神社情報
愛宕神社(あたごじんじゃ)
御祭神:火産霊大神
社格等:県社
例大祭:9月第4日曜(古例祭/大名行列)
所在地:秋田県湯沢市愛宕山13
最寄駅:湯沢駅・上湯沢駅
公式サイト:http://www.yuzawa.site/atagojinjya/
御由緒
愛宕神社がこの地に祀られたのは、桓武天皇の延暦二十年(801年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷地平定の際、蝦夷の首領悪路王を征討するにあたって、愛宕大神に戦勝祈願をし、その霊威によって賊を討つことができた事を報謝し、物見の丘とした愛宕山の頂上に祠を建てて祀ったのが始まりと伝えられている。
また、平安時代に入り、源義家が弟の義光をして大刀を、藤原清衡が神像の厨子をそれぞれ奉納したと伝えられている。
その後戦国時代に至って、この地を支配した小野寺氏や最上氏なども当神社を崇敬した。
慶長十年(1605年)には南家佐竹義種がこの地を支配するようになると、社殿を再建して社領五十石を寄進し、例祭日には湯沢城主自らが祭りを取り仕切る祭主となって祭りを執行した。
毎年八月の古例祭神輿渡御と共に行われる大名行列は、正徳四年(1714年)湯沢が藩内で七番目の町となったことを記念して行われるようになり、現在では往時を偲ぶ三百年の伝統をもつ祭礼行事である。
慶応二年(1866年)に白川神祇伯王より正一位の神位を奉遷される。
明治十二年(1879年)村社に認定される。
同二七年(1894年)、伏見宮貞愛親王殿下が官軍下向の際に当神社を参拝し、奉幣される。
明治の代に入り、この地の篤志家が境内を整備拡張し、愛宕山は「愛宕二八景」と呼ばれる程の景勝地となり、現在も愛宕公園として市民に親しまれている。また、社殿も新しく造営し神威を高揚し、明治三十年(1897年)四月には県社に昇格した。
昭和五十八年(1983年)一月、一級社に認定される。
なお、愛宕神社の年間行事としては正月の元旦詣に始まり、二月二十四日の初祭典、九月第四日曜日の古例祭の御神輿渡御、大名行列等がある。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2019/06/03
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
愛宕山に鎮座・秋田県湯沢の総鎮守
秋田県湯沢市愛宕山に鎮座する神社。
旧社格は村社の後に県社で、秋田県湯沢(旧湯沢町)の総鎮守。
平安時代に坂上田村麻呂が創建した伝承が残る古社。
愛宕山と呼ばれる境内は愛宕公園として湯沢市民に親しまれている。
9月の例大祭では、湯沢三大祭りにも数えられる「大名行列」が行われ、300年以上の伝統ある祭りとして知られている。
平安時代に坂上田村麻呂が愛宕大神を祀り創建
社伝によると、延暦二十年(801年)に創建と伝わる。
坂上田村麻呂が山頂に愛宕大神の祠を祀ったのが始まりとされている。
征夷大将軍に任じられ蝦夷(えみし/えぞ)を征討した武官として知られる。
※蝦夷は朝廷から見て東方や北方の地域の事で、現在の関東地方・東北地方・北海道地方に住む人々を異族視した呼称。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた。
死後は軍神として信仰の対象となり、現在は武芸の神として親しまれている。
坂上田村麻呂が蝦夷地平定の際、蝦夷の首領・悪路王(あくろおう)を征討するため、愛宕大神に戦勝祈願をし、その霊威によって賊を討つことができたと云う。
平安時代初期の蝦夷の首長とされる人物。
文献によっては盗賊の首領の他、鬼とされることもあり、坂上田村麻呂伝説に登場する。
陸奥国(岩手県・宮城県)を中心に、出羽国(秋田県)など東北地方に伝承が残る事が多く、いずれの伝承でも坂上田村麻呂によって討たれる部分は共通している。
蝦夷の軍事的指導者であった阿弖流爲(アテルイ)と同一視する事もあるが、実際のところは不明。
田村麻呂は報謝して、物見の丘としていた山(現・愛宕山)の頂上に祠を建てて、愛宕大神を祀ったとされている。
京都市の愛宕山山頂に鎮座する「愛宕神社」から発祥した、火防の神に対する信仰。
日本全国で「愛宕」を社名につける神社は43都道府県に約1,000社程。
特に東北地方に多く分布するのが特徴で、当社もそうした一社である。
源義光や藤原清衡の奉納・時代の領主からの崇敬
平安時代後期、源義家(八幡太郎)の弟・源義光が大刀を奉納。
