高輪神社 / 東京都港区

image

神社情報

高輪神社(たかなわじんじゃ)

御祭神:宇迦御魂神・誉田別命・猿田彦神
社格等:村社
例大祭:9月10日
所在地:東京都港区高輪2-14-18
最寄駅:泉岳寺駅・品川駅
公式サイト:─

御由緒

 御創建は室町中期明応年中で、お稲荷様、八幡様、猿田彦様をお祀りし、境内社には聖徳太子様をお祀りして居ります。
 恒例の初詣、鎮火祭、節分祭、中祭、例祭、七五三詣の他、三年に一度神社大神輿の渡御が例祭日に近い日曜日に斉行されます。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2016/07/29(ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/04/30(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

高輪神社

スポンサーリンク

歴史考察

高輪一帯の総鎮守

東京都港区高輪に鎮座する神社。
旧社格は村社で、高輪一帯の総鎮守。
創建時は稲荷信仰の神社であり「稲荷社」と称された。
境内社には聖徳太子を祀る「太子堂」が鎮座しているのが特徴。
現在は都営浅草線沿線の八社によって「東京福めぐり」も開催しており、当社はその中の一社となっている。

稲荷神社として創建・高輪の由来

社伝によると、明応年間(1492年-1501年)に「稲荷神社」として創建と伝わる。

創建当時の江戸は大変のどかな田舎であり、地域の村民達により信仰されたのだろう。
まだ当時は「高輪」という地名が見る事ができず、高輪村の成立前だったと推測できる。

大永四年(1524)に北条氏綱と上杉朝興の両軍が当地で衝突。
その結果、氏綱が江戸城を勝ち取り城主となる。
これが「高縄原の戦い」として当時の軍記物語に伝わる戦いである。

この高縄原が転じて高輪原となり、現在の「高輪」の由来となる。
高縄原とは高縄手道(高台のまっすぐな道の意)の略とされる。
その後、江戸時代にかけて高輪村が成立すると、当社は高輪の鎮守として崇敬を集め「高輪稲荷」と呼ばれる事もあったという。

なお、江戸時代には高台に諸藩の下屋敷が置かれた事から、明治以降には財界の邸宅が立ち並ぶ事になり、それが現在の高級住宅街「高輪」へと繋がっている。

神仏習合時代の当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

高輪神社国立国会図書館デジタルコレクションより)

「太子堂」「稲荷社」「庚申堂」と書かれているのが当社。
「稲荷社」が現在の本社となる。
境内の左手には鐘楼が描かれており、太子堂や庚申堂などと共に神仏習合の世の中と、当地の信仰の様子を知る事ができる。
いずれも「常照寺」(現在は廃寺)の管轄だったようで、当社の別当寺にあたるのだろう。

前の道が現在の第一京浜であり、当時はこれが主街道である東海道であった。
そのすぐ手前が東京湾の海になっていて、埋め立てによって現在とは海岸線の位置がかなり変わってくるのが見てとれる。
街道沿いに鎮座する当社が大いに崇敬を集めた事が伝わる一枚。

この『江戸名所図会』が発行された後の、弘化二年(1845)の大火によって類焼し社殿など境内の多くを焼失してしまっている。
幕末になり土蔵造の本殿にて再建されたと伝わる。

神仏分離と高輪神社への改称・現在

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、「稲荷神社」として村社に列する。
神仏分離の影響もあり別当寺であった「常照寺」は廃寺となっている。

当社境内には『江戸名所図会』にあったように、「稲荷神社」「太子堂」「庚申堂」が並んでいたのだが、神仏分離のため仏教色の強い「太子堂」は「耳聴神社」、「庚申堂」は「猿田彦神社」と改称して、当社の末社という形となった。

明治十年(1877)、鵜来森(現在の高輪3丁目附近)に鎮座していた「八幡神社」を合祀。
明治十五年(1882)、幣殿・拝殿を建立し、幕末に再建した本殿を改修。

昭和四年(1929)、社号を「稲荷神社」から「高輪神社」と改称した。
image 当時は当地近くを走る市電の停留場が「庚申堂前」となっており、庚申堂が最も庶民に知られていた事が分かる。

