鈴鹿明神社 / 神奈川県座間市

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神社情報

鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)

御祭神:伊邪那岐命・素戔鳴尊
旧社格:郷社
例大祭:8月1日
所在地:神奈川県座間市入谷1-3500
最寄駅:座間駅・入谷駅
公式サイト:http://suzuka.or.jp/

御由緒

 鈴鹿明神社は、遠く第二十九代欽明天皇の御代に創祀せられたという。伝説によると、伊勢の鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した折、にわかの暴風に襲われ、漂流して相模国入海の東峯に漂着した。里人が社を創立してこれを鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め奉ったと伝えられている。また天平年間にこの地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と言った(正倉院文書)ところから、時人が王の御名を冠して鈴鹿の字名が発祥したとも推察される。
 鈴鹿明神社は、往古、東南西方平坦な水田で、その中央一丈余りの高所に、はるばる大洋を望むかの如く鎮座していた。境内は船の形をし、数十の樫の古木が繁茂し、参道中央に銀杏の大木があって、さながら船の帆の様であった。その遠景を人は「舟形の森」「樫の森」と呼んで親しんだが、今はその銀杏もなく、地形も変動して面影はない。しかし神社の地形が前方後円墳にも似るところから、昭和三十九年に社殿の東側草地を発掘したところ、千五百年以前の地下式住居跡(約七坪)が発見され、また境内の樫の古木は最大のもので樹齢九百年といわれ、座間市原始林の一部であるところから、古代の祭祀遺跡埋蔵されている事も想起され、かすかに昔日をしのばせる。
 明治二年十二月、神奈川県下二十大区、二十七ヶ村(座間市入谷村、座間宿村、新田宿村、四ッ谷村、新戸村、磯部村、下溝村、上溝村、当麻村、田名村、大島村、下九沢村、上九沢村、相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田、矢部村、同新田村、渕ノ辺村、鵜ノ森村、上鶴間村、下鶴間村、柏ヶ谷村、栗原村、上今泉村、下泉村)の郷社に列せられた。これは現在の座間市、相模原市の全域と大和市と海老名市の一部を占める広域なものであった。さらに昭和四十三年一月、神奈川県神社庁献幣使参向神社となり、現在に至っている。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/11/04

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を用意している。
淡い色合いで当社の美しい社殿と桜をデザインしたもの。

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※筆者はお受けしていないため情報のみ掲載。

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歴史考察

座間郷の総鎮守

神奈川県座間市入谷に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、座間郷の総鎮守。
座間郷とは現在の座間市・相模原市の全域、大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域。
現在は神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。
地域からは「お明神様」の名で親しまれる。

創建と鈴鹿の由来

創建年代は不詳であるが、欽明天皇の御代(539年-571年)に創建と伝えられている。

当社境内からは縄文時代後期の平地式住居址が発掘されており、古くから人の生活のあった場所であった事が分かっている。
また、当社には興味深い伝承が残されている。

伊勢国鈴鹿郷の神社例祭に神輿が海上を渡御した際に、暴風によって漂流して相模国入海の東峯に漂着。
この事から里人が社を創建してこれを座間郷の鎮守とし、鈴鹿大明神と崇め祀った、というもの。

この伝承によると、鈴鹿の文字は伊勢国の鈴鹿郷から来ているとしている。
個人的にはこちらが有力に思う。

一方で、奈良県の「東大寺」正倉院宝庫に保管されてきた『正倉院文書』によると、天平年間(729年-749年)に当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたとあり、鈴鹿王の名前が当社「鈴鹿」の発祥ともされている。

こちらでは、天武天皇皇子の高市皇子の次男である鈴鹿王が由来とされているが、少し説得力に欠ける。

諸説あるものの、伊勢国鈴鹿郷・鈴鹿王のどちらも、相模国からは遠い国の地や人が由来だった事が分かり、おそらく古代に当地へ移住してきた一族が祀った神であったのだろう。
img_2319そうした部分については下記の伝承からも伝わる。

鈴鹿神と有鹿神の争いの伝承

当地の古い説話縁起には、当社の鈴鹿神と、海老名総鎮守である「有鹿神社」の有鹿神が争ったという伝承が残されている。
いくつか似たような伝承が残されており、特に明和年間(1764年-1772年)に編纂された地誌『座間古説』に詳しい。

欽明天皇の御代、伊勢国鈴鹿郷から当地に遷ってきた鈴鹿神は宝玉を持ち豊かに暮らしていた。
その頃、相模国勝坂(有鹿谷)にいた有鹿神が宝玉を奪うためにやってきて争いとなった。
そこで諏訪明神と弁財天の加勢で鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へ追い払われた。
その結果、有鹿神は敗走し海老名で有鹿大明神として祀られたという。

有鹿神社」の記事にも詳しく書いたのだが、「有鹿神社」の創建の地は相模国勝坂(有鹿谷)でありそこには現在も奥宮が鎮座している。
本宮は海老名の総鎮守として海老名市に鎮座している。
そしてかつての中宮は、奥宮と本宮の中間地点の座間市入谷の「諏訪明神社」(現在は当社の兼務社)が鎮座する辺りにあったとされる。(現在は本宮のすぐ近くにある)
有鹿神社」の中宮が現在の本宮近くに遷ったのは、上記のような争いが原因にあったものと思われる。

