浅草神社(三社様)・被官稲荷神社 / 東京都台東区

浅草神社(あさくさじんじゃ)
三社様(さんじゃさま)
被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)

御祭神:土師真仲知命・桧前浜成命・桧前竹成命
相殿神:東照宮(徳川家康公)・大国主命
旧社格:郷社
例大祭:5月第3金土日(三社祭)
所在地:東京都台東区浅草2-3-1
最寄駅:浅草駅
公式サイト:http://www.asakusajinja.jp/

御由緒

 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
現在の社殿は慶安二年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんださら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
平成六年三月
台東区教育委員会
(※境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2015/11/15
参拝日:2015/05/10

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※他にも「浅草名所七福神」の「恵比寿神」御朱印、境内末社の「被官稲荷神社」の御朱印を用意している。
※案内にはないが兼務社である「浅草冨士浅間神社」の御朱印もお受けできる。
※一部期間で限定御朱印も有り。

浅草神社
(浅草神社)

被官稲荷神社
(被官稲荷神社)

[ 社務所掲示の御朱印一覧 ]

御朱印帳

初穂料:1,000円
社務所にて。
御朱印にもある当社の神紋が描かれた御朱印帳。
紺、緑、桃の三色が用意されていた。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。



考察

浅草寺の隣に鎮座

台東区浅草に鎮座する神社。
「浅草寺」本堂の東側に位置し、「浅草寺」本堂と二天門の間に挟まれた場所に鎮座している。
「浅草寺」の敷地内といっても差支えはない場所。
元々は浅草寺と一体であったが、明治の神仏分離により別に分けられた。
旧社格は郷社で、現在は浅草名所七福神の恵比寿神を担っている。

浅草寺と一体の三社様

当社の創建には隣接する「浅草寺」が深く関わってくる。
「浅草寺」の創建は、推古天皇三十六年(628)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかり、土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられる。
その後、土師真中知は僧となり、自宅を寺とした。
これが「浅草寺」の始まりとされている。

その「浅草寺」の創建に関わった、檜前浜成・武成の兄弟と土師真中知の3人をお祀りしたのが当社の起源。
平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると推測されている。
すなわち、当社はご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っているのが特徴であり、神社の格としては江戸一低いと揶揄される事も。
三人を神としたので「三社様」、後に徳川家康も合祀したため江戸時代には「三社権現」とも呼ばれた。
現在も「三社様」の名前は浸透しており、例大祭である「三社祭」も知名度が高い。

当時から「浅草寺」の境内の中に鎮座しており、当時は神仏習合の世。
「浅草寺」の歴史が当社の歴史とも言う事ができるだろう。

江戸時代の浅草寺

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に江戸時代の様子が描かれている。
当時はまだ浅草寺と一体化しているためその資料は膨大。
「浅草寺」全体を描いた箇所は8ページにも及ぶ。(拡大して表示がオススメ)
浅草神社3

この中の5・6ページ目に当時の当社が描かれている。
浅草神社

「三社権現」として描かれているのが当社。
「三社様」と呼ばれていたが、後に徳川家康が合祀されたため「三社権現」と呼ばれるように。
「浅草寺」本堂の東側に位置し、現在と変わらぬ場所に鎮座していた。
規模なども現在とほぼ変わらない。
当時からの様相をかなり残しているのだろう。

当時は神仏習合時代であり、「浅草寺」の敷地内に当社以外にも多くの神社が存在していたのが見て取れる。
あちこちに鳥居の姿が確認できる事からも分かるだろう。
読めるものを把握しただけでも、熊谷稲荷、銭塚弁財天、銭瓶弁財天、熊野権現、淡島明神、十社権現祠、一の権現社、西宮稲荷祠とその数が多い。
「えびす」の文字も書かれているので、当時から七福神の恵比寿神が祀られていたのが分かる。(現在は浅草名所七福神の恵比寿神)

また江戸名所図会にて浅草には事跡がたくさんあって書ききれないとあり、当時から浅草という存在の凄さが伺える。

神仏分離で浅草寺と分離

明治になり神仏分離で「浅草寺」とは分離。
明治元年(1868)に「三社神明社」に改称。
明治五年(1872)に郷社に列し、明治六年(1873)に現在の「浅草神社」に改称している。

