【神社情報】
秩父神社(ちちぶじんじゃ)
御祭神:八意思兼命・知知夫彦命・天之御中主神・秩父宮雍仁親王
社格等:延喜式内社(小社)・武蔵国四之宮・国幣小社・別表神社・知知夫国一之宮(新一の宮)
例大祭:12月2日(宵宮)・3日(大祭)(秩父夜祭)
所在地:埼玉県秩父市番場町1-1
最寄駅:秩父駅
公式サイト:http://www.chichibu-jinja.or.jp/
【御由緒】
秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
【御朱印】
授与所にて。
【御朱印帳】
初穂料:1,000円
授与所にて。
薄紫を基調として金の箔押しがされたもの。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
【備考】
延喜式内社・武蔵国四之宮とされ、古来この地方で最も格式高い神社。
秩父地方の総鎮守とされている。
旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
知知夫国の新一の宮にも認定され、全国一の宮会に加盟。
また「三峯神社」「宝登山神社」と共に「秩父三社」の一社とされている。
12月の例祭「秩父夜祭」は、京都の「祇園祭」、飛騨の「高山祭」とともに日本三大曳山祭及び日本三大美祭に数えられ、とても有名。
知知夫国の国造が創建
社伝によると崇神天皇十年の創建とあり、西暦にすると紀元前の事。
神話の世界の話になるので、あくまで伝承ではあるが、古来この地にて崇敬されていたのが分かる。
当社では平成二十六年(2014)を、御鎮座2100年としていた。
崇神天皇十年、知知夫国の国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされている。
知知夫国というのは、武蔵野国西部にあったとされ、秩父が古くから開かれた土地であったことが分かる。
当社は武蔵国の四之宮なのだが、こういった経緯もあり知知夫国の総鎮守として「新一の宮」に認定されている。
平将門と妙見信仰
その後、個人的にはとても興味深い平将門伝説との結びつきが出てくる。
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』によると、こういったエピソードが書かれている。
天慶年間(938年-947年)、平将門と平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、平国香側に加勢した平良文は妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ることができた。
それ以来、平良文は妙見菩薩を信仰し、秩父に居を構えた際に花園村から妙見社を勧請した。
これが秩父の妙見社の創成であり、後に当社は妙見信仰の「秩父大宮妙見宮」として有名になっていく。
このエピソード、個人的には大変興味深く不思議に感じる。
実は同じく平良文(後に下総国に移った)の子孫である千葉氏が創建した「千葉神社」にも似たようなエピソードが残されているのだが、平良文と平将門の関係が真逆になっているのだ。
「千葉神社」に残る、後代千葉氏の一族によって編纂された「源平闘諍録」には、平将門が平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた、とある。
この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっており、その際に妙見菩薩の加護を得て、良文・将門軍は窮地を脱し、その後勝利を重ねたというもの。
「秩父神社」によると、平将門の叔父である平良文は将門と敵対した事になっており、「千葉神社」によると平良文は将門の味方をしたとある。
同じ平良文の系譜による妙見信仰でありながら、将門との関係が真逆になっているのが何とも面白くて興味深い。
余談だが、個人的には様々な将門に関する資料から、平良文は将門の味方寄りだったと考えている。
鎌倉時代以降に妙見信仰色を強める
その後、鎌倉時代に社殿が落雷により焼失し、再建する際に神社北東に祭られていた妙見菩薩を合祀。
以降、神仏習合による妙見信仰色を強めていく事になる。
延喜式に記載の「秩父神社」の名称より「秩父大宮妙見宮」の名称の方が長らく有名だった。
江戸時代の資料などには「妙見宮」として紹介されている事がほとんど。
神仏分離で秩父神社へ
明治になり神仏分離が必要となったため、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻し現在に至っている。
現在も「千葉神社」ほどではないものの、妙見信仰の色合いは残っており、頒布されている護符などから妙見信仰が窺える。
家康造営の社殿が現存
境内はさすがの格式を感じる事ができる。
特に社殿の造りは見事。
現在の社殿は、天正二十年(1592)に、徳川家康が大旦那となって造営させたものが現存。
本殿・幣殿・拝殿が1つにまとめられた権現造の形式で、極彩色に彩られた彫刻が豪華で素晴らしい。
特に有名なのが、「日光東照宮」の「眠り猫」の作者と言われる左甚五郎作による彫刻。
「子宝・子育ての虎」「つなぎの龍」が左甚五郎作と伝えられ、見事な彫りと状態の良さに感銘を受ける。
御朱印は授与所にて。
知知夫国総鎮守の印が誇らしい。
紫を基調としたオリジナル御朱印帳も用意している。
アニメ「あの花」の舞台
現在はアニメ聖地の1つとしても有名。
秩父を舞台にし秩父市街の至るところでコラボの様子を見る事ができるアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(通称:あの花)」の作品内にて、当社の境内前が登場したりしている。
所感
秩父地方で最も重要な神社と言っても過言ではない当社。
今もなおその格式が伝わる社殿や境内は素晴らしい。
この日も平日ながら多くの方々が参拝に訪れていた。
知知夫国総鎮守、一之宮(新一の宮)として、これからも地域の人々に崇敬されるのだろう。
機会があれば12月の「秩父夜祭」や、夏の「川瀬祭」の際にも訪れてみたい。
【Google Maps】
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