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概要
新橋烏森鎮守のお稲荷さま
東京都港区新橋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、新橋烏森の鎮守。
かつては「烏森稲荷」と称されたお稲荷様。
江戸時代には「柳森神社」「椙森神社」と共に「江戸三森」として崇敬を集めた。
新橋駅近くに鎮座しモダンな鳥居や社殿が特徴的。
近年ではカラフルな御朱印を授与する先駆けの神社として注目を集め、御朱印ブームの火付け役の一社とも云える。
神社情報
烏森神社(からすもりじんじゃ)
御祭神:倉稲魂命・天鈿女命・瓊々杵尊
社格等:村社
例大祭:5月4日-6日
所在地:東京都港区新橋2-15-5
最寄駅:新橋駅
公式サイト:http://karasumorijinja.or.jp/
御由緒
地名の由来
烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は松林でした。
そのため当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていました。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになりました。それが烏森という名の起こりです。明治以降昭和七年まで町名として使われていましたが、その後新橋に改められ、今では新橋駅の烏森口と烏森神社にその名をとどめています。
神社の創始
平安時代の天慶三年(940年)に、東国で平将門が乱を起こしたとき、むかで退治の逸話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢にまた白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げました。そこで桜田村の森まできたところ、夢のとおり烏が群がっていたので、そこに社頭を創建しました。それが、烏森稲荷の起こりであると言われています。
神社の隆昌
明暦の大火(世界三大大火の一つに数えられる、俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となりました。ところが烏森稲荷社だけは不思議にも類焼を免れたので、これは神威の致すところと考えられ、以後、烏森稲荷に対する信仰は日に日に厚くなっていきました。
また、椙森神社(日本橋)柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されています。明治六年にはこれまでの烏森稲荷の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ています。現在の御社殿は昭和四十六年に造営されました。(頒布のリーフレットより)
歴史考察
平将門を討った藤原秀郷による創建
社伝によると、天慶三年(940)に創建と伝わる。
藤原秀郷によって創建されたと云う。
平安時代中期の貴族・武将。
近江三上山に伝わる百足退治伝説で知られ、また平将門を討った人物と伝わる。
末裔は源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として関東圏を支配する多くの武家を輩出した。
天慶二年(939)、東国(関東)にて「平将門の乱」が発生。
天慶三年(940)、平将門討伐のため東国に向かった秀郷が、武蔵国のとある稲荷社で戦勝祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
秀郷はその矢を持って平将門の乱を鎮める事ができたと云う。
同年、秀郷は感謝の証として稲荷社を一社勧請しようと検討。
すると、白羽の矢をを授けた白狐が夢の中に出てきて「神鳥が群がる場所が霊地である」と告げた。
秀郷が当地の森まで来たところ、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建。
