浅草神社 / 東京都台東区

台東区

概要

三社様や三社権現と親しまれる浅草神社

東京都台東区浅草に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、浅草一帯の鎮守。
「浅草寺」本堂の東側に鎮座し、元々は「浅草寺」と一体であったが神仏分離によって分離。
現在も「浅草寺」と隣接するように境内が整備されている。
古くから「三社様(さんじゃさま)」「三社権現(さんじゃごんげん)」と称される事も多く、5月に行われる例大祭は「三社祭」として広く知られる。
三代将軍・徳川家光による寄進の社殿が現存しており、国の重要文化財となっている。
現在は「浅草名所七福神」の恵比寿神を担っている。

神社情報

浅草神社(あさくさじんしゃ)

御祭神:土師真仲知命・桧前浜成命・桧前武成命
相殿神:東照宮(徳川家康公)・大国主命
社格等:郷社
例大祭:5月第3金・土・日曜(三社祭)
所在地:東京都台東区浅草2-3-1
最寄駅:浅草駅
公式サイト:https://www.asakusajinja.jp/

御由緒

 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安二年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんださら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2024/01/19(御朱印拝受)
参拝日:2023/12/21(御朱印拝受)
参拝日:2023/11/22(御朱印拝受)
参拝日:2023/09/23(御朱印拝受)
参拝日:2023/07/02(御朱印拝受)
参拝日:2023/06/20(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2023/05/20(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2023/03/20(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/19(御朱印拝受)
参拝日:2022/09/08(御朱印拝受)
参拝日:2022/05/22(御朱印拝受)
参拝日:2022/05/05(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/18(御朱印拝受)
参拝日:2022/03/03(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/20(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/02(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2021/11/23(御朱印拝受)
参拝日:2021/10/20(御朱印拝受)
参拝日:2021/09/08(御朱印拝受)
参拝日:2021/05/04(御朱印拝受)
参拝日:2021/03/24(御朱印拝受)
参拝日:2020/03/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2017/09/27(御朱印拝受)
参拝日:2015/11/15(御朱印拝受)
参拝日:2015/05/10(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円(通常・限定)・1,000円(切り絵)
社務所にて。

※季節や祭事に合わせて限定御朱印を用意。
※「浅草神社」「浅草名所七福神・恵比寿神」「被官稲荷神社」の御朱印を頂ける。
※案内にはないが兼務社「浅草富士浅間神社」の御朱印も頂ける。
※以前は初穂料300円だったが、平成二十九年(2017)より500円に変更。

最新の御朱印情報
3月下旬-「さくら詣切り絵御朱印」(予定)
3月20日-22日まで「春分切り絵御朱印」
※数量限定。なくなり次第終了。御朱印帳必須。
3月18日は「被官稲荷神社特別御朱印」
※被官稲荷神社の例祭限定。御朱印帳必須。
3月17日・18日は「浅草寺本尊御示現特別御朱印」
※17日が堂上げ御朱印。18日が堂下げ御朱印。御朱印帳必須。
3月2日-4日まで「上巳の節句(ひなまつり)特別御朱印」
※9時-16時まで。御朱印帳へ貼付するため必ず御朱印帳を持参。御朱印の最新情報や詳細は公式サイトにて。

御朱印帳

令和特別御朱印帳
初穂料:2,000円(御朱印代込)
社務所にて。

令和に改元記念で頒布開始した御朱印帳。
サイズは大サイズ。
薄桃色と薄紫色の2種類、2023年元日より黒色紫色を追加。
薄桃色と薄紫色はなくなり次第終了。
筆者が頂いたのは薄桃色。

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円(御朱印代込)
社務所にて。

社紋がデザインされた御朱印帳。
通常版は江戸小紋柄で紺・緑・桃の三色を用意。
筆者が頂いたのは緑色。

授与品・頒布品

被官稲荷神社お姿
初穂料:1,500円
被官稲荷神社授与所にて。(例大祭時のみ)

