神社情報
有鹿神社(あるかじんじゃ)
御祭神:有鹿比古命・有鹿比女命
社格等:延喜式内社(小社)・相模国五之宮(伝)・県社の後に郷社
例大祭:7月14日(例大祭)、4月8日・6月14日・12月20日(水引祭)
所在地(本宮):神奈川県海老名市上郷1-4-41
所在地(中宮):神奈川県海老名市上郷1-12-18
所在地(奥宮):神奈川県相模原市南区磯部1780勝坂遺跡付近
最寄駅:海老名駅・厚木駅(本宮・中宮)、下溝駅・相武台下駅(奥宮)
公式サイト:https://www.arukajinja.jp/
御由緒
相模国の中原(チュウゲン)に位置する有鹿郷(現在の海老名市)の誕生と発展を物語る「総産土神」(ソウウブスナガミ)であり、神奈川県で最古の神社である。
生成期
太古の昔、相模の土地は海底にあったが、次第に隆起し、森林を中心とした緑なす大地が形成された。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、水神として、人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川に沿って、農耕生活が発展し、有鹿郷という楽園が成立した。この郷の水田(海老名耕地)における農耕の豊穣と安全を祈って、「水引祭」が起り、有鹿神社はご創建されるに至った。
発展期
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、有鹿郷の中心に国府がおかれていた。国府の守護をする神社として有鹿神社は、霊験あらたかな神社であり、天智天皇三年(664)、国家的な祭礼を行い、また、延長五年(927)、延喜式の制定により、式内社に列せられた。広大な境内には美麗な社殿が建立されており、また、天平勝宝八年(756)、郷司の藤原廣政の寄進により、海老名耕地五百町歩が神領となった。
変動期
有鹿神社は、貞観十一年(869)十一月十九日、従五位に昇階し、数次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。平安末期から室町中期まで、海老名氏と地名を名乗る武士団は、海老名耕地を支配するよりどころとして、有鹿神社を崇敬し、そのご神威にあたる国庁跡に居館をかまえていた。
応永二十三年(1416)、海老名備中守持季(出家の後、宝樹沙弥)は、社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度にわたる兵乱の災いを蒙り、海老名氏は滅亡し、有鹿神社も、美麗な社殿をはじめ、ことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪された。
再生期
天正三年(1575)、海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復興し、相模国五之宮、海老名郷総鎮守として、海老名郷に属する上郷、河原口、中新田、社家、中野等の人々から崇敬されていた。天正十九年(1591)、徳川家康より、朱印十石の寄進を受け、また元和八年(1622)、海老名郷の領主高木主水の内室により社殿が再建された。
新生期
明治六年(1873)、有鹿神社は、県社に列せられたが、海老名の総鎮守として郷社にとどまり、同四十三年(1910)、神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦の後、宗教法人として、神社本庁の傘下に属する。氏子・崇敬社の崇敬心が篤く、宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、手水舎の再建、天神社の創建、社務所の新築、玉垣の築造、社殿扉の修理、中宮祠の再建等、次々と境内・建物等の整備が進められた。有鹿神社は、現在も、海老名市はもとより、神奈川県の要(へそ)として、人々から篤い崇敬を受け続けている。(頒布のリーフレットより)
参拝情報