源頼義の三男で、「新羅明神(現・三井寺/園城寺)」(滋賀県大津市)で元服したことから「新羅三郎」と称した。
後三年の役で兄の義家と共に戦い恩賞を受けたが、義家の没後に野心を起こし、兄弟や一族間の争いをもたらしている。
江戸時代に秋田を治める事になる佐竹氏は、この義光を祖としている。
義光は後三年の役で、兄の義家と共に金沢柵で敵対する清原武衡・家衡と戦ったとされる。
そのため秋田県南部には義光の伝承が残る地も比較的多く、江戸時代に秋田に転封された佐竹氏も義光を祖としている。
永保三年(1083)-寛治元年(1087)に奥州で発生した戦い。
奥州を実質支配していた清原氏の内紛に、源義家が介入した事で始まり、清原氏を滅亡に追いやった戦いで、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった。
平安時代後期、藤原清衡が神像の厨子を奉納。
奥州藤原氏からも崇敬を集めたと云う。
平安時代後期の武将で、奥州藤原氏の初代当主。
嘉保年間(1094年-1095年)、磐井郡平泉に移住。
「中尊寺」造営を開始して壮大な平泉の原型をなし、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。
安貞元年(1227)、当地を領地とした小野寺氏が南部の抑えとして湯沢城を築城。
戦国時代には小野寺氏と最上氏が対立し、湯沢城は最上氏の家臣・楯岡氏の居城となった。
湯沢は横手盆地南端の御岳山から愛宕山麓沿いに位置。
御岳山麓には、かつて七人の落ち武者が温泉を発見して住みついたといわれる、「湯の腹」部落があり、これにちなみ湯沢の地名がついたとされている。
湯沢の南にある東鳥海山麓の一支谷、金池川扇状地の原野も「湯の原」といい、これにちなんだという説もある。
江戸時代に出羽国へ転封された佐竹氏・久保田藩(秋田藩)
慶長七年(1602)、常陸国(茨城県)の戦国大名・佐竹義宣は、徳川家康から出羽国(秋田県)への国替えを命じられ、秋田・仙北へと転封された。
戦国時代から江戸時代にかけての武将・大名。
父の義重(よししげ)は、佐竹氏第18代当主で、「鬼義重」の異名をとる名将として、後北条氏と関東の覇権を巡って争い佐竹氏の全盛期を築き上げた人物。
佐竹氏は源義光を祖として平安時代後期以来、常陸国(茨城県)に勢力を持つ家柄で、義宣の代に常陸国内を統一。
豊臣秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、秀吉政権下では徳川・上杉・毛利・前田・島津と共に「豊臣六大将」とも呼ばれた。
常陸国の大身大名であった佐竹氏であったが、関ヶ原の戦いでは家中での意見をまとめられず、在国のまま観望するという中立的な態度を取った。
結果的にこの態度が突如、常陸国から出羽国への国替え転封の原因となる。
佐竹氏は久保田城(現・秋田市)を居城として、久保田藩(秋田藩)の藩主となった。
常陸一国54万石の大身大名であったが、久保田藩の表高は当初明示されず、60年以上経った寛文四年(1664)に計20万5,800石(実高40万石)と決定。
秋田に散らばった佐竹四家・佐竹南家が湯沢を治める
慶長七年(1602)、佐竹氏が秋田・仙北へと転封した際、佐竹宗家から分流した佐竹四家は秋田の各要所を居所とした。
佐竹宗家から分流した家系で、常陸国にいた際、太田城(茨城県常陸太田市)のどの方角に住んでいたかで呼び方が決められていて、東家・西家・南家・北家に分類。
これに壱岐守家を加え、佐竹五家と呼ばれる事もある。
佐竹西家:初代・佐竹義躬(十一代義篤の子)→子孫が大館を居所
佐竹南家:初代・佐竹義里(十七代義舜の子)→子孫が湯沢を居所
佐竹北家:初代・佐竹義信(十六代義治の子)→子孫が角館を居所
湯沢を所領としたのは佐竹南家。
当時の南家当主・佐竹義種(よしたね)は、湯沢城に入り城郭や城下町の整備を行った。
元和六年(1620)、一国一城令により湯沢城は廃城。
その後も佐竹南家が湯沢を治めた。
江戸時代には佐竹南家からの庇護・大名行列も始まる
慶長十年(1605)、佐竹義種によって当社の社殿を再建。
社領五十石を寄進して、佐竹家家紋の神輿・神器を奉納。
例祭日には領主である湯沢城主自らが、祭りを取り仕切る祭主となって祭りを執行したと伝わる。
正徳四年(1714)、湯沢が久保田藩(秋田藩)内で7番目の町・湯沢町となる。
これを記念して「大名行列」が行われるようになり、これが現在も当社の例祭時に行われており、往時を偲ぶ。
慶応二年(1866)、白川伯王家より正一位の神位を賜る。
神社における神階の最高位。
