牛嶋神社 / 東京都墨田区

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神社情報

牛嶋神社(うしじまじんじゃ)

御祭神:須佐之男命・天之穂日命・貞辰親王命
旧社格:郷社
例大祭:9月15日(5年に1度の大祭)
所在地:東京都墨田区向島1-4-5
最寄駅:本所吾妻橋駅・とうきょうスカイツリー駅
公式サイト:─

御由緒

 牛嶋神社は隅田川の東岸、もと水戸徳川邸跡の、隅田公園に隣接して鎮座しています。
 古くは向島須崎町にありましたが、関東大震災後、昭和のはじめ現在地に再建されました。
 明治維新前は、本所表町の牛宝山明王院最勝寺が、別当として管理していましたが、明治初年の神仏分離後「牛の御前」の社名を牛嶋神社と改めました。
 隅田川に沿う旧本所一帯の土地を昔「牛嶋」と呼び、その鎮守として牛嶋神社と称したのです。
 神社に伝わる縁起書によりますと、貞観二年(860年)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀、後に天之穂日命をまつり、次いでこの地でなくられた清和天皇の第七皇子貞辰親王命がまつられました。牛嶋神社の御祭神は、この三柱の神々であります。
 例祭日九月十五日は、貞観の昔はじめて祭祀を行なった日であるといわれております。
 治承四年(1180年)源頼朝が大軍をひきいて、下総国から武蔵国に渡ろうとした際に、豪雨による洪水のために渡ることができず、武将千葉介平常胤が祈願し、神明の加護によって全軍無事に渡ることができ、頼朝はその神徳を尊信し、翌養和元年(1181年)に社殿を造営し、多くの神領を寄進させました。
 さらに天文七年(1538年)六月には、後奈良院より「牛御前社」との勅号を賜ったといわれており、また、永禄十一年(1568年)北条氏直が関東管領であった際、大道寺駿河守景秀が神領を寄進しております。
 江戸時代には、鬼門守護の神社として将軍家の崇敬も厚く、特に三代将軍家光から本所石原新町の土地の寄進を受け、祭礼渡御の旅所となりました。現在の摂社若宮はその一部であります。
総桧権現造り、東都屈指の大社殿を誇る牛嶋神社は、氏子五十町・牛島講の守護神として、崇敬尊信をいただいております。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2016/10/19(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/06/28(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

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歴史考察

本所の総鎮守

東京都墨田区向島に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、本所一帯(墨田区の南半分)の総鎮守。
最近では東京スカイツリーの氏神様としても知られる。
須佐之男命を祀り、かつては「牛御前」と呼ばれた。
古くから撫牛信仰がある神社としても有名で、5年に1度の大祭では本物の黒牛が町内を練り歩く。

慈覚大師によって須佐之男命が祀られる

社伝によると、貞観二年(860)に慈覚大師(円仁)が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請し創建と伝わる。

これは、慈覚大師が草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣を受けたと、縁起に記されており、この事から「牛御前社」と呼ぶようになったとされている。

この縁起から、須佐之男命と習合した牛頭天王に対する信仰があったものと思われる。
創建時は現在よりやや北に鎮座しており、現在の隅田公園の北側になる。

この後に天之穂日命が祀られ、次いでこの地でなくられた清和天皇の第七皇子・貞辰親王命(王子権現と称された)が祀られた。
このように当社には三柱の神が祀られている。

源頼朝と千葉常胤による逸話

治承四年(1180)、再挙した源頼朝が下総国から武蔵国に渡ろうとした時、豪雨による洪水の為に隅田川を渡ることができなかった。
そこで頼朝に加勢した千葉常胤が、当社に祈願したところ、神明の加護によって全軍無事に渡る事ができたため、頼朝は養和元年(1181)に社殿を造営し、常胤に命じて多くの神領を寄進させたと伝わる。

