神社情報
駒林神社(こまばやしじんじゃ)
御祭神:菅原道真
相殿神:大日霊貴命・誉田別命・伊弉那岐命・妙義山神・天神七代地神五代の神
社格等:村社
例大祭:10月10日
所在地:神奈川県港北区日吉本町2-25-5
最寄駅:日吉本町駅・日吉駅
公式サイト:─
御由緒
菅原道真公を主神とする駒林神社(旧中駒林村天神社)は天台宗別当金蔵寺の兼務であった。神社に関する覚書等は度々の寺の火災等により消失されたと伝うるので、創祀年代は不詳だが、免れた明応三年の覚書の中に中村天神社の名記がある所からそれ以前に創祀された事が推定される。新編武蔵風土記稿に『天神社、字中村にあり、中分の鎮守なり前に石階三十三段を設、石の鳥居をたつ、社前に拝殿あり、三間に二間半、神体木の坐像にて一尺許』とある。境内の八幡鳥居には寛政八年九月別当金蔵寺と記名がある。明治十五年四月、天照大神と天満大神を合併、大正二年十月と記名の社頭石碑に、『村社駒林神社鎮守』とある所から、此頃旧村社に因んで社名を駒林神社と改めたと見られる。
大正三年十二月五日八幡神社、十二天神社、熊野神社、妙義山神の四社を合併、昭和三十六年に慶應義塾より隣地三畝二九歩を買いうけ、翌年新築社殿に加え社務所及境内を整備した。昭和三十九年十月、江戸城外濠の廃石を氏子の協力で申し受け、境内石垣の大工事を完成した。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2017/07/06
御朱印
初穂料:100円(賽銭箱へ)
社務所にて。
※宮司さんがお亡くなりになられたため宮守の方による押印のみの対応になる。
※初穂料は100円を賽銭箱に入れておいて欲しいとの事。
歴史考察
旧駒林村鎮守の天神様
神奈川県横浜市港北区日吉本町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧中駒林村(後に旧駒林村全域)の鎮守。
元は菅原道真公を御祭神とした天神信仰の「天神社」で、明治以降に地域の多くの神社を合祀し、村社に昇格したのを境に旧地名の「駒林神社」を称するようになった。
日吉台の急な坂道に鎮座しているのが特徴。
現在は神職は常駐しておらず、「天照皇大神」(川崎市幸区南加瀬1丁目)の兼務社となっている。
別当寺の金蔵寺と共に崇敬を集める
創建年代は不詳。
古くは「天神社」「中村天神社」と称された。
別当寺は現在も近くにある「金蔵寺」(港北区日吉本町2丁目)が担っていた。
貞観年間(859年-876年)、清和天皇の勅願により智証大師が創建したと伝えられ、江戸時代には徳川将軍家の菩提寺「寛永寺」末寺として栄え、徳川将軍家から厚く庇護された。
現在は「関東三十六不動」5番・「武相不動尊」8番・「関東百八地蔵」85番・「准秩父三十四観音」3番・「横浜七福神」寿老人など、多くの札所となっており、今も地域を代表する寺院である。
地域を代表する寺院「金蔵寺」の管理の元、駒林村(後に中駒林村)の鎮守として、崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿より見る当社
江戸時代なると駒林郷は、上駒林村・中駒林村・下駒林村に分村。
当社は中駒林村の鎮守を担った。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(上駒林村・中駒林村・下駒林村)
天神社
字中村にあり。中分の鎮守なり。前に石階三十三級を設。石の鳥居をたつ。社前に拝殿あり、三間に二間半。身體木の坐像にて一尺許。
末社。稲荷社。本社の東にあり。
二十三夜堂。本社の西にあり。僅かなる堂なり。
駒林村は上駒林村・中駒林村・下駒林村がまとめて記されている。
駒林村の字中村(中駒林村)の「天神社」と記されているのが当社。
中駒林村の鎮守である事が記してある。
石階三十三級とあるように当時から石段のある高台に鎮座していた事が分かる。
末社に稲荷社を有し、二十三夜堂というお堂が境内にあったようだ。
明治以降の歩み・駒林神社へ改称
明治になり神仏分離。
当時は無格社(後の村社へ昇格)であった。
明治十五年(1882)、近隣の天照大神と天満天神社を合祀。
明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、鹿島田村・小倉村・南加瀬村・駒林村・駒ケ橋村・矢上村・箕輪村が合併して日吉村が成立。
当地は日吉村駒林となる。
明治三十九年(1906)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で、現在の鎮座地とほぼ同じ場所に鎮座しているのが分かる。