境内末社「被官稲荷神社」のお姿像。
例大祭時には「被官稲荷神社」の授与所が開く。
例大祭時なので御供物と疫病退散ステッカーも下さった。

歴史考察

3人の人物と聖観世音菩薩による浅草寺の始まり

当社の創建には隣接する「浅草寺」が深く関わっている。
神仏習合のもと「浅草寺」の鎮守として一体となった信仰を集めていた。

浅草寺(せんそうじ)
東京都内最古の寺院とされる。
元は天台宗に属していたが、戦後に独立し、現在は聖観音宗の本山。
聖観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」とも称され親しまれている。
雷門や仲見世通りなど日本だけでなく世界からも観光地として人気を博している。
聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト - 浅草寺
浅草寺の縁起 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけ
室町時代に成立した『浅草寺縁起』には以下の伝承が伝わる。

推古天皇三十六年(628)、漁師であった檜前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が浅草浦(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に小さな像がかかった。
しかしこの像が観音像とは知らずに幾度か海中に投げ入れたものの、幾度も網にかかったと云う。
流石に兄弟は不思議に思い郷土の文化人であった土師真中知(はじのまなかち)に相談したところ、聖観世音菩薩の尊像である事が分かり、土師真中知は僧となり尊像を自宅に奉安して寺院とした。
これが「浅草寺」の始まりとされる。

聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)
観音菩薩には十一面観音・千手観音など、多くの顔や腕を有する多面多臂(ためんたひ)の観音像と、顔が1つで腕が2本の一面二臂(いちめんにひ)の観音像があり、後者を指して「聖観音(しょうかんのん)」と称する。

このように「浅草寺」は、聖観世音菩薩の尊像を発見した2人の漁師と僧となり尊像を自宅に奉安した3人によって創建されたものと伝わっている。

推古天皇三十六年(628)と伝わる事から東京都内最古の寺院とされる。

3人を祀り三社権現と称される

僧となった土師真中知が没した後、その嫡子が観世音菩薩の夢告を受ける。
その夢告に従って、土師真中知・檜前浜成・武成兄弟の3人を祀った。
これが当社の始まりであると云う。

上記は社伝によるものであるが、実際には平安時代末期から鎌倉時代にかけて、3人の子孫が祖先を神として祀ったものと推測されている。

当社は「浅草寺」の創建に関わった3人を神として祀った事から「三社権現」と称された。

(三社権現由来)

江戸時代後期に歌川豊国が描いた「三社権現由来」。隅田川で漁をしていて観世音菩薩の尊像がかかった伝承と、当社の御祭神である3人を描いている。

当社は「浅草寺」の鎮守として境内に創建され「浅草寺」と共に崇敬を集めた。
当社の社史は「浅草寺」の歴史とも云う事ができ、平安時代・中世と多くの伝承が伝わっている。

令和に御祭神の表記など変更
令和を迎えるにあたり御祭神の表記などが変更になっている。
竹成が武成(読み方同じ)に、土師真仲知命は(はじのまなかちのみこと)に呼び名変更。

徳川将軍家からの庇護・徳川家光による社殿の寄進

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
同年、家康は「浅草寺」を祈願所と定め寺領500石の朱印地を与えた。
以後、徳川将軍家によって厚く庇護される事となる。

朱印地(しゅいんち)
幕府などから寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
徳川将軍家より朱印地を賜った寺社は数多くあれど500石もの朱印地を賜ったのは数える程。

寛永十九年(1642)、大火によって「浅草寺」伽藍や当社の社殿が焼失。
慶安二年(1649)、三代将軍・徳川家光が「浅草寺」の本堂、当社の社殿を寄進し再建。
この社殿が現存しており国の重要文化財に指定されている。

InfoLib-DBR(Login)
再建の際に、焼失した「浅草東照宮」に祀られていた徳川家康を合祀している。

江戸切絵図から見る浅草寺と当社

貞享二年(1685)、「浅草寺」の表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。

その後も境内が整備され様々な興行も行われるようになったため、庶民の娯楽の場となり、浅草の発展と共に「浅草寺」は観音霊場として、多くの参詣者を集めた。

江戸時代の当社の繁栄は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の浅草周辺の切絵図。
右上が北の切絵図となっており当社は図の左下に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

