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概要
芝公園の一画に鎮座する芝東照宮
東京都港区芝公園に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、芝公園内の一画に鎮座。
江戸時代は「増上寺」の境内に鎮座しており、明治の神仏分離で分離独立。
「日光東照宮」「久能山東照宮」「上野東照宮」と並ぶ四大東照宮の1つとされる。
現在も「日光東照宮」と繋がりが深く、一部授与品などは当宮でも授与される事も多い。
境内には三代将軍・徳川家光が植えたと伝わる公孫樹(いちょう)が残り、当宮のシンボルとして崇敬を集めている。
神社情報
芝東照宮(しばとうしょうぐう)
御祭神:徳川家康
社格等:郷社
例大祭:4月17日
所在地:東京都港区芝公園4-8-10
最寄駅:芝公園駅・御成門駅・大門駅・赤羽橋駅・浜松町駅
公式サイト:https://www.shibatoshogu.com/
御由緒
当宮は、当初、増上寺境内に勧請された。増上寺は天正十八年(1590)家康公の江戸入府の折、源誉存応が公の帰依を得て徳川家の菩提寺に定められた。当時は日比谷にあったが慶長三年(1598)江戸城拡張工事に伴い、現在地に移転した。以後、幕府の保護の下、関東浄土宗寺院の総本山となり、実質的に同宗第一の実力を持った。
この増上寺境内の家康公を祀る廟は、安国殿と称された。これは家康公の法号「一品大相国安国院殿徳連社崇誉道和大居士」によるものである。安国殿のご神体は慶長六年(1601)正月、六十歳を迎えられた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、公は生前、駿府城において自らこの像の祭儀を行っていた。死に臨んで公は、折から駿府城に見舞いに参上した増上寺の僧侶に、「像は増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せになり、この像を同寺にに祭るよう遺言していたもので、安国殿の創建の時に造営奉行であった土井大炊助利勝(どいおおいのすけとしかつ)(のちの大老)の手により駿府から譲り贈られたのである。
安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて東照宮を称し、御神像を本殿に安置・奉斎した。明治六年(1873)には郷社に列し、社殿は寛永十八年(1633)の造替当時のものが維持されていたが、昭和二十年五月二十五日の戦火により、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿悉く焼失した。昭和三十八年(1963)には寿像が東京都重要文化財に指定され、昭和四十四年(1969)八月十七日、復興奉賛会により社殿の完成を見て今日に至っている。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
「増上寺」が徳川将軍家の菩提寺となり芝へ移転
社伝によると、元和三年(1617)に創建と伝わる。
徳川家康の霊廟として「増上寺」に建立された「安国殿」を起源とする。
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
当時、武蔵国貝塚(現・千代田区麹町付近)にあった「増上寺」の前を、たまたま家康が通りかかった際に「増上寺」の源誉存応上人と対面。
源誉存応上人に感銘を受けた家康が帰依した事で「増上寺」は徳川将軍家の菩提寺とされた。
東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。
9世紀に空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(現・千代田区麹町付近)に建立した「光明寺」が前身とされる。
明徳四年(1393)に真言宗から浄土宗に改宗し、寺号を「増上寺」としたのが実質上の創建。
家康が江戸入り後は、徳川将軍家の菩提寺となり芝に移転。
現在も徳川家霊廟として徳川将軍15代のうち6人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)が葬られている。
その後、「増上寺」は貝塚から日比谷へ一時的に移される。
慶長三年(1598)、江戸城の拡張に伴い現在地の芝へ移された。
徳川将軍家の菩提寺とされた「増上寺」は、浄土宗の関東総本山・関東十八檀林(学問所及び養成所)の筆頭として、寺領1万石余、25万坪余の境内に子院約50、学寮100以上軒を誇り、大いに隆盛を極めた。
当宮は「増上寺」に造営された安国殿が起源
慶長六年(1601)、60歳の還暦を迎えた家康は還暦記念に自らの等身大の寿像を造らせた。
家康自身が駿府城(静岡県静岡市)で寿像の祭祀を行ったと云う。
その人の存命中に作成される肖像彫刻・肖像画の事。
駿河国(現・静岡県中部)の駿府(現・静岡県静岡市葵区)にあった城。
