目次
神社情報
靖國神社/靖国神社(やすくにじんじゃ)
御祭神:対外事変や戦争に際して国を守るために亡くなられた神霊246万6千余柱
社格等:別格官幣社・勅祭社・単立神社
例大祭:4月21-23日(春季例大祭)・7月13-16日(みたままつり)・10月17-20日(秋季例大祭)
所在地:東京都千代田区九段北3-1-1
最寄駅:九段下駅
公式サイト:http://www.yasukuni.or.jp/
御由緒
靖國神社は、明治2年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「みたま(神霊)」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖國」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/08/11
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※「みたままつり」「みらいとてらす」など期間中に限定御朱印あり。
御朱印帳
初穂料:1,000円(通常)・1,500円(御創立150年記念)
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意している。
通常のものは桜がデザインされたピンクを基調としたもの。
2019年に御創立150年を迎えるため、記念御朱印帳が用意されている。
空色を基調としエンボス加工された桜や鳩がデザインされたもの。
歴史考察
護国の英霊を祀る靖國神社
東京都千代田区九段北に鎮座する神社。
旧社格は旧別格官幣社で、現在は祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる勅祭社。
神社本庁に属さない単立神社であり、歴史的に氏子地域は有していない。
正式には「靖國神社」と表記するが、新字体の「靖国神社」を使用される事も多い。
桜の名所としても知られ、東京都の「桜の開花宣言」は当社境内の標準木が咲いた時に行われる。
東京招魂社として創建
明治二年(1869)、明治天皇の勅許を受けて「東京招魂社」として創建された。
明治維新となり戊辰戦争が終戦すると、戦死者や戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発となり、そのための施設である「招魂社」が全国各地で創立される事となる。
そうした社会背景の中で、大村益次郎が東京に招魂社を創立する事を献策、明治天皇の勅許を受けて現在地に「東京招魂社」が創建。
当時はまだ仮神殿の状態であった。
また、後の西南戦争の際にも政府軍側のみを対象としたため、西郷隆盛など薩摩軍は対象外となっている。
明治五年(1872)、本殿が竣工。
これが修繕されつつ現存している。
明治七年(1874)、明治天皇が行幸。
「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製を賜った。
明治十二年(1879)、「靖國神社」に改称。
別格官幣社に列せられた。
参道の外側には日本人の手による国内初の洋式競馬場
明治三年(1870)、「招魂社競馬場」として参道の外側に1周約900mの競馬場が開場。
日本人の手による国内初の洋式競馬場であった。
陸軍による主催で例大祭の際に興行が行われ、大変な人気を博したと云う。
幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・月岡芳年が描いた『東京招魂社内外人競馬図』。
辛未と記されているため、明治四年(1871)九月に行われた競馬興行。
満員の観客の中で、競馬が行われているのが分かり、大変な人気であった。
三代目歌川広重による『東京滑稽名所』の「靖国神社競馬の名人」。
明治十六年(1883)の競馬で、狭い馬場で急コーナーであったため、落馬が多かったと云う。
明治三十一年(1898)、競馬が中止となる。
明治三十四年(1901)、馬場も廃止となった。
戦前の社史と当時の古写真
明治二十年(1887)、青銅大鳥居が建立。
この鳥居は第二鳥居として現存している。
明治二十六年(1893)、大村益次郎銅像が竣工。
日本初の本格的西洋式銅像とされている。
明治三十四年(1901)、拝殿が竣工。
この拝殿が修繕されつつ現存している。
大正八年(1919)、鎮座五十年記念祭を斎行。
大正天皇が行幸、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が行啓されている。
大正十年(1921)、第一鳥居が竣工。
「日本一の大鳥居」として建立され、当社のシンボルの1つであった。
大正十二年(1923)、関東大震災によって拝殿や遊就館に甚大な被害。
昭和七年(1932)、臨時大祭が斎行される。
昭和天皇・香淳皇后行幸啓されている。
