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概要
横浜総鎮守・関東のお伊勢さま
神奈川県横浜市西区宮崎町に鎮座する神社。
旧社格は官幣国幣社等外別格の後に県社、現在は神社本庁の別表神社。
横浜の総鎮守とされ「関東のお伊勢さま」として知られる。
創建以来、神奈川県と密接な繋がりがあり、かつては神奈川県宗社と定められ、県公式の祭祀の場として崇敬を集めた。
令和二年(2020)に創建150年を迎え、境内では大規模な創建150年記念事業が行われ、「伊勢神宮」内宮の旧社殿を譲り受け、本殿や拝殿などの建て替えなどが行われた。
神社情報
伊勢山皇大神宮(いせやまこうたいじんぐう)
御祭神:天照皇大神
社格等:官幣国幣社等外別格・県社・別表神社
例大祭:5月15日
所在地:神奈川県横浜市西区宮崎町64
最寄駅:桜木町駅・日ノ出町駅
公式サイト:https://www.iseyama.jp/
御由緒
『関東のお伊勢さま』と親しまれる当宮は、明治初年に国費を以て創建された神社であり、神奈川県の宗社、横浜の総鎮守とされています。境内は3900余坪、御社殿は神明檜造で、太古の掘立造の面影を残し、屋根の千木と鰹木が特徴です。かつては、久良岐郡戸部村の丘陵に鎮座されていましたが、神社名、創建年代共に不明です。
明治維新後、神仏分離、国家神道の時代を迎え、当地横浜が国の貿易の要として開港されるに及び、人々の心を1つにし、外国との国柄の違いを胸に刻み、国家の鎮護を祈る事を目的に、明治三年四月十四日、時の神奈川県副知事井関盛艮氏が太政官に対し建白書を送り、『伊勢山に皇祖の御社を勧請あれば、高麗の宮殿を創立し、国家の鎮護を祈り、人民をして、崇敬胆仰せしめん』との布告を戴き、社殿を始め、境内の整備が開始されました。
翌年四月十五日、社殿並びに境内施設が竣工し、正遷宮が執り行われ、横浜の町を挙げての初めてのお祭りは壮大華美を極めた様子でした。また、この時、地名も野毛山から伊勢山へと変えられました。明治五年の太陽暦採用に伴い例祭日は五月十五日と改められ、戦前の御祭礼には市内官公庁を始め、会社、工場、学校に至るまで休日となり、まさに市民を挙げてお祝い申し上げたとの事です。当初の氏子総代は大谷嘉兵衛・幸兵衛、茂木惣兵衛、箕田長二郎、近藤良薫氏など、日本の経済・政界に君臨された横浜の重鎮たる人々で、以後も横浜の名士の方々が総代に就任されています。
創建当時の社殿は関東大震災の災禍を蒙り、ことごとく倒壊し、現在の社殿は昭和三年に復旧建造されたものです。表参道の二の鳥居は、昭和四十五年に御鎮座百年を記念して横浜金沢の相川文五郎氏より寄贈されたもので総檜造、一の鳥居は昭和五十後年に御鎮座百拾年を記念して建て替えられました。 (頒布のリーフレットより)
歴史考察
戸部村の伊勢の森に鎮座していた太神宮
社伝によると、明治三年(1870)の創建と伝わる。
江戸時代、黒船来航・開港する以前の横浜は横浜村と云う寂れた漁村であった。
周辺の村々も寒村(貧しく寂れた村)であり、東海道沿いの宿場町「神奈川宿」周辺を除けば、小さな漁村に過ぎなかった。
当地周辺は神奈川奉行預かり地であった野毛町、さらには古くからの村である戸部村が存在。
戸部村には他にも幾つか神社が鎮座しており、その中の1社に伊勢の森(現・掃部山公園の周辺)と呼ばれた山の山上に鎮座していた「太神宮」があった。
これが後に当地に遷座し、当宮の基礎となる神社である。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には太神宮についてこう書かれている。
(戸部村)
太神宮
除地。三畝許。村内延命寺持。
戸部村の「太神宮」と記されている神社。
村内の「延命寺」が別当寺を担った。
小さな神社だったと思われ、創建年などは不詳。
「太神宮」の社名から分かるように伊勢信仰の神社だったと思われ、これが「関東のお伊勢さま」と呼ばれる当宮に繋がる。
開港により急速な発展を遂げた横浜
安政五年(1858)、江戸幕府がアメリカ合衆国と日米修好通商条約(安政五カ国条約)を締結。
これにより神奈川の開港が定められたものの、幕府は国防の面から東海道に直結する神奈川宿・神奈川湊を避け、対岸の寂れた漁村であった横浜村に開港場を新設することを決定。
東海道五十三次の3番目の宿場。
現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近。
近くには神奈川湊(かながわみなと)と呼ばれる港があった。
安政六年(1859)、横浜港が開港され貿易を開始。
