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概要
牛込東部鎮守の八幡さま
東京都新宿区筑土八幡町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、牛込東部の鎮守。
江戸時代には隣に平将門公を祀る「築土神社」が鎮座、2社並ぶ形で鎮座していた。
境内には新宿最古の鳥居や、大変珍しい形の庚申塔など文化財も多く置かれている。
神社情報
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)
御祭神:応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
社格等:村社
例大祭:9月15日
所在地:東京都新宿区筑土八幡町2-1
最寄駅:飯田橋駅・神楽坂駅
公式サイト:─
御由緒
昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊(しんれい)が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡(あと)をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、 目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀(まつ)った。
その後、伝教大師(でんきょうだいし)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫(つくし)の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡(つくどはちまん)神社と名づけた。
さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興(うえすぎともおき)が社壇(しゃだん)を修飾して、この地を産土神(うぶすながみ)とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。御祭神は応神(おうじん)天皇、神功(じんぐう)皇后、仲哀(ちゅうあい)天皇である。
現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、 熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・ 神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。大祭は九月十五日に毎年行われている。
境内には、庚申塔(後出)・鳥居(享保十一年/1726年)・狛犬(文化七年/1810年)・百度石(明治十五年)などの古い石造物や、「金太郎」「一寸法師」「花咲爺」などを作曲した田村虎蔵の歌碑(昭和四十一年)がある。(頒布の資料より)
歴史考察
平安時代に創建の伝承
社伝によると、嵯峨天皇の御代(809年-823年)に創建と伝わる。
牛込の里(当地)には熱心に八幡神を信仰する翁がいて、この翁の夢の中に神霊が現れ「われ、何時が信心に感じ跡を垂れん」と告げた。
翌日、身を清めるために井戸へ向かうと、近くの松の木の上に細長い旗のような雲が棚引き、その中から白鳩が現れて松の梢に止まる出来事があった。
翁はこの事を村人に告げてその松の木に注連縄を張って祀った。
これが当社の創建と伝えられている。
伝教大師(最澄)による神像・筑土の由来
その後、伝教大師(最澄)がこの地を訪れた際、この話を聞いて神像を彫刻して祠に祀った。
その時に筑紫の宇佐の宮土を取り寄せて礎としたので「筑土八幡」と名付けたと云う。
平安時代初期の仏教僧で天台宗の宗祖。
伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。
唐に渡って仏教を学び、帰国後は比叡山延暦寺を建てて日本の天台宗を開いた。
このように社伝では筑紫にある八幡信仰の総本社「宇佐神宮」の土を使った事から「筑土」と云う社号由来を伝えている。
現在の「宇佐神宮(うさじんぐう)」(大分県宇佐市)。
豊前国一之宮で、全国にある八幡信仰の神社の総本社。
宇佐八幡と呼ばれ崇敬を集めている。
扇谷上杉家によって江戸鎮護とされる
文明年間(1469年-1487年)、江戸の開拓にあたった上杉朝興が当社を当地の氏神として再興。
江戸の鎮護として当社を篤く崇敬したと伝わる。
戦国時代の武将。
江戸城を城主としていた扇谷上杉家の当主。
後北条氏に江戸城を奪われ河越城へ移る。
その後も後北条氏の脅威であり続けたが江戸城奪還を果たす事はできず河越城で息を引き取った。
このように年代や人物に齟齬があるため正確な事は不明だが、江戸城を築城した太田道灌の主君である扇谷上杉家によって江戸の鎮護とされたと伝えられている。
以後、牛込東部の鎮守として崇敬を集めた。
江戸時代は「築土神社」が隣に遷座し並び立つ形に
江戸時代に入ると江戸城の拡張工事の影響を受ける事となる。
元和二年(1616)、江戸城外堀拡張の普請に伴って「田安明神(かつては津久戸明神と呼ばれる)」が当社の隣に遷座、社号も「筑土明神」と呼ばれるように。
これが現在の「築土神社」(現・千代田区九段北)である。

両社が並び立っていた様子は、江戸の切絵図からも見て取れる。
こちらは江戸後期の牛込・磔川周辺の切絵図。
右下が北の切絵図となっており、当社は図の中央に描かれている。
左に見えるのが江戸城へ繋がる牛込御門である。
左下の赤円で囲った箇所に「八幡宮」「築土明神」とあるが、これが当社の鎮座地。
「八幡宮」が当社の事で「筑土明神」が後の「築土神社」である。

江戸名所図会に描かれた当社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「筑土八幡宮」「同明神社」として描かれている。
二社が並び立つ様子が実に分かりやすく描かれている。
同じ境内にありながらもあくまで別々の神社として機能していた様子も窺える。
その証拠に、それぞれ別々に参道、鳥居、神門などが設けられている事が挙げられるだろう。
実際に氏子地域も違っていた。
当社が鎮座していた場所に江戸城普請のため「築土神社」が遷座してきて、そのまま並び立って存続していった姿が分かる史料として貴重である。
当社境内の案内板にもこの様子が記されている。
明治以降の歩み・戦後に築土神社が離れ再建
明治になると神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列している。
牛込筑土八幡町(現・筑土八幡町)など当地周辺の鎮守であった。
明治四十年(1907)、近くにあった「宮比神社」が当社境内に遷座。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲ったのが当社で現在の鎮座地と同じ場所に鎮座しているのが分かる。
「筑土八幡」の文字が記してあり目印になるような神社であった。
昭和二十年(1945)、戦災により社殿など多くが焼失。
隣の「築土神社」も同様に悉く焼失してしまう。
昭和二十一年(1946)、「築土神社」が再建にあたり千代田区富士見へ遷座。
こうして戦後の復興の中で300年以上続く隣に並ぶ形での鎮座の形は終わる事となる。