なお、千葉常胤という武将は、頼朝に加勢し千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで押し上げた千葉氏中興の祖と云われる人物。
そのため、当社はその後も千葉氏より篤く崇敬され、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わっている。

牛御前社の勅号・徳川将軍家の崇敬

天文七年(1538)、後奈良院(後奈良天皇)より「牛御前社」との勅号を賜わる。
永禄十一年(1568)、北条氏直が関東管領であった際に、大道寺駿河守景秀が神領を寄進と記されている。
このように中世にかけても広く崇敬を集めた。

江戸時代に入ると、江戸城の鬼門守護の神社の一社として、徳川将軍家よりも篤く崇敬を集める。
三代将軍・徳川家光は、本所石原新町の土地を当社に寄進して、祭礼渡御の旅所としたという。
現在の「摂社若宮」(墨田区本所2丁目)がこの一部となっている。

本所一帯の総鎮守として

こうして当社は本所地域の総鎮守として崇敬を集めた。
本所は江戸の下町であり「鬼平犯科帳」などの時代小説などにもよく出てくる地名。

江戸の新興居住区域として発展し、元禄年間(1688年-1704年)頃に急速に宅地化が進み、多くの江戸町民が移り住んだ。
江戸市中の東の外れの一角であり、現在の墨田区の南半分を有している。

%e5%88%87%e7%b5%b5%e5%9b%b3(安政新刷隅田川向嶋繪圖)

北が下となっている切絵図であるが、当社は右手に「牛ノ御前」とある。
こうした一帯の総鎮守であった。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(須崎村)
牛御前社
本所及牛嶋の鎮守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帯坐像の画幅なり。王子権現を相殿とす。本地大日は慈覚大師の作縁起あり信しかたきこと多し。其略に、貞観二年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。国土悩乱あらはれ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす。故に我形を写して汝に与へん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ当社の神体にて老翁は神素盞嗚尊の権化なり。牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守らしめ、本地大日の像を作り釈迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これより明王院と号し、牛御前を渇仰し、法華千部を読誦して大師の残せる石佛の釈迦を供養佛とす。其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て当国に遷され、元慶元年九月十五日当所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し参らせ其霊を相殿に祀れり。今の王子権現是なり。治承四年源頼朝諸軍を引率し下総国に至る時に、隅田川洪水陸地に漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤当社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、頼朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々国主領主よりも神領を附せらる。天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅号を賜ひ次第に氏子繁栄せり。北条家よりも神領免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中浅草川より牛鬼の如き異形のもの飛出し、嶼中を走せめくり当社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。今社寶牛玉是なりと記したれど、旧きことなれば造ならさること多し。
(以下略)

須崎村内の「牛御前社」として記されている。
本所及び牛嶋の鎮守とあり、本所の総鎮守として崇敬を集めていた事が伝わる。
牛嶋は古くからこの地の地名で、飛鳥時代から当地が牛の牧場となっていた事に由来しており、大変古くから牛との関連を伺わせてくれる。
上述した慈覚大師が創建した際の縁起や、源頼朝・千葉常胤の逸話なども記されている。
「牛鬼の如き異形のもの飛出し」といった妖怪話も伝わっていた。
別当寺は「最勝寺」で、「最勝寺」は五色不動の目黄不動尊としても有名。

牛鬼の如き妖怪の伝承

社伝にはないのだが、少し面白いのがこの地に伝わる伝承。
鎌倉時代の『吾妻鏡』などに、以下の伝承が記されている。

建長三年(1251)、「浅草寺」に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち24人が悪気を受けて病に侵され、7人が死亡したという。
上述の『新編武蔵風土記稿』にも「牛鬼の如き異形のもの飛出し」との記載があり、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある「牛嶋神社」に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと記載されている。
この牛玉は神社の社宝となった。