徳川家康は二代将軍・徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府城に隠居し大御所と呼ばれた。
現在は本丸と二の丸跡が駿府城公園となっている。
元和二年(1616)、駿府城で危篤状態であった徳川家康は、見舞いに訪れた観智国師ら「増上寺」の高僧たちに還暦記念に造らせた寿像を「増上寺」に祀るよう遺言。
遺言に従い葬儀は「増上寺」で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」と云う浄土宗の戒名がつけられた。
元和三年(1617)、「増上寺」境内に家康の寿像を祀る社殿を竣工。
家康の戒名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」にちなみ「安国殿」と称された。
これが当宮の起源とされる。
徳川家光によって豪奢な社殿が造営
寛永十年(1633)、新社殿を造営。
寛永十八年(1641)、三代将軍・徳川家光の命で現在の鎮座地に社殿が造営され遷座。
駿府城より総門が移築され、本殿の周囲には拝殿・唐門・透塀が造営。
実に豪奢な本殿であったと伝わる。
家光は「日光東照宮」「上野東照宮」も絢爛豪華な社殿に造営・改築。
当宮の社殿を絢爛豪華に変えたのも、自分の祖父である家康をより神格化させ徳川将軍家の威光を示すための一環だったと思われる。
江戸切絵図から見る当宮
当宮の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当宮は図の中央下に描かれている。
広大な「増上寺」の社地が描かれており、五重塔も見える。
この辺りが現在の芝公園一帯である。
「御霊(ヨの下に天で霊の略字)屋」とあり、このあたりが「安国殿」、すなわち現在の当宮。
江戸市中から崇敬を集めた「増上寺」と共に崇敬を集め、この一帯は江戸の名所の一つであった。
江戸名所図会に描かれた当宮
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「三縁山増上寺」として6ページに渡り描かれている。
徳川将軍家の菩提寺として崇敬を集めた「増上寺」の全図。
とても広大な敷地であった事が分かり、当宮はそのうちの5ページ目6ページ目に見る事ができる。
当宮周辺を拡大したのが上絵。
「安国殿」と記されており、大変豪華な社殿を有していたのが分かる。
右手には総門があり、鳥居は福岡藩主・黒田忠之が寄進したもの。
立派な拝殿の裏手に本殿が置かれ、本殿の前には唐門と透塀を見る事ができ、家光が造営したものとなっている。
このように「増上寺」の境内に鎮座し、神仏習合の中で家康を祀る社殿として大いに崇敬を集めた。
神仏分離で増上寺と分離・旧本殿は旧国宝に指定・戦後の再建
明治になり神仏分離。
「増上寺」と分離する事となり、「安国殿」は現在の「東照宮」として独立。
明治六年(1973)、郷社に列した。
徳川将軍家の菩提寺として大いに隆盛を極めた「増上寺」であったが、徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小。
かつての「増上寺」の寺領の広範囲が明治六年(1973)に「芝公園」として整備され開園。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で「東照宮」と記してあり、現在も変わらない。
「増上寺」「芝公園」とあり、既に神仏分離後で「芝公園」として整備されている事が窺える。
大正四年(1915)、本殿が旧国宝である特別保護建造物に指定。
旧国宝の本殿を白黒写真で掲載。
透塀で囲まれ、立派な唐門の先に本殿が置かれている。
とても立派な本殿であった事が窺える。
旧国宝に指定されていた本殿の素晴らしさを感じる事ができる一枚。
大変緻密な彫刻を見る事ができ、徳川の威光を知る事ができ、実に素晴らしい本殿だった事が伝わる。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
御神体の寿像と御神木の公孫樹を残して、境内の殆どを焼失してしまっている。
戦後になり再建復興と境内整備が進む。
昭和三十六年(1961)、復興奉賛会が結成。
昭和四十四年(1969)、社殿が再建。
これが現在の社殿となっている。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
芝公園内に鎮座・江戸時代の狛犬
最寄駅の芝公園駅のA3かA4の出口を出てすぐ。
「増上寺」の左隣、芝公園内に鎮座。
「東照宮」の社号碑が立つ。
参道には一対の狛犬。
天明八年(1788)奉納の狛犬と古いもの。
当宮がまだ「増上寺」にあった時代に奉納されたもので、とても大きく筋肉隆々な造形が特徴。
駐車場を兼ねた参道・大鳥居・手水舎
狛犬の先は月極駐車場として整備。
この辺は都心の神社という事で致し方ない。
駐車場を兼ねた参道を進むと大鳥居。
大きく存在感のある鳥居。
扁額は平成十二年(2000)に改修されたもので「家達」の文字。
徳川宗家第16代当主。