昭和三十八年(1963)、氏子による寄進もあり当社も再建。
当社の氏子地域(新宿区津久戸町)に本社を置く建設会社・熊谷組によって社殿が造営。
これが現在の社殿となっている。
牛込東部の鎮守であった当社は、現在の筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・ 神楽坂4丁目・神楽坂5丁目・白銀町・袋町・岩戸町の氏神として、地域からの崇敬を集め現在に至っている。
境内案内
高台に鎮座・新宿区最古の石鳥居
最寄駅の飯田橋から北西へ向かうと大久保通り沿いに筑土八幡交差点に鎮座。
石段が続きかつてこの地は筑土山と呼ばれていた小高い丘となっている。
石段の途中には古い石鳥居が立つ。
享保十一年(1726)に常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたもの。
新宿区内最古の石鳥居で新宿区有形文化財に指定。
鳥居を潜ると右手には児童遊園。
この日は近くの園児たちが楽しそうに遊んでいた。
神社の境内や参道脇に児童遊園がある光景は最近減りつつあるが地域の鎮守として素敵な光景。
石段をさらに上ると境内。
戦後に再建された鉄筋コンクリート造社殿
社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたもの。
氏子による寄進の上、当社の氏子地域(新宿区津久戸町)に本社を置く建設会社・熊谷組によって造営された。
戦後間もない再建であるが、氏子や神職によって綺麗に維持されている。
扁額には「筑土八幡神社」の文字。
なお、本殿の裏手は月極駐車場となっている。
境内社の宮比神社
参道右手に境内社の宮比神社が鎮座。
御祭神は宮比神(伊勢神宮正宮の守護神)。
古くから下宮比町の旗本屋敷にあったものを明治四十年(1907)に遷座。
東京大空襲によって焼失してしまったが、昭和三十七年(1962)に再建しさらに平成十四年(2002)にその木材の一部を使い建て直された。
拝殿前に置かれた江戸時代の狛犬・天水桶
拝殿の前に並ぶ狛犬は文化七年(1810)に奉納されたもの。
彫りの深い凛々しい狛犬で首筋のラインが力強く実に良い表情。
江戸尾立ちなど当時の作風を残している。
『江戸名所図会』にも小さく狛犬が描かれているがそこに描かれた狛犬が現存している事になる。
その近くに天水桶。
こちらも江戸時代のものと古い。
文政二年(1819)の文字。
区指定有形文化財の珍しい庚申塔
手水舎の近くにはとても珍しい庚申塔が置かれている。
寛文四年(1664)に作られた古い庚申塔で新宿区指定有形文化財。
最上部に太陽と月をあしらい、桃の木・桃の実・そして二匹の猿をあしらった珍しいもの。
庚申塔というと三猿や青面金剛をあしらったものが一般的なので、こうした姿の庚申塔は見た事がなくとても珍しく大変貴重なもの。
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
その隣には百度石。
明治十五年(1882)に置かれたもので、信仰篤い人々が百度参りした時に使用した。
『金太郎』で知られる作曲家・田村虎蔵の歌碑
参道の左手には筑土八幡町に住んでいた作曲家・田村虎蔵の顕彰歌碑。
歌碑には『金太郎』の冒頭の譜面と歌詞が刻まれている。
鳥居前にも顕彰碑入口の案内碑が建っている。
戦前に活躍した音楽教育家・作曲家。
『金太郎』『花咲爺』『うらしまたろう』などを作曲。
御朱印は社務所前にあるセルフ式
御朱印は社務所前にて。
社務所の右手の台に置かれている由緒書きに挟まれる形で置かれている。
初穂料は頂いていないとの事だがお気持ちを賽銭箱に入れておくのが良いと思う。
現在の御朱印は「筑土八幡神社」の朱印で後は印刷タイプ。
社殿がデザインされた用紙になっていて日付などはセルフ式。
所感
牛込東部の鎮守として崇敬された当社。
江戸時代から戦後までは「築土神社」と並ぶように鎮座し崇敬を集めていた。
東京大空襲によって境内の殆どが焼失し、「築土神社」は再建の際に再び遷座していく事になるのだが、当社はそのまま筑土山と呼ばれた創建の地に鎮座し続け当地周辺の氏神として今も崇敬を集めている。
多くの建造物が焼失した中でも石製の奉納物はしっかりと残っており、古い石鳥居や狛犬、他では見かける事のないとても珍しい庚申塔など当地周辺の古い信仰を感じる事ができる良社。
参道脇には小さな児童遊園があったりと地域の鎮守としての姿を残している。
地域に愛されている良い神社だと思う。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
御朱印
初穂料:なし(志納は賽銭箱へ)
社務所にて。
※社務所の前の由緒書きの中に書き置きが置かれている。(日付はセルフ記入)
※初穂料は不要との事だがお気持ちを賽銭箱へ。
- 現御朱印
- 旧御朱印
参拝情報
参拝日:2025/12/14(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/12/14(御朱印拝受)









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