横浜絵の第一人者と呼ばれた歌川貞秀の作品。
多くの外国の商船が往来している横浜を描いている。
古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展していく。
江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式。
横浜港、商館風建物、異国人の風俗などが描かれているのが特徴。
古くは寂れた漁村であった横浜が開港場となり、貿易の街として急速に発展。
外国人居留地が形成され、我が国最初の洋風の近代都市計画が導入。
横浜港が開港した事で、横浜周辺も急速に発展。
横浜道が村内に開削され、横浜港を管轄するための神奈川奉行所、役宅、監獄(横浜刑務所の起源)など官庁機構が戸部の地に集中して置かれた。
横浜の精神的支柱とするため当宮が創建
明治三年(1870)、戸部村・伊勢の森に鎮座していた「神明社(太神宮)」が、現在地の野毛山(現・伊勢山)に遷座。
これを横浜の総鎮守とした上で、県内の総社たる規模に整備が行われた。
当時の横浜は、多くの外国人が居留し、キリスト教など多くの外来文化に接する機会が多かった。
そこで神奈川県は横浜の精神的支柱とするため、横浜における神道の確立を重要視した背景があり、当宮は「横浜総鎮守」「県内の総社」として整備が行われた。
当地の伊勢信仰の神社が「神明社(太神宮)」であったため、遷座させた上で創建という形になったものと思われる。
多くの外国人の姿と異人館が設置され、横浜は外来文化に触れる機会が非常に高かった事が窺え、こうした中で横浜総鎮守として神道の確立が急がれた。
同年、神奈川県知事・井関盛良は、太政官と神祇官に建白書を提出。
建白書は当宮を「伊勢神宮」の遥拝所とし、県内の総社たる規模に整備することを願い出て、翌月許可。
明治四年(1871)、「官幣国幣社等外別格」と云う官国幣社に準ずる社格を受けた。
当時は「伊勢神宮」の遥拝所とされた経緯があるが、当宮には「伊勢神宮」からの分霊が祀られている正式な神宮であるという判断から、遥拝所の呼称は用いられず、「皇大神宮」と称する事となった。
当宮が創建した野毛山は、当宮が鎮座した事により「伊勢山」と改称。
「伊勢山皇大神宮」とも称され、この社号が現在に続いている。
野毛山(伊勢山)が選ばれた理由は、横浜総鎮守として、横浜港と横浜中心部を一望できることが鎮座地に相応しいとされた。
(戸部村ヨリ野毛村ニ至の間戸部羽沢切通しまでを見て并ニ不動山伊勢社其山向海上生麦の方を遠景之図)
ここに「伊勢山」の文字を見る事ができる。
山頂に社伝、麓に鳥居を見る事ができ、これが当宮。
明治八年(1875)、県社に列した。
はまっこの起源の1つである当宮の遷座祭
明治四年(1871)4月15日、社殿および境内施設が竣工。
盛大な遷座祭が斎行。
当時の様子を明治二十五年(1892)に出版された太田久好著『横浜沿革誌』では以下のように伝えている。
四月十四日、皇太神宮を野毛山に遷座し、伊勢山と改称し、横濱惣鎮守と定む。当日及翌日共に大祭を挙行す。横濱各町より山車十五本、手踊二十餘台、付属地走道化・踊・花駕籠・引物等、各町競争して華美を盡したり。当日県庁当時裁判所と云ふ。東に桟敷を仮設し、各国公使・領事を招待し、知事以下皆縦覧す。各町順次に山車・手踊等練込、技芸を演ず。本町五ヶ町、堺町何れも新趣向手踊引抜とも二回づつ、其他は一回づつ、其間に道化踊を演ず。当日は本町・弁天通・馬車道通・吉田町・野毛町・伊勢山の間、昼夜見物人雑沓、開港以来の賑ひなり。此祭典の費用凡金六萬餘円なりしと。当時横濱の盛況を推知するに足るべし。
各国の公使や領事を招いて桟敷席が設けられ、知事以下も観覧。
「開港以来の賑わい」とあるように、実に盛大な遷座祭であった。
当時の外務省の予算の半分とも云われた費用を使い、当時の横濱の盛況ぶりが伝わる。
横浜市民には「江戸っ子」に対して「はまっこ」と云われる自覚意識があるが、この意識の起源の一つは、当宮の遷座祭にあるとされる。
神道、お伊勢さまによって横浜の精神的支柱となり、移住者が多かった横浜において、市民としての一体感を受け付ける起爆剤として、盛大な祭りが斎行された面も強い。
なお、遷座祭の行われた4月15日は旧暦であるため、太陽暦の採用によって新暦の5月15日が当宮の例大祭となり、現在も例大祭は同日に行われている。
戦前まで当宮の例祭日は、市内官公庁を始め、会社、工場、学校などが休日となり、横浜市民の休日に制定されていた。
明治の浮世絵・古地図・戦前の古写真から見る当宮
