上野毛稲荷神社 / 東京都世田谷区

神社情報

上野毛稲荷神社(かみのげいなりじんじゃ)

御祭神:倉稲魂神
社格等:─
例大祭:10月10日前後の土・日曜
所在地:東京都世田谷区上野毛3-22-2
最寄駅:上野毛駅
公式サイト:https://www.facebook.com/kaminogeinarijinjya.festival/

御由緒

大井町線の上野毛駅のそばで氏子は上野毛全域で、境内より玉川が良く見え隣接地には、五島美術館がある。(頒布の世田谷神社マップより)

参拝情報

参拝日:2018/04/20

御朱印

初穂料:300円
等々力玉川神社」社務所にて。

※神職の常駐がないため、本務社である「等々力玉川神社」にて御朱印を頂く事ができる。


歴史考察

上野毛鎮守のお稲荷様

東京都世田谷区上野毛に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧上野毛村の鎮守のうちの一社。
かつては「野毛六所神社」と共に上野毛村の鎮守を担い、現在は上野毛全域の鎮守。
上野毛通りの稲荷坂の途中に崖を切り崩して鎮座しているのが特徴。
正式名称は「稲荷神社」であるが、他との区別から「上野毛稲荷神社」とさせて頂く。
現在は神職の常駐がなく、「等々力玉川神社」の兼務社となっている。

野毛村の歴史・上野毛と下野毛の分村

社伝によると、創建年代や由緒は不詳。
室町時代以前の創建と見られている。

当地に隣接する「五島美術館」には稲荷丸古墳、当社の南東には上野毛稲荷塚古墳、更に南東の玉川野毛町公園内には野毛大塚古墳という古墳があるように、野毛周辺は古くから人が住んでいた土地であった。

これら広い範囲を「野毛古墳群」と呼び、国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる古墳群となっている。多くが古墳時代中期に造られたものとされる。

しかしながら、そうした繁栄は古代の事であり、江戸時代までの野毛はまだ村として成立はしていないほどの部落であった。
上野毛郷といった地名は見る事ができるが、村としての形は整えられていなかったと思われる。

当地周辺は、江戸時代になって広い地域が開墾。
「野毛村」として成立し、村落としての体裁が整う。

「野毛」の地名由来は古代語で「崖」を意味する言葉。
当地が国分寺崖線にある事から「野毛」と呼ばれていた。
地区の概要上野毛まちづくりセンター地区は、上野毛(1~4丁目)、野毛(1~3丁目)、中町(1~5丁目)の3町からなり、世田谷区の南側に位置しており、多摩川を境に神奈川県に接している。

その後、野毛村は、上野毛村・下野毛村に分村。

崖上が上野毛・崖下が下野毛と呼ばれた。

元々、野毛村の鎮守は「野毛六所神社」で、分村後も両村の鎮守であり、両村の境界線に鎮座していたが、当社も上野毛村の鎮守の一社とされた。

野毛総鎮守。多摩川の洪水時に府中から祠が漂着・府中「大國魂神社(六所宮)」から「六所明神」と称され創建。江戸時代に成立した野毛村の歴史。明治になり当地へ遷座。静かで立派な境内。境内社の水神社の伝承・多摩川の水中御渡。御朱印。

上野毛村の名主であった田中氏・その邸内社

上野毛村が成立すると、村の名主として知られたのが田中氏。
当社はこの田中氏の氏神・邸内社としての立ち位置であった。

田中氏は、世田谷城主・吉良氏の家臣であった田中筑後という人物の家系。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって、配下にあった世田谷城主・吉良氏も衰亡する事となり、家臣であった田中家は当地に帰農したと見られる。その末裔が上野毛の名主となった。
現在、当社と通りを挟んで向かい側にある「上野毛自然公園」も、元々は田中氏の所有する庭園で、明治期に「桜楓園」と呼ばれた庭園であった。
更に古くはその周辺が「筑後丸」と呼ばれており、これは田中筑後の館に由来する。
平成20年度より改修工事を開始し、平成23年度は流れ・湿地・湧水池の再整備を行いました。