図を回転(北を上に)させ「浅草寺」周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲った箇所に「三社権現」と書いてあり、これが当社にあたる。
「浅草寺」境内に鎮座しており本堂の右手にあるように、今も昔も変わらぬ配置が窺える。

周辺には数多くの寺社が配置され浅草が大変発展した事が窺える。
当時の浅草は今以上に江戸庶民の娯楽の場であった。

江戸名所図会に描かれた浅草寺と当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「浅草寺」の境内が10ページに渡って描かれている。
広大で大いに賑わった「浅草寺」の様子が窺える。
当社はその中の6・7ページ目に描かれている。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

こちらでも「三社権現」として描かれているのが当社。
「浅草寺」本堂の東側に位置し、現在と変わらぬ場所に鎮座していた。
描かれている当時の社殿が現存しており、周囲の施設の違いはあれど、境内の規模も当時とほぼ変わらない。

『江戸名所図会』には「浅草には事跡がたくさんあって書ききれない」といった旨の記述もあり、当時から浅草の庶民からの人気の高さが窺える。

歌川広重が描いた浅草寺と当社

徳川将軍家や諸大名からの崇敬も篤く、江戸庶民からの人気も高かった「浅草寺」と当社。
そのため浮世絵・錦絵の題材としてよく取り上げられている。
歌川広重も当社を描いている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(東都名所)

歌川広重による『東都名所』に描かれた「浅草金竜山」。

当時の「浅草寺」の境内を俯瞰視点で描いた1枚。
立派な本堂の上に描かれているのが「三社権現」こと当社。

(東都名所)

当社を中心に拡大したのが上図。

境内の位置などはそのままだが鳥居は二之鳥居まで設けられていた事が窺える。
社殿は当時のものが現存していて、当時から朱色で鮮やかに塗られていたのだろう。

注目すべきは当社を取り囲むように建ち並ぶ建物。
これらの殆どは茶屋や露店であり今の仲見世通りのような店の立ち並びが当社の前まで広がっていたと云えるだろう。
「浅草寺」と当社は江戸随一の盛り場として人気を博した。

最も確かな招き猫の発祥の地

江戸庶民の娯楽の場として栄えた「浅草寺」と当社の境内。
そうした当社の境内では、多くの文化や伝統が生まれた。
当社の御由緒などでは取り上げられていないのだが、実は「招き猫発祥の地」として最も確かな史料が残っている。

実在する最古の招き猫は「丸〆猫(まるしめのねこ)」(現在の招き猫とはポーズや形も随分と違う)と云い、今戸焼で作られたものとなっている。

今戸焼が最古の招き猫というのを根拠に、今戸鎮守「今戸神社」が「招き猫発祥の地」として名乗りを挙げている。戦前の史料には「今戸神社」と招き猫に関するものが一切見つかっていない点は留意が必要。
今戸神社 / 東京都台東区
今戸鎮守。源氏縁の八幡信仰の神社。縁結びの神・縁結び会。招き猫発祥の地・沖田総司終焉の地・史実の検証。江戸時代に描かれた当社。明治維新後の改称と戦後の再建。近年のパワースポットブーム。御朱印。御朱印帳。

嘉永五年(1852)年に編纂された『武江年表』には、丸〆猫について要約するとこう記されている。

『武江年表』に記された丸〆猫
浅草花川戸に住む老婆が貧しさ故に泣く泣く愛猫を手放した。
すると夢枕に愛猫が現れて「自分の姿を作り人形とすれば福徳自在となる」と告げたので、老婆は今戸焼にて愛猫を土人形にして「浅草神社」の鳥居辺りで売りに出したところ、大評判になったという。

このように「浅草神社」の鳥居辺りで売り出したのが発祥との記述が残る。

%e6%b5%84%e3%82%8b%e3%82%8a%e7%94%ba%e7%b9%81%e8%8a%b1%e3%81%ae%e5%9b%b3(浄るり町繁花の図)

