等々力玉川神社 / 東京都世田谷区

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神社情報

等々力玉川神社(とどろきたまがわじんじゃ)

御祭神:伊弉諾尊・伊弉冊尊・天照皇大神
旧社格:村社
例大祭:9月28日
所在地:東京都世田谷区等々力3-27-7
最寄駅:等々力駅
公式サイト:─

御由緒

文亀年間(1501-4)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は、満願寺で等々力村の鎮守であった。
明治五年に村社に定められ、同様四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御嶽神社を合祀した。
境内には郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/08/04(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/03/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

等々力玉川神社

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考察

等々力の鎮守

東京都世田谷区等々力に鎮座する神社。
旧社格は村社で、等々力の鎮守。
正式名称は「玉川神社」だが、他との区別から「等々力玉川神社」とさせて頂く。
元は熊野信仰の神社となっている。

創建は熊野信仰の神社

社伝によると、文亀年間(1501年-1504年)に世田谷城主の吉良頼康が勧請したと伝えられている。
紀州の熊野三山から勧請したため、元々は「熊野神社」とされていた。

世田谷城とは、現在の世田谷区豪徳寺にあった平山城。
天正十八年(1590)に廃城になるまで、世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた。
奥州吉良氏は、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受け、「足利御一家衆」「無御盃衆」と称さ、世田谷城に居を構えたため「世田谷御所」「世田谷殿」とも呼ばれる。

中でも当時の城主・吉良頼康は、後に後北条氏の食客として従い、天文二年(1533)には北条氏綱による「鶴岡八幡宮」造営に参加したりと、寺社への崇敬が篤かったとされている。
当時、武士から熊野信仰の流行があった時代でもあり、当地・等々力村でも熊野信仰の流行があったとされ、その流れで熊野信仰の当社を創建したものと思われる。

江戸時代の史料から見る当社

江戸時代になると等々力村の鎮守として崇敬を集める。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(等々力村)
熊野社
字宿と云所にあり。村の鎮守にして、毎年九月二十八日祭事を勤む。ふるくは十五日なり。後に改し由、別当は満願寺と云、本社五尺四面、上屋二間に二間、拝殿も二間に二間、鳥居両柱の間九尺、夫より石階七級を経て又二の鳥居あり、両柱の間九尺前に石階あり、是も七級なり。何れも巳の方に向へり。
伊勢宮
字上原満願寺領の内なり、本社二間九尺、南向、是も満願寺の持なり。
諏訪社
字を則諏訪と称する所なり。勧請年月を詳にせず、社二間に九尺、同村西光寺の持なり。
御嶽社
字小山根、満願寺領の内にあり、是も勧請の年代を知らず。

「熊野社」と書かれているのが元々の当社。
等々力村の鎮守であった事、別当寺が現在もほぼ隣にある「満願寺」だった事が分かる。
等々力村には他に「伊勢宮」「諏訪社」「御嶽社」が鎮座していた事が書かれているが、これらは後に当社に合祀されている。

神仏分離と玉川神社への改称

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)に村社に列した。

明治二十二年(1889)には、町村制の施行に伴い、等々力村は周辺の村々と合併して玉川村となる。
以後、玉川村の鎮守として崇敬を集めた。

明治四十年(1907)には、上述の『新編武蔵風土記稿』にも記載されている、等々力村にあった「伊勢宮(神明社)」「諏訪社」「御嶽社」の三社を合祀。
これを機に「熊野神社」の社名を、玉川村の地名から「玉川神社」へと改称した。
image玉川村の鎮守という意味合いを込めて改称されたと思われる。

ちなみに明治四十一年(1908)には、瀬田にある「御嶽神社」も玉川村の地名から「玉川神社(現・瀬田玉川神社)」改称している。

瀬田玉川神社 / 東京都世田谷区
瀬田・玉川両地区鎮守。瀬田の地名由来。瀬田城を居城とした長崎氏の下屋敷に創建。後北条氏の滅亡後に名主となった長崎氏により別当寺「慈眼寺」の境内に遷座。御嶽社を称し「おみたけさん」と呼ばれる。明治に多くの神社を合祀し改称。御朱印。

これには推測になるが、多くの村の合併に伴い玉川村が誕生したため、旧瀬田と旧等々力の人々による、お互い玉川村の鎮守としての氏子の張り合いもあったように感じる。
かつての玉川村は多くの村が合併した事もあり利権などで争いが多かった。
特に旧瀬田と旧等々力が揉めた事は有名であり、それぞれの旧村の鎮守として「玉川神社」がの社号が並立したのだろう。

