神社情報
溝口神社(みぞのくちじんじゃ)
御祭神:天照皇大神・日本武尊
社格等:村社
例大祭:9月15日近い土・日曜
所在地:神奈川県川崎市高津区溝口2-25-1
最寄駅:溝の口駅・武蔵溝ノ口駅
公式サイト:http://www.mizonokuchijinjya.org/
御由緒
神社の創立年代は定かではないが、神社保存の棟札によれば、宝永五年(1709年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されており、江戸時代まで神仏習合にて、溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、社名を赤城社と称していた。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、総鎮守として祀るべく新たに伊勢の神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治六年(1873年)幣帛共進指定村社に列せられた。
今日では、伊勢神宮の分霊社として、川崎市内で最も尊い神社の一社として広く信仰を仰いでおり、開運・厄除けをはじめ安産・子育て・縁結び・家内安全の御利益で広く知られております。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2019/06/17(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/03/15(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※兼務社「二子神社」「御嶽神社」「久地神社」「久本神社」「新城神社」の御朱印も頂ける。
※季節や祭事に応じて限定御朱印あり。
御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳用意。
社殿や御神木がデザインされたもの。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
歴史考察
川崎の祈願所・溝口神社
神奈川県川崎市高津区溝口に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧溝口村・溝口宿の鎮守。
古くは「赤城大明神(赤城社)」として創建した神社であったが、明治以後に「伊勢神宮」より御分霊を勧請して御祭神を変更し「溝口神社」に改称して、地域一帯の総鎮守となった。
現在は「安産・子育て・縁結び・家内安全」などの御神徳で知られ、「川崎の祈願所」として親しまれている。
境内には長寿ケヤキなど大木が残る事でも知られている。
古くは赤城大明神として創建・赤城信仰
社伝によると、創建年代は不詳。
宝永五年(1709)、社殿を再建。
当時は「赤城大明神」「赤城社」と称された赤城信仰の神社であった。
上野国(群馬県)の赤城山を神体山として祀る山岳信仰。
群馬県前橋市の山腹に鎮座する「三夜沢赤城神社」、山頂に鎮座する「大洞赤城神社」が総本社に推測され、関東を中心にして約300社の「赤城神社」が存在。
古くは神仏習合の中で発展したが、明治の神仏分離によって仏教色は排除されている。
当社もこうした赤城信仰の神社として創建。
溝口村・溝口宿の総鎮守として崇敬を集めた。
矢倉沢往還(大山道)・溝口宿の総鎮守
江戸時代に入ると、大山詣が流行。
大山(現・神奈川県伊勢原市)に参詣するための矢倉沢往還(大山道)が整備されていく。
溝口村はそうした矢倉沢往還の街道沿いとして発展した。
関東の雨乞い信仰の中心として相模国大山「大山阿夫利神社」(現・神奈川県伊勢原市)へ参詣する事を大山詣と呼び江戸時代に隆盛。
大山まで参詣者が通った古道を「大山道」と呼んだ。
現在の国道246号やその脇道は、古くは「大山道」と呼ばれた街道の1つであった。
江戸時代に整備された街道で、江戸城の赤坂門(赤坂見附)から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、江戸から大山への参詣道として使われた代表的な大山道の1つ。
東海道の脇往還としても機能していた。
寛文九年(1669)、溝口村は対岸の二子村と共に継立場に指定。
休憩施設として利用された溝口宿(みぞのぐちしゅく)が成立した。
当社は溝口村を始めとした溝口宿近在の村々の総鎮守として崇敬を集めた。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(溝口村)
赤城社
字上宿にあり。村の鎮守なり。勧請の年代を知らず。本社二間に三間拝殿二間。石の鳥居を建。共に巽に向ふ。神體は女神男神の二體なり。其さま男神は毘沙門に似たるものにて右手に玉を持つ、女神は辨財天の如き像。例祭は八月十五日。宗隆寺の持なり。村内の社皆同じ。
