三峯神社(みつみねじんじゃ)
御祭神:伊弉諾尊・伊弉册尊
社格等:県社・別表神社
例大祭:4月8日
所在地:埼玉県秩父市三峰298-1
最寄駅:三峰口駅(駅からバスで50分程)・西武秩父駅(駅からバスで1時間15分程)
公式サイト:http://www.mitsuminejinja.or.jp/
当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に窺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
参拝日:2015/07/09
埼玉県秩父市三峰にある神社。
「秩父神社」「宝登山神社」と共に「秩父三社」の一社に数えられる。
当社も標高の高い山嶺に鎮座しているのだが、妙法ヶ岳(標高1329m)の山頂には「奥宮」も鎮座している。
社伝によれば、景行天皇年間(71年-130年)の創建とある。
日本武尊が東征中に現在の当社がある山に登って、山嶺の美しさから、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んでお祀りをし創建したという。
また、景行天皇の東国巡行の際に、境内を囲む妙法ヶ岳・白岩山・雲取山の三山の話を聞き「三峯宮」の社号を授けたと伝えている。
その後、伊豆国に流罪になった役小角(修験道の開祖とされている人物)が三峰山で修業をし、当社で修験道が始まったとされている。
さらには空海が観音像を安置したと縁起にはあり、中世以降は神仏習合が色濃く、修験道が根強い修験道場として崇敬を受けていたようだ。
余談になるが、当社と熊野信仰との繋がりを色々と感じる事ができる。
「三峯/三峰山」とは、当社の社地を囲む本来は奥秩父山塊にある妙法ヶ岳(1332m)・白岩山(1921m)・雲取山(2017m)の三山の総称であり、この三峰山の中心の山が一番標高の高い「雲取山」になる。
熊野には「大雲取・小雲取」と呼ばれる場所があることや、「熊野三山」と「三峯」という共通項から「三峯」の開山には熊野修験が関わっていると推測できる。
実際に熊野古道と雰囲気も似ている。
東国武士達により信仰を集めていたようだが、南北朝時代に足利家と対立した新田義興(参考:「新田神社」)らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて一時衰退。
資料を見るに廃寺まで追い込まれていたようである。
衰退した当社が再興したのは、文亀年間(1501年-1504年)の事。
修験者であった月観道満が、30数年勧説を続けて天文二年(1533)に堂舍を再興。
山主が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。
以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて再興・隆盛したという。
当時は神仏習合により神社というよりも寺院としての要素が強かったように感じる。
本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれいた資料が多く見受けられる。
以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)」を寺の定紋としたそうだ。
現在も神紋として「菖蒲菱」が使われている。
秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族とし「お犬さま」として崇めるように。
ここから派生して狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けることが流行、修験者たちによる東国行脚により、当社に参詣するための講(三峯講)が東国を中心に増えていったようだ。
上述のように江戸時代までは神仏習合の要素が色濃く残っており、どちらかというと修験道が根強く、聖護院派天台修験の関東総本山として寺院として栄えた経歴があるのだが、明治になり神仏分離の影響を受けて寺院を廃して現在の「三峯神社」に改称。
神仏分離により廃仏毀釈、修験道の禁止などが進む中、信仰を維持するための苦肉の策だったように思う。
当社は秩父市街地から車で1時間以上かかる山嶺に位置している。
かなりの山道を登って行く必要があるのだが、それでも参詣者が後を絶たない事からも、当社への信仰の篤さを感じる事ができる。
特に毎月朔日(1日)には、「白い氣守」が限定で頒布されるのだが、当日は道も大渋滞になり整理券が配れて何時間も並ぶくらいの人が訪れるという。
境内は広大で厳かな空気を感じる事ができる。
駐車場からも徒歩10分程で「三ツ鳥居」に到着と、境内の広大さを感じる。
圧倒的な空気感と存在感を持っており、身が引き締まる。
見所は多数あるのだが、まず全国的にも大変珍しい「三ツ鳥居」が出迎えてくれる。
その両脇には狛犬ならぬ「狛狼」の存在。
上述の山犬(狼)信仰によるもので、当社には多くの狛狼が置かれている。
見事な造りの随神門は神仏習合時代は仁王門の扱いだったのだろう。
寛政四年(1792)に再建されたものを、昭和四十年(1965)改修したものという。
仏教色の残る建物が当時の面影を残してくれている。
本殿は寛文元年(1661)に造営された一間社春日造りの建物。
どちらにも極彩色見事な彫刻がされており、これらは秩父三社の共通する特徴と言える。
他にも多くの歴史的建造物や奉納品。
さらに御神木など境内には見処が多数存在している。
拝殿参拝後、深呼吸をしてご神木に手を付けてお祈りすると、ご神木の気を頂けるという。
拝殿前には最近になって摩訶不思議な瑞祥があり、拝殿前の敷石に「龍」が現れている。
これは平成二十四年(2012)辰年に、拝殿前の敷石に突如、龍が出現したというもの。
見てみると確かに龍に見え、何とも不思議なものだと思う。
境内には興雲閣という参拝者が宿泊などができる温泉宿泊施設が存在。
三峯講で訪れる参拝者が利用するだけでなく、一般参拝者でも利用する事ができる。
実際にこの日も都内の三峯講の方々が100人単位で訪れており、興雲閣で宿泊をしていた。
その興雲閣には、西武鉄道による観光者向けポスターが貼られていたのだが、そこには「屋久島、熊野古道、三峯神社」の文字があり、これには個人的に納得。
屋久島・熊野古道に劣らない雰囲気のある参道になっていて圧倒されてしまう。
特にこの日は天候が悪く霧もやの中に佇んでいたため、神秘的な印象に。
御朱印は拝殿の左手にある授与所にて。
御朱印帳に直接揮毫してもらう場合は通常のものを初穂料300円で。
絵柄入りで欲しい場合は、「お犬様」「あやめ」の二種類があり、別紙にて初穂料500円となる。
筆者は基本、一回の参拝で一種類と決めているのだが、あまりに素敵な境内だったため、御朱印帳に揮毫してもらったのと、お犬様版の2種類をお受けした。
オリジナル御朱印帳も用意している。
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