開催が予定されていたものの、支那事変の影響などから開催権を返上し幻となった「1940年東京オリンピック」の組織委員会の委員長を務めた。
他に第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任。
大鳥居を潜った先も少し駐車場が続くが、その先の石段からが神域らしくなる。
石段を上ると右手に手水舎。
水盤は少し変わった形で古いもの。
戦後に再建された社殿・葵の井戸
その先に僅かな石段があり、正面に社殿。
旧国宝に指定された旧社殿は昭和二十年(1945)の東京大空襲によって焼失。
現在の社殿は昭和四十四年(1969)に再建されたもの。
鉄筋コンクリート造で再建され朱色に輝く。
旧国宝時代の面影は残っていないものの、戦後から約24年後に再建となったように復興奉賛会など崇敬者の気持ちが伝わる。
磐座・御神体を守った葵の井戸
社殿の右手には磐座。
令和五年(2023)に遷座したばかり。
日比谷から田村町そして当宮へ遷された。
社殿の左手に「葵の井戸」と呼ばれる井戸が残る。
以前は金魚やめだかが井戸で泳いでいる様子を見る事ができたが、現在は閉じられている。
戦時中、境内の殆どを焼失した当宮であるが、御神体である家康の寿像は焼失を免れた。
東京大空襲の最中、宮司自ら寿像を奉持して近くの井戸に入れて難を逃れたという逸話が残っていて、その井戸がこの葵の井戸であろう。
三代将軍家光が植えたと伝わる御神木の公孫樹(いちょう)
手水舎の奥に御神木であり当宮のシンボルでもある公孫樹(いちょう)の大木。
三代将軍・徳川家光が植えたと伝えられる御神木。
寛永八年(1641)当宮の旧名称「安国殿」の再建に際し、家光が植えたと云う。
昭和五年(1930)から昭和二十七年(1952)まで、国の天然記念物であったが、文化財保護法の改正により指定解除となり、昭和三十一年(1956)に東京都の天然記念物に指定。
現在も隆々と聳える大木で、芝公園一帯の名所の1つとなっている。
緑の多い夏などは隠れてしまうが、葉が散る冬は東京タワーとの対比も楽しめる。
2024年2月に撮影したもので、戦火を免れた力強い公孫樹の木と、現代の東京のシンボルでもある東京タワーの対比が素晴らしい。
道中安寧守付きの御朱印
御朱印は「芝東照宮」の朱印に、徳川将軍家の葵紋。
2019年に参拝した時は葵紋は小さい図案に変更となっていた。
御朱印と共に日光杉並木古材を使用した「道中安寧守」も頂け、栞としても使用可能。
2024年2月に頂いた御朱印。
日光東照宮の御朱印や御朱印帳も
オリジナルの御朱印帳も複数用意。
2023年参拝時は上述の4種類を用意。
筆者が頂いたのは本務社「芝大神宮」の御朱印帳をベースにした布表紙御朱印帳。
特徴的なのは「日光東照宮」の御朱印帳と御朱印を頂けると云う事。
「日光東照宮」の御朱印帳には「日光東照宮」の御朱印入りとなっている。
所感
徳川家康の遺言により、自らの寿像を祀る「安国殿」として「増上寺」境内に造営された当宮。
三代将軍・徳川家光によって造営された本殿は、東京大空襲で焼失するまで旧国宝に指定されていたように、徳川将軍家によって庇護され大いに崇敬を集めた。
東京大空襲によって境内の殆どが焼失してしまい、境内は戦後の再建となっているが、御神体である寿像や御神木の公孫樹は残っているのが喜ばしい。
芝公園の一画に鎮座しており、後には丸山古墳、近くからは東京タワーも綺麗に見る事ができる。
「増上寺」と違いこちらまで参拝者が訪れる事はあまりないのだが、「増上寺」と共に合わせて参拝する事をオススメしたい良い神社である。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※以前は初穂料300円だったが2017年参拝時以降は500円に変更。
※代わりに日光杉並木古材を使用した「道中安寧守」を頂けるように。
御朱印帳
初穂料:1,800円・2,000円・2,500円・3,000円(御朱印代込)
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を複数用意。
本務社「芝大神宮」の御朱印帳をベースにした布表紙御朱印帳。(初穂料:1,800円)
日光杉並木古材を使用した杉表紙御朱印帳。(初穂料:2,500円)
日光東照宮の御朱印入りで全国東照宮連合会が発行している御朱印帳。(初穂料:2,000円)
日光東照宮の御朱印入りで「日光東照宮」の御朱印帳(赤・青)。(初穂料:3,000円)
授与品・頒布品
道中安寧守
初穂料:─
社務所にて。
日光杉並木古材を使用したもので御朱印を拝受した際に一緒に下さる。
参拝情報
参拝日:2024/02/09(御朱印拝受)
参拝日:2023/06/24(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2019/07/08(御朱印拝受/御朱印帳拝受)
参拝日:2017/03/22(御朱印拝受)
参拝日:2015/06/21(御朱印拝受)
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