神社情報
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
御祭神:木花之佐久夜毘売命(浅間大神)
相殿神:瓊々杵尊・大山祇神
社格等:駿河国一之宮・延喜式内社(名神大社)・官幣大社・別表神社
例大祭:11月3日-5日
所在地:静岡県富士宮市宮町1-1
最寄駅:富士宮駅・西富士宮駅
公式サイト:http://fuji-hongu.or.jp/sengen/
御由緒
古来より富士山は神の鎮まる山として、多くの人々の信仰を集めてきました。社伝によれば、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し、国中が荒れ果てたため、第11代垂任天皇3年(BC27)浅間大神を山足の地にお祀りし、富士山の山霊を鎮めました。その後、第51代平城天皇の大同元年(806)坂上田村麻呂が、現在の大官の地(元、富知神社社地)に遷し、壮大な社殿を営みました。大宮の地は富士山の湧水が豊富に流れ込む地であり、富士山の噴火を鎮める水徳の神を祀る場所に最も適していたといわれています。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2016/04/19
御朱印
初穂料:300円
御朱印受付所にて。
御朱印帳
初穂料:1,500円
御朱印受付所にて。
紺を基調とし、富士山と浅間造の本殿、桜が描かれたもの。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
授与品・頒布品
交通安全ステッカー
初穂料:1,000円
授与所にて。
※色違いが複数有り。
歴史考察
駿河国一之宮・浅間神社総本社
静岡県富士宮市宮町にある神社。
駿河国の一之宮で、古代の社格では延喜式内社の名神大社。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約1,300社あるとされる「浅間神社」の総本社。
また「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。
創建は山宮に鎮座・日本武尊の伝承
当社の御由緒は、寛政年間(1789年-1801年)により記された社伝『富士本宮浅間社記』に記されたものが主体となっている。
それによると、垂仁天皇三年(前27)に富士山麓の山足の地に、富士山の山霊を鎮めるためにお祀りされたのが起源とされている。
この創建の地は境外摂社「山宮浅間神社」として、当社より約6kmほど北側に現在も鎮座している。
境内には富士山の遥拝所・御神木などがあり、本殿はなく祭祀遺跡としての形を残した神社。
現在の当社に遷された後も「山宮」として関係が深い。
その後、日本武尊が東国の賊徒を征伐するために駿河国を通った際、賊徒による野火の難に遭遇。
その際に浅間大神に祈念して難を逃れ、賊徒を征伐する事ができた。
これにより、創建後の「山宮」(現在の「山宮浅間神社」)に浅間大神を祀ったとされている。
坂上田村麻呂により現在地に遷座
大同元年(806)、平城天皇の勅命により、坂上田村麻呂が現在の地に社殿を造営したとされる。
これにより「山宮」から現在地へ遷座という形になった。
現在の「富士山本宮浅間大社」の基礎はこの時に造られたと見てよいだろう。
ちなみに、現在地の大宮という地は地主神「福地神」の社地であったとされる。
そのため当社が遷座するにあたってこちらも遷座し、これが現在は当社の境外摂社となっている「富知神社」となっている。
当時の「富知神社」は湧玉池を祭祀場として富士山を水の神としてお祀りしていたと推測されており、この地に火の神である浅間神が遷座してきた事は、富士信仰の転換期となった大きな出来事だろう。
富士信仰が水の神から火の神へ転換し、浅間信仰が確立したとも言える。
朝廷からの崇敬
平安時代に入ると国史である『六国史』に「浅間神」の文字を見るようになる。
貞観六年(864)から貞観八年(866)に発生した、富士山の貞観大噴火は、朝廷から富士山の火の神をお祀りする当社の祭祀怠慢が原因と見られたため、その影響で富士山の北側である甲斐国にも浅間神をお祀りする事となった。(「甲斐国一宮浅間神社」「河口浅間神社」)