他にも周辺には橙円で囲ったように多くの神社が鎮座していた事が分かる。
これら橙円の神社は現在はなく、全て当社に合祀されたものと見られる。
青円で囲ったのが当地周辺の地名。
日吉村の駒林という一帯であったが、江戸時代に上駒林村・中駒林村・下駒林村と分村していた名残で、駒林上組・駒林中組・駒林下組といった区分けをされていた事が窺える。
大正二年(1913)、村社に昇格。
これを機に「駒林神社」に社号を改めたと見られる。
大正三年(1914)、八幡神社、十二天神社、熊野神社、妙義山神の4社を合祀。
旧上駒林村の鎮守が「熊野神社」。
旧中駒林村鎮守であった当社に合祀する事で、当社が駒林村全域の総鎮守となった事が分かる。
昭和十二年(1937)、分村合併が実施され当地は横浜市神奈川区に編入。
この際に日吉村は大字を廃しており、駒林の地名は現在の「日吉本町」へ改称。
上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が窺える。
当時は茅葺屋根でかなり風情のある社殿。
戦後になり境内整備が進む。
昭和三十六年(1961)、慶應義塾より隣地を買い受ける。
昭和三十七年(1962)、社殿と社務所を新築。
昭和三十九年(1964)、江戸城外濠の廃石を申し受け、境内石垣を完成。
現在は神職は常駐しておらず、「天照皇大神」(川崎市幸区南加瀬1丁目)の兼務社となっている。
境内案内
急坂の途中に鎮座・江戸城外濠の廃石を使った石垣
最寄駅の日吉本町駅もしくは日吉駅から徒歩数分の距離で、「金蔵寺」から程近く、日吉台の急勾配な坂の途中に鎮座しており、境内は石垣で整備。
この石垣は昭和三十九年(1964)に江戸城外濠の廃石を、氏子の協力を得て申し受け整備されたもの。
社号碑には「村社駒林神社鎮守」の文字。
大正二年(1913)に村社昇格を記念して奉納された。
坂の途中に細い石段があり、これが参道となる。
石段を上り鳥居を潜った左手に社殿となる。
戦後に造営された社殿
鳥居を潜り左手に手水舎。
現在は神職の常駐がない兼務社ながら水が張られ綺麗に整備されている。
その先に石段があり社殿。
昭和三十七年(1962)に造営された。
状態もよく手入れされていて地域からの崇敬の篤さが伝わる。
彫刻などは控えめながら、質実で良い造り。
権現造で、瓦葺屋根の社殿となる。
江戸後期の狛犬が現存
社殿の前には一対の狛犬。
天保九年(1838)に奉納されたもの。
子持ちの狛犬で、綱島村の石工・飯嶋吉六の作となっている。
境内社の稲荷社・見晴らしの良い眺め
社殿の向かいに境内社の稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』にも記されていたもので、古くから境内社として祀られていた。
その隣には大勢至菩薩の碑。
境内からは旧駒林の地域を見渡す事ができる。
鎮守する地を見渡せる神社というのも良いものである。
御朱印は押印のみの対応
御朱印は社務所にて対応して頂ける。
現在は神職の常駐がない兼務社であるが、宮守の方がいらっしゃるので対応して頂ける。
こうして対応して頂けるだけでも大変有り難い事である。
初穂料は100円を賽銭箱に入れておいて欲しいとの事。
所感
中駒林村の鎮守として崇敬を集めた天神社。
地域を代表する寺院である「金蔵寺」の管理の元、共に崇敬を集めたのであろう。
明治になり日吉の地名が出来、旧駒林村の神社の多くが当社に合祀される事となり、かつての駒林村の総鎮守となった歴史を持ち、「駒林神社」に改称した事で、今は公式地名にはない「駒林」の地名の保存にも一役買っている。
今も地域からの崇敬は篤く、この日も平日ながら坂を上り参詣される方が跡を絶たなかった。
筆者の個人的な話になるが、ずっと昔「金蔵寺」がまだ境内で幼稚園を運営していた頃、先代住職に大変お世話になった事があり、その縁で当社にも何度か参拝に訪れた事がある。
当時の宮司はお亡くなりになったとの事だが、今も宮守や氏子の方が大切に維持しているのは素晴らしい事であり、駒林の歴史を伝える素敵な神社である。
神社画像
[ 社号碑・石段 ]
[ 石段・鳥居 ]
[ 石垣 ]
[ 境内 ]
[ 手水舎 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 神輿庫 ]
[ 稲荷神社 ]
[大勢至菩薩碑 ]
[ 社務所 ]
[ 境内からの眺め ]
[ 案内 ]
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