昭和九年(1934)、神門竣工。
この神門が現存している。
戦前の当社は、神社を総括した内務省が職員の人事権を有しながらも、陸軍省と海軍省によって共同管理され、特に財政を担った陸軍省が運営の主導権を握っており、神社としては特殊な存在であり、政府が推し進めた国家神道の代表的な施設であった。
戦後の歩み・2019年には御創立150年
昭和二十年(1945)、8月終戦。
同年11月、臨時大招魂祭が斎行され、昭和天皇が行幸されている。
同年12月、GHQが神道指令を発令。
戦前は国家神道の代表的な施設で軍との結びつきも強かった当社が、戦後も存続した事については、カトリック教会の神父らの尽力があったと伝わっている。
「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」
実際は複雑な経緯があったと思われるが、こうしたカトリック教会の神父らの進言によって、当社は国家管理を離れ宗教法人となり存続し、現在に至っている。
昭和二十二年(1947)、「みたままつり」が開始。
東京の夏の風物詩として今も続けられている。
昭和四十四年(1969)、御創立百年記念大祭が斎行。
昭和天皇・香淳皇后が行幸啓されている。
昭和四十七年(1972)、本殿の後方に霊璽簿奉安殿を造営。
霊璽簿(神霊名簿)を保管している。
昭和五十年(1975)、8月15日に三木武夫内閣総理大臣が参拝。
終戦記念日に首相が初めて参拝。
同年、11月に昭和天皇・香淳皇后が行幸啓。
平成十四年(2002)、現在の遊就館が落成。
その後も境内整備が進み現在に至っている。
2019年、当社は御創立150年を迎えるため、それに伴う記念事業を色々と準備。
詳しくは下記公式サイトをご覧頂きたい。
境内案内
巨大な第一鳥居と大村益次郎銅像
最寄駅の九段下駅から靖国通りを進むと巨大な第一鳥居が見えてくる。
かつての第一鳥居は「日本一の大鳥居」として大正十年(1921)に建立されたものであるが、昭和十八年(1943)に風雨による損傷のため撤去され、仮鳥居となっていた。
昭和四十九年(1974)、銅鳥居として再建され、高さが約25m、笠木が約34m、重量は100トンの巨大な鳥居。
右手には「靖國神社」の社号碑で、正式な表記は「靖」の「青」の下部が「月」でなく「円」となっている事が分かる。
第一鳥居を潜ると広々とした参道。
現在、御創立150年記念事業として外苑工事が行われている。
参道途中に大村益次郎の銅像。
明治二十六年(1893)に建立された日本初の西洋式銅像。
当社の前進となった「東京招魂社」の建立に奔走した人物で、当社の建立場所が決定直後に暗殺された。
第一鳥居から第二鳥居までの長い参道の一帯は「外苑」という形になる。
現存する青銅製第二鳥居と神門
参道を進むと巨大な第二鳥居が見えてくる。
明治二十年(1887)に建立された青銅製の大鳥居。
現存する当社の鳥居としては最古のもの。
第二鳥居を潜ると左手に手水舎。
昭和十五年(1940)に奉納された大きな手水舎となっている。
参道正面には立派な神門。
昭和九年(1934)に竣工した檜造りの神門が現存。
中央間の扉には直径1.5メートルの菊花紋章が取り付けられている。
この先が内苑という形になる。
開門時間:6時開門
閉門時間:1-2月と11-12月は17時閉門・3月-10月は18時閉門
檜製の中門鳥居・明治の社殿
神門を潜るとその先に中門鳥居と社殿が見えてくる。
中門鳥居は平成十八年(2006)に建て替えられた木造鳥居。
国産檜の大鳥居となっている。
中門鳥居の先に立派な社殿。
拝殿は明治三十四年(1901)に造営されたもの。
幾度かの改修を経て現存しており、拝殿屋根は平成元年(1989)に葺き替えが行われた。
拝殿の幕は、普段は白色となっているが、恒例祭の日には紫色の幕に掛け替えられる。
本殿は明治五年(1872)に造営されたものが現存。
神明造の本殿になっており、平成元年(1989)に修築が竣工。
本殿の後方には霊璽簿奉安殿が鎮座。
昭和四十七年(1972)に建立されたもので、神霊を合祀する際に用いる霊璽簿を納めており、霊璽簿には合祀される神霊(英霊)の氏名が記されている。
本殿の左手の廻廊外に元宮と鎮霊社が並ぶ形で鎮座。
元宮は幕末期に京都で造られた小祠を遷したもので、鎮霊社は本殿に合祀対象外となった国内および諸外国の戦没者を慰霊するために昭和四十年(1965)に建立された。
東京の桜の標準木となる桜の名所と神雷桜
当社の境内は桜の名所として有名。
特に神門を潜った先に桜が多く植えられており「靖國の桜」として知られる。
気象庁は当社境内にある3本のソメイヨシノを東京都の標準木として指定いるため、東京都の「桜の開花宣言」は当社境内の標準木が咲いた時に行われる。
こうした桜は、明治三年(1870)に当社参道の外側に開場した「招魂社競馬場」の周囲に植えられた桜が起源となっている。