そのため駿河国(静岡県)だけでなく甲斐国(山梨県)にも多くの浅間信仰の神社が増える起因となっている。
以後、朝廷からの崇敬を受け、延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では名神大社に列し、駿河国一之宮として庶民からの崇敬も集めている。
永治元年(1141)には最高位の神階である正一位を授与された。
著名な武家からの崇敬
駿河国一之宮、そして浅間神社の総本社として崇敬を集めた当社。
武家からの崇敬を集めている。
源頼朝による社領の寄進や社殿の修復が行われている。
社伝によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが、当社の流鏑馬の起源とされている。
北条義時による社殿の造営。
足利尊氏や足利直義による社領の寄進も行われた。
武田信玄と武田勝頼の親子は当社を篤く崇敬し、信玄による願状など多くの武田家奉納品が現在も残っている。
境内にある(社殿手前左手)枝垂れ桜は、信玄が寄進したものと伝えられ、信玄桜と呼ばれている。
既に葉桜となっているが、桜の季節には見事な桜を咲かせるようだ。
徳川家康からの庇護
徳川家康は、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して、慶長九年(1604)に、社殿など30余棟を造営、867石もの朱印地を授けている。
この家康によって造営された本殿がいわゆる「浅間造」と呼ばれるもの。
本殿・拝殿・楼門等が現存しており、本殿は国指定重要文化財、拝殿・楼門は県指定文化財となっている。
現在の当社の姿に限りなく近くなったのは、徳川家康によるものと見てよいだろう。
こうした徳川家康の庇護の下、当社が実質、富士山山頂部の管理・支配を行うようになる。
安永八年(1779)、幕府によって正式に富士山八合目以上の支配権が認められた。
現在は富士山の山頂に当社の「奥宮」があるのも、こうした経緯が関連している。
(まだその当時の「奥宮」は、「富士山興法寺」を形成する大日堂であった。)
庶民からの崇敬
古くから富士山に対する庶民の崇敬も大変篤いものだったという。
室町時代には修験者による富士登山が盛んになり、神仏習合の時代で大いに崇敬された。
室町時代に描かれた『絹本著色富士曼荼羅図』では、その信仰の様子を窺う事ができる。
国の重要文化財であり、富士曼荼羅図の代表作。
当社の姿がまだ浅間造でない事から、現在の社殿が造営前の室町時代の作と考える事ができる。
富士山に対する当時の信仰形態がよく分かるものなので、分かりやすく何が描かれているのが追記してみたい。
ご覧のように最上部に富士山、左下部が当社となっている。
境内にある湧玉池では身を清めて禊を行っている人たちを見る事ができる。
当社だけでなく、神仏習合の元、これら全体による富士信仰・浅間信仰があった事が窺える。
戦国時代末期から江戸時代の始めには、角行によって富士講が広められるようになる。
富士講は江戸時代中期には江戸を中心に関東圏で流行。
以後、各地では当社から勧請された「浅間神社」が多く創建し、江戸では富士塚といった独自の信仰も広まった。
神仏分離と現在
明治になり神仏分離。
明治四年(1871)に、「浅間神社」として国幣中社に列した。
明治二十九年(1896)には、官幣大社に昇格している。
なお、この神仏分離の影響で、上述した「富士山興法寺」を形成する大日堂から仏像が取り除かれる。
跡地を当社が管理する事となり、それが現在の富士山山頂にある「奥宮」となっている。
戦後になり旧社格制度が廃止、神社本庁の別表神社となる。
昭和五十七年(1982)に、浅間神社の総本社としてふさわしい名前にするという名目で、現在の「富士山本宮浅間大社」に改名された。
平成二十五年(2013)、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として、世界文化遺産に登録された。
富士山を眺望できる鳥居前