参拝日:2016/11/04(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/11(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※2016年10月下旬より御朱印が「相州鎮護 古一之宮 有鹿神社」に変更となった。
※鹿の判子を希望の場合は申し付け下さいとの事。(詳細:禰宜Twitter)
※2017年4月8日の水引祭参列者に水引祭特別御朱印を授与。(詳細:禰宜Twitter)
※以降は奥宮の御朱印(奥宮にも必ず参拝すること)も用意している。(詳細:禰宜Twitter)
授与品・頒布品
平成二十八丙申年 有鹿本暦
初穂料:─
社務所にて。
御朱印を拝受した際にご由緒書などと共に頂いた。
歴史考察
神奈川県最古と伝わる海老名総鎮守
神奈川県海老名市上郷に鎮座する神社。
延喜式神名帳に記載された相模国十三社のうちの一社・延喜式内社(小社)。
旧社格は県社の後に郷社で、海老名の総鎮守。
神奈川県(相模国)最古の神社と伝わる。
本宮(海老名市上郷)・中宮(海老名市上郷)・奥宮(相模市南区磯部)の三社からなる。
かつて正一位・有鹿大明神と称される御祭神で、今も「おあるかさま」と呼ばれる。
有鹿の信仰・水引祭・縄文時代の勝坂遺跡
当社の社号である「有鹿(あるか)」とは、古代語の「水」を意味すると当社に伝わる。
奥宮が鎮座する地域(現在の相模市南区磯部)は、縄文時代より有鹿谷と呼ばれ、その豊かな泉は水神として信仰対象とであった。
その泉に流れ落ちる鳩川沿いに形成された地域を有鹿郷と云い、この地に人々が定住するようになると、この地の豊穣と安全を祈って「水引祭」が行われ、それと共に当社が創建されたと伝わる。
当社の御神体は、奥宮の近く有鹿谷の泉湧く洞窟とされている。
現在もその一部はこうして鳥居が用意され、古来信仰の対象だった事が窺える。
創建の地である「奥宮」が鎮座する有鹿谷は、国の史跡に指定されている勝坂遺跡のエリア内であり、勝坂遺跡は縄文時代中期前半頃(約5000年前)の大集落跡の遺跡。
こうした勝坂遺跡エリアにある「奥宮」周辺では、銅鏡、鉄鏡、勾玉などが出土しているため、縄文時代から祭祀が行われていたと推測される。
また「本宮」がある海老名市上郷の地(本宮と奥宮の距離は約6km)からも、本宮境内のすぐ裏手より弥生時代の祭器・土器などが出土しており、この頃には「本宮」でも祭祀が行われていた事が分かる。
縄文時代から弥生時代にかけて、かなり広い地域の祭祀圏を持った信仰があったのだろう。
鳩川流域を祭祀圏とした広大な神域・古一之宮
地理を見ていくと、当時の当社の祭祀圏を推測する事ができる。
「本宮」は、鳩川の相模川への流入口域にある。
「中宮」は、「奥宮」と「本宮」の中間地点の座間市入谷の「諏訪明神社」が鎮座する辺りにあったとされる。(現在は「本宮」のすぐ近くにある)
このように縄文から弥生にかけて、鳩川流域を祭祀圏とした、直径にして6km以上ものかなり広大な勢力を誇った神社となっていたと推測できる。
延喜式内社として朝廷にまで知られる大社
相模川沿いには相武国造(さがむのくにのみやつこ)と呼ばれる相模国東部を支配した国造がいた。
高座郡(現在の海老名市付近)には、相模国の国府が置かれていたとされ、海老名市国分付近に相模国分寺があった。
当社はそうした海老名周辺の鎮守でもあり、当社の力を感じさせてくれる。
天智天皇三年(664)、国家的な祭礼を行った記録がある。
天平勝宝八年(756)、郷司の藤原廣政により、五百町歩が寄進され神領となる。
貞観十一年(869)、『三代実録』には、従五位上を授けられると記されている。
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』には「有鹿神社」として記載。
この事から延喜式内社とされ、相模国には計13社の式内社があり、そのため「式内十三座」とも「延喜式内相模十三社」とも呼ばれ、当社はそのうちの一社である。
