雑司が谷大鳥神社 / 東京都豊島区

雑司が谷大鳥神社(ぞうしがやおおとりじんじゃ)

御祭神:日本武尊
相殿神:倉稲魂命
旧社格:─
例大祭:9月10日に近い土・日曜
所在地:東京都豊島区雑司が谷3-20-14
最寄駅:鬼子母神前停留場・雑司が谷駅
公式サイト:─

御由緒

正徳年間鬼子母神堂境内に、鷲明神として創祀せらる。
明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭蝶屋地内に大鳥神社と改称、仮遷座す。
此れを憂い、旧幕臣矢嶋昌郁氏自己の宅地を社地として奉献、永久鎮座の地暫く定まる。
その後、境内地を暫次拡張し現状となる。

(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/02/25

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。
雑司が谷大鳥神社
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歴史考察

雑司が谷のお酉さま

豊島区雑司が谷に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
正式名称は「大鳥神社」だが、他との区別から「雑司が谷大鳥神社」とさせて頂く。

鬼子母神堂境内に鎮座

創建は、正徳年間(1711年-1716年)の頃とされている。
元々は、威光山「法明寺」の境外仏堂「鬼子母神堂」の境内に、「鷲明神」としてお祀りされていた。

正徳二年(1712)、出雲藩下屋敷で藩主松平公の嫡男が疱瘡にかかった時、鷺明神に祈願したところ快癒。
そこで正徳年間(1711年-1716年)に、「鬼子母神堂」の境内に祀ったのが始まりとされている。
痘瘡守護神として信仰を集めたという。

雑司が谷村鎮守の鬼子母神堂

「鬼子母神堂」とは「法明寺」の飛地境内にある仏堂。
永禄四年(1561)に、山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。
天正六年(1578)には社殿を建立している。

現在は「法明寺」の仏堂とされているが、当時は雑司が谷村の鎮守という扱いであった。
当時は神仏習合の時代であり、寺院や神社といった区別は重要ではないのだが、神社として村の鎮守として「法明寺」が別当寺となり崇敬を集めていた一面も見られる。
実際に江戸時代の資料では「鬼子母神社」としても「鬼子母神堂」としても残っている。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』にはこう書かれている。

(雑司ヶ谷村)
鬼子母神社
村の鎮守なり、圓満具足神大黒天を配祀せり、相傳ふ當社造立の由来は、永禄四年五月村民丹右衛門と云もの、村内小名清土の畑中より一の佛像を掘出し地主柳下某かもとへ持行てかくと告げるに、佛像なれば法明寺々中東陽坊へ納め然へしとて彼坊に安置せり、其後安房國の旅僧来て彼像を奪去しに、歸國の後狂亂して云、我は是雑司ヶ谷の鬼子母神なり、いかてか此地に移るへき、急き舊地に復すへしとなり、よつて其由を懺悔して東陽坊へ返せしより、僧俗ともに参詣するもの多し、斯て天正六年四月今本地堂と唱ふる稲荷の社地へ假初の社を營み安置せり、其時の棟札今に蔵す左の如し。
其後寛文六年、松平安藝守光晟の室法名自昌院英心日妙か寄進にて、今の如く客殿拝殿等新に造營ありしより世に聞ふる靈地となれり、毎年正月十六日奉射祭の式あり、又近き年まて六月草薙の祭と云もありしか今は廢せり、十月八日より十八日迄は日蓮影供の會式なれば参詣の人群集しいと賑はへり、法明寺寺中大行院持。末社稲荷社。弘治年中の勧請にて別に除地を附す、天正年中始て鬼子母神を此社地へ祀る故に、當社を土人は本地堂と唱ふ、因て有徳院殿御成の時は必當社へ成らせられ、夫より鬼子母神へ御立寄ありしと云。
鷲明神社。痘瘡守護神なり、祭神瓊瓊杵尊、正徳年中の勧請と云、神體は一寸五分許の白茶色の小石なり。
妙見社。
石像仁王。
銀杏樹。楠正成關東下向の時此所に松銀杏の二樹を植しが、今は此の銀杏のみ殘ると雖、幹は枯れて蘖なりと寺傳に記せり。
門前町屋。間口六十四間、歩數七百五十七、延享二年町奉行支配となる。

