藏前神社(蔵前神社) / 東京都台東区

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神社情報

藏前神社/蔵前神社(くらまえじんじゃ)

御祭神:大山咋命
相殿神:誉田別天皇(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后)・姫大神・倉稲魂命・菅原道真公・塩土翁命
旧社格:郷社
例大祭:6月第1土曜・日曜
所在地:東京都台東区蔵前3-14-11
最寄駅:蔵前駅
公式サイト:http://kuramaejinja.justhpbs.jp/

御由緒

 当社は、徳川第五代将軍綱吉公が元禄六年(1693)八月五日、山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の『御府内備考続編』ならびに「寺社書上」には次のように記されています。
 石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は、元禄六酉年五月二十七日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年八月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数二千二百七十一坪六合拝領つかまつり候。其の後、享保十七子年三月二十八日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年一二月二十日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。
 すなわち、創建三十九年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、その十二年後の延享元年四月十五日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。当時は神仏習合思想に基づき、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。
正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、一般には『藏前八幡』または「東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。
 また、天保十二年(1841)十二月には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、当社境内に遷されました。
江戸時代も幕末の安政二年(1855)十月二日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む一万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政四年七月、当社境内に高さ一夫五尺の「宝塔」一基(大施餓鬼塔)を建立し、その十月には開眼供養を行わしめました。
明治に入ると、その三月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となりました。
 そして、成田不動は、明治二年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同三年練馬の東高野山に移されました。
 明治六年八月、郷社に別格し、同十一年十一月、社号をそれまでの「石清水八幡宮」から、「石清水神社」と改称、さらに同十九年四月、再び『石清水八幡宮』と改称しました。
 其の後、大正十二年九月の関東大震災および昭和二十年三月の戦災により社殿を焼失、昭和二十二年九月、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同二十六年三月、社号を『蔵前神社』と改称、平成七年十月、創建当初から境内神社として鎮座の「鹽竃神社」(陸前国宮城郡鎮座鹽竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。
 また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが、当社境内で勧進大相撲が開催されました。その回数は宝暦七年(1757)十月を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約七十年の間に二十三回にも及び、その三大拠点の一つでした。
 とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも、天明二年(1782)二月場所七日目、安永七年(1778)以来、実に六十三連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦七年十月、当社で開催された本場所から始められたものです。
 そして、当社で開催された宝暦十一年(1761)十月場所より従来の歓進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も一部欠落はしていますが現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。
 かかる史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。
 尚、文化年間後期から文政年間にかけて素人の力持を称える文化がありました。当社でも力持の技芸を披露する神事が奉納されました。分けても、その絶頂期を迎えた文政七年の春に奉納された力持は浮世絵師歌川國安の錦絵にも描かれています。それが「文政七年之春御藏前八幡宮ニ於而 奉納力持」であります。
 更に、当社は古典落語「元犬」や「阿武松」の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家により奉納されています。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/05/25

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

蔵前神社

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考察

かつて広い社領を有した八幡様

東京都台東区蔵前にある神社。
旧社格は郷社で、八幡信仰の神社。
江戸城鬼門除け・徳川将軍家の祈願所として崇敬を受け、かつては広い社領を有する江戸を代表する一社であり、正式社号「石清水八幡宮」、庶民には「蔵前八幡」として親しまれた。
現在の正式社号は旧字体の「藏前神社」であるが「蔵前神社」とされる事も多い。

徳川綱吉による勧請

社伝によると、元禄六年(1693)に五代将軍・徳川綱吉が山城国(京都)の「石清水八幡宮」を勧請したことに始まるとされる。
当時の社号は勧請元と同じく「石清水八幡宮」。
一般的には「蔵前八幡」「東石清水宮」と呼ばれた。

江戸城の鬼門除け・徳川将軍家の祈願所として崇敬を集めたとされる。
御朱印社領200石を寄進されたとあり、創建時の境内は2270余坪を有したという。
当時の江戸を代表する一社であった。
別当寺は「雄徳山大護院」が担っていた。(現在は廃寺)

その後、享保十七年(1732)に近隣の火事で類焼したため、浅草三嶋町(現・台東区寿)に遷座。
延享元年(1744)に創建地であり現在地である蔵前に再遷座している。