この牛鬼を、牛頭天王と習合した須佐之男命の化身とする説もあり興味深い。
牛御前の名や、こうした伝承もあり牛にまつわる信仰が根付いていったようだ。

文政八年(1825)には現在の撫牛が奉納。
img_1711この他、当社には狛犬ならぬ狛牛が置かれているのも、こうした伝承などによるものであろう。

江戸名所図会で見る当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

%e7%89%9b%e5%be%a1%e5%89%8d国立国会図書館デジタルコレクションより)

「牛御前宮」というのが当社で、この当時は「長命寺」の近くに鎮座していたのが分かり、現在でいうところの隅田公園の北側になる。
現在とは鎮座地が少し違うものの、当時から見事な社殿を有していた事が伝わる。
鳥居も二之鳥居まであり多くの境内社の姿を見る事ができる。
また、「牛御前」の由来として、牛嶋の出崎に位置するところから牛嶋の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうとの説明書きが記されている。

葛飾北斎が生涯の大半を過ごした地

世界的にも有名な葛飾北斎は、現在の墨田区亀沢付近で生まれ、生涯の大半を本所地域で過ごしたとされている。
そのため、北斎は当社近辺を題材として描く事も多かった。

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こちらは当社と「三囲神社」を描いた『三囲牛御前両社之図』出典
西洋の遠近法を取り入れた浮世絵技法の一つで浮絵とよばれるもの。
右手に「三囲神社」、そして左手に「牛御前(当社)」が描かれている。
遷座する前の当社は「三囲神社」と共に江戸町民に愛された神社であった。

旧小梅村鎮守。三井家の守護社を担ったお稲荷さま。弘法大師による創建の伝承。再興と白狐の伝説。豪商三井家の守護社として庇護される。浮世絵・銅版画・泥絵に描かれた当社。三柱鳥居やライオン像などの奉納物。隅田川七福神の恵比寿・大国神。御朱印。

さらに北斎は弘化二年(1845)、当社に『須佐之男命厄神退治之図』を奉納。
126×276cmの大きさで、全体に銀箔使用された豪華な作品だったと伝わるが、惜しくも関東大震災の際に焼失してしまっている。

最近では「すみだ北斎美術館」が、当社も描かれた北斎の肉筆画『隅田川両岸景色図巻』を取得。
海外に流出してしまった作品で、100年余行方知らずになっていたのだが、「すみだ北斎美術館」が購入し、目玉として展示される。(詳細

「すみだ北斎美術館」は、2016年11月22日オープンとなっている。

すみだ北斎美術館は、葛飾北斎とつながるアートやものづくりを通じて、まちでの新しい交流を生み出し、産業や観光へも寄与する地域活性化の拠点となることを目指します。

関東大震災後の遷座

明治になり神仏分離。
神仏習合の色合いが強い「牛御前」の名を、現在の「牛嶋神社」に改めた。
本所の総鎮守として、郷社に列した。

明治十一年(1878)、郡区町村編制法によって、本所区が成立。
明治二十二年(1889)、東京市の設置によって東京市本所区となる。

現在の墨田区は、本所区と向島区の合併で誕生している。
このように旧本所区は墨田区のほぼ南半分の範囲であり、当社は本所の総鎮守として、そうした広いエリアから崇敬を集めた。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も大きな被害を受け、上述したように葛飾北斎が奉納した「須佐之男命厄神退治之図」も焼失してしまっている。

それ以降、当社周辺は、関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により「隅田公園」の計画・整備が行われる事となり、当社は昭和の始めに現在地に遷座。
昭和七年(1932)、社殿が再建され、この社殿は第二次世界大戦の戦火も免れ現存している。