神門を潜りすぐ右にあるのは「神雷桜」と呼ばれる桜。
海軍神雷部隊戦友会と記されているのを見る事ができる。
特攻兵器「桜花」の実験訓練部隊として編成され、太平洋戦争終盤に特攻を行い、終戦まで合計829名が戦没している。
「靖国神社の神門を入って二本目の桜の木で会おう」と約束し、特攻へ飛び立ったと云われている。
桜の名所として知られる当社の境内であるが、当社らしいエピソードが様々残る、そうした名所である。
社殿の裏手に広がる神池庭園
社殿の右手より奥に向かうと神池庭園が広がる。
平成十一年(1999)に復元工事で整備された。
回遊式の美しい庭園になっており、滝も流れている。
あまりこちらまで足を運ぶ人は少ないため、空いている事も多く良い雰囲気。
神池庭園の周囲には、行雲亭・洗心亭・靖泉亭といった茶室が並ぶ。
更に相撲場と啓照館といった支度部屋も整備。
相撲場では、春の例大祭に全力士による奉納相撲が執り行われる。
幕末江戸三大道場の練兵館が置かれた地
中門鳥居の手前から左手に行くと南門。
この南門の手前に石碑が置かれている。
石碑には「神道無念流練兵館跡」の文字。
当地は当社が創立するまで「練兵館」という剣術道場が置かれた地であった。
「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館)、「位の桃井」(鏡新明智流・士学館)、「力の斎藤」(神道無念流・練兵館)と称され、後に幕末江戸三大道場の一つに数えられる名門であった。
門下から明治維新の志士を多く輩出しており、桂小五郎・高杉晋作・伊藤博文・品川弥二郎などが門下生として知られる。
明治維新後、当社の創立によって立ち退きを余儀なくされ、明治四年(1871)に牛込見附内に移転している。
博物館となっている遊就館
境内の右手には遊就館と呼ばれる博物館。
右手にある近代的な建物が入り口。
内部は博物館や売店・茶房などが入っている。
一部区域のみ撮影可能で、展示室などは撮影不可。
博物館には、遺品や資料、戦争で使用された兵器などが展示されている。
遊就館の近くには、戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫する軍犬慰霊像。
その隣に戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫する戦没馬慰霊像。
さらに戦場で使われた伝書鳩を慰撫する鳩魂塔と並ぶ。
他にも周囲には多くの像などが置かれている。
遊就館の隣には靖國会館。
かつて国防館とされていた建物で、現在は休憩所と図書館(靖國偕行文庫)として使用されている。
御創立150年記念御朱印帳・秋の夜長参拝みらいとてらす
御朱印は社殿右手にある朱印・神札墨書所にて。
案内の看板が出ているので分かりやすい。
オリジナルの御朱印帳も用意している。
通常のものは桜がデザインされたピンクを基調としたもの。
現在は、2019年に御創立150年を迎えるため、記念御朱印帳が用意されている。
空色を基調としエンボス加工された桜や鳩がデザインされたもので、御創立150年である2019年までの頒布を予定している。
御創立150年記念事業の一環としての頒布となる。
また平成二十七年(2015)から、秋に「みらいとてらす」というイベントが催されている。
「秋の夜長参拝」と題して、美しくライトアップされ、プロジェクションマッピングなどが施される。
所感
東京招魂社として創建した当社。
戦前は国家神道の代表的施設として崇敬を集め、複雑な経緯を経て現在に至る。
英霊と呼ばれる人々を祀り、今も特殊な存在の神社であると思う。
物々しい雰囲気、警備員や警察官が多くいるのは当社ならではの光景とも云えるだろう。
九段周辺を通る際は参拝するようにしているのだが、今回は久しぶりの正式参拝。
様々な思惑が重なる地であるため、なるべく客観的な記事としたが、改めて平和を願い日々の感謝を実感する、そうした神社である。
神社画像
[ 第一鳥居・社号碑 ]
[ 第一鳥居 ]
[ 狛犬 ]
[ さざれ石 ]
[ 参道 ]
[ 大村益次郎銅像 ]
[ 参道 ]
[ 第二鳥居 ]
[ 大手水舎 ]
[ 神門 ]
[ 靖國の桜 ]
[ 中門鳥居 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 授与所 ]
[ 朱印・神札墨書所 ]
[ 参集殿 ]
[ 能楽堂 ]
[ 斎館・社務所 ]
[ 南門 ]
[ 練兵館石碑 ]
[ 遊就館 ]
[ 軍犬慰霊像 ]
[ 戦歿馬慰霊像 ]
[ 鳩魂塔 ]
[ 母の像 ]
[ パール博士顕彰碑 ]
[ 護国防衛艦 ]
[ 特攻勇姿像 ]
[ 靖國会館 ]
[ 招魂斎庭 ]
[ 到着殿 ]
[ 啓照館 ]
[ 行雲亭 ]
[ 洗心亭 ]
[ 神池庭園 ]
[ 石鳥居 ]
[ 外苑休憩所 ]
[ 売店 ]
[ 境内案内図 ]
[ 案内板 ]