嘉永五年(1852)に歌川広重が『浄るり町繁花の図』として描いた錦絵。

当時人気であった人形浄瑠璃を商売の戯画で表現した意欲的な錦絵。
この左上に招き猫=丸〆猫が描かれているのが分かる。
西行の銀猫の逸話をパロディに出家した西行が店先で今戸焼の招き猫を売っている様子であり、これが招き猫が江戸時代後期に存在していたことを絵として証明する、最古の史料である。

丸〆猫の形状は現在の招き猫とは随分と違う。

今戸焼製の招き猫は「横座りで頭を正面向きにして招く」ポーズが基本。

こうした古い文献や錦絵から、江戸時代後期には丸〆猫と呼ばれる今戸焼製の招き猫があったのは事実であり、これが実在が確認される最古の招き猫。
そして老婆が当社の鳥居辺りで売りに出したところ評判になった、という場所が具体的に明記されている事から最も古い記録を有する「発祥の地」は当社であると云える。

明治の神仏分離と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、「浅草寺」と分離し「三社明神社」に改称。
明治五年(1872)、郷社に列した。
明治六年(1873)、「浅草神社」に改称。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
神仏分離によって「浅草寺」とは分かれる形になったものの、鎮座地は変わらず「浅草寺」に隣接。
興味深いのは「浅草寺」の隣に「浅草公園」とある事で、明治から戦後まもなくは東京府の公園であった。

浅草公園(あさくさこうえん)
「浅草寺」の境内を中心とした公園。
明治六年(1873)に日本初の都市公園の1つとして誕生。
公園用地として「浅草寺」境内の多くが公収され、東京府によって公園として整備された。
戦後の昭和二十二年(1947)に公園地として指定解除。

戦前の当社の古写真では当時の当社の様子を知る事ができる。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より当社の写真。

家光が寄進した社殿が現存しており、当時の写真と現在の社殿を見比べてみても変わらない。
狛犬も含め境内の配置もほぼ変わらず、古くからの光景を残した境内な事が分かる。

社殿は、関東大震災、東京大空襲という災禍を免れており、国の重要文化財に指定。

昭和二十六年(1951)、社殿が国の重要文化財に指定。
昭和三十八年(1963)、昭和の修営が行われる。
平成八年(1996)、平成の修営が行われる。
建物全体の塗り直しが行われ現在に至る。

現在は「浅草名所七福神」の恵比寿神を担っている。

浅草名所七福神

境内案内

「浅草寺」本堂の隣に鎮座

神仏習合時代は一体だった「浅草寺」に隣接する形で鎮座。
隣には実に立派な「浅草寺」本堂。
宝蔵門(仁王門)と五重塔。
東京屈指の観光地。
東京スカイツリーと五重塔。

聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺 公式サイト - 浅草寺
浅草寺の縁起 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけ
雷門の表参道から向かわない場合は東にある二天門から向かうのが早い。

「浅草寺」の境内と言って差し支えない場所。
「浅草寺」本堂の右手に鳥居と社号碑が建つ。
明治十八年(1885)に再建された石鳥居が現存。

鳥居を潜ると真っ直ぐの参道。
こうした境内の配置は江戸時代の頃から変わらない。

江戸時代の頃は拝殿前に更に鳥居が設けられていた。

江戸時代後期の大きな狛犬

参道途中には一対の狛犬。
大きく立派な狛犬で、上述した大正の古写真にも映っていたもの。
どことなく柔和な表情の狛犬。
天保七年(1836)に奉納されたもの。
奉納者は田町の文三郎と山川町の大工虎五郎とある。

その先、左手に手水舎。
綺麗に整備され身を清める事ができる。

花手水仕様にも
2021年9月参拝時には手水舎が花手水仕様に。
季節感のある美しい花手水。(その後も定期的に花手水仕様になっている)

拝殿前にも一対の狛犬。
こちらは昭和三十八年(1963)奉納。
なかなかに個性的な表情をしている。

徳川家光が寄進・国の重要文化財に指定された社殿

参道の正面に朱色の社殿。
慶安二年(1649)に再建されたものが現存。
三代将軍・徳川家光が「浅草寺」の本堂と共に当社の社殿を寄進。
江戸の大火、関東大震災、東京大空襲などの災禍を免れ現存。
昭和二十六年(1951)、国の重要文化財に指定された。
昭和、平成の修営を経て、現在も綺麗に維持されている。