白川伯王家(しらかわはくおうけ)は、花山天皇の孫の延信王から始まり神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家で、皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。
しかしながら、江戸時代は吉田神道の吉田家が、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いていて白川伯王家との立場が逆転していたため、吉田家ではなく白川伯王家から正一位を賜ったのは比較的珍しい。
湯沢絵図で見る江戸時代中期の湯沢
享保十三年(1728)、家老・今宮大学による領内調査が進む中で『湯沢絵図』が作成される。
当時の湯沢町の様子を描いた町絵図。
左が北になっていて、湯沢町全体を描いている。
当時の湯沢の様子を窺えて貴重な史料。
「清涼寺」とあるのが、佐竹南家の菩提寺。
愛宕神社は残念ながら描かれていないが、地図の南側端あたりが愛宕山。
当社が佐竹南家や湯沢の庶民から崇敬を集めた事は、今も続く大名行列からも伝わる。
明治以降の歩み・境内整備が行われ県社に昇格
明治になり神仏分離。
明治十二年(1879年)、村社に列する。(後に県社に昇格)
明治二十七年(1894)、伏見宮貞愛親王が官軍下向の際に当神社を参拝し奉幣。
明治時代から大正時代にかけての皇族・陸軍軍人。
皇族として唯一、内大臣(四代目)を務め、軍人として最高位の元帥陸軍大将に就任。
大日本農会・大日本蚕糸会・在郷軍人会・理化学研究所・恩賜財団済生会・大日本武徳会等の総裁を歴任した。
明治三十年(1897)、県社に昇格。
湯沢の総鎮守として崇敬を集めた。
日本全国の名勝が記されている中で、「羽後湯澤 愛宕の櫻」として紹介されているのが当社。
愛宕山を遠景で撮影していて、現在も残る鳥居や神門を見る事ができる。
「愛宕の櫻」と紹介されているように、当時から桜の名所として知られていた事が窺える。
昭和八年(1933)、本殿・幣殿を新築する。
これらが現存。
昭和二十九年(1954)、湯沢町・岩崎町・山田村・三関村・弁天村・幡野村が合併し、湯沢市が成立。
当社は湯沢市の総鎮守として崇敬を集めた。
昭和五十八年(1983)、一級社に認定。
その後も境内整備が行われ現在に至る。
境内案内
第99代首相菅義偉氏の出身校湯沢高校に隣接して鎮座
秋田県湯沢市の中心地である湯沢駅からは南へ1km程の位置に鎮座。
秋田県立湯沢高校の南側にほぼ隣接するような位置。
参道は北側や西側など幾つかあるが、現在は北側から向かうのが一般的。
北に面して石鳥居。
大正十三年(1924)に奉納された鳥居が現存。
鳥居の手前には一対の狛犬。昭和十年(1935)に奉納された狛犬。
シュッとした狛犬で秋田の狛犬は年代が新しめでも、岡崎現代型のような量産型の狛犬は少なく、味のある良い造りとなっている。
鳥居を潜ると神橋。
この参道を上っていくと、いわゆる愛宕山と呼ばれる境内となる。
水が流れる参道・愛宕山と呼ばれる境内
神橋を渡った先からは石段が続き、愛宕山と呼ばれる境内を上っていく。
石段の途中に小さな狛犬。奉納年代は不詳。
どちらも玉持ちで招魂系の狛犬。
参道石段の横に水が流れているのが特徴的。
端に水が流れる参道になっていて、水と緑に溢れた境内。
石段を上っていくと途中に石鳥居。
明治の古写真にもこの位置に鳥居が設けられていた。
この鳥居の正面には西参道が伸びる。
緑に囲まれた自然溢れる境内。
鳥居は建立年代不明ながら恐らく明治の整備で建てられたものと思われる。
北参道と西参道の合流地点にある鳥居。
扁額の代わりに龍の彫刻。
鳥居の手前に一対の狛犬。昭和五十四年(1979)奉納の狛犬。
くちゃっとした表情で戦後の奉納にしては個性的。
鳥居の奥が表参道の男坂。
鳥居を潜らずに右手には緩やかな石段の女坂。
どちらからでも社殿に繋がる。
珍しい割拝殿風の神門・見晴らしのよい展望台
鳥居の先に急勾配の石段。
この石段の端にもやはり水が流れているのが特徴的。
愛宕山の山頂から山嶺まで参道に沿うように水路が出来ている。
石段の上にあるのが神門。
かなり個性的な造りをした神門。
一見すると割拝殿風になっていて、明治の古写真にも同様の神門を見る事ができるため、明治の整備の際に建立されたものが改修されつつ現存していると思われる。
建物の真ん中に通路(土間)がある拝殿。
神門を潜るとその先に社殿が見えてくる。
途中には扁額。
明治二十四年(1891)奉納で「愛宕神社」と記した扁額で、この事からこの神門も同時期のものと推測できる。
