、応永年間(1394年-1427年)の創建と伝わる。
領主の豊島氏が石神井城内に、「武蔵一宮氷川神社」の御分霊を勧請し、守護神として祀ったのが始まりとされている。

豊島氏(としまし)は、武蔵国豊嶋郡から発展した武家一族。
平安時代から室町時代にかけて勢力を伸ばし石神井川流域を領地とした。
豊嶋氏とも記される事もあり、当社の御由緒でも豊嶋氏と記してある。

貞和五年(1349)、豊島氏は石神井郷の一円を領地とする。

応安元年(1368)、「武蔵平一揆の乱」が発生。
豊島氏は関東管領・上杉氏により所領を没収。

武蔵平一揆の乱は、鎌倉幕府側から任命された関東管領・上杉氏と敵対した、河越氏を中心とした武蔵国の国人が起こした反乱。武蔵国の国人側であった豊島氏は敗れて、関東管領・上杉氏により所領を没収されてしまう。

応永二年(1395)、豊島氏は石神井郷の所領を返却され、石神井豊島氏とも呼ばれた。
この頃に石神井城を築城し、当社も創建したと推測される。

石神井城(しゃくじいじょう)は、室町中期に存在していた平山城。
築城年は不詳であるが、鎌倉時代に宇多氏などが館を構えていた場所に、豊島氏が築城したと見られていて、豊島氏が石神井郷を返却された後に築城したと推測できる。
当社と同様に応永年間(1394年-1427年)に築城したものと思われる。
以後、豊島氏の本拠地となった。

現在、当社に隣接する石神井城公園内の一部は「石神井城址」となっていて、僅かであるが土塁と空堀を廻らせた内郭が残っている。

石神井城を築城した豊島氏は、武蔵国の一之宮で氷川信仰の総本社「武蔵一宮氷川神社」の御分霊を勧請。
石神井城の守護神として当社を創建した。

武蔵国一之宮。氷川神社の総本社。氷川の由来。大宮の地名由来。東京・埼玉に点在する氷川信仰。江戸時代に描かれた当社。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築された楼門や社殿。明治天皇御親祭150年祭。御朱印。御朱印帳。

太田道灌によって石神井城が落城・豊島氏の没落

文明八年(1476)、「長尾景春の乱」が発生。
新興勢力であった太田道灌と対立を深めていた豊島氏は、当主・豊島泰経が石神井城へ入り、弟の豊島泰明は練馬城へ入り挙兵、道灌と対峙した。

太田道灌(おおたどうかん)は、武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城や河越城・岩槻城を築城した事で広く知られ、当時の江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
江戸城は豊島氏の本拠地である石神井城からも比較的近いため、道灌が江戸に進出した事で、豊島氏と道灌の対立が深まるようになる。

文明九年(1477)、太田道灌と豊島泰経の間で「江古田・沼袋原の戦い」が勃発。
豊島氏は惨敗を喫し、当主の泰経は石神井城へ敗走し、弟の泰明は戦死してしまう。

その後、一時和平交渉が結ばれるが、豊島氏側が条件であった石神井城の破棄を行わなかったため、道灌は石神井城への攻撃を開始。
泰経は石神井城を捨て逃亡する事となる。

石神井城はこの時に落城。そのまま廃城となったと見られている。城内に創建された当社も何らかの戦火を受けたものと思われる。

文明十年(1478)、泰経は平塚城(「平塚神社」周辺)で再起を図るものの、再び道灌が攻めたため逃亡し、その後は行方不明となり、豊島氏は没落する事となった。

上中里鎮守。源義家(八幡太郎)・義綱(賀茂次郎)・義光(新羅三郎)三兄弟を祀る神社。豊島氏が築いた平塚城の鎮守として創建。平塚の由来。江戸時代の再興・徳川将軍家の庇護。浅見光彦シリーズの舞台。珍しい寄棟造の拝殿・御神紋は日の丸扇。御朱印。