拝殿・幣殿・本殿からなる権現造りの社殿となっているが、一般的な権現造りと違い、本殿・幣殿と拝殿の間が渡廊で繋がれている。
404 Not Found

江戸の人気任侠・新門辰五郎による被官稲荷神社

社殿の右手には、境内末社「被官稲荷神社」へ続く参道が整備。
安政二年(1855)の刻銘がある鳥居。
この約1ヶ月後に「安政江戸地震」が発生している。
この鳥居には「新門辰五郎」の文字。

新門辰五郎(しんもんたつごろう)
江戸時代後期の町火消・鳶頭・任侠。
「浅草寺」の門番を務めた任侠であり、任侠の中でも図抜けた資金力を誇った。
江戸庶民の娯楽の場であった浅草で名を馳せた任侠という事もあり、没後は多くの題材となり人気を博した。

鳥居の先に被官稲荷神社が鎮座。
安政二年(1855)に「伏見稲荷大社」から勧請されたお稲荷様。
創建の前年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏した際、京都の「伏見稲荷大社」に祈願したところ病気は全快したため「伏見稲荷大社」から勧請されたと云う。

鳥居や灯籠は新門辰五郎が奉納したもの。
灯籠には新門の文字が残る。
二之鳥居には狐が彫られている。

社殿は安政二年(1855)の創建当時のものが現存。
小さいながらも創建以来の杉皮葺による社殿。
状態もよく現存しているのが素晴らしい。

授与品の狐のお姿
左手にはお姿。
お姿として授与される授与品。
当社に納めるもよし持ち帰って家に置くのもよしとされる。
例大祭は3月18日でこちらは当日に頂いたお姿。
髭なしと髭ありの2対セット。
例大祭当日なので御供物と疫病退散ステッカーも一緒に下さった。
当社では「被官稲荷神社」の御朱印も用意されている。

江戸初期の作とされる縁結びの夫婦狛犬

鳥居を潜って右手には「夫婦狛犬」と称される狛犬。
一対の狛犬が並び置かれており、夫婦狛犬と呼ばれる。
狛犬に相合傘を添えており、「良縁・恋愛成就・夫婦和合」の願いを込めて祀っていると云う。

狛犬の制作年代は不明ながら、形式から江戸初期のものと推測されている。
特徴的なのが狛犬の頭に穴が空いている事で、一部では「河童狛犬」と呼ばれる狛犬と同型。

河童狛犬は江戸の各地で見る事ができるが、特に品川周辺の神社に多く見かける事ができる。この夫婦狛犬も読み取れる範囲では「品川町裏河岸」とあり、品川からの奉納であったと見られている。

荒々しさが特徴な江戸屈指の三社祭

毎年5月に斎行される当社の例祭は「三社祭」と呼ばれ全国的に知られる。
約4年ぶりに通常開催された2023年の三社祭の様子。

三社祭(さんじゃまつり)
毎年5月に行われる当社の例大祭。
当社がかつて「三社権現」と称されていた事から「三社祭」と称される。
神仏習合の時代は「浅草寺」の祭りとして行なわれていた。
三社祭 | 浅草神社 三社様

境内右手にある神輿庫には三基の宮神輿が納められている。
普段は閉まっている神輿庫も、三社祭など祭事が近づくと開放。
一ノ宮から三ノ宮で、いずれも壮観な宮神輿を見る事ができる。

三社祭ではかなりの荒々しさと神輿の数を肌で感じる事ができる。宮神輿を氏子衆が交互に担ぐ姿は実に凛々しい。
浅草神社奉賛会/三社祭 公式情報

コロナ禍で神輿渡御のある三社祭はしばらく中止していたが2023年に4年ぶりに復活。
こちらは2日目の町会神輿渡御。
約100基もの神輿が練り歩く。
各氏子町会ご自慢の神輿たち。
当社の前、そして「浅草寺」と大賑わい。
露店も数多く出て三社祭の再開を実感する事ができた。