現在は本所地域・氏子五十町の氏神として崇敬を集め、5年に1度の大祭では、鳳輦(牛車)を中心とする古式豊かな行列が祈願巡行する。

また近年では、東京スカイツリーの氏神としても注目を集めている。
東京スカイツリーが建立時には当社の神職が神事の奉仕をしている。

珍しい三ツ鳥居・戦火を逃れた見事な社殿

言問橋の東側、隅田公園の一角に鎮座する当社。
img_1725三ツ目通り沿いには大きな鳥居が立ち、その奥に境内となっている。

表参道は南に面しており隅田公園の中から入る。
img_1723鳥居を潜ると参道で、左手に手水舎。

社殿の前には全国的にも珍しい三ツ鳥居(みつとりい)。
img_1718三輪鳥居(みわとりい)とも呼ぶ鳥居で、鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせたもの。
当社の御祭神は三柱であり、三柱の神々にちなんでこうした鳥居となったと推測されているが、由来などは不明とされている珍しい鳥居である。
関東圏だと他に秩父の「三峯神社」の鳥居が三ツ鳥居として有名で、他では見かける事がない。

その先には大変見事で大きな社殿。
img_1696都内でも屈指の大きさの社殿で、総檜権現造りの見事な造りとなっている。
img_1697現在地の遷座し、昭和七年(1932)に造られたもので、第二次世界大戦の戦火を免れ現存。
img_1705社殿の大きさや造りなど実に見事で圧倒される。
こうした立派な社殿で再建されたのも、本所総鎮守として崇敬を集めていたからこそであろう。

境内社として小梅稲荷神社。
img_1707旧向島小梅町にあった稲荷が当社に遷座された。

御朱印は、社殿前にある授与所にて。
img_1706とても丁寧に対応して頂いた。
東京スカイツリーの氏神様であるため、スカイツリーに関する授与品も置かれている。

撫牛信仰と珍しい狛牛・包丁塚

境内の右手には「撫牛」が置かれている。
img_1712江戸時代から庶民に親しまれており、文政八年(1825)に奉納された。

撫牛信仰とは、牛の同じ箇所を撫でると病気が治るという信仰で、体だけではなく心も治るとされる心身回癒の祈願物。
当社の撫牛の独自の信仰として、子供が生まれた時に涎かけを奉納し、これを子供にかけると健康に成長するという言い伝えが伝わっており、涎かけが奉納されている姿をよく見る事ができる。
撫牛信仰は、天神信仰と結びついて菅原道真を御祭神とする「天満宮」に多く見られるのだが、当社は牛頭天王=スサノオとの結びつきによるものである。
上述したように、牛頭天王・須佐之男命・牛鬼の伝承など、牛にまつわる逸話が多く残る当社だからこその信仰であろう。

また当社には狛犬ならぬ狛牛が置かれている。
img_1703これも牛にまつわる縁起の多い当社ならではであり、古くから伝わる牛鬼の伝承も影響しているのだろう。
撫牛と違って眼光も鋭く睨むような造形なのが特徴である。

鳥居すぐ右手には包丁塚。
img_1724三竹会により昭和三十七年(1962)建立された。
食用になった牛を慰霊するための碑である。

所感

本所地域の総鎮守として崇敬を集める当社。
墨田区のほぼ南半分が本所地域と云え、それら一帯の総鎮守である。
慈覚大師による創建、源頼朝の伝承など、古くからの歴史を有し、「牛御前」として牛頭天王と習合したスサノオを祀り、江戸庶民の人々から崇敬を集めてきた。
撫牛信仰なども正にそうした江戸庶民の信仰の現れであろう。
関東大震災後に当地に遷座しても変わらぬ崇敬を集め、三ツ鳥居、そして東京屈指の見事な社殿など、素晴らしい境内となっている。
隅田公園の一角に鎮座している事もあり、清々しい気分で見事な境内を堪能できる良社だと思う。

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神社画像

[ 東鳥居 ]
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[ 一之鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 三ツ鳥居・社殿 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 狛牛・狛犬 ]
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[ 授与所 ]
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[ 鳥居 ]
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[ 小梅稲荷神社]
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[ 社務所 ]
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[ 撫牛 ]
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[ 石碑 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 包丁塚 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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