東京水天宮 仮宮 / 東京都中央区

【神社情報】

東京水天宮 仮宮(とうきょうすいてんぐう かりみや)

御祭神:天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼

社格等:─

例大祭:5月5日


所在地:東京都中央区日本橋浜町2-30-3(仮宮)

最寄駅:浜町駅・水天宮前駅・人形町駅

公式サイト:http://www.suitengu.or.jp/

【御由緒】

 水天宮発祥は、今から約七百年前にさかのぼります。平清盛の血をひく安徳天皇は、源氏の厳しい追及によって京から西へ西へと逃れざるを得ませんでした。ついに壇ノ浦の合戦で源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせました。

 戦いの後、建礼門院に仕えていた女官按察使局伊勢がひとり源氏方の追っ手から、九州の千歳川(現在の筑後川)辺り、鷺野ヶ原に遁れて来ました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼にとどめられ、生きてわれら平家一門の霊を慰めよとの命を受けてのことでした。こうしてこの地に祠を建て、安徳天皇をはじめ平家一門の霊を祀る日々を送りました。

 江戸時代、各地の諸大名が江戸に詰めることとなり、久留米藩主であった有馬家は、江戸城に近い赤羽根(現在の港区三田中之橋付近)に上屋敷を構えました。

 幕府により大名火消しを命ぜられた第八代藩主・有馬頼貴公は当時としては異例の高さである三丈にも及ぶ火の見櫓を組みました。これが江戸っ子たちの評判になり、「湯も水も火の見も有馬の名が高し」といわれ、有馬温泉・水天宮・火の見櫓も含む掛け言葉となりました。

 東京の水天宮は、文政元年、江戸詰めの間も上屋敷内で水天宮の神様をお参りしたいと願った第九藩主・有馬頼徳公。屋敷に邸内社を設け、国元の久留米から神様をおよびしましたのがはじまりです。本来屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることはできなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は篤く、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため、毎月五日の縁日に限り屋敷を開放して、一般の参拝を許可しました。人々は情け深い事を感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て「なさけ有馬の水天宮」と口癖のように言い合い、江戸の流行り言葉となるほどでした。

 水天宮は明治四年、屋敷の移転と共に赤坂に移り、その翌年日本橋蛎殻町に移転しました。

 その後、大正十二年の関東大震災で社殿は焼失しましたが、御霊代は隅田川にかかる新大橋に奉還され無事でした。(その時の模様を記した石碑が新大橋の側に建てられています)

 来る平成三十年、東京水天宮は江戸鎮座二百周年を迎えます。その記念事業と致しまして、社殿と社務所を改築することとなりました。

(※頒布のリーフレットより)
【参拝情報】

参拝日:2015/07/05




【御朱印】
初穂料:300円
社務所にて。
東京水天宮
【御朱印帳】
初穂料:各2,000円(御朱印代別)
社務所にて。
水天宮の社紋でもある椿柄の緑色の織りと福鈴絵柄の紺色の織御朱印帳。
御朱印帳の最終ページにカラフルな花の印が押してあるため、実質1ページ少ない。
他にもオリジナルの御朱印帳を計4種類用意している。
方角を司る四神が描かれた木目調、福鈴絵柄の紺色の織(お受けしたもの)、水天宮の社紋でもある椿柄の緑色の織り(お受けしたもの)、水天宮の社紋でもある椿柄の桃色の織りの4種類。(詳細:公式Twitter

[ 表面 ]
水天宮御朱印帳1

[ 裏面 ]
水天宮御朱印帳2

[ 表面 ]
水天宮御朱印帳1

[ 裏面 ]
水天宮御朱印帳2

[ 最終ページ ]
水天宮最終ページ

【授与品・頒布品】

■御饌米
初穂料:─
社務所にて。

御朱印帳をお受けした際に御饌米と由緒記を頂いた。
御守にするなり、一緒に炊いて頂くなりするのがよいだろう。

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【備考】
 水天宮の仮宮 

東京都中央区にある神社。
福岡県久留米市にある「久留米水天宮」の分社。
「久留米水天宮」の分社であるため、御祭神も同じく、天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)となっており、安徳天皇と平家一門の霊をお祀りしている。

「水天宮」が正式名称であるが、最近は区別のため「東京水天宮」の名称を使う事が多い。
本来は日本橋蛎殻町に鎮座しているのだが、現在は社殿改築のため、日本橋浜町の明治座のすぐ近くに仮宮が設けられており、そちらで参拝する形となっている。
平成二十八年(2016)まで、仮宮に遷座・移転している形となるため、参拝の際は注意したい。