近年は神輿を担ぐ同好会団体に結構の割合で暴力団員が参加していた時代があり、一部で問題を取り沙汰される事もあったのだが、最近は対策にも乗り出している。2015年からは半世紀ぶりに氏子衆の手だけで担ぎ出すことになった宮神輿。ようやく本来の姿である氏子衆による宮出しに正常化された。(その後も継続)

さくら詣期間の美しい桜

当社の境内は桜の名所としても人気が高い。
そのため当社では桜の開花に合わせて「さくら詣」を称している。
浅草と云う場所柄もあって着物(和服)を着て桜を楽しむ方も多い。
人の多い浅草ではあるが風情のある光景。
撮影時はほぼ満開の桜を楽しむ事ができた。

浅草神社が提唱した夏詣・2023年は夏詣10周年

また当社が提唱した「夏詣」は、新しい日本の風習として近年定着しつつある。
2022年に頂いた夏詣限定御朱印。

夏詣(なつもうで)
我々日本人は大晦日に「年越しの大祓」で一年の罪穢れを祓い清め、 翌日の元日は新しい年に始まりとして、 その年の平穏を願い神社・仏閣に詣でる「初詣」を行います。
その始まりから六ヶ月、 同じく罪穢れを祓い清める「夏越しの大祓」を経て、 過ぎし半年の無事を感謝し来る 半年の更なる平穏を願うべく、 年の半分の節目として、 七月一日以降にも神社・仏閣に詣でます。
この新たな習慣を「夏詣」と称して、 我が国の守り伝えるべき風習となるよう、共に育てていきたいと思います。公式サイトより)
浅草神社 夏詣 | 新しい日本の風習
平成26年(2014)に浅草神社から提唱された「夏詣」。皆様には、半年の節目に浅草神社へのお参りを通して、浅草の街に更なる活力を与えてくだされば幸いに存じます。困難を乗り越え未来に向けて歩みを始めた浅草で、是非“夏”を感じられてください

2023年は夏詣を開始して10周年の記念すべき年となる。
記念すべき御朱印は切り絵仕様。
貼り付けるタイプだが立体的な御朱印に。

季節や祭事に応じた限定御朱印

御朱印は社務所にて。
いつも丁寧に対応して下さる。

「浅草神社」「被官稲荷神社」「浅草名所七福神・恵比寿神」の御朱印を頂く事ができる。案内にはないが兼務社である「浅草富士浅間神社」の御朱印も頂ける。
浅草富士浅間神社 / 東京都台東区
浅草のお富士さん。有形民俗文化財の土蔵造本殿。平成になり築かれた小さな富士塚。さくら詣・5月6月の植木市。祭事に応じた限定御朱印。江戸時代は富士権現と称される・富士講による崇敬。江戸切絵図から見る不二権現(富士権現)。本務社は「浅草神社」。

右が「浅草神社」の御朱印で、左が境内社「被官稲荷神社」の御朱印。
御朱印は「三つ網」の社紋、左に「浅草神社」、右上に「浅草三社」の印。

最近は季節や祭事に合わせて限定御朱印も色々と用意。
右が浅草寺本尊御示現宮神輿堂上げ・堂下げ御朱印で、左が2020年のさくら詣御朱印。
こちらは2021年のさくら詣御朱印。

2021年の端午の節句に頂いた御朱印。
青系の可愛らしい御朱印。
透かし紙を重ねる形の御朱印となっていた。

2021年の重陽の節句御朱印。
菊の節句(重陽の節句)らしい色合い。
こちらも透かし紙を重ねる形の御朱印。

10月20日はえびす講の縁日で当社は「浅草名所七福神」の恵比寿神を担うため特別御朱印を授与。
こちらは2021年のえびす様御縁日特別御朱印。

2021年の新嘗祭御朱印。
新嘗祭当日の11月23日のみの授与となった。

2022年の初詣特別御朱印。
コロナ禍で長らく書き置きのみだったが直書きを再開。
壬寅の寅の印。

2022年の浅草二十日戎特別御朱印。
1月19日(宵戎)・20日(本戎)は当社におけるえびす様の縁日。
透かし紙仕様。
2023年は宵戎に参拝して御朱印も頂いた。