なお、当社に合祀された「諏訪社」なのだが、昭和初期に諏訪分の住民たちの嘆願により「東玉川神社」として再興されている。

東玉川神社 / 東京都世田谷区
東玉川鎮守。諏訪分・東玉川の歴史。渋谷氷川神社より移築された江戸初期の社殿。天井絵の火焔龍神像。親子龍の彫刻。御朱印。

大正七年(1918)には縁の下に寝泊まりしていた者の不始末により社殿が焼失。
その後、関東大震災も発生したため、再建には時間がかかる事となる。
昭和三年(1928)に本殿のみ再建したものの、拝殿は仮殿だったという。
その後、昭和十五年(1940)に拝殿が再建された。

緑豊かな鎮守の杜

目黒通りに面して鎮座する当社。
image大通り沿いにありながら緑に囲まれた境内を維持している。

石段の先の鳥居を潜ると比較的広い境内となっている。
image右手に手水舎があり正面に社殿。
なお、西側にも鳥居がありそちら側にも手水舎が用意されている。

社殿は、昭和三年(1928)に本殿が再建、昭和十五年(1940)に拝殿が再建されたもの。
第二次世界大戦の戦禍は免れて現存している。
image中々立派な社殿で、再建まで時間がかかったものの、氏子による崇敬の篤さを感じさせてくれる。
image賽銭箱の上には神楽鈴が置かれており、参拝者が身を清める事ができる。

社殿の左手には多くの境内社が並ぶ。
三社殿には天満宮・祓戸社・八幡神社が鎮座。
imageさらに大國社(えびす神)、稲荷神社、三峯神社、神明社と並ぶ。
imageこちらの一角は苔生す境内となっており趣がある。
imageこうした緑豊かな鎮守の杜が維持されているのは素晴らしい。

玉川村の歴史を感じる境内

三社殿の横にはいくつかの石碑が並ぶ。
中でも目立つのが「郷土開發之偉人 豊田正治翁之碑」と書かれた大きな石碑。
image昭和二十九年(1954)に玉川全円耕地整理組合によって建てられたもの。
石碑に記された豊田正治という人物は玉川村の村長であり、耕地整理を行った人物。

現在の玉川地域(旧玉川村)は、道路が広く碁盤の目状になっている地域が多い。
これを推し進めたのが、この豊田正治という人物で、現在住宅地として人気のあるこの周辺は、彼の功績も大きいと思われる。

社務所近くには、獅子が千尋の谷に子を突き落とすという故事を模した岩山も。
image古くから伝わる子育ての教訓として造られたものだという。

個人的に目を引くのは、手水舎の奥にあるクスノキ。
下のほうがずんぐりと太く立派で面白い形。
imageこの形から「とっくりクス」と呼ばれて親しまれているという。

社殿潜ってすぐ左手には忠魂社の姿もある。
imageその他、境内には多くの鬼瓦なども置かれていたりと色々と歴史が詰まっている。

御朱印は社務所にて。
image丁寧に対応して下さった。

所感

等々力の鎮守として、熊野信仰の神社であった当社。
その後、玉川村に合併され、周辺の神社を合祀し玉川神社として玉川村の鎮守となる。
多くの村が合併した玉川村には様々な揉め事が多かったと聞くが、その中にあっても、玉川村を郷土開発した人物の碑があったりと、当社は地域の崇敬を特に集めていた事が伝わる。
目黒通りという大通りに面しながらも、比較的広く緑に囲まれた境内は、地域の鎮守として大変心地よく、こうした境内が維持されている事がとても喜ばしい。
参拝に訪れる崇敬者も多く、今も地域の鎮守として崇敬を集めているのが伝わる。
等々力の歴史を感じる事ができる良社だと思う。

神社画像

[ 社号碑・鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 参道 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 石碑 ]
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[ 三社殿(天満宮・祓戸社・八幡神社) ]
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[ 大國社・稲荷社・三峰社 ]
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[ 石碑・神明社 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 手水舎(西側) ]
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[ 西鳥居 ]
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[ 社務所 ]
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[ 石獅子 ]
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[ 忠魂社 ]
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[ とっくりクス ]
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[ 案内板 ]
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