戦後になり昭和五十五年(1980)、現在の社殿を造営。
この頃には「猿田彦神社(かつての庚申堂)」が本殿に合祀されている。

平成二十八年(2016)7月より、都営浅草線沿線の八社によって「東京福めぐり」も開催しており、当社はその中の一社となっている。

戦後に再建された社殿・古い鳥居と狛犬

第一京浜沿いに当社の社号碑が立っている。
imageその先が参道になっており鳥居が立つといった配置は、江戸時代からあまり変わらない。
image石鳥居は寛文七年(1667)に奉納されたものが現存。
『江戸名所図会』に描かれていた鳥居が今も残っている事となり、大変貴重である。

鳥居を潜り石段を上ると左手に手水舎、正面に社殿となる。
社殿は昭和五十五年(1980)に造営されたもの。
image比較的新しい社殿とあって状態も大変よく綺麗である。
よく晴れた日に参拝すると社殿が輝いて見え、それだけ大切にされているのが伝わる。

この社殿の前に置かれている狛犬が大変年代の古いもの。
image宝永六年(1709)に奉納されたもので、『江戸名所図会』に描かれていた一之鳥居横にあった狛犬がこの狛犬であろう。

弘化二年(1845)の大火によって類焼し社殿など境内の多くを焼失してしまった当社。
しかしながら鳥居や狛犬など石製のものは現存しており、焼失を免れたのが分かる。
その後、関東大震災、東京大空襲といった震災や戦災があったにも関わらず、こうして古いものが現存し、今も使われているのは素晴らしい事である。

聖徳太子を祀る太子堂

社殿の左手には境内社の「太子堂」が鎮座する。
image「太子堂」とは聖徳太子を祀った仏堂の呼称であり、『江戸名所図会』に描かれていたように江戸時代には、稲荷神社・太子堂・庚申堂が並んで鎮座していた。

かつては別当寺であった「常照寺」の仏堂であったが、神仏分離の影響を受け同寺が廃寺になったため当社の境内社となっている。
神仏分離後は「耳聴神社」と改称されており、これは聖徳太子の豊聡耳伝説によるものだろう。
戦後になり再び「太子堂」という呼称に戻している。
imageなお、こちらに祀られている聖徳太子像は仏像で太子が16歳の時に自ら作られたと伝えられているが、この辺は眉唾物だろう。
いずれにせよ当時の仏教との結びつきを強く感じさせてくれる境内社である。

この「太子堂」の周囲には力石なども置かれている。
image江戸時代のもので、氏子衆が力比べに使ったもの。
港区の文化財となっている。

御朱印は社務所にて。
女性の方がお話好きなので色々な談義に盛り上がる事が多い。
いつも丁寧に対応して下さる。

所感

高輪鎮守として崇敬を集める当社。
稲荷神社として創建、その後、太子堂や庚申堂といった神仏習合による信仰を集めていた事が伝わる。
かつての東海道沿いに鎮座し、現在も第一京浜沿いに鎮座しているため、人通りも多く、当社に立ち寄って参拝をしていく姿をよく見る事ができる。
『江戸名所図会』にも描かれた鳥居や狛犬が現存しており、歴史を感じさせつつも、新しく綺麗な社殿や太子堂との融合は素晴らしい。
規模としてはこぢんまりとした神社ではあるが、地域の歴史を伝える良社である。

神社画像

[ 鳥居・参道・社号碑 ]
image
[ 鳥居 ]
image
[ 石段 ]
image
[ 手水舎 ]
image
[ 拝殿 ]
image
image
image
image
image
[ 本殿 ]
image
[ 狛犬 ]
image
image
image
[ 太子堂 ]
image
image
image
[ 狛犬 ]
image
image
[ 力石 ]
image
[ 恵比寿像・大黒像 ]
image
[ 社務所 ]
image
[ 御神木 ]
image
[ 石碑 ]
image

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
スポンサーリンク
御朱印ブログランキング
投票する

にほんブログ村 コレクションブログ 御朱印へ

フォローする

オススメ記事 by Google