現在の「上野毛自然公園」の他、当社に隣接する「五島美術館」など、当時はこの一帯は殆どが田中氏の所有していた土地であり、当社も田中氏の屋敷に置かれた邸内社であった。
それが上野毛村の鎮守となり、田中氏のみならず村民からも崇敬を集めるようになった。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上野毛村)
稲荷社
除地一畝歩。字橋際の上にあり。上屋二間に九尺。東向なり。中に三尺四方の祠あり。此村の鎮守は下野毛村六所明神なり。されど此社をも鎮守といひて隔年に祭事あり。祭日は九月十二日と定む。
鳥居。両柱の間七尺。

上野毛村の「稲荷社」と書かれているのが当社。
「此村の鎮守は下野毛村六所明神なり。されど此社をも鎮守といひて隔年に祭事あり。」と記されているように上野毛村の鎮守は、下野毛村(村の境界線付近)に鎮座していた「野毛六所神社」であるが、当社も上野毛村の鎮守と云われていたと云う。

野毛六所神社」は上野毛村・下野毛村の両村の鎮守であり、祭礼も1年ごと交互に行っていたと伝わっている。一方で当社の記述には「隔年に祭事あり」とあるように、こちらも1年おきにあった事から、上野毛村が「野毛六所神社」の祭礼を受け持ったなかった年に、当社の祭礼が行われたと見られる。

明治以降の歩み・上野毛全域の鎮守

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治二十二年(1889)、 町村制の施行に伴い、等々力村・用賀村・瀬田村・上野毛村・下野毛村・野良田村・奥沢村・尾山村の8ヶ村が合併して玉川村が成立。
当社は玉川村大字上野毛の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十一年(1898)、上野毛・下野毛どちらの鎮守でもあった「野毛六所神社」が、下野毛側(現・野毛2丁目)に遷座。
野毛六所神社」は下野毛のみの鎮守となったため、上野毛の鎮守は当社のみとなり、上野毛の氏神としての色合いを強めていく。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが現在の鎮座地であるが、当時の古地図には神社の地図記号を見る事ができない。
一方で上野毛周辺には橙円で囲ったように、今はなき場所に神社の地図記号がきつか見る事ができ、おそらく明治の合祀政策によってこの前後に当社など周辺の鎮守に合祀されて消滅したのであろう。
玉川村、上野毛といった地名を見ることもできる。

一方で、大正八年(1919)測図の古地図を見ると当社の姿を見る事ができるようになる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが現在の鎮座地で、大正の古地図にも神社の地図記号を見る事ができる。
この事から、稲荷坂の途中に崖を切り崩して、現在のような境内になったのはこの頃と見られる。

上野毛の村民たちが協力して崖の傾斜を切り崩したと伝わっている。

昭和二十九年(1954)、現在の社殿を造営。
これが修復されつつ現存している。

上野毛全域の氏神として現在に至る。

現在は神職の常駐がなく、「等々力玉川神社」の兼務社となっている。
等々力鎮守。おくまんさま。世田谷城主・吉良氏が創建した熊野社が起源。明治になり玉川村の成立・玉川神社への改称。せたがや百景に選定された緑豊かな鎮守の杜。戦前の社殿が戦火を免れ現存。風情溢れる石獅子。名木百選の通称とっくりクス。御朱印。

境内案内

上野毛通り稲荷坂の途中に鎮座

最寄駅は上野毛駅で、駅からは程近い。
上野毛通り沿いに鎮座していて、稲荷坂と呼ばれる急な坂の途中に鎮座している。
崖を切り崩して平地にして境内を設けたのが伝わる場所。
境内から坂下を見てもかなりの急勾配になっているのがわかる。
こちらは逆に上野毛駅方面への上り坂で、村民の協力によって崖を切り崩して当社が設けられた。
上野毛通りを挟んで向かい側は「上野毛自然公園」で、かつて当社が田中氏の邸内社だったように、この公園は明治期に「桜楓園」と呼ばれた田中氏が所有する庭園であった。

平成20年度より改修工事を開始し、平成23年度は流れ・湿地・湧水池の再整備を行いました。
当社の北側には「五島美術館」があり、その一帯が古くは「筑後丸」と呼ばれており、これは田中氏の遠祖・田中筑後の館に由来する。
なお、五島美術館は、東急の創始者・五島氏の美術館で、邸宅もこの近くに構えていた。
五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館です。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開しています。

簡素な境内・稲荷信仰ながら神明造の社殿

鳥居は平成二十七年(2015)に建て替えされたばかり。
鳥居を潜って両脇には一対の常夜灯。
奉納年は分からないが「戦勝祈願」の文字がある事から、戦前のものであろう。