「本宮」の社殿裏には「相模国十三座」といった碑が今も残っている。
このように古くから朝廷にまで名が知られた大社であった事が分かる。
最高位を賜る繁栄の絶頂期・海老名氏の崇敬
鎌倉時代になると、永徳元年(1381)に、最高位である正一位を朝廷より賜る。
当時の正一位は大変珍しいもので、最高位まで昇りつめた事から、当時の当社が相当な力を持っていた事が分かる。
特に当社の御祭神は、有鹿比古命・有鹿比女命の二柱で「有鹿大明神」とも呼ばれる神であり、『古事記』『日本書紀』にはその名が見えない事からも、朝廷の系譜ではなく、この地の土着の神なのが分かる。
こうした神が正一位となるのは、それだけ当社が崇敬篤く力を有していた証拠とも云えるだろう。
この時期の社殿は実に美麗で素晴らしいものだったと伝わる。
特にこの地を支配していた海老名氏(鎌倉幕府の重鎮)が、当社を崇敬し庇護したため、大いに栄えたという。
当社の神宮寺である「総持院」(海老名市河原口3)と合わせ、十二の坊舎が甍を並べ、蒼々たる大境内を誇っていたとされる。
一説には当時は「相模国五之宮」とされていたとも云われており、その繁栄を偲ぶ事ができる。
鎌倉幕府と海老名氏の滅亡・衰退と荒廃
元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡。
この時に当社も新田義貞軍による兵火の災いを受け、美麗を極めた社殿や文書などことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪されている。
この時代の相模国の神社は当社だけでなく、一之宮の「寒川神社」なども含めて、いずれも荒廃の一途を辿っている。
永享十年(1438)、永享の乱が発生。
関東管領の足利持氏は当社近くの「宝樹寺」に本陣を置き、幕府軍と戦ったものの、敗走しており、この戦いでこの地を治めていた海老名氏も滅亡。
当社は再び戦火を被る事となり、衰退の一途を辿る事となる。
以後、かなり荒廃していた様子で記録も途絶えている。
水引祭の復活・海老名総鎮守として当社の再興
天正三年(1575)、当社の起源ともなった「水引祭」が復活。
それと共に当社も少しずつ復興していく事になる。
この頃は、後北条氏(小田原北条氏)が相模国周辺を支配し、比較的情勢が安定していた事にもよるのであろう。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡。
同年、徳川家康が関東への領地替え(関東移封)によって江戸入りする事となる。
天正十九年(1591)、徳川家康より10石の朱印地を賜る。
元和八年(1622)、海老名郷の領主となっていた高木主水の内室により社殿が再建。
この頃に再興を果たしたと云えるであろう。
以後、海老名鎮守として崇敬を集めた。
天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。
(河原口村)
有鹿(阿利加)神社
式内郡中小社五座の一なり。(延喜式神名帳に高座郡小五座、有鹿神社と見ゆ。)鎮座の年代を傳えす。清和帝の御宇、貞観十一年十一月、神階を從五位上に進めらる。(三代実録曰、貞観十一年一月十九日壬申、授相模國従五位下有鹿神社従五位上。)社藏に永和の古縁起、天正の續縁起あり。(共に其頃の物とは見えず。)古縁起に、祭神は大日靈なり。天平勝寶六年八月、郷士藤原廣政と云者、夢兆に因て、神祠を修整す。同八年九月、墾田五百町を、神供料に充られし由を載す。續縁起に、天正三年四月、別當總持院現住慶雄、夢中に神靈の告ありて、神祠の東北池中に於て、石一顆を覔得たり。此を神躰と崇奉すと云ふ。(社内にあり、淡黒色にして高五寸周回九寸あり。)今海老名郷五村の總鎭守なり。祭禮年々四月八日、神輿を昇て、村北磯部村内、勝坂(二里を隔つ。)と云所に到る。此地に洞あり。有鹿谷と呼ふ。爰に神輿を駐て、神事を修し、六月十四日、歸座するを例とす。別當は總持院なり。
鐘樓。元禄二年、再鑄の鐘を掛く。(応永二十四年の古鐘ありしが、破裂すと云ふ。)
