甲斐国一宮浅間神社 / 山梨県笛吹市

笛吹市

神社情報

甲斐国一宮浅間神社(かいのくにいちのみやあさまじんじゃ)

御祭神:木花開耶姫命
社格等:甲斐国一之宮・延喜式内社(名神大社論社)・国幣中社・別表神社
例大祭:4月15日(例大祭・大神幸祭)・10月17日(秋季大祭)
所在地:山梨県笛吹市一宮町一宮1684
最寄駅:山梨市駅(かなり距離有り)
公式サイト:http://asamajinja.jp/

御由緒

 第十一代垂仁天皇八年(約二千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第五十六代清和天皇の貞観七(865)年十二月九日、木花開耶姫命を現在の地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国の一宮(いちのみや)であって延喜の制に於ける名神大社である。明治四年五月十四日国幣中社に列格。本殿は入母屋唐破風向拝造銅板葺である。境内は3,395坪(1ヘクタール余)(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/04/20

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※当社の他に、創建の地にある境外摂社「山宮神社」の御朱印も有り。

御朱印

御朱印帳

初穂料:1,000円(御朱印代込)
授与所にて。

表面に社殿と富士山が描かれ、裏面は桜模様となっており、紺と赤の二色有り。
全国一の宮御朱印帳も有り。

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※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

甲斐国一之宮の浅間神社

山梨県笛吹市一宮町にある神社。
甲斐国の一之宮で、古代の社格では延喜式内社の名神大社論社。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
読み方は「せんげんじんじゃ」ではなく「あさまじんじゃ」となる。

山宮神社の位置に創建

社伝によると、垂仁天皇八年(前22)正月に神山の麓に創建とある。
これが現在の当社摂社である「山宮神社」であり、当社創建の地とされている。
現在の当社鎮座地から東南に2km程の地で、蜂城山の近く神山と呼ばれる山の麓に鎮座。

28de4dc1公式サイトより)

今回はこちらまで参詣できなかったのだが、国の重要文化財の社殿と、夫婦杉が見事だという。

神山に創建した事から思うに、当時は富士山ではなく神山の神をお祀りしていたのではないだろうか。
その後、様々な経緯で富士山(浅間神)を信仰する浅間信仰が浸透したものと思われる。
これは当地に遷座した時期などからも推測できる。

現在地に鎮座・浅間信仰の浸透

貞観七年(865)、現在地に遷座したとされている。

鎮座地である笛吹市一宮の地は、古代の甲斐国の中心地であった。
甲斐国分寺跡が残るように、この地にかつて国分寺と国分尼寺が建立されていた。
さらに笛吹市には国府があったとされ、国府もあり、周囲に国分寺がある当時の中心地に、遷座したというのは自然な事であろう。

また遷座の時期を見てみると、「富士山本宮浅間大社」の記事にも書いたのだが、貞観六年(864)から貞観八年(866)に富士山の貞観大噴火が発生。
朝廷から富士山の火の神をお祀りする「富士山本宮浅間大社」の祭祀怠慢が原因と見られたため、その影響で富士山の北側である甲斐国にも浅間神をお祀りする事となったといった事柄が、『日本三代実録』に記されている。
そのため駿河国(静岡県)だけでなく甲斐国(山梨県)にも多くの浅間信仰の神社が増える起因となった。

富士山本宮浅間大社 / 静岡県富士宮市
駿河国一之宮。浅間神社の総本社。浅間造本殿。浅間信仰の歴史・富士曼荼羅図。湧玉池。富士山山頂に奥宮。御朱印。御朱印帳。

まさに貞観大噴火が発生した最中の、貞観七年(865)に当地に遷座、といった御由緒。
やはり貞観大噴火と関係があると思うのが自然だろう。

富士山の噴火が原因で、朝廷の指示により甲斐国にも富士山の火の神(浅間神)をお祀りする事となったため、甲斐国側(最初は八代郡に・後に山梨郡に)にも「浅間神社」が建立。
その影響で神山を祭祀とした当社も浅間信仰となり、国分寺など国の中心として栄えていた当地に遷座された、と推測する事ができるのではないだろうか。

式内社論社・一之宮

延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』では、名神大社に列格する「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社の一社とされている。
当社は甲斐国八代郡であったのか、甲斐国山梨郡であったのかは、議論されており、当社の他に「河口浅間神社」が「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社として挙げられている。

河口浅間神社 / 山梨県南都留郡
延喜式内社・名神大社論社。世界遺産の一社。富士山噴火鎮祭のために創建。圧倒される杉の巨木・七本杉。鬱蒼とした境内。山宮。御朱印。

上述したように、当地周辺には国分寺があり、国府にも近かったため、甲斐国一之宮として崇敬を集める。
古くから当社を一之宮とする史料があり、また奉納品などからも、当社が一之宮であったというのが有力だろう。

武田信玄の崇敬・幕府からの庇護

当社は甲斐国を治めていた武田信玄からの崇敬が篤かったという。
社領の寄進もしており、当社の宝物として残っているものも信玄による奉納が多い。

国の重要文化財に指定されている「紺紙金泥般若心経」は、天文十年(1541)に後奈良天皇が安寧祈願のため諸国一宮への奉納を企図した般若心経で、武田信玄の自筆の包装がされており、信玄によって奉納されたとされている。
さらに国次の太刀も信玄の奉納であり、信玄の和歌短冊なども現存している。