また、天保十二年(1841)には、日本橋坂本町にあった下総国「成田山新勝寺」の出張所(成田山御旅宿)「成田不動」が、寺社奉行の達を受けて当社境内に遷されている。

綱吉の生母・桂昌院の存在

200石の朱印地となると、かなりの寄進である。
江戸を代表する神社でも100石以下が多く、200石格となると、いずれも徳川将軍家の縁の神社であり、この事からも徳川将軍家の祈願所としての位置づけを感じる事ができる。

御由緒には記されていないのだが、これには三代将軍・徳川家光の側室であり、五代将軍・徳川綱吉の生母であった、桂昌院の存在が多大に影響を与えたと思われる。
桂昌院は綱吉が将軍になると、影響力を強めたとされ、祈願寺として文京区大塚の「護国寺」を作らせた事は有名であり、当社もそうした桂昌院の祈願所として作られたと見る事ができるだろう。
そのため徳川将軍家からの崇敬が篤く、200石もの寄進がされたのも納得である。

このように綱吉・桂昌院によって創建され、徳川家の祈願所とされた当社。
かなりの社地を有しており、現在では考えられないような規模であった事が分かる。

境内で勧進相撲が幾度も開催

当社境内では、しばしば勧進大相撲が開催された。
その回数は宝暦七年(1757)を始めとして、約70年間で23回開催されたと伝わる。
深川「富岡八幡宮」、両国「回向院」と共に三大拠点の1つとされる。

同年、当社で行われた「力持」の技芸の奉納を歌川國安が描いた錦絵がある。
image当社境内にも記念碑として掲示しており、その錦絵を見る事ができる。
この錦絵の中には、当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれている事から、宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも云われている。

また、日本相撲協会によれば、宝暦七年(1757)に木版でできた縦一枚形式の番付が初めて発行されたとある。
これは今ある番付表の元となったものである。
この縦番付は、当社境内で初めて本場所興行が行われた際に、初めて発行されたものであり、この興行をもって京都・大坂に従属していた江戸相撲が独立形態となったと見なされている。

こうして幾度も当社境内で開催された勧進相撲であるが、特に話題となったのが、天明二年(1782)二月場所では、七日目に、安永七年(1778)以来63連勝と敵なしだった谷風が、小野川喜三郎に敗れたため、江戸中大騒ぎとなったとされる場所。

この谷風という人物は、二代目谷風であり「仙台の谷風」と称されていた。
第四代横綱だが、実質的な初代横綱とされる。
当時の大横綱であり、今も伝説的な大相撲史上屈指の横綱であろう。
上述の通り江戸本場所で63連勝をしていたのだが、江戸・京都・大坂まで含めると98連勝をしており、その谷風が敗れるという事は、どれだけ江戸中の騒ぎになったのか、想像に難くない。

勧請大相撲発祥の神社

こうした相撲と縁の深い当社は「勧進大相撲発祥の神社」を謳っている。

しかしながら、一般的に「江戸勧進相撲発祥の地」は「富岡八幡宮」が知られ、貞享元年(1684)に再開されたのが最初と云われており、「富岡八幡宮」が江戸勧進相撲の発祥の地なのは間違いないであろう。

富岡八幡宮(深川八幡) / 東京都江東区
東京十社。深川の八幡様。江戸三大祭・深川祭。江戸勧進相撲の発祥の地。深川七福神・恵比寿。御朱印。御朱印帳。

何故、当社が「勧進大相撲発祥の神社」となっているかというと、名称によるもののようだ。

宝暦十一年(1761)に当社で開催された勧進相撲が、従来の「勧進相撲」から「勧進大相撲」という名称なったとされ、この事から「勧進大相撲」の発祥という事になっている。
大相撲という名称になったのが当社での興行から、という事なのだろう。

なお、現在の社号標や石玉垣は相撲協会からの奉納であり、これはこうした史実による事から奉納されたものである。
なお「国技館」もかつては蔵前の地に存在していた。(両国は二代目)

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
別当寺であった「雄徳山大護院」は廃寺となる。
また、当社境内に遷座していた「成田不動」は、明治二年(1867)に深川に遷され、この一部が「深川不動堂」の元となっている。

明治六年(1873)、郷社に列する。
この際に社号をそれまでの「石清水八幡宮」から「石清水神社」と改称。
しかし、明治十九年(1886)、再び「石清水八幡宮」と改称している。

こうした明治の移り変わりで当社の規模がかなり小さくなったものと思われる。
明治後期の古地図を見ると、既に江戸時代の面影はなく、現在に近い規模になっており、神仏分離の影響や、徳川家祈願所であった事から徳川家の庇護がなくなった影響を伺える。