こちらでは雑司が谷村の鎮守であり「鬼子母神社」とされている。
「法明寺」持ちという事で別当寺扱いだったように記載されている。
とは言え神仏習合の時代であり、現在の寺社のような別け隔てはない。
特に門前には門前町が開かれ、多くの茶屋で賑わったという。

ここに「鷲明神社」の文字があるが、これが当社になる。
鬼子母神堂の境内の一角に鎮座していて、松平公の逸話から痘瘡守護神とされていた事が分かる。

江戸時代の鬼子母神堂

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

鬼子母神堂

こちらでは「雑司が谷鬼子母神堂」として描かれている。
多くの鳥居が見られ、神仏習合時代を思わせてくれる。
その一角に「鷲明神」として当社が祀られているのが見れる。
門前町が形成され多数の茶屋で賑わっているのが分かり、雑司が谷は名所の1つでもあった。

神仏分離・寄進による再興

明治になり神仏分離。
「鬼子母神堂」は、それまで雑司が谷村の鎮守であったが、神仏分離により氏神とする事ができなくなる。
そのため、境内にあった「鷺明神」を「大鳥神社」と改称して分離し、雑司が谷の氏神とする事に。
「鬼子母神堂」境内から分かれたものの、当時は大門欅並木の料亭蝶屋地内に仮遷座を余儀なくされており、借地に小さな祠があるだけだったという。

明治二十年(1887)この状況を見かねた旧幕臣の矢嶋昌郁が、200坪の自宅を寄進。
これが現在の鎮座地の基礎となっている。

大正六年(1917)には社殿が新築。
昭和十五年(1940)には、当社の北側を流れていた弦巻川の暗渠化に伴い、社殿配置の変換を行なった。
同年、宮司の私有宅地(境内に隣接120数坪)を寄進し境内編入。

戦後になると、昭和三十年(1955)に、境内に隣接する土地約150坪を管理者の配慮を受け、全氏子の寄付により買取、境内に編入している。
このように、神仏分離後は借地に小さな祠しかなかった当社だが、現在の境内になるまで、多くの崇敬者や氏子、神職の努力があった事が分かり、当社に対する崇敬を感じさせてくれる。

崇敬篤く整備された境内

現在の社殿は昭和五十六年(1981)に造営されたもの。
旧社殿の老朽化に伴い、氏子により社殿の造営と境内整備が行われており、ここでも崇敬の篤さを感じる事ができる。
社殿横には立派な御神木が立っている。

境内社には三杉稲荷神社。
元々、当社の兼務社であったが、首都高開設のため立ち退きを余儀なくされる。
昭和四十二年(1967)に当社の境内に遷座した。

さらに恵比寿神が手水舎の隣に祀られている。
これは「雑司が谷七福神」の恵比寿神を担っていることから。
平成二十二年(2010)に「雑司が谷七福神の会」が結成。
平成二十三年(2011)の初詣より、七福神巡りが行われるようになり、それに合わせてお祀りされた。

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して下さった。

なお、例大祭は9月だが、11月の酉の日には酉の市も開催される。

所感

元は「鬼子母神堂」の境内にお祀りされていた当社。
神仏分離の影響で、「鬼子母神堂」と分離し雑司が谷鎮守となったものの、当時は借地に小さな祠のみ。
それが多くの寄進によって現在の規模にまで整備されている。
戦前の整備、そして戦後になってからも、氏子により境内を広げているのは素晴らしい。
多くの神社は戦後になり復興資金確保や維持のため境内を切り売りしていたのに対し、こうした当社の事実は、それだけ氏子を中心とした崇敬者や神職の努力・崇敬の賜物であろう。
最近になっても「雑司が谷七福神」などの試みが見られ、地域の方々にとって大切な地である事が分かる。
近くの「鬼子母神堂」と共に参詣される事をオススメしたい。

神社画像

[ 社号碑・一の鳥居 ]

[ 狛犬 ]


[ 参道・二の鳥居 ]


[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]




[ 拝殿・本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 恵比寿神 ]

[ 三杉稲荷神社 ]


[ 御神木 ]

[ 神楽殿 ]

[ 社務所 ]

[ 奉納碑 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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