これが当社の始まりであると云う。
元暦元年(1184)、藤原秀郷の子孫にあたる下河辺行平が当社に祈願。
弓道の奥儀を究め、その礼として社殿を修理し鰐口を奉納。
このように古くから秀郷ゆかりの神社であった事が伝わっている。
烏森の由来・烏森稲荷と称される
現在の新橋周辺は、かつて武蔵国の桜田村と呼ばれていた地域。
海が今よりも近く当地周辺は江戸湾の砂浜であった。
当時の入江の様子をGoogle Mapsに重ねてみると以下のようになる。
現在の東京駅と皇居の間まで海が食い込んでいたとされる。
半島のように伸びていたのが「江戸前島」と呼ばれた一画で、この先端が現在の銀座。
当社はこの海岸沿いの砂浜に鎮座していた。
当地一帯には松林があり、その事から「枯州(かれす)の森」とも「空州(からす)の森」と呼ばれていたと云う。
また、烏が多く集まって巣を作っていた事から、いつしか転じて「烏の森」と呼ばれるようなったと云い、これが「烏森」の由来だと伝わる。
そうした烏森の地に、稲荷社が創建。
当社は「烏森稲荷」と呼ばれ、地域からの崇敬を集めた。
初代古河公方・足利成氏の祈願状が奉納
享徳四年(1455)、古河公方と呼ばれた足利成氏が当社に戦勝祈願。
祈願状は当社の社宝として現存しており、港区指定文化財となっている。
室町時代から戦国時代の武将。
第五代鎌倉公方であり、初代古河公方。
補佐役である関東管領、さらに室町幕府と対立し、30年近く断続的に続いた「享徳の乱」が発生、関東における戦国時代の遠因となった。
『足利成氏文書』にはこう記されている。
稲荷大明神神願書事
今度発向所願悉有成就者当社可遂修造願書之状
如件
享徳四年正月五日
左兵衛督源朝臣成氏
祈願状の主である足利成氏は第五代鎌倉公方。
室町幕府が関東十か国における出先機関として設置した鎌倉府の長官。
実質的に関東を支配し、代々足利氏が役割を担った。
成氏は、鎌倉公方の補佐役である関東管領や室町幕府と対立。
享徳三年(1454)、関東管領・上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。
これが「享徳の乱」として、以後約30年間もの戦乱が続く事となり、関東における戦国時代の遠因となった。
当社に祈願した約15日後、成氏は「武蔵分倍河原の戦い」にて、上杉憲秋・上杉顕房を戦死させ勝利を収めている。
この祈願状通りであるのならば、成氏によって当社の社殿修造も行われたのであろう。
後に成氏は下総国古河に入り古河城を居城としたため、古河公方と呼ばれるようになる。
鎌倉公方であった足利成氏が鎌倉から下総国古河(現・茨城県古河市)に本拠を移した事で古河公方と呼ばれ、その後も約130年間、関東足利氏として継続。
中世にも、こうして実質的に関東を支配していた鎌倉公方・古河公方が祈願状を残している事からも、古くから庶民だけでなく武家の崇敬を集めてたいた事が窺える。
明暦の大火の類焼を免れ徳川将軍家からの崇敬
天正十八年(1590)、徳川家康が関東移封によって江戸入り。
江戸の開発が進むと、当地周辺は早くから御府内(江戸市街地)に編入。
武家屋敷と町屋が設けられ発展していく事となる。
明暦三年(1657)、「明暦の大火」が発生。
江戸の大半を焼失させた大火事で、振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
江戸三大火の1つで、その中でも江戸時代最大の延焼面積・死者が発生。
江戸城の天守閣を含む、江戸市中の大半が焼失し、この明暦の大火を機に、江戸の都市改造が行われる事となった。
当社の周辺も壊滅的に焼けてしまうが、当社だけは不思議と類焼を免れており、これは神威の致すところと考えられ江戸市中で大いに崇敬を集めていく。
くろやきになるべき烏森なれど やけぬは神のいとく成りけり
万治元年(1658)、こうした神威が第四代将軍・徳川家綱の耳に達する。
家綱は社地250坪を当社に寄進。
宝永六年(1709)、第六代将軍・徳川家宣が立願成就のお礼として御戸張を寄進。