海老名総鎮守。神奈川県最古と伝わる神社・延喜式内社。神奈川県のへそに鎮座「本宮」・有鹿の池「中宮」・創建の聖地「奥宮」。有鹿の信仰・水引祭・縄文時代の勝坂遺跡。鳩川流域を祭祀圏とした広大な神域・古一之宮。最高位を賜る繁栄の絶頂期・海老名氏の崇敬。御朱印。
推測になるが、縄文時代より土着の豪族などがお祀りしていたのが有鹿神「有鹿神社」。
鳩川流域を祭祀圏とした現在でいう海老名市・座間市・相模市の一部を有する広大な神域であった神奈川県最古とされる神社である。
その後、座間市周辺に新たな一族がやってきて(伊勢国鈴鹿郷から移住した一族と思われる)、崇敬しお祀りする鈴鹿神との間に、争いが起こったのではないだろうか。
鳩川の水の利用権での争いもあったと思われる。
その結果、当社の鈴鹿神が勝利し、座間郷の総鎮守としての地位を確立させ、敗れた有鹿神の「有鹿神社」は海老名の総鎮守となったのであろう。

座間の地名由来・中世の荒廃

平安時代以前の当地周辺には、古東海道が通り「いさま」の宿駅があった。
『続日本紀』には、宝亀二年(771)の項目に「夷参」という字が見える。
これを「いさま」と読んだと推測されており、これが「座間」の発祥とされている。

このように「夷参(いさま)」が転じて「座間」と呼ばれるようになったという説が有力である。

平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての座間周辺は、渋谷重国が治めた事で「渋谷庄」と称された。
相模国渋谷庄座間郷が当時の地名であり、座間郷の総鎮守として崇敬を集めたのが当社。
座間は当社を中心に発展したと云えるであろう。

鎌倉時代に入ると、当社近くにあり関わりも深かった「星谷寺」に鎌倉幕府の御家人・佐々木信綱が奉納した梵鐘があるように、佐々木氏が座間郷を領土としていたと見られている。

しかし、元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡。
この時に相模国の多くの寺社が焼き払われ、領地も略奪されており、当社もそうした影響を受け、荒廃したものと見られている。
当社に関する史料などもしばらく途絶えてしまう。

江戸時代の当社

弘治二年(1556)、社殿が再建。
当時の棟札が当社に残っている。

この頃は、後北条氏(小田原北条氏)が相模国周辺を支配し、比較的情勢が安定していた事もあり、実質この頃に荒廃から少しずつ再興されたと思われる。
同時期に牛頭天王(現・素盞鳴尊)が合祀されている。

江戸時代に入ると、関東総奉行・内藤清成が座間郷を支配。
座間村が座間宿村と座間入谷村に分村。
当社は、座間宿村と座間入谷村の鎮守として崇敬された。

以後も、元和六年(1620)、寛文六年(1666)、元禄十六年(1703)、享保三年(1718)、享保十八年(1733)、宝暦八年(1758)と、社殿の造営・修理を記した棟札が残っているように、地域から多くの崇敬を集めた事が分かる。

天保年間(1830年-1844年)に編纂された『新編相模国風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(座間宿村)
鈴鹿明神社
当村入谷二村の總鎭守とす。牛頭天王を合祀す。弘治二年再建の棟札あり。(其文曰、奉遷宮鈴鹿大明神、再造成就処、相州田倉郡渋谷庄座間郷□藤原高家、弘治二年丙辰五月二日大檀那北条藤菊丸殿、又裏書に造畢之入目、五千疋、施主若林大炊助云々とあり。)又元和六年(文中大檀那内藤清次郎殿と記す、按ずるに、時の地頭修理亮清政が初名を萬千代と称す。此人にや。)寛文六年(久世大和守と記す。)修理の棟札あり。例祭六月七日より十四日に至る。此時天王の神輿を仮屋に遷し、入谷星谷寺の僧来て法楽す。
末社。稲荷。山王。辨天。
鐘樓。鐘に元禄三年の銘を彫る。
禰宜古木宮内。寒川神社神主金子伊豫配下。

座間宿村の「鈴鹿明神社」として記されている。
座間村が分立した座間宿村・座間入宿村、両村の総鎮守だった事が記されている。
牛頭天王が合祀されており、祇園信仰の要素もあった事が分かる。
牛頭天王は明治以降に神仏分離で現在の御祭神・素盞鳴尊となったのであろう。
例祭になると神輿を、近くにある「星谷寺」の僧が法楽を行いに来たようだ。
また、神職は相模国一之宮「寒川神社」の配下であった事も記されている。

明治維新と戦後の境内整備

明治になり神仏分離。
明治四年(1871)、天神原(現・キャンプ座間付近)にあった当社の末社「飯綱権現(現・座間神社)」を座間宿村の村有林に移設遷座。
明治六年(1873)、当社は座間郷の総鎮守として郷社に列した。