明治初期に当宮を描いた浮世絵が残る。
当宮の御朱印帳にデザインされているのがこの三代広重の浮世絵。
当宮の鳥居、参道には茶屋も出て桜並木になっているのが窺える。
現在は表参道の桜並木はないものの、当時は横浜有数の桜の名所としても知られた。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
明治の地図上には「太神宮」の名を見る事ができる。
伊勢山と呼ばれた高台にあり、発展した横浜の町、そして港を見渡す事ができる立地であった。
注目すべきは現在の桜木町駅で、明治の古地図では「よこはま」駅になっている。
明治五年(1872)、日本初の鉄道が開通した時に初代の横浜駅として開業したのが現在の桜木町駅で、大正四年(1915)に桜木町駅へ改称されている。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当宮の社殿も関東大震災で倒壊。
昭和三年(1928)、社殿が再建。
この当時の社殿が平成の時代まで長い間維持されていた。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の境内の様子が窺える。
現在の当宮の姿にかなり近い。
宗教法人破産からの再建・大規模な創建150年記念事業
横浜総鎮守として創建以来多くの崇敬を集める当宮であるが、神社本庁に属する神社で初めての「破産」という事態に見舞われた。
平成三年(1991)、神宮裏参道の隣接地に婚礼施設を兼ねた高級ホテル「横浜開洋亭」を建設。
平成十四年(2002)、神奈川県神社庁が銀行側との協議の上、神奈川県神社庁がホテル敷地部分を除く境内地を取得、神奈川県神社庁が神宮の運営を直轄することで競売を回避。
こうした経緯がありしばらく神奈川県神社庁直轄での運営が続いた。
その後、新たな運営体制で再建を進め、神奈川県神社庁直轄より独立。
現在は再び宗教法人格を得て、神社本庁の別表神社にも復帰している。
平成三十年(2018)、「伊勢神宮」内宮の旧社殿を譲り受け、本殿の建て替えが竣工。
令和二年(2020)の創建150年に合わせて竣工された形となる。
境内案内
広大な表参道・2基の立派な大鳥居
最寄駅の桜木町駅から紅葉橋を渡り、坂を分岐し上った途中に鎮座。
広く取られた参道で、横浜総鎮守たる格式。
石段の先に大鳥居。
一之鳥居は昭和五十五年(1980)に建立。
御鎮座110年記念で建て替えられたもの。
一之鳥居を潜ると左手に幾つかの石碑。
途中にある伊勢山碑には「伊勢神宮別宮」の文字が彫られている。
石段を上ると左手に二之鳥居が見えてくる。
令和二年(2020)が創建150年記念のため参道には多くの提灯が掲げられている。
二之鳥居は昭和四十五年(1975)に御鎮座100年を記念して寄贈。
総檜造の見事な大鳥居。
横浜港守り神の照四海・明治の注連柱
二之鳥居を潜った先、左手に手水舎。
綺麗に整備されている。
その奥にはキッコーマンからの奉納物。
参道の右手には大きな常夜灯。
平成二十七年(2015)に修復された常夜灯。
照四海(しょうしかい)と呼ばれ当社のシンボルの1つとなっている。
明治十五年(1882)に和洋折衷のデザインで建設。
国学者・本居宣長の「天照皇大神の御神徳は四海(天下)を照らす」との言葉より命名。
その名の通り、高台から横浜港を行き来する船の目印としての役割を果たしてきた。
関東大震災で損傷し、その後再建、昭和三十二年(1957)には上述の野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)が中心となって修繕が行われ、平成二十七年(2015)にも修復が行われ現在に至る。
参道の正面に注連柱(しめばしら)。
明治二十二年(1889)に、当時の大遊郭・二葉楼から奉納。
東日本最大級の注連柱で、しめ縄は直径30cm・長さ4mのもの。
戦前の古写真にも写っている事が多く、当時の姿を偲ぶ。
神明檜造の社殿・創建150年記念事業での建て替え
注連柱の先に立派な拝殿。
創建当時の社殿は関東大震災の際にことごとく倒壊。
現在の拝殿は昭和三年(1928)に本殿と共に再建されたもの。
但し、この拝殿の姿もしばらく後に見る事ができなくなる予定。
令和二年(2020)に創建150年を迎えるため、大規模な創建150年記念事業が開始。
本殿や神楽殿などの建て替えが既に行われ、今後は拝殿の建て替えも予定されている。
伊勢神宮内宮より譲り受けた本殿
本殿は平成三十年(2018)10月に遷座祭が斎行されたばかり。