豊島泰経・金の乗鞍と照姫伝説

当社が祀られていた石神井城の落城に際し、当地には「金の乗鞍と照姫伝説」と呼ばれる伝説が伝わっている。

太田道灌の総攻撃によって落城寸前となった石神井城主・豊島泰経は、豊島氏重代の家宝「金の乗鞍」を白馬に置き、これに跨り白馬と共に三宝寺池に身を沈めた。
泰経の娘・照姫は、父の死を悲しみ、追うようにして三宝寺池に身を投げた。
道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築いた。
この塚はいつしか「姫塚」と呼ばれ、傍に立つ老松に登ると、池の底に泰経と共に沈んだ金の鞍が燦然と輝いているのが見えると云う。
但し、後世の創作であるため照姫は実在しない。(詳しくは後述)

石神井城は現在は石神井公園として整備され、三宝寺池も残る。
三宝寺池周辺には「姫塚」が整備。
またこの近くには父の豊島泰経を弔ったと云う殿塚がある。
石神井城にまつわる伝説として伝わっている。

現在はこの伝説に因み、毎年4月第4日曜に「照姫まつり」が開催。
照姫まつりは昭和63年から開催されている練馬区の2大まつりの一つです。例年4月の第四週目の日曜日に行なわれます。室町時代の石神井城主豊島泰経と娘照姫の伝説にちなんだお祭りで、毎年多くの方が訪れます。
これらの伝説は明治二十九年(1896)に出版された小説『照日の松』(著・遅塚麗水)が起源で、この小説がいつしか伝説として定着していく事となった。何らかの信仰があった塚が後に姫塚となったのであろう。殿塚は大正時代に造られたと見られている。金の乗鞍については「三宝寺」に伝わる縁起や伝説が混ざり出来上がったと思われ、明治四十一年(1908)には、村人が三宝寺池で宝探しをするという事態が起き、その後も戦前に何度か地中探索が行われたが、金の乗鞍は創作であったため見つかる事はなかった。

後世の創作による伝説ではあるが、地域を盛り上げるために一役買っている事は喜ばしい。

石神井郷の総鎮守として地域からの崇敬を集める

石神井城が落城し、豊島氏が没落した後も、かつて石神井城内にあった当社は存続し、「石神井郷」の総鎮守として地域からの崇敬を集め続けた。

石神井郷は、上石神井村・下石神井村・関村・田中村・谷原村の5つの村で成り立っていて、当社は上石神井村に鎮座。これら5つの村の総鎮守とされた。
現在の石神井台・石神井町・上石神井・下石神井・立野町といった一帯全域にあたり、当社は現在もこれら一帯の総鎮守となっている。

元禄十二年(1699)、豊島氏の子孫とされる豊嶋泰盈・泰音が石灯籠を奉納。
豊島氏一族が没落後も当社を篤く崇敬していた事が伝わる。

享保十二年(1727)、水盤が寄進。
正面には「石神井郷 鎮守社 御手水鉢」の文字が彫られている。

別当寺は現在も近くにある「三宝寺」。
豊島氏の祈願寺として尊崇され、豊島氏が没落した後も、後北条氏や徳川氏から崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上石神井村)
氷川社
上・下石神井・関・田中・谷原・五ヶ村の鎮守なり。例祭九月二十日。三宝寺の持。
末社。天神。弁天。天王。第六天。稲荷。

(新編武蔵風土記稿)

上石神井村の「氷川社」と書かれているのが当社。
「上・下石神井・関・田中・谷原・五ヶ村の鎮守なり」とあるように、地域一帯(石神井郷)の総鎮守であった事分かる。
「三宝寺」が別当寺であった事や、末社として天神社・弁天社・天王社・第六天社・稲荷社があった事も記してある。