神門を潜り振り返ると、神門の中が展望台のようになっている。
少し床が朽ちている部分があるが中に入る事が可能。
展望台のようになっていて、ここからの見晴らしがとてもよい。
愛宕神社より西側を見晴らす事ができ、方角的に鳥海山を望むこともできると思われる。
御神木から湧き出る御神水が手水
神門を潜ると左手に手水舎を兼ねた御神木。
御神木の根本から水が流れ落ちる不思議な光景。
柄杓が置かれていて、これが手水舎の役割を果たしている事が分かる。
現在は井戸水を引いてそれを流す形になっているようで、流れ続ける御神水が参道へ。
参道の端を流れていた水はこの木の根元からの水だった事が分かる。
明治の拝殿や戦前の本殿が現存
参道の正面に社殿。
厳かな空気を纏う木造拝殿。
明治の整備の際に造営された拝殿で、神門と同時期に造営されたと見られる。
年月が経っても状態がよく維持されているのが素晴らしい。
細かい彫刻も施されていて見事。
獅子の彫刻。
獏の彫刻も。
本殿は昭和八年(1933)に造営。
本殿にも同様に細かい彫刻の数々。
獅子など数々の動物が施された本殿。
豹にも見える彫刻や、中には象もいたりと非常に表情豊かで、氏子崇敬者の気持ちが伝わる力作。
美しい神池・水と緑が溢れ美しい景勝地
拝殿前には一対の小さな狛犬。奉納年は不詳ながら古さを感じる。
どちらも玉持ちの阿吽。
拝殿の手前右手には神池。
水が噴水のように噴き出す神池。
御神木の根元から流れる御神水もそうであったが、豊かな水が特徴的。
水と緑が溢れる自然の中も美しい境内。
太子神社・山の神・稲荷神社などの境内社・庚申塔
西参道の途中に境内社の太子神社。
社号からして聖徳太子を祀る神社であろうか。
神門を潜った先の石段、左手にも境内社。
山の神を祀る一画。
神仏習合や民間信仰の名残を感じる一画。
猫ちゃんの姿も。
更に社殿の左手、崖の下にも境内社。
左手から急坂を下り向かうこともできるが、社務所の裏手から行くことも可能。
社務所の裏手から回り込んでみると一面緑の一画。
手前に古い神狐像などが置かれた一画。
倉庫も担っているようでかなりの年季を感じる。
その奥に稲荷神社。
草むらをかき分けるように進む。
地域から信仰されるお稲荷様。
周囲には古い庚申塔の姿も。
途中に置かれた庚申塔。
稲荷神社の左手に置かれた庚申塔や二十三夜塔。
湯沢の古い信仰を伝え多くが江戸時代のもの。
淡島大明神の碑。
崩れ落ちた庚申塔。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔。
二十三夜待は勢至菩薩を本尊として、毎月23日に月待を行う事が多い。
他にも数多くの石碑などが置かれている。
湯沢三大祭の「大名行列」は当社の例大祭
湯沢市には「湯沢三大祭」と呼ばれる祭りが存在。
・七夕絵どうろうまつり
・大名行列
・犬っこまつり
中でも9月第4日曜に斎行される当社の例大祭では、大名行列が開催。
正徳四年(1714)に湯沢が久保田藩(秋田藩)内で7番目の町・湯沢町となった事を記念して開催されたのが大名行列で、300年以上もの間続く伝統的な祭り。
古くから当社と湯沢、そして佐竹南家を結びつけ、当社が地域一帯の総鎮守として崇敬を集めた事が窺える。
愛の文字の中にハートがある御朱印
御朱印は北参道の手前にある社務所にて。
とても丁寧に対応して下さった。
御朱印は「愛宕神社」の朱印と社紋。
墨書きで「愛光大明神」と記して下さり、愛の冠部分にはハートの姿も。
所感
秋田県湯沢市に鎮座し、湯沢の総鎮守として崇敬を集める当社。
坂上田村麻呂の伝承が残る古社であり、古くから湯沢の領主よって崇敬された。
江戸時代以降は佐竹南家が湯沢を治め、佐竹南家からも庇護され、そうした名残として今も例大祭では大名行列が行われるのだと思う。
明治以降に整備された境内は、景勝地として美しく、当時の姿が今もなお残る。
こうした整備が行われたからこそ旧社格では県社に昇格し、秋田を代表する一社になったのが伝わる。
30℃を超える暑い中での参拝であったが、冬の雪の境内はまた別の顔を見せるのだろう。
古き良き東北の古社といった雰囲気がとてもよく、緑と水に溢れる境内はとても印象的。
湯沢市と云うと古くは南の玄関口として発展し、稲庭うどんや、地酒、川連漆器といった特産品、さらに小野小町生誕の地などで知られるが、当社もそうした名所の1つに挙げてもよいくらい、実に良い神社であった。
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