また御子息の無病息災の御祈願もしている。
仏像・御神体などを安置した厨子(ずし)などの上にかける美しい布で作られた覆い。
こうして徳川将軍家からも篤い崇敬を受けただけでなく、武家や江戸庶民からも篤い崇敬を集め、「柳森神社」「椙森神社」と共に「江戸三森」の一社と称された。
稲荷番付で東の関脇に・江戸切絵図から見る烏森稲荷
江戸の地誌にも芝愛宕下久保町の「鳥森稲荷」として度々登場している。
天保五年(1834)に成立した『祠曹雑識(しそうざっしき)』によれば、100社程の稲荷番附の中で、烏森稲荷は「東の関脇」に位置づけられており、江戸の稲荷社の中でも特に崇敬を集めた事が分かる。
江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。
こちらは江戸後期の愛宕下周辺の切絵図。
現在の新橋周辺はやや北に位置している。
赤円で囲ったのが当社で、今と場所も変わらず「烏森稲荷」と記されている。
青円で囲ったのが新橋で、当地より北西に架かっており、現在の銀座側が新橋地区と呼ばれていて、当社は芝愛宕下久保町と呼ばれていた。
地域の殆どが大名屋敷・武家屋敷になっており、当社の右手には橙円で囲った「日比谷神社」も見える。(緑円で囲ったのは「愛宕神社」)
当社の別当寺は「快長院」(現・廃寺)であった。
社地としては広いものではないが、稲荷番附の中で「東の関脇」に位置づけられたように、大いに崇敬を集めた。
江戸名所図会に描かれた烏森稲荷社
天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。
「烏森稲荷社」として描かれている。
鳥居と立派な社殿を有していた事が分かり、現在とは社殿も鳥居も違うものの、境内の配置などは当時とかなり酷似している。
参詣する人の様子が描かれているように、当時から絶える事なく参詣者が訪れたのであろう。
当時の祭礼は、稲荷信仰に従って初午に行われた。
2月最初の午の日。
稲荷信仰の総本社である京都「伏見稲荷神社」の御祭神が伊奈利山へ降りた日が初午であった事から、稲荷信仰の神社では例祭とされる事が多い。
幸橋御内外、二葉町海岸の旅所に神輿の神幸があり、氏子町は山車踊り、練物等を出し、稲荷祭としてその賑わいは江戸で1、2を争う程であったと伝えられている。
明治以降の歩み・戦後になりモダンな社殿造営
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
同年、日本初の鉄道路線の起点として新橋駅(後の汐留駅)が開業。
同時に武家屋敷の多かった当社周辺が、新たに烏森町として成立。
明治六年(1873)、「烏森稲荷社」から現在の「烏森神社」に改称。
新橋烏森の鎮守として崇敬を集めた。
明治四十二年(1909)、鉄道院の烏森駅(後の新橋駅)が開業。
烏森駅は同年開業した現在の山手線に相当する電車専用駅であった。
新橋駅は別に開業していて今とは別の場所(汐留)にあった。
大正三年(1914)、東京駅開業により、新橋駅(初代)を汐留駅に改称し、烏森駅を新橋駅(2代目)に改称。
明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
地図上に「烏森町」という町名を見る事ができ、更に駅名も「からすもり」駅であった。
烏森は当地の古い地名であるが、鎮守であった当社から付けられたとも云える。
大正三年(1914)、烏森駅が現在の新橋駅に改称。
「烏森神社」として、当時の写真が記録されている。
翌年の関東大震災で焼失する前の貴重な境内の様子となっている。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
新橋地区は焦土と化し、当社も焼失してしまったが、すぐに再建。
再建にあたって社地も削られており、現在の社地となった。
昭和七年(1932)、震災復興で大規模な町名整理が行われ、烏森町など多くの町名が消滅し、新たに新橋1丁目から7丁目が成立。