付随して三宝寺池周辺が描かれていて、右上に「氷川社」として描かれているのが当社である。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「三宝寺池 辨財天 氷川明神 石神井城址」として描かれている。
上述の『新編武蔵風土記稿』に描かれていたものと同様に、三宝寺池を中心として描いたものであるが、当時の石神井周辺(現・石神井公園)の地理を把握する事ができて興味深い。

総鎮守として地域から崇敬を集めたのは当社であったが、三宝寺池と辨財天が景観も良く武蔵野の名所となっていたと思われる。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。
「氷川」として描かれていて、社殿や鳥居、参道の他、末社らしきものも見る事ができる。
現在のように石神井公園として整備されてはいないため、当社と三宝寺池の間には田畑が広がっていた様子も伺える。

文政年間(1818年-1831年)、本殿が造営。
その時の社殿が描かれているものと思われる。

現在はその姿を見る事ができないが、当社の左手には何らかの神社があったようだ。

明治以降の歩み・平成の社殿修復

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。
明治七年(1874)、郷社に昇格。

明治二十二年(1889)、市制町村制の施行によって、上石神井村・下石神井村・関村・上土支田村・谷原村・田中村・田中新田・竹下新田が合併し、石神井村が成立。
当社はこれら一帯の総鎮守であった。

明治三十四年(1901)、拝殿が造営。
平成になって改修するまで現存していた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、若干の位置の差異が見られるが、これは後に石神井公園が整備された事によるものであろう。
当社が総鎮守を担った「石神井村」の地名、旧別当寺の「三宝寺」も見る事ができる。

現在の「石神井公園」として整備されるのは、戦後の昭和三十四年(1959)の事。もともと武蔵野台地からの地下水が湧き出る池として知られていた三宝寺池周辺を公園として整備した。井の頭池、善福寺池と並び、「武蔵野三大湧水池」として知られている。

昭和十二年(1934)、神楽殿が建立。
これが現存している。

昭和四十三年(1968)、境内末社の修造、石玉垣の改修が行われる。
これは明治維新百周年を記念して行われたもの。

平成四年(1992)、現在の社殿が竣工。
老朽化によって平成元年(1989)より改修が行われていた。

現在は境内に儀式殿を建築する計画を進めている。
奉賛の申し込みも受け付けているので詳細は下記公式サイトにて。

境内案内

石神井公園の隣に鎮座・長い参道

最寄駅は石神井公園駅か上石神井駅で、いずれからもやや距離がある。
表参道の入口は石神井川よりやや北側。
ここから北へ約250mほどの長い参道が続く。

参道途中に旧早稲田通りを挟み、さらに参道。
その先に玉垣で囲まれた境内。

石鳥居と社号碑。
玉垣は昭和四十三年(1968)に改修されたもの。
鳥居の右手にある社号碑には「郷社」の文字。

鳥居を潜ってすぐ右手に手水舎。
綺麗に整備され水が張られている。

なお、石神井公園の南側に隣接している形で、公園内からも当社へ向かう事ができる。
社殿右手裏の鳥居の先は、石神井公園内の「石神井城址」へ繋がる。

元々、当社は石神井城内に創建された歴史を僅かに伝える。

平成に竣工した新社殿・二対の狛犬

社殿は平成四年(1992)に竣工されたもの。
旧社殿の老朽化によって平成元年(1989)より改修が行われた。
旧社殿は本殿が文政年間(1818年-1831年)の造営、拝殿が明治三十四年(1901)の造営だったと云うが、老朽化が激しく、幣殿と共に改修となった。
拝殿に掲げられた扁額には「紀元二千六百年記念」とあるので、昭和十五年(1940)の紀元二千六百年記念行事の一環で奉納されたものであろう。
緑に囲まれた境内のため、本殿を望む事はできなかったが、こちらも平成になって竣工された。

