【神社情報】
聖神社(ひじりじんじゃ)
御祭神:金山彦命・国常立尊・大日孁貴尊・神日本磐余彦命・元明金命
社格等:村社
例大祭:4月13日
所在地:埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191
最寄駅:和銅黒谷駅
公式サイト:http://www.wadoh.co.jp/wado1300/
【御由緒】
「続日本紀」によると、元明天皇の時代、慶雲5年(708年)に武蔵国秩父郡から和銅(ニギアカガネ)という天然の銅塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、年号が和銅に改元されたと記されています。
和銅元年(708年)、朝廷は勅使に雌雄一対の和銅製蜈蚣を持たせ、和銅が発見された和銅山前の祝山に、和銅と和銅製蜈蚣を御神体とした神籬を建て祝典を挙げました。祝典ののち、神籬を現在の地へ遷し、聖神社として神鎮められたと伝えられています。
これ以来、蜈蚣は聖神社の御眷属として大事にされています。
聖神社の聖とは、「この上なく耳聡く口すべらかな」(何をお願いしてもよく聞いてくれお願いを叶えてくれる)神様がいらっしゃるという意味でもあります。
昭和11年には、神饌幣帛料供進神社に指定されました。
昭和28年には、三笠宮崇仁親王が参拝し、社前に松をお手植えされました。翌年には勢津子秩父宮妃が参拝されました。
社殿は今まで5回建替えられたことが記録に残っており、現在の移築した社殿は、秩父市有形文化財に指定されています。
旧本殿は新社殿並びに遷され、和銅出雲神社として祀られています。
【参拝情報】
参拝日:2015/07/08
【備考】
和銅山山麓に鎮座し、この地では慶雲五年(708)に自然銅(和銅)が発見され、この事が和銅改元と和同開珎鋳造の契機となったとされる。
そのため現在では、日本初の銭貨である和同開珎ゆかりの神社として「銭神様」と呼ばれ親しまれている。
その和銅の発見地が当神社周辺であったそうだ。
慶雲五年(708)に郡司を通じて朝廷に献上すると、喜んだ元明天皇により、同年「和銅」と改元。
さらに多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させた。
社伝によれば、当地では自然銅の発見を祝い、和銅沢上流の祝山に神籬を建設。
和銅元年(708)に清浄な地という当地に遷座という経緯となっている。
採掘された和銅13塊を内陣に安置し、多治比真人三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めて「聖明神」と号したのが創祀とある。
実際にこの地には和銅の選鉱場や製錬所跡があり、地名などからもそういったものが遺されている。
この周辺が和銅採掘の拠点だった事は間違いないようで、現在では和銅採掘遺跡として埼玉県旧跡に指定されている。
本殿は宝永六年(1709)から翌年にかけて元は「秩父今宮神社」の本殿として造営されたもの。
「秩父今宮神社」は戦後になってから児童館建設のため規模を縮小しており、その際に当社の本殿として移築される事となった。
江戸中期の作で見事なものが現存しているのは素晴らしい。
なお、当社の旧本殿は現在は本殿左脇に鎮座する境内社である「和銅出雲神社」の本殿となっている。
御朱印は拝殿前に書き置きのものが由緒書きと一緒に置かれている。
当社には神職が常駐していないため、授与品や御朱印などは拝殿前に置かれており、参拝者がセルフで初穂料を納めてお受けするという形を取っている。
この日は平日雨天の中、14時の段階で残り1部になっていたので、遅い時間帯ではなくなる可能性も高い。
当日の日付入りのが置かれていたので、神職なり氏子なりが毎日置いていってくれているようだ。
拝殿脇には和同開珎を形どった大きな碑が置かれている。
最近になって置かれるようになったそうだ。
和銅そして和同開珎との関連性から、今日では「銭神様」と呼ばれている当社。
金運隆昌のご利益を求めて小さな境内ながら参拝者の数も多い。
この日も平日の雨の中ではあったが、参拝者の姿が途切れる事がなかった。
普段は無人の神社ながら、参拝者のために拝殿前に授与品などを置かれていたりと、信頼関係で成り立っているのが窺え、多くの崇敬者との繋がりを感じる事ができ大変微笑ましく思う。
例大祭では市の無形民俗文化財となっている「黒谷の獅子舞」が披露されるとの事で、機会があれば見てみたい。
【神社画像】
本殿(角度的に撮影できず)は宝永六年(1709)から翌年にかけて元は「秩父今宮神社」の本殿として造営されたもの。
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