江戸時代に入ってからは、徳川家康により社領200貫文が寄進。
徳川家光の時には234石余の朱印地が安堵された。
以後、幕府による保護もあり崇敬を集めた。

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、近代社格制度では国幣中社に列する。

戦後になり、近代社格制度が廃止され、神社本庁の別表神社となった。
平成二十七年(2015)には、御鎮座1150年大祭斎行されている。

現在も甲斐国の一之宮として、山火鎮護・農業・酒造の守護神・婚姻・子授安産の御神徳として崇敬されている。

社殿の向きに注目・不思議な夫婦梅

境内の敷地は3,395坪との事で、そこまで広大ではないものの、一之宮らしい格式と、地域の鎮守様のような親しみやすさを持った境内が特徴的。

国道20号沿いには、大きな一の鳥居が立つ。
816c7c5f これを道なりに進むと二の鳥居に行き当たり境内となる。
77cac245 二の鳥居を潜った先には中々立派な随神門。
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その先に社殿があるのだが、社殿の向きが何とも不思議。
4364eda0 一の鳥居・二の鳥居・随神門と表参道を通っているにも関わらず、社殿の正面に出ず、右手から見る形となる。
ようするに表参道とは直角方向を向いている社殿。
浅間信仰で富士山をお祀りしているため、富士山の方角を向いているのかと思いきや、富士山とは無関係の方角を向いており、この辺が中々に興味深い。

この社殿の向きは東南向き。
当社から東南に2km程の地には、創建の地であった「山宮神社」が鎮座している。
正確に方角が一致している訳ではないのだが、元は神山の祭祀であったと思われる当社が、富士山ではなくそちら方向を向いている事は、何らかの意図があるように感じてしまう。

その拝殿は、寛文十二年(1672年)造営。
9e3a9c35 一重入母屋造唐破風向拝付で銅板葺と立派で一之宮の格式を感じさせる拝殿。
笛吹市の文化財に指定されている。

本殿の横に回ってみると何とも不思議な梅の木がある。
00047c78 奥が本殿で、手前が夫婦梅と名付けられた山梨県の天然記念物となっている梅の木。
夫婦梅という名だが、2本の梅の木がある訳ではなく、不思議な果実がなる珍種。
00ff92a3 1花で2果(側面で癒着)を結ぶ珍種であり、実が2つくっついている事から夫婦梅。
何とも不思議で貴重な梅だろう。

境内社は、護国社、七社、神明社、真貞社。
さらに参道右手には、境外摂社であり当社創建の地にある「山宮神社」の遥拝所が設けられている。
dfce8302 「山宮神社」まではそこそこな山道になっているため、こうして当社からも遥拝できる形。

整備された境内・男根信仰・児童公園

この境内には一之宮としての格式と共に、村の鎮守としての要素も見え隠れする。

最近になって整備されたと思われる社殿右手のエリアには、珍しい人型に繰り抜かれた石。
e01b3a08 さらにそれをくぐるとその先に十二支の石像が並んでいる。
d00226cd 十二支(えと)参りとして干支に準じて参るようになっている。

一方で、ところどころに男根や女陰を思わせる石が立っている。
5155a828 こちらは子持石と名付けられた石であり、さらに似たようなのが境内の各地に二体。
b61ca93a こちらは陰陽石とされ、男根の石と、左手には女陰と思われる石が置かれている。
これらは御祭神である木花開耶姫命が、安産や子育ての神として信仰される女神でもあるため、こうしたものが置かれているものと思われる。

さらに面白いなと思うのが、境内に児童公園があるという事。
e3b1c603 境内と区分けされている訳ではなく、完全に境内に溶け込むように、滑り台や鉄棒などが置かれている。
一之宮でありながら、こうした村の鎮守的な雰囲気を出しているのが特徴的だろう。

御朱印は授与所にて。
当社の他に、創建の地にある境外摂社「山宮神社」の御朱印も拝受できる。
オリジナルの御朱印帳も用意している。
また、全国一の宮御朱印帳(小)も用意されていた。

所感

甲斐国一之宮として崇敬を集めた当社。
歴史を見ていくと、創建の地にある「山宮神社」との関係、そして甲斐国における浅間信仰の広まりを見て取る事ができ、興味深い神社となっている。
神社の規模としてはそこまで大きなものではないのだが、一之宮としての格式を感じさせてくれつつ、それでいて村の鎮守様のような雰囲気も合わせもっている。
地域の方からは「一宮さん」と呼ばれる事も多いようで、そうした通称がしっくりくる。
個人的には親しみやすい一之宮といった印象で、こうした雰囲気もとても好みで、居心地が良い神社であった。

神社画像

[ 一の鳥居・社号碑 ]
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[ 二の鳥居・社号碑 ]
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[ 随神門 ]
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[参道]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 護国社 ]
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[ 七社 ]
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[ 祓門 ]
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[ 十二支参り像 ]
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[ 富士石 ]
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[ 成就石 ]
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[ 夫婦梅 ]
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[ 石臼 ]
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[ 神明社 ]
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[ 真貞社 ]
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[ 子持石 ]
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[ 陰陽石 ]
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[ 山宮遥拝所 ]
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[ 石碑 ]
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[ 石井戸 ]
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[ 社務所 ]
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[ 授与所 ]
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[ 北側鳥居 ]
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[ 児童公園 ]
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