富士宮駅近くに第一大鳥居があり、さらにその先に第二大鳥居がある。
第二大鳥居からは富士山を眺望する事ができる。
晴れた時でないと富士山の姿が見えないようだが、晴れの時は絶好の撮影スポット。
但し、秋冬シーズン以外は晴れていても富士山の山頂まで見える事はそう多くないので、見れた時は運がよかったと思うのがよいだろう。
鳥居の横には撮影用の顔出しパネルもあり、多くの方が撮影をしていく。
鳥居の先には参道が続き、その先に楼門が見えてくる。
慶長九年(1604)に、徳川家康によって造営された楼門が現存。
静岡県の指定文化財となっている。
実に見事な浅間造本殿
楼門の先には、とても見事な社殿が鎮座。
楼門と同様に慶長九年(1604)に、徳川家康によって造営された拝殿と本殿が現存。
本殿はいわゆる「浅間造」と呼ばれる特徴的な形態。
国の重要文化財であり、社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる形式。
いわゆる2階建ての社殿であり、これを「浅間造」と称し、全国に1,300社以上ある浅間神社の中では、当社を含めて4社のみ確認されている。(都内では唯一「多摩川浅間神社」が浅間造の本殿を有している)
感嘆の声が出る程の見事な社殿で、徳川家康の崇敬の篤さと力の強さを感じさせてくれる。
御朱印は社殿右手にある御朱印受付所にて。
御朱印専用の場が設けられており、案内板も出ているので分かりやすい。
オリジナルの御朱印帳も用意されている。
富士山からの湧水による湧玉池
社殿の東側には湧玉池があり、境内に湧き出る富士山からの湧水によるもの。
湧玉池の水は1年間ほとんど増減なく毎日約30万t湧き出ており、水温は1年を通して13°C前後で一定している。
社殿側には水汲み場もあり、自由にお水取りが可能。
飲用される場合は、要煮沸との事。
なお、この湧玉池は、古くから富士山登山の禊の場とされている。
上述もした「絹本著色富士曼荼羅図」にもその様子が描かれているの。
湧玉池で男性が禊をする様子が描かれており、当時の信仰と富士信仰を窺わせる貴重な資料だろう。
他にも境内社など見処がたっぷり。
境内案内図を見てから参拝すると良いだろう。
第二大鳥居近くには「ここずらよ」という土産屋兼食事処があり、そちらでは富士宮市の名物「富士宮やきそば」を食べる事もできる。
所感
浅間神社の総本社、そして駿河国の一之宮である当社。
富士山と富士信仰の歴史、そして全国に広まった浅間信仰・富士講の一端を感じさせてくれる。
一之宮としての格式を感じさせてくれる境内は、やはり浅間造の社殿の見事さが際立つ。
晴れの日は信仰対象である富士山を境内から見る事もでき、やはり格別の思いがある。
日本人にとって富士山は特別なもの、そう思わせてくれるだけの存在感。
神社好きなら一度は参拝したい神社の一社であろう。
また富士山山頂には当社の「奥宮」が鎮座しており、御朱印なども用意されている。
折をみて富士山登拝も行いたい、そんな気にさせてくれる大社である。
神社画像
[ 第二大鳥居・富士山・社号碑 ]
[ 富士山・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 三の鳥居 ]
[ 流鏑馬像 ]
[ 神橋・楼門 ]
[ 手水舎 ]
[ 楼門 ]
[ 鉾立石 ]
[ 拝殿・本殿 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿・拝殿 ]
[ 本殿(浅間造) ]
[ 火山弾・南極の石 ]
[ 七之宮浅間神社 ]
[ 枝垂れ桜(信玄桜) ]
[ 授与所 ]
[ 御朱印受付所 ]
[ 古神札納所 ]
[ 御霊水汲所 ]
[ 水屋神社 ]
[ 湧玉池 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 石碑 ]
[ 天神社 ]
[ ここずらよ ]
[ ここずらよ・富士宮やきそば ]
[ 境内案内図 ]
[ 境内からの富士山 ]
Google Maps
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