社殿の前に一対の狛犬。
天保八年(1837)の銘があり、当時のものが現存。
どちらも阿形であるが彫りの深い造形で状態よく現存している。

奥の石灯籠の台座にも狛犬が彫られている。

更に参道途中手前に大きな狛犬。
凛々しい表情をしている子持ちの狛犬。
こちらは大正九年(1920)に奉納されたものとなっている。

豊島氏の子孫が奉納した石鳥居・区内神社最古の水盤

社殿の左手には2基の石灯籠が整備され置かれている。
左右一対の石灯籠で、右側は火袋を失っているが、いずれも元禄十二年(1699)の奉納と伝わる。
「石神井郷 願主 豊嶋七兵衛尉平泰盈」の銘があり、豊島氏の子孫による奉納とされる。

その奥、境内社が並ぶ一角に古い水盤。
享保十二年(1727)の銘があり「石神井郷 鎮守社 御手水鉢」と記されている事からも、石井郷の総鎮守だった事を伺わせる。
区内神社にある最古の水盤だと云う。

これらは練馬区の指定有形文化財となっている。

境内社・神田・神楽殿・御朱印

社殿の左手に複数の境内社。
左側は稲荷神社・須賀神社・三島神社・御嶽神社・八幡神社、右側が北野神社。
こちらは三峯神社・阿夫利神社・御嶽神社・浅間神社・榛名神社の合殿。

この境内社の間に置かれている水盤が、上述した享保十二年(1727)の銘がある水盤。

参道の左手には神田。
神饌用の古代米を栽培している。

参道右手に立派な神楽殿。
昭和十二年(1937)に造営された神楽殿で、御由緒書には「流麗な美しい姿は都内の神楽殿の中でも特筆される」と紹介している。

御朱印は境内にある社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

緑溢れる境内・三宝寺池と辨財天(厳島神社)

当社の境内は約2,000余坪で、石神井公園に隣接している事もあり、木々が生い茂っている。
境内周辺は早くから東京都の風致地区・禁猟区に指定。
当社の裏手から石神井公園内に入る事ができるが、三宝寺池の沼沢植物群落は、天然記念物に指定されている。

当社の境外となるが、石神井公園内の神社も少し紹介したい。

三宝寺池周辺には、『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』にも描かれていた、「辨財天(厳島神社)」などの神社も多く鎮座している。
三宝寺池に映える厳島神社。
古くは三宝寺池の辨財天として崇敬を集めた。

その向かいには宇賀神神社。
穴弁天の通称があり、穴の中に、宇賀神像が祀られている。

厳島神社より少し右手には水神社。
こちらも『新編武蔵風土記稿』に描かれていて、古くは「厳島神社」との間に神楽殿も置かれていた。

これらは当社の境外になるが、当社と共に当地で信仰を集めた神社であるため、石神井公園を散策する際に合わせて参拝するのもよいだろう。

所感

石神井の総鎮守である当社。
かつて当地を治めた豊島氏の本拠地である石神井城の守護神として祀られ、石神井城内に創建されたように、中世以降の石神井の歴史と共に歩んできたと云える。
石神井城が落城し、豊島氏が没落した後も、当社や旧別当寺「三宝寺」は維持され、当社は石神井郷の総鎮守として、地域一帯から崇敬を集め続けた。
緑溢れる境内や、裏手より入る事もできる石神井公園内は、かつての武蔵野の姿を残す。
天気の良い日に石神井公園をゆったりと散策しつつ当社にも足を運ぶと、とても清々しい気分になる事ができ、実によいエリアとなっている。

神社画像

[ 参道 ]






[ 鳥居・社号碑 ]



[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]




[ 石灯籠 ]



[ 水盤 ]

[ 境内社 ]




[ 神田 ]

[ 神楽殿 ]

[ 石碑 ]


[ 裏鳥居 ]

[ 石碑 ]



[ 絵馬掛 ]

[ 社務所 ]

[ 第二社務所 ]

[ 駒繋松 ]


[ 玉垣 ]

[ 案内板 ]


Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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