町名として新橋が登場するのはこの時が最初であり、これが現在の新橋に繋がっていく。
昭和四十六年(1971)、現在のモダンな社殿を造営。
昭和五十二年(1977)、社務所が新設されている。
平成二十年(2008)前後より、四隅に四色の神紋を押したカラフルな御朱印を用意するようになっており、現在の御朱印ブームの先駆けとも云えるだろう。
現在も限定御朱印など含め、豊富な授与品など人気の高い神社となっている。
境内案内
新橋駅烏森口を出てすぐ・新橋の飲み屋街に鎮座
新橋駅烏森口から徒歩ですぐの距離に鎮座。
飲み屋街の路地が参道。
木製の一之鳥居があり、参道の両脇は祭事などの会場にもなる。
参道途中、左手に2018年秋にオープンした飲食店「烏森百薬」。
以前は甘味処があった場所だが、現在は昼はカフェ、夜は飲み屋として楽しめるお店がオープンしている。
モダンなデザインの二之鳥居・手水舎
路地の参道を抜けると独特なデザインの二之鳥居。
平成五年(1993)に建てられた鉄筋コンクリート製の鳥居。
モダンな近代建築の様式でとても個性的。
鳥居の右手にこれまた独特な手水舎。
柄杓はなくかけ流しになっている。
個性的な近代建築コンクリート社殿
社殿も実に個性的なデザイン。
昭和四十六年(1971)に造営された鉄筋コンクリート造の社殿。
狭い社地なりの工夫と面白い意匠による社殿でとてもユニークな造り。
二之鳥居と共に当社の特徴と云えるモダンな社殿となっている。
建築家である郡菊夫氏によるデザイン。
力石や木遣塚といった江戸時代の奉納物
社殿の手前には一対の狛犬。
阿吽の岡崎現代型で比較的新しいもの。
無個性と云われがちな岡崎現代型の中でも個性のある良いデザイン。
社殿の手前、境内の一画には力石。
「五拾貫余 汐留兵吉 車屋英治 芝土橋久太郎」の文字を見る事ができ、力比べて使ったもの。
その奥に「きやり塚」と記された木遣塚。
江戸時代の町火消し「め組」一番組が奉納したものと伝わり、当社は明暦の大火を免れた事から火伏せの神として、町火消しからの崇敬が篤かった事が窺える。
江戸城普請の時に歌い始めた木遣節(きやりぶし)を後世に伝えるために建てたもの。
江戸町内の神社に多く奉納され、今も各地で見かける事ができる。
カラフル御朱印の先駆け・祭事に応じた限定御朱印
御朱印は社殿左手の授与所にて。
手前と奥に授与所の窓口があり、時期によっては御朱印の対応場所が変わるので尋ねるのがよいだろう。
また限定御朱印も多く用意しているのが特徴。
新春・節分祭・ひなまつり・初午祭・例大祭(本祭・蔭祭)・夏越大祓・七夕まつり・新橋こいち祭・新嘗祭・年越大祓など、それぞれの時期によって限定御朱印を授与。
特にひな祭り時は大変人気があり2016年は行列が警察が出動したりニュースになるほど。
2018年のひなまつり御朱印は行列回避のため書き置きのみとなり様々な施策が行われた。
2020年のひなまつり御朱印はデザインも若干変更。
2021年のひなまつり御朱印は2020年のデザインを踏襲しているが疫病退散のアマビエを押印。
お内裏様がソーシャルディスタンスとなっていて辛いコロナ禍においてもちょっとした遊び心。
こちらは2022年のひなまつり御朱印。(2023年や2024年も同様)
こちらは2019年正月の御朱印。
新春特別御朱印として金印での授与。
こちらは平成最後の御朱印である「平成結び詣り特別御朱印」。
左が箔押し加工された践祚改元奉祝御朱印で、右が七夕まつり御朱印。
令和大嘗祭奉祝特別御朱印と一緒に頂いた献上米の白米と古代米。
2021年の節分の御朱印。
2021年は124年ぶりに2月2日が節分となった。
2021年夏越大祓御朱印。
涼し気な色合い。
三つ巴紋にひっそりと可愛らしいアマビエの姿も。
2021年七夕まつりの御朱印で御守はこい吉仕様。
こちらも社紋にこっそりアマビエの姿。
2021年7月20日からは五輪イヤーらしい富貴繁栄祈念御朱印を授与。
東京五輪の無事開催と、コロナ終息、日本が豊かに繁栄するように祈願した御朱印で、五輪カラー仕様。
2022年の例大祭特別御朱印。