 久留米藩江戸上屋敷に創建 

当社の創建は文政元年(1818)の事。
久留米藩九代藩主・有馬頼徳が三田の久留米藩江戸上屋敷に「久留米水天宮」の分霊を勧請した。
久留米藩では代々「久留米水天宮」を崇敬しており、江戸の屋敷内に鎮座させたのであり、いわゆる邸内社という形で創建している。

江戸の藩邸内にあったため庶民の参拝が難しかったものの、庶民からの崇敬も篤かったようだ。
そこで久留米藩では毎月5の日に一般開放する事となり人気となった。
「情け有馬の水天宮」という言葉も生まれたほど。

余談だが、江戸にはこういった藩邸内の邸内社だった神社が一般開放された神社が他にもあり、「虎ノ門金刀比羅宮」は、讃岐国丸亀藩主の邸内社で、毎月10日に開放している。
両社ともに藩の粋な計らいにより参拝を許可され、愛され崇敬されてきたのだろう。

 赤羽と呼ばれた港区三田 

三田の久留米藩江戸上屋敷は、当時は「赤羽」と呼ばれていた。
現在、赤羽というと北区を思い浮かべるが、当時は港区三田のこの一帯も赤羽と呼ばれている。
赤羽川(現在の古川の地域称)に架かる赤羽橋と中之橋の間、増上寺の南西の地名。
地名の由来は、昔からこの周辺の土地は赤土が多かったため、赤埴あかはにが転訛とある。

その赤羽(三田)の様子は浮世絵・錦絵などでも多く描かれている。

水天宮
(二代歌川広重/歌川国貞・江戸自慢三十六興)

二代歌川広重と初代歌川国貞による「江戸自慢三十六
興」での「赤はね火之見」。
奥が久留米藩江戸上屋敷であり、旗が出ているあたりが水天宮という事になる。
他にも初代歌川広重など多く錦絵が残っている。

 明治になり現在地へ遷座 

その後、明治になり神仏分離。
明治四年(1871)に、有馬家屋敷の移転と共に赤坂に遷座。
さらに明治五年(1872)に、有馬家中屋敷があった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転している。
有馬家との縁は今でも続いており、宮司も有馬家の当主が務めている。

 江戸鎮座二百周年記念事業で社殿を改築 

そして平成二十五年(2013)に、日本橋浜町の明治座そばに仮宮が設けられ移転。

これは平成三十年(2018)に江戸鎮座二百周年を迎えるに当たっての記念事業として、社殿などを改築する事になったため、一時的に仮宮が設けられているという事になる。
新社殿の完成は平成二十八年(2016)予定となっているので、それまではこの仮宮に遷座している。

仮宮と言えども中々立派なもの。

裏を返せば今の時期にしか見れない姿ではあるので、ある意味貴重かもしれない。

御朱印は仮宮に併設されてる社務所・祈願申込所にて。
オリジナルの御朱印帳を今年の6月下旬から用意したそうで、合計4種類用意されていた。
方角を司る四神が描かれた木目調、福鈴絵柄の紺色の織、水天宮の社紋でもある椿柄の緑色の織り(下お受けしたもの)、水天宮の社紋でもある椿柄の桃色の織りの4種類で、詳細は「公式Twitter」を見るのがよいと思う。
初穂料は2,000円で御朱印代別とちょっと値が張るのだが、お受けした際に御饌米を頂いた。
御守にするなり、一緒に炊いて頂くなりするのがよいだろう。
また、御朱印帳の最終ページにカラフルな花の印が押してあったので、最終ページは御朱印拝受に使えないかもしれない。

 安産・子授けの御神徳 

当社は「安産・子授け」の御神徳として知られているが、江戸時代の頃からそういった御神徳があると江戸庶民には知られていた。
その昔、古く鳴った鈴の緒(拝殿にかかる鈴の紐)を頂き、腹帯として用いた人がいて、安産を祈願したところ、うまくいったという話が人づてに広まったそうだ。
現在も「戌の日(いぬのひ)」に安産祈願される方が多い。

 所感 

現在は仮宮に鎮座している当社。
それでも仮宮に参拝者の数が多く見られた。
この日は「戌の日」ではなかったものの、祈願所で安産祈願の申し込みをされる方も多く、現在もなお「安産・子授け」の御神徳として崇敬篤いのが伝わってくる。
新社殿の完成が楽しみに思うと共に、仮宮も今しか見れないものなので、参拝されるのもよいと思う。

【Google Maps】

神社画像
[ 鳥居 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿(仮宮) ]

[ 中央辨財天(市杵島姫神社)]

[ 短冊掛け ]

[ 仮宮全景 ]

【Google Maps】


    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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