手水舎は設けられておらず、参道の正面に社殿となる。
社殿は稲荷信仰の神社では珍しい神明造。
昭和二十九年(1954)に再建された社殿。
鳥居と同時期に改修工事を行っており、改修されつつ現存している。

境内には稲荷信仰らしい神狐像や、狛犬なども置かれていない。手水舎もなく簡素な構成となっている。

崖を切り崩した境内・境内社

上述したように、村民の協力によって崖を切り崩して設けられた境内。
社殿の裏手にはその崖の痕跡を見る事ができる。

「野毛」の地名由来は古代語で「崖」を意味する言葉で、当地が国分寺崖線にある事から「野毛」と呼ばれていた。
野毛村が分村の際に、崖上が上野毛、崖下が下野毛となる。
崖を切り崩した地にある当社は、まさに上野毛らしい鎮守と云えるだろう。
地区の概要上野毛まちづくりセンター地区は、上野毛(1~4丁目)、野毛(1~3丁目)、中町(1~5丁目)の3町からなり、世田谷区の南側に位置しており、多摩川を境に神奈川県に接している。

境内社は社殿の右手に北野神社。
「北野神社」と記された石碑は、明治三十五年(1902)の菅公千年祭記念に際した記念碑で、その隣に小祠があり、これが北野神社の扱いになるのだろう。

詳細は不明であるが、明治の古地図で見た上野毛周辺には今はなき幾つかの神社を見る事ができ、そのうちのどれかが当社に合祀された可能性が高い。

御朱印は等々力玉川神社にて

当社の境内には社務所も用意されている。
しかし、普段は無人で、神職の常駐がないため、こちらで御朱印などの対応は行っていない。

御朱印は本務社である「等々力玉川神社」の社務所にて。

等々力鎮守。おくまんさま。世田谷城主・吉良氏が創建した熊野社が起源。明治になり玉川村の成立・玉川神社への改称。せたがや百景に選定された緑豊かな鎮守の杜。戦前の社殿が戦火を免れ現存。風情溢れる石獅子。名木百選の通称とっくりクス。御朱印。

等々力玉川神社」は、「用賀神社」「中町天祖神社」「上野毛稲荷神社」の本務社となっており、そのうち「中町天祖神社」と「上野毛稲荷神社」(当社)の御朱印も対応して頂ける。
兼務社の御朱印も頂きたい場合はお願いするのも良いだろう。

中町(旧野良田村)鎮守の天祖神社。上野毛通り沿いに鎮座。雰囲気のよい並木参道。開放感のある境内。粕谷氏による野良田村の開墾とその鎮守。明治になり天祖神社へ改称。中町への改称によって野良田の地名は消失。本務社は「等々力玉川神社」。御朱印。
兼務社の御朱印を頂く場合は、必ず兼務社にも参拝すること。

所感

上野毛一帯の鎮守である当社。
かつては上野毛村・下野毛村の両村の鎮守として「野毛六所神社」があり、当社は名主であった田中氏の邸内社という位置付けであった。
上野毛は田中氏の影響も強く、いつしか上野毛村のみの鎮守として当社も崇敬を集めるようになり、明治になって「野毛六所神社」が下野毛(現・野毛)に遷座し、下野毛のみの鎮守となったため、上野毛の氏神は当社となっていく事となる。
おそらくその頃に、稲荷坂の崖を切り崩して、現在の社地を設けたのであろう。
当社の周辺は、かつて名主であった田中氏、明治以降は東急の創設者・五島氏など、有力者が住んだ地域であり、庶民はもう少し駅側、もしくは稲荷坂下に住んでいたようで、そうしたこともあるのか、少し閑散とした印象を受けてしまう。
境内は簡素で手水舎や神狐像なども置かれていないのも、そうした印象を強めるのだろう。
しかしながら、建て替えられた鳥居や修復された社殿など、上野毛の鎮守として、今も地域からの崇敬を集めている事が伝わり、これからも氏神を大切にしてもらいたい。

神社画像

[ 鳥居 ]



[ 常夜灯 ]

[ 拝殿 ]







[ 本殿 ]


[ 社殿裏 ]

[ 北野神社 ]


[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 御神木 ]

[ 参集殿・社務所 ]


[ 神輿庫 ]

[ 旧鳥居柱 ]

[ 稲荷坂 ]


[ 上野毛自然公園 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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