コロナ禍で神輿渡御は中止となったが箔押しの御朱印。
2023年の正月特別祈願御朱印。
箔押し仕様の御朱印になっていて無病息災・良縁・金運・仕事・健康の御祈願をした特別御朱印。
2024年1月に頂いた御朱印。
新春開運祈願御朱印と干支御朱印。
本社神輿渡御御朱印と例大祭御朱印。
2024年5月5日に6年ぶりの本社神輿渡御が行われ、それを祝した特別な御朱印。
御朱印情報など最新情報や詳細は公式サイトかこい吉Twitterで確認するのが良い。
烏紋の御朱印帳・限定の黒朱印帳
オリジナルの御朱印帳も用意。
黒を基調に表面には紫の烏紋の刺繍の御朱印帳。
令和二年(2020)10月22日より「立皇嗣の礼記念」の黒朱印帳を限定数で頒布。
通常は紫の烏紋の刺繍となっているが、こちらは黒の烏紋の刺繍。
宮中では最も高貴でかつお目出度い色とされる黒を使用。
1ページ目には手書きの立皇嗣の礼奉祝記念御朱印。
おみくじと一緒に願掛け「心願色みくじ」
社殿右手には当社オリジナルの「心願色みくじ」の結び処。
おみくじと一緒に願掛けができるというもので、こちらも人気が高い。
なお、御朱印と共に心願色みくじを頂くと、透かし印が入った御朱印となる。
心願色祈願の透かし印と特別授与品が頂けるので、合わせて頂く方も多い。
御朱印と同じデザインのシール「朱印護符」
他にも数多くの授与品を用意しているのが特徴。
御守など人気が高く御利益があるとして頂く方も多い。
最近では当社の御朱印をデザインした朱印護符(初穂料:600円)というシール型の御守も用意。
各限定御朱印と同期間の授与となる。
可愛らしいシール型の御朱印がデザインされた朱印護符。
御朱印と大きさを見比べてみると可愛さがよく分かる。
御朱印と同様に朱印護符も特別御朱印と同じタイミングで限定のものが授与され人気となっている。
ひなまつり御朱印が新しいデザインとなったが、朱印護符も同じデザインで対応。
例大祭と夏越大祓の朱印護符も特別御朱印と全く同じデザイン。
立皇嗣の礼も同じデザインで可愛らしい。
令和三年(2021)の節分は124年ぶりに2月2日になったため、朱印護符の日付も2月2日に。
千貫神輿と呼ばれる大神輿は隔年で渡御・2024年は6年ぶりに復活
当社の例大祭は5月5日に行われる。
当社と共に新橋の鎮守に「日比谷神社」があり、例大祭は当社と交互に隔年で行われる。
当社の本社神輿は巨大な大神輿。
八つ棟型の大神輿は通称・千貫神輿と呼ばれる。
昭和五年(1930)に名人・山本正太郎(通称・だし鉄)によって作られた巨大な神輿。
だし鉄の最高作とも云われ、新橋駅前を宮出とし氏子町会を渡御する。
正月などには神輿庫での展示でその姿を見る事ができる。
美しく素晴らしい神輿。
こちらは初午祭でお披露目されていた御神輿。
美しくも神々しい。
当社の神輿渡御が行われる本祭は西暦の偶数年と覚えるのがよい。
令和四年(2022)が神輿渡御が行われる本祭となっていた。
※新型コロナウイルスの影響で令和二年(2020)に続き令和四年(2022)の神輿渡御も残念ながら中止。
コロナ禍で中止が続いたため本社神輿渡御が行われるのは6年ぶり。
新橋の夏の風物詩・新橋こいち祭
当社が鎮守する新橋では毎年7月下旬に「新橋こいち祭」を開催。
こちらは2024年のポスター。
新橋夏の風物詩。
SL広場。
開催直前の様子。
様々な出店が出て盆踊り大会や浴衣美人コンテンスなどが行われる。
当社でもこいち祭仕様の御朱印の授与が行われ、公式マスコットのこい吉も各地を訪れる。
所感
新橋烏森の鎮守である当社。
藤原秀郷による創建という古い歴史をもつお稲荷様で、江戸時代の頃には江戸庶民から人気の高い稲荷神社として崇敬を集めていた。
そして今もなお高い人気があり、特に御朱印を集印する人からは高い知名度を誇っている。
カラフル御朱印の先駆けとも云え、御朱印ブームの一端を担っているのは間違いなく、授与品なども含めて、そうした神社側の努力が、現代の人気と崇敬にも繋がっているのだろう。
現在は大変狭い境内ではあるが、個性的な社殿や鳥居などがとても面白い神社であり、神社側の努力を感じる良い神社だと思う。