稲荷社
本社に向て左にあり。中宿の鎮守なり。末社とはいへど自から一社をなす。
番神堂
僅なる堂にて稲荷の並びにあり。
溝口村の「赤城社」として記されているのが当社。
江戸時代の頃は赤城大明神を祀る「赤城社」であった事が分かる。
「村の鎮守なり」とあるように溝口村の鎮守であった。
御神体として記されているのが2体。
毘沙門天に似た男神と、弁財天のような女神だったと云う。
また「稲荷社」と記されているのが、現代も境内社となっている「稲荷神社」。
当社の境内にあったものの中宿の鎮守とされ独立した神社であったと云う。
別当寺は現在も近くにある「宗隆寺」が担っていた。
天保十三年(1842)、社殿を再建。
寛永元年(1848)、拝殿向拝や参道の敷石が完成。
明治の神仏分離・伊勢神宮より勧請して御祭神を変更
明治になり神仏分離。
この神仏分離令によって当社に大きな転機が起こる。
「伊勢神宮」より天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を勧請し、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組を統合)の総鎮守として、社号も「赤城神社」から「溝口神社」へと改称。
社号の改称だけでなく、御祭神の変更という大きな変化となっている。
明治六年(1873)、村社へ列し、神饌幣帛料供進神社に指定された。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって溝口村・二子村・久地村・下作延村・久本村・諏訪河原村・北見方村・坂戸村が合併し、高津村が成立。
当地は高津村溝口となり溝口一帯の総鎮守として崇敬を集めた。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
高津村や溝ノ口といった地名を見る事ができる。
当時はまだ溝の口駅が開業する前だが、街道沿いが既にかなり発展していた事が窺える。
いわゆる矢倉沢往還(大山道)で、総鎮守であった当社と街道によって発展したのが溝口である。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も甚大なる被害を受け社殿は全壊した。
昭和九年(1934)、社殿を再建。
この社殿が改修されつつ現存。
「村社 溝口神社」として紹介されているのが当社。
葺き替えで屋根に違いはあるものの、今とほぼ変わらない社殿。
第二次世界大戦の戦火を免れ社殿が現存している。
戦後になり境内整備が進む。
平成二十五年(2013)-平成二十六年(2014)、境内整備事業(第62回神宮式年遷宮・溝口神社改名140年記念事業)によって、大幅に境内整備が行われた。
参道の整備・御神橋の新築がされ、境内にあった御神木の移植や保護などもされている。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
大山道沿いに鎮座・関東大震災後に再建された鳥居
最寄駅の溝の口駅からは徒歩数分、県道14号(大山道)沿いに鎮座。
県道14号(大山道)沿いに社頭があり、交通量や人の往来が多い立地。
境内に入ると意外と緑が残った参道。
参道には1基の石鳥居。
安政八年(1779)に建立された鳥居であったが、大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊。
大正十五年(1926)に再建されたもので、その旨が銘として残る。
参道途中に一対の狛犬。
どちらも吽になっている狛犬。
子持ちと玉持ち。
参道を進むと途中に神橋。
古くは江戸時代の頃より用水路に架かる神橋があったが、老朽化に伴い平成二十五年(2013)に新たに建立された。
彫刻が美しい手水舎・童子が支える江戸時代の水盤
神橋の先に門があり夜などは閉門される。
開門時間は通常は6時-17時30分まで。(例大祭や正月三が日は開門時間も長くなる)
門を通り右手に手水舎。
社殿と同様に関東大震災で倒壊したものの、昭和二年(1927)に再建。
社殿にも負けず劣らずの美しい彫刻が施されている。
注目すべきは4体の童子が支える水盤。
嘉永六年(1853)に氏子によって奉納されたもの。
当社ではあまり注目していないようだが貴重な水盤。
例えば「菊名神社」(横浜市港北区菊名)では、水盤を支える4体を「がまんさま」と呼び神社のシンボルとして人気を集めていて、当社の水盤もそれに近いものであろう。
関東大震災後に再建された社殿・扁額は東郷平八郎の揮毫
参道正面には立派な社殿。
大正十二年(1923)の関東大震災にて旧社殿は全壊。