大正十二年(1923)、関東大震災で社殿を焼失。
その後再建されるものの、昭和二十年(1945)の東京大空襲により再び社殿を焼失。

戦後の昭和二十二年(1947)、近くの「稲荷神社」と相殿「北野天満宮」を合併合祀。
昭和二十六年(1947)、「石清水八幡宮」か現在の「蔵前神社」と改称している。

平成七年(1995)、創建当社から境内社として鎮座していた「鹽竃神社」(鹽竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。

路地裏の境内

江戸通りから1本路地に入ったところに鎮座する当社。
かつては200石の朱印地を賜り、2270余坪を有したとされる当社だが、現在はその面影はなく大変小さな規模の神社となっている。
image鳥居は平成十七年(2005)に建て替えられたもの。
社号碑や玉垣は相撲との繋がりがある歴史から、相撲協会からの奉納によるもの。

鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎があり、正面に社殿。
image戦災で焼失したため、社殿は戦後に再建されたものとなる。
昭和二十六年(1947)に再建され「蔵前神社」に改称されているので、同時期のものであろう。

社殿の左側には境内社の「福徳稲荷神社」が鎮座。
imageその隣に神輿庫という境内となっており、境内の敷地は大変狭い。

古典落語「元犬」などの舞台

当社は古典落語の舞台にもなっている。
「元犬(もといぬ)」「阿武松(おうのまつ)」といった古典落語の舞台として登場する。

「元犬」は文化年間(1804年-1818年)には成立していたと云われる古典演目。
実はその舞台とされる場所は当社の他に「目黒不動尊(瀧泉寺)」がある。
筆者は目黒生まれ目黒育ちのため、目黒不動の流れで馴染み深い演目ではあるのだが、「元犬」のあらすじはこうしたもの。

白犬は人間に近く、信心すれば来世には人間に生まれ変われる。
そんな話を聞き、浅草蔵前の界隈にいた白犬が人間に生まれかわりたいと蔵前の八幡様に祈願した。
おかげで人間になれたが、裸で困っているところへ町内の上総屋という人入れ稼業の主人が通りかかり自分の家へ連れて行って食事をさせた上、出入先の隠居のところへ連れて行く。
この隠居は変わった人間を探していたため大変気に入り「四郎」という名前を付かてもらう。
ところが奉公先では犬の習性が出て失敗ばかりをやってしまう。
主人が女中のお元を呼び「お元はいぬか?」と声をあげると「へえ、元は犬でございましたが、今朝がた人間になりました」

(元犬あらすじ抜粋)

「お元はいぬ(いる)か」と「元は犬か」を引っ掛けた地口落ち。
話の流れや、この百度参りをした場所が「蔵前の八幡様」であるか「目黒不動尊(瀧泉寺)」であるかは、噺家によって違うのだが、当社が登場する場合は「蔵前の八幡様」として登場する。

こうした落語「元犬」演目にちなみ、鳥居を潜って右手に「落語元犬像」が建立された。
image平成二十二年(2010)に落語愛好家によって奉納されたという。

なお、この「落語元犬像」の隣には、上述した「力持」の技芸の奉納を歌川國安が描いた錦絵の記念碑が置かれている。
大変狭い敷地ながらも、こうして縁のある記念像や記念碑などが奉納されており、崇敬者や氏子による崇敬を感じる事ができる。

御朱印は社務所にて。
宮司様が大変丁寧に対応して下さった。

所感

徳川綱吉によって創建さて、徳川将軍家祈願所として崇敬を集めた当社。
かつては勧請大相撲が幾度も行われ、古典落語の舞台にもなったりと、将軍家のみならず庶民から崇敬を集めた、江戸を代表する神社の一社であった事が分かる。
一部では江戸の北極星信仰の一社とされパワースポットの地として訪れる方もいるとか。
その後、明治維新と戦争を経て、現在は大変規模の小さな神社となっている。
社殿も戦災で焼失したため、戦後の再建となっており、徳川将軍家に庇護された江戸時代の面影を見ることはできない。
しかしながら、相撲協会よりの社号碑奉納、崇敬者や氏子による記念像や記念碑の奉納など、当社を崇敬しその歴史を重んじる方々の支えを感じる事ができるのが喜ばしい。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 本殿 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 福徳稲荷神社 ]
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[ 神輿庫 ]
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[ 落語元犬像 ]
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[ 力持碑 ]
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[ 社務所 ]
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[ 紫陽花 ]
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[ 案内板 ]
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