御朱印画像一覧・御朱印情報
御朱印
初穂料:500円
授与所にて。
※御朱印を拝受すると御守・幸飴なども授与して頂ける。
※新春・節分祭・ひなまつり・初午祭・例大祭(本祭・蔭祭)・夏越大祓・七夕まつり・新橋こいち祭・新嘗祭・年越大祓など、それぞれの時期によって限定御朱印あり。
御朱印帳
黒朱印帳(立皇嗣の礼記念)
初穂料:2,000円(御朱印代込)
授与所にて。
「立皇嗣の礼記念」の限定御朱印帳。
通常のオリジナル御朱印帳は黒を基調に表面には紫の烏紋の刺繍となっているが、こちらは黒の烏紋の刺繍となっていて、宮中では最も高貴でかつお目出度い色とされる黒を使用。
最初のページに手書きの「立皇嗣の礼奉祝記念御朱印」入り。
令和二年(2020)10月22日より限定数での頒布。
オリジナル御朱印帳
初穂料:2,000円(御朱印代込)
授与所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
黒を基調に表面には紫の烏紋の刺繍。
裏面には金の社紋をデザインしている。
※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。
授与品・頒布品
朱印護符
初穂料:各600円
授与所にて。
※御朱印をデザインしたシール型の朱印護符。
※特別御朱印に合わせて特別御朱印使用の朱印護符も用意。
茅の輪守り
初穂料:1,000円
授与所にて。
※夏越大祓や年越大祓の期間に授与の茅の輪守り。
※2022年は夏越大祓特別御朱印と一緒に頂いた場合は護符も頂けた。
※2022年は夏越大祓特別御朱印と一緒に頂いた場合はアマビエ符も頂けた。
各種御守・撤饌
初穂料:─
授与所にて。
※御朱印を頂いた際に御守や撤饌を頂ける。
参拝情報
参拝日:2024/12/13(御朱印拝受)
参拝日:2024/07/25(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2024/06/11(御朱印拝受)
参拝日:2024/04/10(御朱印拝受)
参拝日:2024/02/26(御朱印拝受)
参拝日:2024/01/10(御朱印拝受)
参拝日:2023/11/09(御朱印拝受)
参拝日:2023/07/30(御朱印拝受)
参拝日:2023/06/06(御朱印拝受)
参拝日:2023/04/22(御朱印拝受)
参拝日:2023/02/27(御朱印拝受)
参拝日:2023/01/20(御朱印拝受)
参拝日:2022/11/22(御朱印拝受)
参拝日:2022/06/13(御朱印拝受)
参拝日:2022/04/14(御朱印拝受)
参拝日:2022/02/25(御朱印拝受)
参拝日:2022/01/13(御朱印拝受)
参拝日:2021/12/09(御朱印拝受)
参拝日:2021/07/20(御朱印拝受)
参拝日:2021/07/07(御朱印拝受)
参拝日:2021/06/17(御朱印拝受)
参拝日:2021/04/26(御朱印拝受)
参拝日:2021/03/23(御朱印拝受)
参拝日:2021/03/03(御朱印拝受)
参拝日:2021/02/02(御朱印拝受)
参拝日:2021/01/04(御朱印拝受)
参拝日:2020/12/10(御朱印拝受)
参拝日:2020/10/22(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2020/06/15(御朱印拝受)
参拝日:2020/02/28(御朱印拝受)
参拝日:2020/01/03(御朱印拝受)
参拝日:2019/10/18(御朱印拝受)
参拝日:2019/07/02(御朱印拝受)
参拝日:2019/04/28(御朱印拝受)
参拝日:2019/01/07(御朱印拝受)
参拝日:2018/03/02(御朱印拝受)
参拝日:2016/11/15(御朱印拝受)
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