末社。諏訪。稲荷。山王合社。
碑。門前に立つ。當國十三座之内有鹿神社と彫る。
河原口村に鎮座する「有鹿神社」とある。
上述したような中世の歴史などが記されており、海老名郷5か村の総鎮守であった。
当時も例祭になると神輿を「奥宮」のある勝坂まで担いでいたようで、縄文時代から続く「水引祭」が復活し、続けられていたものである。
別当寺(神宮寺)は「総持院」(海老名市河原口3)であった。
明治以降と戦後の境内整備
明治になり神仏分離。
別当寺(神宮寺)であった「総持院」と分離。
明治六年(1873)、県社に列したものの最終的には郷社となっている。
明治二十二年(1889)、高座郡の上郷村・河原口村・中新田村・上今泉村・下今泉村・国分村・望地村・柏ヶ谷村・大谷村 が合併し海老名村が成立。
当社はそうした地域一帯の総鎮守であった。
明治四十三年(1910)、神饌幣帛料供進社に指定されている。
戦後になり、宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、手水舎の再建、天神社の創建、社務所の新築、玉垣の築造、社殿扉の修理、中宮祠の再建等、次々と境内・建物等の整備が進められた。
平成四年(1992)には、本殿と拝殿天井龍の絵図が海老名市の有形文化財に指定されている。
境内案内
本宮は神奈川県のへそに鎮座
「本宮」は、「神奈川県のへそ(中心)」に鎮座している。
最寄駅は海老名駅もしくは厚木駅で、どちらの駅からもやや距離がある。
鳥居を潜ると右手に綺麗な欅根花壇。
その隣に新しい手水舎が置かれている。
平成二十三年(2011)の台風にて倒壊したものの、同年再建された。
境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」とも云われる。
これは大蛇と化したお有鹿様が大角豆(ささげ)の梢で目に傷を負ったために、これを作らず使わず、という伝承に由来している。
社殿は大きなものではないが、長年手入れをされて大切にされているのが伝わる。
拝殿天井龍の絵図は、海老名市の有形文化財に指定。
万延元年(1860)に、藤原隆秀(近藤如水)が描いたものだそう。
本殿は元和八年(1622)の再建以来、幾度もの修理を経て現存しているもの。
こちらは覆殿になっているようで、社殿の内部にその本殿があるようだ。
筆者は昇殿していないため、下記の海老名市観光情報サイトに本殿や拝殿天井龍絵図が掲載されているので、そちらをご覧いただきたい。
鐘楼は昭和五十三年(1978)に再建されたもの。
神仏習合時代を思わせてくれる存在で、不思議と海老名や座間あたりには鐘樓が今も置かれている神社が多い。
境内社は、社殿裏手に三社様と総称される日枝社・稲荷社・諏訪社の末社。
境内右手には有鹿天神社が鎮座。
鎌倉時代の武将・海老名源八季貞の旧館跡から新築遷座された。
御朱印は社務所にて。
2016年10月下旬より御朱印が「相州鎮護 古一之宮 有鹿神社」に変更となった。
鹿の判子を希望の場合は申し付け下さいとの事。
境外社に有鹿の井戸・中宮に有鹿の池
「本宮」の近くに、境外摂社が二社鎮座。
東側には「三王三柱神社」。
この摂社には「有鹿の井戸」があり、霊石をこの井戸で洗い清めて当社の御神体にしたという伝承が残っている。
南西側には「神武社」が鎮座している。
「三王三柱神社」から更に少し東へ移動すると「中宮」が鎮座。
この「中宮」は「有鹿の池」と呼ばれている。
現在は水が張られていないのだが、小さい池と神橋、小祠、鳥居がある。
この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承が残っている。
中宮に纏わる有鹿神と鈴鹿神の争いの伝承
この「中宮」だが、創建時はここまで「本宮」寄りではなく、「本宮」と「奥宮」の中間に位置していた事は、上述の地理関係の項目で触れた通り。
そうした「中宮」が、現在の位置に遷座するのには、面白い伝承が残っている。