これは、座間入谷村・座間宿村・新田宿村・四ッ谷村・新戸村・磯部村・下溝村・上溝村・当麻村・田名村・大島村・下九沢村・上九沢村・相原村・橋本村・小山村・清兵衛新田・矢部村・同新田村・渕ノ辺村・鵜ノ森村・上鶴間村・下鶴間村・柏ヶ谷村・栗原村・上今泉村・下泉村の計27村に及び、現在の座間市・相模原市の全域、大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域となる。
こうした広範囲の総鎮守として大いに崇敬を集めた。

明治九年(1876)、当社の末社であった「飯綱権現」が「座間神社」に改称し村社となる。
現在も近くにある「座間神社」は、一部氏子区域と共に当社から独立したという形になる。

相模の飯綱さま。飯綱権現社として創建。御祭神と社号の変更・「鈴鹿明神社」からの独立。ペットのための伊奴寝子神社・創建由来の御神水。急な石段の上に鎮座・一之鳥居から三之鳥居までの参道。御朱印。御朱印帳。

明治二十二年(1889)、町村制の施行により、座間入谷村・座間宿村・栗原村・新田宿村・四ッ谷村が合併し、高座郡座間村が誕生。
昭和十二年(1937)、町制施行によって高座郡座間町となる。

大正三年(1914)、神饌幣帛料供進神社に指定される。
戦後の昭和四十三年(1968)、神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定。

昭和四十六年(1971)、市制施行し座間市が成立。
かつて座間郷と呼ばれた地域の大部分が現在の座間市であり、当社は座間市の総鎮守とも云えるだろう。

昭和四十八年(1973)、現在の鐘楼が再建される。
昭和五十七年(1982)、神楽殿、社務所などが竣工。
平成五年(1993)、平成の大造営によって現在の社殿が竣工した。
img_2321このように戦後も多くの境内整備が行われ、今もなお篤い崇敬を受け現在に至る。

綺麗に整備された美しい境内

座間駅もしくは入谷駅から10分ほど歩いたところに鎮座する。
img_2347綺麗に整備された境内は、神奈川県神社庁の献幣使参向神社としての格式を備えている。

鳥居は明治二十七年(1894)に再建されたもの。
img_2349「鈴鹿明神」の扁額が掛かり、鳥居の右手には「郷社」と記された社号碑が置かれている。

鳥居の先には綺麗に整備された参道・境内社などが並ぶ。
img_2313参道の途中左手に手水舎、参道正面が社殿となる。

社殿は平成五年(1993)に平成の大造営によって造営されたもの。
img_2325まだ新しさを感じる社殿は、重厚感がありとても立派な造り。
img_2318社殿の左右には桜が植えられており、桜の季節になると美しい姿となるようだ。
オリジナルの御朱印帳は、そうした桜と社殿をデザインしたものとなっている。

再建された鐘楼・境内社

参道途中には鐘楼が置かれている。
img_2316元禄三年(1690)に奉納された梵鐘があったものの、第二次世界大戦時に戦時供出で失われてしまったため、昭和四十八年(1973)に再建された。
他にも立派な神輿庫や神楽殿など整備されている。

境内社は参道左手に厳島神社(弁財天)。
img_2334小さいながらも神池と神橋が整備されている。
『新編相模国風土記稿』に末社として辨天と記されているので、それになるのだろう。

稲荷社が2社鎮座。
img_2338参道途中の赤い鳥居がある稲荷社と、鳥居すぐ左手にも稲荷社がある。
img_2345こちらには手前に道祖神の石も置かれている。

鳥居すぐ右手には古い石物や道祖神などが置かれる。
img_2342さらに歴史を感じさせる小祠も多数。
img_2341戦後に多くの境内整備が行われているのだが、こうして当地の歴史を伝える古い祠などが残っているのは素晴らしい。

御朱印は社務所にて。
img_2352オリジナルの御朱印帳も用意している。
隣の参集殿で待たせて頂き、大変丁寧に対応して頂いた。
img_2331参集殿では結婚式の会場にもなりとても立派な造りとなっている。

所感

座間郷の総鎮守として崇敬を集める当社。
創建にまつわる縁起には有鹿神との争いなど、興味深い伝承も残っている。
古代より様々な出来事が複雑に絡み、座間の中心として栄えた事が伺える。
今もなお座間市を代表する神社として、多くの崇敬を集めており、この日も参拝者が絶えなかった。
境内の東側には「鈴鹿の小径」と呼ばれる小道が整備されており、径の端を流れる水路には蛍の生息も見られるそうで、今もよい環境を残している事が伺える。
境内は戦後に整備されたものが多いが、周辺の寺社と共に座間の歴史を伝える神社であり、地域から崇敬を集める良い神社である。

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神社画像

[ 鳥居・玉垣 ]
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[ 鳥居扁額 ]
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[ 社号碑 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 参道 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 社殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 鐘楼 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 慰霊碑 ]
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[ 厳島神社 ]
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[ 稲荷社 ]
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[ 倉庫 ]
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[ 稲荷社・道祖神 ]
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[ 小祠 ]
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[ 社務所 ]
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[ 参集殿 ]
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[ 神輿 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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