創建150年記念事業で建て替えられた美しい本殿。
「伊勢神宮」内宮の旧西宝殿を譲り受け、その姿のままに本殿として移築。
堀立柱と茅葺屋根の神明造社殿で、かつて「伊勢神宮」別宮を願い出た当宮は「伊勢神宮」内宮から譲り受けた本殿で、創建150周年を迎えた。
新しい本殿と古い拝殿。
この組み合わせを見る事ができるのも拝殿の建て替えが行われるまでである。
境内社の大神神社磐座・杵築宮と子之大神
境内社は社殿の左手に鎮座。
大神神社磐座(おおみやじんじゃいわくら)。
大和国一之宮の三輪明神「大神神社」より分霊を受けて平成八年(1996)に鎮座。
その左手に杵築宮と子之大神。
古くは当地一帯の野毛町の氏神で、野毛町内にあったが戦災で社殿が焼失し、杵築宮に合祀。
大国主命(おおくにぬしのみこと)・姥姫(うばひめ)。
姥姫とは、埋め立て前の桜木町駅周辺の海上にあった「姥岩」に鎮座していた女神の事で、現在はその岩はないが、当地の土着の神として信仰された。
境内は約3900坪程と広く、境内には他にも多くの見どころがある。
案内を見ると見どころなども分かりやすい。
新たに竣工した屋内神殿の神楽殿
2017年8月には創建150年記念事業の一環として神楽殿・参集殿が竣工。
社殿の右手裏、北側の参道に設けられた建物。
この左手にあるのが神楽殿と参集殿。
神楽殿は屋内神殿になっており、結婚式や企業の祈願祭などにも使われ、神楽殿には日本絵画史上最大(5m×18m)となる壁画「大遷座の図」が描かれている。
創建百五十年など限定御朱印も用意
御朱印は「伊勢山皇大神宮」の朱印に、社紋の桜の印。
2015年に頂いた祭は左下にも印があったりと多少の変化はあるが、基本的には変わらない。
令和二年(2020)は創建百五十年の記念すべき年のため限定御朱印を用意。
同年夏には限定の夏詣御朱印も用意された。
令和三年(2021)5月15日の創建百五十年奉祝大祭に合わせて年内に授与の限定御朱印。
最寄り駅の桜木町駅は鉄道発祥の地で、令和四年(2022)の開業150年を記念した鉄道御朱印。
2023年に頂いた通常御朱印と伊勢山の舞御朱印。
三代広重の浮世絵をデザインした御朱印帳
オリジナルの御朱印帳も用意。
三代歌川広重(初代歌川広重の門人)が描いた当宮の境内が描かれている賑やかなもの。
御朱印代込で初穂料は2,000円。
令和二年(2020)の創建百五十年に合わせて記念御朱印帳も用意。
大サイズの御朱印帳。
所感
横浜総鎮守として崇敬を集める当宮。
開港し明治維新を迎え、発展する横浜において総鎮守として創建された歴史を持つ。
外来文化が多く入る横浜で、規模の大きなお伊勢さまを支柱とするのは重要な事であったのだろう。
創建時の遷座祭は、正に横浜全体を挙げて盛り上がったもので、「はまっこ」たちの意識を植え付けた一大イベントであったと思う。
その後も立派な境内を維持され、今も多くの参拝者で賑わう。
令和二年(2020)は創建150年を迎え記念すべき年。
それに合わせ創建150年記念事業が行われ、竣工した本殿は「伊勢神宮」より譲り受けたもので、茅葺屋根で実に美しく見事であった。
この後も拝殿の建て替えなども予定されており、横浜総鎮守の新しい姿が楽しみである。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円・1,000円(見開き)
社務所にて
※季節や祭事に応じて限定御朱印も用意。
※兼務社「子神社」の御朱印も頂ける。
※以前は初穂料300円だったが現在は初穂料500円に変更。
御朱印帳
オリジナル御朱印帳
初穂料:2,000円(御朱印代込)
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
三代歌川広重が描いた浮世絵をデザイン。
当宮の境内や明治の横浜港、さらには鉄道の様子が描かれている。
令和二年(2020)は創建150年のため特別御朱印帳(大サイズ)も用意。
授与品・頒布品
交通安全ステッカー
初穂料:500円
社務所にて。
参拝情報
参拝日:2023/05/26(御朱印拝受)
参拝日:2020/09/02(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/12/28(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2018/09/11(御朱印拝受)
参拝日:2015/06/30(御朱印拝受)
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