当社の御由緒には載っていないのだが、元々「中宮」があったとされる位置に鎮座する「諏訪明神社」と、その近くに鎮座する「鈴鹿明神社」の古い縁起に、有鹿神と鈴鹿神が争ったと記されている。
有鹿神と鈴鹿神の争いの際に、諏訪明神と弁財天が鈴鹿神に加勢。
これによって鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷(当地)に追いやられたという伝承。
鳩川流域を祭祀圏とした現在でいう海老名市・座間市・相模市の一部を有する広大な神域であったのは間違いがない。
その後、座間市周辺に新たな一族がやってきて(鈴鹿神の名から伊勢国から移住した一族と思われる)、彼らがお祀りする鈴鹿神との間に、争いが起こったのではないだろうか。
「水引祭」からくる、鳩川の水の利用権での争いもあったと思われる。
その結果、「中宮」は上郷に追いやられ、「本宮」の近くに遷座させたのだろう。
有鹿谷にある創建の聖地・奥宮
「奥宮」は「本宮」から約6kmほど離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座。
縄文時代の遺跡である勝坂遺跡のエリア内となっている。
「奥宮」へは勝坂遺跡の南北から向かう事ができる。
今回は勝坂遺跡の復元竪穴式住居などがある一画よりも左手前、南側の細い道から入った。
道は緑に囲まれた道。
途中までは柵が設けられているものの、少し進むとちょっとした獣道のようになる。
この時期は小さな虫も多く飛んでいて、あまりこの道を通る人もいないようで、蜘蛛の巣なども至る所に見られた。
さらに奥に進むと左手に緩やかな坂が見えてくる。
水気の多い土壌のため全体的に道がぬかるんでいるので、下りるのには注意が必要。
坂を下りてすぐ右手に「奥宮」が鎮座する。
鳥居、石段、石祠の構成で、ここが創建の地。
こうした場所であるが花も供えられていて、しっかりと管理にされているようだ。
何とも神聖な空気を感じる不思議な場所。
この奥宮の先に進むと水が流れており足元にはより注意が必要。
こうして進んだ先に「有鹿窟」とも呼ばれる水源地が見えてくる。
少し進むとハッと息を呑む空間がある。
ここが水源地、いわゆる御神体になるのであろう。
当社の起源がこの地であり、原始的な祭祀の姿を思わせてくれる。
実は「有鹿窟」と呼ばれる伝承にあるように古くは洞窟になっていたようだ。
大正十二年(1923)の関東大震災により洞窟が崩落し、現在の姿となった。
また水源には「有鹿谷の霊石」と呼ばれる伝承が残っている。
この水源・洞窟・大蛇にまつわる伝承。
詳しくは下記の海老名市公式サイトをご覧頂きたい。
この水源から溢れる湧き水はこの一帯に広がる。
近くはほぼ湿地のようになっており、鳩川へ繋がっていく。
鳩川流域に広大な神域をもった古の当社を偲ぶ事ができる。
かつては洞窟であったというのなら、尚更そうであろう。
実際に訪れる事で、より当社の歴史と信仰が心に伝わるような場所なので、ぜひ「奥宮」まで足を運んで欲しい。
所感
神奈川県でも最古とも云われる神社。
縄文時代の遺跡の範囲内にあり、古くから祭祀があったのは間違いがなく、神聖なる水源を御祭神に、土着の神として信仰を集めていたのだろう。
平安時代から鎌倉時代にかけては最盛期を迎え、『古事記』『日本書紀』に名がない土着の神が、正一位になるというのは、余程の規模を誇っていた事が窺える。
その後の戦乱の影響もあり、中世以前の隆盛の様相は残してはいないものの、現在も海老名総鎮守として崇敬を集めているのが伝わる。
調べれば調べる程、面白い歴史が見えてきて、実に興味深い古社だと思う。
「本宮」からは距離もあり、「奥宮」までの道のりも足場が悪いものの、ぜひ「奥宮」も合わせて参拝して欲しい。
筆者も初めて当社に参拝した際は、時間の都合で「奥宮」まで訪れる事ができなかったのだが、「奥宮」まで参拝した今回は、明らかにその時よりも思う事が多く、当社に対する崇敬の念が更に深まった。
神社画像
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