徳川家光寄進の社殿が現存

現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安二年(1649)に完成したもの。
こうして状態よく現存している事が素晴らしい。

昭和三十六年(1961)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定された。

境内には夫婦狛犬といったものも。

江戸初期のものとされており、縁結びなどのご縁があるとか。

御朱印は社務所にて。
「浅草神社」の御朱印の他にも、「浅草名所七福神」の「恵比寿神」御朱印、下記に記載する境内末社の「被官稲荷神社」の御朱印を用意している。
案内にはないが兼務社である「浅草冨士浅間神社」の御朱印もお受けできる。
「三社祭」期間中は三社祭の印が入った限定御朱印も有り。
オリジナルの御朱印帳も用意している。

実は招き猫発祥の地

また、当社の御由緒や説明などでは取り上げられていないのだが、「招き猫発祥の地」として最も確かな資料が残っているのが当社。

最近は「今戸神社」が発祥の地として名乗りを挙げているのだが、あちらでも触れたように、戦前の資料にそれに関するものが一切見つかっていない。

そもそも招き猫は今戸焼の焼き物にして浅草神社近くで売ったところ評判になったという伝承があり、最も古い招き猫丸〆猫(まるしめのねこ)に関する古い記録が、嘉永五年(1852)の資料などに複数残っている。

そのため最も確かな「招き猫発祥の地」は当社だと言ってもよいのではないだろうか。

境内末社のお稲荷様

境内末社は社務所右手奥に「被官稲荷神社」。

安政元年(1854)に、新門辰五郎の妻が重病で床に伏した際、京都の「伏見稲荷大社」に祈願したところ、その効果あって病気は全快。
そういった事情もあり、安政二年(1855)に「伏見稲荷大社」から当地に勧請。

社殿は安政二年(1855)に創建されたものが現存している。

創建以来の杉皮葺で素晴らしい出来なので、こちらも一緒に参拝するのがよいと思う。
こちらの御朱印も用意されている。

荒々しさを感じる三社祭

5月に参拝した際は「三社祭」も近く、既に色々と準備が始まっていた。
三基ある浅草神社の宮神輿も輝いていて美しい。

一ノ宮から三ノ宮までいずれも壮観である。

「三社祭」は、かなりの荒々しさと神輿の数を肌で感じる事ができる、浅草という観光地のお祭り。
宮神輿を氏子衆が交互に担ぐ姿は実に凛々しい。

近年は神輿を担ぐ同好会団体に結構の割合で暴力団員が参加しており、一部で問題を取り沙汰される事もあったのだが、最近は対策にも乗り出している様子。
2015年からは半世紀ぶりに氏子衆の手だけで担ぎ出すことになった宮神輿。
ようやく本来の姿である氏子衆による宮出しに正常化されそうで、一安心といったところか。
これからも対策を継続して欲しい。

所感

浅草という「浅草寺」を中心に発展した地に鎮座する当社。
観光地として大変人気の浅草のため、周辺にも見どころが多数。
ところが、雷門から仲見世通り、そして「浅草寺」本堂までの参詣で終わらせ、意外と当社まで足を運ばない方も多い。
現在は神仏分離により別となってはいるが、古くから浅草寺と一体となって崇敬された当社。
重要文化財に指定されている社殿も見事なので、「浅草寺」本堂東側のこちらにも訪れて欲しい。

神社画像

※2015/05/10参拝時の画像
[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 拝殿 ]
[ 案内板 ]

[ 狛犬 ]




[ 夫婦狛犬 ]



[ 神輿庫 ]
[ 神楽殿 ]

[ 社務所 ]
[ 被官稲荷神社・鳥居 ]

[ 被官稲荷神社 ]



[ 狐像(お稲荷様) ]


[ 授与所 ]

[ 奉納所 ]

※2015/11/15参拝時の画像

[ 拝殿 ]

[ 被官稲荷神社・鳥居 ]

[ 被官稲荷神社 ]

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