西五反田氷川神社 / 東京都品川区

神社情報

西五反田氷川神社(にしごたんだひかわじんじゃ)

御祭神:素盞嗚尊
相殿神:誉田別尊・建御名方命・面足命・惶根命
社格等:村社
例大祭:9月13日に近い金・土・日曜
所在地:東京都品川区西五反田5-6-3
最寄駅:不動前駅・五反田駅
公式サイト:http://www.hikawa-maturi.com/

御由緒

 当社の御創立年月日は不詳であるが、新篇武蔵風土記の記載によれば、元禄年間社地免除のことが記されてあり、それ以前の創建で、初めは素盞鳴尊一柱を御祭神とし、村内の崇敬の鎮守であった。
 村内の中央に位置し、南面の台地樹木繁茂し目黒川を眼下に見下す丘上の森に祀られてあり、村内部落の住民は農耕を主した人達で、鎌倉幕府後北条上杉の合戦の、高繩台の落武者の永住せし者多く、村の中央の台地に社を建て五穀豊穣住居者の安穏を祈られたものである。
 境内は村の往還道路より入り三十有余段の階段を上り老杉生茂り静寂な神の森とし崖の中央より湶水は現在も尚渇るゝことなく神水として村内飲料農耕の基として湶出ている、古代先住民の居住せし跡もあり、土器等の、産出もうかがわれている。
 明治四十一年九月十三日に村内に鎮座されていた下記の四柱を合祀し、桐ヶ谷村の総鎮守として現在に至る。
 荏原郡桐ヶ谷村宮の上百六十八番地
 無格社 八幡神社 誉田別尊
 同 村   幡ヶ谷二百九十四番地
 無格杜 諏訪神社 建御名方命
 同 村   宮の上二百二十六番地
 無格杜 広智神社 於母泥流神
 同 村   幡ヶ谷五百四十番地
 無格杜 広智神社 阿夜訶志古泥神公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2017/07/19(御朱印拝受/ブログ内の画像撮影)
参拝日:2015/04/06(御朱印拝受)
参拝日:ほぼ毎月

御朱印

初穂料:300円
社務所(参集殿)にて。

[2017/07/19拝受]

[2015/04/06拝受]

歴史考察

旧桐ヶ谷村鎮守の氷川様

東京都品川区西五反田に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧桐ヶ谷村の鎮守。
正式名称は「氷川神社」であるが、他との区別のため「西五反田氷川神社」とさせて頂く。
旧桐ヶ谷村の鎮守だったため「桐ヶ谷氷川神社」と呼称される事もある。
かつて境内には「氷川の滝(桐ヶ谷の滝)」と呼ばれる滝があり、現在もその名残が残る。

桐ヶ谷村の成立と共に創建

社伝によると創建年代は不詳。
村の開拓と共に創建されたと伝わる。

当地周辺は、古くは桐ヶ谷村と呼ばれた村であった。
室町時代には農民の定住があったとされており、開墾された地であった事が伺える。

由緒沿革によると、後北条氏と上杉氏の戦いの際に、落武者が永住したとも伝えられている。おそらく永禄三年(1560)に行われた「小田原城の戦い」後の事であろう。
桐ヶ谷の由来は、昔はこの地が大きな桐林だったと言う説と、この一帯が霧の多い土地であり「霧ヶ谷戸」と言われていたのが転化して「桐ヶ谷」になったと言う説がある。

いずれにせよ当時のこの地はとてものどかな農村であり、当地が桐ヶ谷村として成立する時期に、当社が鎮守として建立されたものと推測できる。
室町時代には農民の定住があり、村の成立は江戸時代初期以前とされているので、当社の創建年代もその付近であろう。

別当寺は現在も隣接する「安楽寺」であった。

「安楽寺」は、松園山宝林院と号し、竪者法印良珊(天正元年1573年寂)が開山したと伝えられており、当社との繋がりも深いため、当社も同時期に創建した可能性も高い。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(桐ヶ谷村)
氷川社
境内除地五段二畝。村の中央にあり。本社は丘上にあり七間に旧尺、拝殿三間四方。石階二十級を下りて鳥居を立、両柱の間九尺。左右に古松あり、囲各一丈八尺余。当社鎮座の年代詳ならず。昔は年貢地なりしか元禄年中より社地免除ありしと云。祭礼年々正月十五日、備射講と云ことを執行し神楽を奏す。村内安楽寺持。下四社同じ。
末社。稲荷社。祭礼年々二月初午の日。これも本社の如く備射神楽等を執行す。

桐ヶ谷村の「氷川社」と記されているのが当社。
「元禄年中より社地免除あり」との記載があるため、元禄年間(1688年-1704年)には既に当社が存在していた事が分かる。
「左右に古松あり」と記されているように、境内には古い松があり、当時からかなり古さを伝える境内であったようだ。

(桐ヶ谷村)
八幡社
除地一段五畝。村南の丘上にあり。
諏訪社
除地三畝。是も村南にて相州街道の中にあり。
第六天社
見捨地。村西にあり。是も小雨なり。
第六天社
下目黒道の往還にあり。小祠。

桐ヶ谷村には当社の他に、八幡社・諏訪社・第六天社(二社)の4社が鎮座していた事が記されている。
これらはいずれも後に当社に合祀される事となる。

嘉永四年(1851)、村民が僅かに湧き出ていた泉を大きく開いて滝を作る。
これが「氷川の滝」「桐ヶ谷の滝」と呼ばれ、涼を取るための名所となったと云う。

明治以降と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治六年(1873)、当社は村社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制の施行に伴い、上大崎村・下大崎村・谷山村・桐ヶ谷村・居木橋村の5村と、芝区白金猿町が合併し、大崎村が成立。
当地は大崎村桐ヶ谷となる。

明治四十二年(1909)の古地図がある。
当時の当地周辺の地理関係を確認する事ができる。

今昔マップ on the webより)

当時も現在も当社の鎮座地は変わらない。
今は公式の地名として残っていない「桐ヶ谷」の地名を見る事ができる。
更には「火葬場」の文字も見ることができ、これは現在もある「桐ヶ谷斎場」である。

明治四十一年(1908)、同村内にあった八幡神社、諏訪神社、広智神社(かつての第六天神社)2社を合祀。
これが『新編武蔵風土記稿』に記されている4社。

同年、「袖ヶ崎神社」(現・品川区東五反田3丁目)の境内社であった忍田稲荷大神を末社として遷している。

これらは当時の政府の合祀政策によるものであろう。一村一社を推進したため、桐ヶ谷村の鎮守であった当社に合祀されたと思われる。

昭和十三年(1938)、社殿を再造営。
これが現在の社殿であり、第二次世界大戦の戦災を免れている。

昭和二十八年(1953)、当社運営の「氷川幼稚園」が開園。

現在は閉園している。

昭和四十一年(1966)、現在の社務所(参集殿)が完成。
昭和四十三年(1968)、神輿庫が完成。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

不動前駅前商店街を抜けた先の長い参道

最寄駅の不動前駅から、駅前商店街を東へ真っ直ぐ進んだ先に鎮座。
北東向きに長い参道が続いている。

住宅街となっている区画に鎮座しているのだが、比較的長い参道がありよい空気。
参道の左手には児童公園もあり、当社がかつて「氷川幼稚園」を運営していた面影も残る。

参道の先には石段。
右手に上っていく形。
石段を上った先に手水舎となる。

手水舎は綺麗に水が張られている。
手拭き用に手ぬぐいも掛かっており有り難い。

戦前の社殿が現存・境内社の忍田稲荷大明神

社殿は昭和十三年(1938)に竣工したもの。
権現造りの銅板葺社殿。
中々立派な造りで、戦災を免れ現存しているのが素晴らしい。
拝殿には御神前と記された提灯や奉納者の額などが掛けられ地域からの崇敬が伝わる。
本殿も綺麗に維持されている。

境内社は社殿の右手に「忍田稲荷大明神」。
元々は「袖ヶ崎神社」(現・品川区東五反田3丁目)の境内にあったといい、明治四十一年(1908)に当社の末社となり遷座。
保延三年(1137)に京都稲荷山より忍田稲荷大明神を勧請したと伝えられており、かなり古い由緒を持つお稲荷様。
ちなみに桜の季節になるとこの境内社は桜の木でとても綺麗な境内となる。

「袖ヶ崎神社」は現在は「雉子神社」の兼務社となっている。
旧上大崎村・旧下大崎村・旧谷山村の総鎮守。目黒駅や五反田駅周辺の氏神。徳川家光による命名「雉子の宮」。徳川家の庇護と葵紋。『必殺仕事人』『仕掛人・藤枝梅安』シリーズの舞台。ビルの敷地内に吹き抜けで鎮座。荏原宮・大鳥明神と称される。御朱印。

氷川の滝(桐ヶ谷の滝)と呼ばれたかつての名所

当社周辺は武蔵野台地の末端にあたり、古くは湧き水が多くあったと伝えられている。

幕末には、本殿の右側の崖に「氷川の滝」とも「桐ヶ谷の滝」とも呼ばれる滝があった。
嘉永四年(1851)に村民が僅かに湧き出ていた泉を大きく開いて作ったと伝わる。

かなりの水量でいつしか「都内七瀑布」の一つに数えられた。
別当寺であった「安楽寺」の池にも注がれていたといい、「氷川の懸泉」とも呼ばれた。
昔は飲み水として利用され、夏ともなれば各地から涼を求めて人々が集まってきたと云う。

明治に刊行された『東京近郊名所図会』など、明治から大正にかけての地誌などに見る事ができ、当地の名物であったようだ。

(一日の行楽より)

こちらは大正七年(1918)に刊行された田山花袋著『一日の行楽』から「桐ヶ谷の瀧」。
都内で1日で楽しめる行楽を紹介した書物で、当社の滝が記されている。

 目黒の停車場から行人坂を経て行っても好いが、五反田から真直に行けばもつと近い、しかし、大抵は目黒の次手に廻るのが順序である。
桐ヶ谷には、安楽寺といふ寺がある。そこに連理塚といふのがある。権八小紫の墓である。小紫が権八の跡を追つて行人坂上に自刃したのを、寺僧が持つて来て此処に埋めたのであるといふことである。目黒の比翼塚よりは此方の方が本當らしい。
ここから北に當つて、こんもりした森がある。老樹鬱蒼、昼猶暗しといふ趣がある。その中に氷川神社があつて、瀧はその山の中段から落ちている。十二社の瀧、目黒の瀧、王子の瀧と同じやうに、夏は店などが出来て、サイダやビールなどを売っている。瀧にかかりに来る人もなかりにある。
交通の不便な時代にあつては、酷暑に苦しんだ東京の人達は、かういふところに涼を追うたけれど、今では、皆な温泉場とか海水浴とかに出かけて、かういう処に瀧を浴びに来るものも少なくなつた。今では、近所の人達がをりをりやつて来る位のものである。
かうした瀧の中では、此処はあまりすぐれた方とは言はれない。(一日の行楽より)

当社は老樹が鬱蒼と茂った森の中の神社であったと記されていて、滝は中段から流れ落ちていた。
かつては、夏には店が出てサイダーやビールなどを売ってきて、滝を浴びに来る人も多かったと云うが、この頃には夏になると温泉や海水浴がレジャーとして人気となり、今はこうした滝を浴びに来る人はいなくなり、近所の人達が来るような小さな滝となっていたようだ。
幕末から明治にかけて人気を博し、大正の頃には廃れつつあった事が伺える。

湧水は一時は枯水状態となったものの、境内の改修工事で再び湧き出すようになっている。
参道の右手が崖状になっており、昔の氷川の滝。
現在は昔ほどの勢いには遠く及ばないものの、若干の湧水が流れており、氷川の滝の面影を残している。
かつては石段の左手のこうした部分にも水が流れていた事が偲ばれる。

手水舎の水もこの湧水によるもの。氷川の滝と呼ばれた姿は見えないが、それでもこうして湧水がまた出て、手水舎や若干の面影を残した水の流れを見る事ができるのは、とても素晴らしい事に思う。

この湧水の横には幕末の鉄砲石が置かれている。
幕末の頃、勤皇の志士達が、品川宿の料亭・観桜館の庭で鉄砲の練習をしたとき、標的にした石と伝えられている。
弾痕と思われる凹みが残っている。

御朱印は社務所(参集殿)にて。
とても丁寧な対応をして頂いた。

所感

旧桐ヶ谷村の鎮守である当社。
筆者の現在の住まいからも比較的近く、実家からもお隣の氏子区域であったため、幼少より時折訪れており、初詣になると氏神様の他にいくつか寺社を回り、こちらまで足を伸ばして参拝するのがお決まりで、筆者にとっては馴染み深い神社。
長い参道は季節によっては木が茂っており、今は僅かにしか出ていない湧水ではあるが、閑静でいて涼も取れ中々よい雰囲気になる。
現在は閉園しているものの、かつては幼稚園を運営されていた事もあり、境内の隅には石で出来た滑り台のようなものもあったりと、当時の面影を少し感じる事もできる。
こうした氏子の育成を担っていたからこそ、現在も西五反田周辺の氏子区域では例大祭になると神輿などが大いに盛り上がりを見せるのだろう。
地域に親しまれた鎮守であり、良い神社だと思う。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]





[ 狛犬 ]


[ 参道 ]


[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]










[ 本殿 ]

[ 授与所 ]

[ 忍田稲荷大明神]




[ 神楽殿 ]

[ 神輿庫 ]

[ 古札納所 ]

[ 御神木 ]


[ 社務所(参集殿) ]

[ 湧水(元・氷川の滝) ]




[ 鉄砲石 ]



[ 案内板 ]

Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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