昭和九年(1934)に氏子たちの尽力で再建を果たした。
当時の社殿が現存しており彫刻も良い出来。
拝殿に掛けられた扁額は東郷平八郎の揮毫によるもので、直接揮毫し彫刻した貴重なもの。
明治時代、日本海軍の指揮官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献。
日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り、世界屈指の戦力とされていたロシア帝国海軍バルチック艦隊に完全勝利。
「アドミラル東郷」として世界中にその名を広く知られ、国内外で英雄視された。
最終階級は元帥海軍大将、世界三大提督の1人に数えられる。
本殿も同様に再建されたが拝殿や幣殿とは造りが違うのが特徴的。
木造の拝殿に対して土蔵のような蔵造り本殿となっている。
長寿ケヤキ・親子楠・稲荷神社など
社殿の左手にも参拝順路。
先に見えるのが親楠。
推定樹齢300年以上の御神木。
この楠の種子が境内に散布して子楠(後述)が誕生した事から、親楠と呼ばれ「家内安全」の御神徳として崇敬を集めている。
平成二十六年(2014)の境内整備で根周りを養生する整備が行われた。
その奥にあるのが境内社の稲荷神社。
かつては中宿の鎮守として祀られていた「稲荷神社」で、独立した神社であった。
その右手、本殿の裏手に長寿ケヤキ。
推定樹齢500年以上とされる古木。
幹の上部に落雷による損傷が見られるものの、そこに新たに枝葉が芽吹き強い生命力を感じる。
そうした生命力から「長寿ケヤキ」と親しまれ、「子孫繁栄」の御神徳があると云う。
長寿ケヤキの向かいに、垂乳根の銀杏と歯固め塚。
子授け・安産・子育ての御利益があるとして、歯固め石が数多く奉納されている。
社殿の右手、駐車場の付近に子楠。
上述した親楠の種子が基となり成長した楠で平成二十六年(2014)の境内整備で現在地に移された。
他に参道途中に水神宮。
安政三年(1856)の銘が残る小祠。
御朱印・御朱印帳・兼務社5社の御朱印も対応
御朱印は「溝口神社」の朱印。
2016年に頂いたもの、2019年に頂いたもので特に変わりはない。
オリジナルの御朱印帳も用意。
社殿や御神木がデザインされたもの。
他にも本革を使用した御守など様々な授与品を用意しているので頂くのもよいだろう。
所感
溝口村の総鎮守として崇敬を集める当社。
古くは赤城信仰の神社として創建、溝口宿の成立による周辺の発展、神仏習合の社としての崇敬。
そういった歴史から、神仏分離後に現在の当社へと変貌を遂げた。
江戸以前と明治以降では、御祭神など含めガラリと変化した部分もあるようだが、これも神仏分離による当時の時流を感じさせてくれる部分だろう。
色々な変更があっても氏子による崇敬は変わらず、現在も崇敬を集めている事が素晴らしい。
平成の境内整備事業は正にそういった氏子による崇敬の賜物に思う。
溝口の歴史と信仰を伝える良い神社である。
神社画像
[ 社頭 ]
[ 鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 狛犬 ]
[ 百度石 ]
[ 神橋 ]
[ 手水舎 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 参拝順路 ]
[ 親楠 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 神輿庫 ]
[ 顔ハメ看板 ]
[ 垂乳根の銀杏と歯固め塚 ]
[ 長寿ケヤキ ]
[ 神輿庫 ]
[ 子楠 ]
[ 社務所 ]
[ 水神宮 ]
[ 案内板 ]
コメント
先日、市谷亀岡八幡宮の記事でコメントさせて頂きました七緒です。
お返事と早速のご修正ありがとうございます。
本日、溝口神社に参拝しましたら墨書きが変わっていて、朱色で「いのしし」、
そして「川崎の祈祷所 溝口神社」というようになっておりました。
何回も参拝していますが、ここの対応はとても丁寧で気持ちが良く、参拝して良かった!と良い気分になります^^
■七緒様
情報ありがとうございます。
溝口神社は良い神社ですよね。
心地よい境内で対応もよいので素敵な神社です。
たまに通るのですが正月期間などは大変混雑しているのを見かけます。
御朱印について教えて頂いたので少し調べてみましたが、
2年前も同様に朱色で干支、「川崎の祈祷所」と書いてある御朱印もありましたので、
どうも書き手の方によって違う事があるのかなと思います。(神社に確認していないので憶測ですが)
こうした少し大きめの神社は書き手の方によって色々違う事もありますので、
いずれの御朱印もよい御縁として嬉しく思います。
また参拝した際に縁があって教えて下さったものも頂けたらと楽しみにしておきます。