2022年上巳の節句(ひなまつり)の御朱印。
別紙を御朱印帳に貼り付ける形で授与。
転売など防止のため別紙での授与はせず必ず御朱印帳に貼り付けて渡す形となっていた。

2022年に頂いた浅草寺本尊御示現宮神輿堂上げ・堂下げ御朱印。
3月18日は境内末社・被官稲荷神社の例大祭にもあたるため、被官稲荷神社の御朱印は例大祭仕様に。

2022年の端午の節句御朱印。
昨年とはデザインが違う。

2022年三社祭の限定御朱印。
一宮から三宮までの神輿をデザイン。

2022年重陽の節句御朱印。
昨年とは違う柄。

全額寄付の紛争地域復興支援御朱印

2022年4月から5月にかけて「紛争地域復興支援御朱印」と云う特殊な御朱印の授与も開始。

紛争地域復興支援御朱印
初穂料:1,000円
全額を該当地域の復興支援金に寄付

ウクライナ情勢に対しての特別御朱印。
色合いもどことなくウクライナカラーになっていて世界地図を模している「和平安寧」。

御朱印を通して寄付もできると云う形は素敵な試み。

2023年には二至二分の限定切り絵御朱印も

2023年3月の春分の日に合わせて限定切り絵御朱印も授与。
当社初の切り絵御朱印は切り絵部分と台紙を合わせて立体的な仕様。
授与所で御朱印帳に貼って下さる形。

2023年夏至に合わせて授与された切り絵御朱印。
春分と同様に切り絵部分と台紙を合わせた立体的な仕様。
御朱印帳に貼って下さる。

2023年秋分に合わせて授与された切り絵御朱印。
紅葉やお月見をデザイン。
春分・夏至・秋分・当時と二至二分に合わせて切り絵御朱印を授与予定。

新嘗祭(11月23日)に合わせても切り絵御朱印を授与。
収穫感謝祭である新嘗祭にちなんだ御朱印。

2023年秋分に合わせて授与された切り絵御朱印。(画像左)
これで春分から続いた二至二分の切り絵御朱印が全て出揃った。

江戸小紋柄御朱印帳と令和特別御朱印帳

オリジナル御朱印帳も用意。
社紋と伝統的な和柄が施された御朱印帳。

更に令和の改元を記念した大サイズの御朱印帳も用意。
当初は薄桃色と薄紫色の2色展開だったが、2023年元日より黒色と紫色を追加頒布している。
こちらは薄桃色でなくなり次第終了となる予定。

御朱印 | 浅草神社 三社様
御朱印とは 御朱印とは、神社や寺院において、参拝者に向けて押印される印章・印影のことです。押印の他に、参拝した日付、社寺名またはご祭神やご本尊の名前などを墨書きされる場合もあります。 御朱印は元々、自分で写経をしたものを

また都営浅草線沿線の「東京福めぐり」にも参加している。

http://tokyo29meg.com/

所感

「浅草寺」を中心に発展した浅草の地に鎮座する当社。
現在は神仏分離により別となってはいるが、古くから浅草寺と一体となって崇敬され、「浅草寺」鎮守として「三社権現」と称された当社は、今も崇敬者から「三社様」と呼ばれ親しまれている。
重要文化財に指定されている社殿など、古い面影を残した境内となっているのが素晴らしい。
江戸時代には江戸庶民の娯楽の場として発展し、現在も東京の人気観光地となっている浅草。
雷門や仲見世通りを始め「浅草寺」は人気で常に混雑しているが、意外と東側の当社まで参拝される方は多くなく、ゆったりと参拝を楽しむ事ができる。
近年は限定御朱印なども積極的にやられていて、そうした日は大変な行列ができると聞くが、平時は「浅草寺」境内にありながら比較的落ち着いた空間となっていて心地よい。
浅草の歴史を伝える素晴らしい神社である。

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました