浮木神社(漢槎宮) / 秋田県仙北市

仙北市

神社情報

浮木神社(うききじんしゃ/うきじんじゃ)
漢槎宮(かんさぐう/かんさきゅう)

御祭神:金鶴姫之命
社格等:─
例大祭:─
所在地:秋田県仙北市西木町西明寺潟尻
最寄駅:田沢湖駅(かなり距離あり)
公式サイト:─

御由緒

潟尻明神ともいい、1769年、秋田藩士益戸滄洲によって漢槎宮と命名されたことから、この田沢湖のことを漢槎湖あるいはただ漢槎と呼ぶようになりました。拝殿正面に揚げられた漢槎宮の扁額は滄洲が遊覧のおり、船頭をつとめた少年斉藤千太郎に書き与えたものです。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/10/15

御朱印

初穂料:300円
拝殿前にて。

歴史考察

田沢湖畔に鎮座・景勝地の小さな社

秋田県仙北市西木町に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、田沢湖畔に鎮座。
田沢湖に古くから伝わる「辰子伝説」の辰子を御祭神・金鶴姫之命として祀る。
流れ着いた大木の浮木を祀った事から「浮木神社」と扁額が掲げられるが、江戸時代に秋田藩士の俳人・益戸滄洲によって名付けられた「漢槎宮」と呼ばれる事も多い。
他に地域の人々からは「潟尻明神」と称され信仰を集めていた。

大木の浮木を祀った事で浮木神社

創建年代は不詳。
古くから当地に祀られていた小さな祠であったと伝えられている。

社伝によると、流れ着いた大木の浮木を祀ったと云う。
その事から「浮木神社」と称された。
当社拝殿の扁額にも「浮木神社」の号が掲げられている。

当社より北へ1.5km程の距離に古くは「浮木の宮」と呼ばれた「明神堂」という小祠が置かれており、また「御座石神社」にも明治になって同村にある「浮木神社」を合祀したと伝えられている事から、田沢湖畔には、古くから浮木を祀る信仰が浸透していた事が窺える。

古い史料を読むと、以下のような記述が記されている。

江戸時代以前の田沢湖には、いつも大きな浮木が浮いており、波によって揺れ、大蛇や龍が泳ぐように見えたと云う。
ある時、この浮木の一部を切り取った人物がいたのだが、病魔に冒されて死亡しただけでなく、その家が断絶してしまった。
人々はこれを畏れ「浮木明神」「槎木明神」として祀り、祠を建てて祀った。

これが当社や当地に浸透していた浮木に対する信仰。
当社もそうした田沢湖の浮木に対する崇敬で創建したのであろう。

また、当地周辺は、潟尻(かたじり)と呼ばれているため、古くから現在に至るまで潟尻集落の人々は「潟尻明神」と呼び崇敬したと云う。

秋田藩士の俳人・益戸滄洲によって漢槎宮と名付けられる

明和六年(1769)、秋田藩士・益戸滄洲によって「漢槎宮(かんさぐう/かんさきゅう)」と命名。

益戸滄洲(ますどそうしゅう)は、江戸時代中期の秋田藩士。秋田藩の大番組頭や勘定奉行を勤めた人物であるが、俳人・儒者・漢学者としても高名。滄洲は田沢湖を探勝した際に『問槎紀行』を執筆しており、漢文体の紀行文として田沢湖の歴史を伝える貴重な史料となっている。

滄洲は、田沢湖で浮木を見つけ、その想いを漢詩にしたためた。
船頭が漢詩と浮木について献額を願ったので、「浮木の宮」の意味で「漢槎宮」と額に書いて与えたとされる。

当社の拝殿の内部には、大変古く腐食した「漢槎宮」の扁額が掲げられており、これは益戸滄州によるもので、船頭を務めた少年斉藤千太郎に与えたものであると伝わる。

当社が「漢槎宮」と呼ばれた事から、田沢湖を「漢槎湖」または「槎湖」と呼ぶようにもなったと云う。

田沢湖に伝わる辰子伝説

当社は浮木を祀り、御祭神は金鶴姫之命とされる。

金鶴姫之命は、田沢湖に伝わる「辰子伝説」の辰子の本名・金鶴子が由来。田沢湖の主とされる辰子を祀る神社と云える。

田沢湖には古くから「辰子伝説」と呼ばれる、美しい辰子の伝説が残る。

昔、神代村の神成沢に辰子と云う名の類まれな美しい娘が暮らしていた。
自分の美貌を自覚した辰子は、いつまでも若く美しくありたいと思うようになる。
永遠の美しさを得るために、村の背後にある院内岳の大蔵観音に百夜の願掛けを行う。
百日目の夜、観音様が現れ「それ程までに永遠の美しさを願うなら、山の北に湧く泉の水を飲むと良い」と示し、辰子はそのお告げに従って、泉の水を飲み始めた。
ところが、飲めば飲むほど喉が渇き、いくら飲んでも喉の渇きが消えない。
ついに辰子は腹ばいになり、水の面に口をつけて飲み続け、辰子の姿はいつしか龍へと変化してしまった。
自らの身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、田沢湖の主とり暮らすようになったと云う。

田沢湖に伝わる「辰子伝説」と呼ばれるものであり、当社はそうした田沢湖の主・辰子を祀っている。
当社のすぐ近くには現在の田沢湖のシンボルにもなっている「たつこ像」が置かれている。

辰子は古い史料には「鶴子」とも記されていて、「田鶴子」という表記も見れる事から「田鶴子」と書いて「たつこ」と呼んだと思われる。田沢湖も「辰子潟」と記録されている事もあり、古くから辰子伝説が残っていた事が窺えるが、辰子と呼ぶようになったのは明治以降と見られており、古くは鶴子・金鶴子などと呼ばれていた。

他にも、辰子伝説に関連する伝承が幾つか残る。

  • 龍となった辰子と対面し悲しむ母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入るとクニマスとなったという伝説。(昭和十五年に別の水系の水を導入するまで、田沢湖はクニマスが名物なとても綺麗な水質の湖であった。)
  • 辰子と同じく人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、男鹿半島の付け根の八郎潟という湖に住んでいたと云う。八郎は、いつしか山の田沢湖の主・辰子に惹かれ、辰子と共に田沢湖に暮らすようになった。主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったという伝説。(田沢湖は日本で最も深い湖として知られる。)

こうした田沢湖の主・辰子に対する伝説が、当社への信仰にも結びついたと推測される。

戦前の当社の古写真・戦後にたつこ像が完成

明治になり神仏分離。

田沢湖という名称は、明治時代以降に定着したと推測されている。それまでは、辰子伝説から「辰子潟」、田沢村から「田沢の潟」などと称されていた。

戦前の当社の古写真では、当時の当社の様子を知る事ができる。

(十和田湖、田沢湖、男鹿半島案内)

大正十三年(1924)に鉄道省より発行された『十和田湖、田沢湖、男鹿半島案内』。
田沢湖の案内として「潟尻の漢槎宮より駒ヶ嶽を望む」と案内されている。
現在と同じように田沢湖に張り出すような形で鎮座していた事が分かる。

また説明文に興味深い事が記されているので引用したい。

岸に沿うて南下すると、小松澤の附近に小祠あり、岸を離るる数十間の處の湖中に長さ数丈の古木倒立し暗影浮動している。土地の人は槎木明神と称し神聖視している。昔時この神木浮いて湖岸を漂っていたと云う傳説がある。そして伐採は厳禁されている。今から百年前後の頃、角館町山根の足軽に柴田正三郎と云う者があった。神木を沈香の類と見做し、人を役して水上にある部分を伐つた。以来神木は動かなくなったと云ふ。そして正三郎は程なく病没し其家は断絶してしまった。(『十和田湖、田沢湖、男鹿半島案内』より)

これが当社が祀っていた浮木にまつわる伝承。
現在も当社より北へ1.5km程の距離に、古くは「浮木の宮」と呼ばれた「明神堂」という小祠が置かれており、その小祠についての文章となっているが、浮木を神聖視していて伐採は禁忌とされていた事などが記してある。

此處から南下すれば、湖水決するところ、潟尻川を形作り、潟尻と云う處がある。一橋を隔てて、十数間四方の平盤厳上に一祠あり、夏期水涸れた時は岩面露出しているか、其他の時季では水深尺餘、社殿水に泛んでいる。即ち俗称潟尻の明神漢槎宮である、宮の名称は明和七年益戸滄洲の命名にかかり、前方遥かに駒ヶ嶽の雄姿を仰ぎ、湖岸の翠巒影を蘸す幽寂境が一目眸に萃めらるる。(『十和田湖、田沢湖、男鹿半島案内』より)

続いて記されているのが当社についての記述。
潟尻という集落で、「潟尻の明神」とも呼ばれる「漢槎宮」と記述が記してある。
夏期は田沢湖の水量が少なく岩面が露出しているが、他の時期は岩面が沈み、社殿のみ浮かぶような姿であったと記してある。

上の古写真が正にそうした様子であり、水面に浮かぶ社殿なのが分かる。

昭和十五年(1940)、田沢湖に別の水系である玉川温泉から強酸性の水が導入され、その結果、当地の名産であり辰子伝説にも登場するクニマスなどの魚類を見れなくなっている。

それまでの水質は、摩周湖に迫る透明度を誇り、水産生物も豊富であったと云う。現在は中和対策によって、透明度が少しずつ回復しつつある。

昭和四十三年(1968)、当社のすぐ近くに舟越保武作「たつこ像」が完成。
戦後に秋田の新たな観光地として脚光を浴び始めた田沢湖のシンボルとして、当時の秋田県知事主導のもと製作が進められた。

たつこ像 観光情報 | 仙北市

境内案内

田沢湖畔に張り出すように鎮座

日本一の水深を誇る秋田県仙北市の田沢湖。
その田沢湖の南西の湖畔・かつて潟尻と呼ばれた一画に鎮座。
社頭に植えられた木は桜の木で、桜の季節になると綺麗に咲くと云う。

県道247号線沿いに小さな社があり、田沢湖のシンボルとなっている「たつこ像」の近くにあるため、当社も名勝の一社として観光客が多く訪れる。
鳥居があり、橋が架かり、その先に社殿という小さな社。

これは戦前の古写真を見ても変わらず、江戸時代に「漢槎宮」と名付けられた頃から変わらないのであろう。
案内板には「漢槎宮(浮木神社)」と記してある。
鳥居の先に一対の狛犬で、この狛犬は新しく奉納されたもの。

湖畔に佇む社殿・魚の餌も販売

橋を渡るとその先に小さな社殿。
田沢湖は季節によって水量の増減がかなりあるようで、時期によっては水面に浮かぶようにも見えると云う。
扁額には「浮木神社」の文字が掲げられている。

「浮木神社」「漢槎宮」「潟尻明神」など様々な呼称があるが、現在は正式には「浮木神社」と呼び、通称「漢槎宮」という扱いになるようだ。

社殿横には、さかなのえさ(100円)の販売も行っている。
現在はかつてのクニマスなどはいないが、うぐいという魚が大量に泳ぐようになっている。
餌を求めて人が近付くと凄い勢いで集まってくるため、密かな名物として人気。

美と縁結びスポットとしても人気

拝殿前は授与所を兼務しており、基本的に人が常駐。
縁結び、絆守り、辰子守りといった授与品が用意され、御朱印もこちらで対応して頂ける。

当社は景勝地としてだけでなく、現在は「美」と「縁結び」の神社としても人気を集めている。
これは上述した辰子と八郎太郎の伝説によるもの。

類まれな美しい娘・辰子が美を求めるあまり、龍となり、田沢湖の主となってしまう。
そんな辰子と同じく人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、男鹿半島の付け根の八郎潟という湖に住んでいたと云う。
八郎は、いつしか山の田沢湖の主・辰子に惹かれ、辰子と共に田沢湖に暮らすようになった。
主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったという伝説。(田沢湖は日本で最も深い湖として知られる。)

こうした伝説から美を求めた辰子による美の神。
辰子と八郎太郎という龍神となった男女が住む田沢湖は縁結びの神として崇敬を集めている。

同じく辰子を祀る北側湖畔の「御座石神社」は、美貌成就の御神徳で知られ、共に参拝される方が多い。
御座石神社 / 秋田県仙北市
美の守護神を祀る田沢湖畔の神社。美貌成就の御神徳。辰子姫が美を求め龍となる・辰子伝説。景勝地として名高い田沢湖畔に立つ朱色の鳥居。辰子姫が飲み龍となった泉・潟頭の霊泉。秋田藩主・佐竹義隆が腰を掛け休んだ事から御座石。七色木・雨乞石。御朱印。

田沢湖のシンボルとなった舟越保武作「たつこ像」

当社のすぐ近くには田沢湖のシンボルとなった「たつこ像」が置かれている。
昭和四十三年(1968)、田沢湖のシンボルとして、当時の秋田県知事主導のもと製作が進められ、製作者は彫刻家・舟越保武。

舟越保武(ふなこしやすたけ)は、戦後日本を代表する彫刻家。岩手県二戸郡一戸町生まれのカトリック信者で、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材として作品で知られる。

制作の打診を受けた舟越保武は、構想に2年余り、四季を通じて田沢湖にふさわしい像をと何度も当地を訪問し、試作を繰り返したと云う。
製作経費は全額寄付によるもので、寄付者98名から6,722,000円が寄せられた。

現在は田沢湖のシンボルとして名所となっている。
辰子伝説の辰子をモデルとしたブロンズ像である。

田沢湖畔には辰子伝説にまつわる辰子の像が4体存在する。

  1. 当社近くの舟越保武作「たつこ像」
  2. 北の湖畔にある「姫観音像」
  3. 東の湖畔にある「辰子観音」
  4. 御座石神社」境内にある「たつこ姫像」
御座石神社 / 秋田県仙北市
美の守護神を祀る田沢湖畔の神社。美貌成就の御神徳。辰子姫が美を求め龍となる・辰子伝説。景勝地として名高い田沢湖畔に立つ朱色の鳥居。辰子姫が飲み龍となった泉・潟頭の霊泉。秋田藩主・佐竹義隆が腰を掛け休んだ事から御座石。七色木・雨乞石。御朱印。

田沢湖周辺の辰子伝説を伝える像なので、ぐるりと回るように散策するのもよいかもしれない。

所感

田沢湖畔に張り出すように鎮座する当社。
江戸時代に「漢槎宮」と名付けられたように、古くからこのような形で鎮座していた事が窺える。
田沢湖と浮木に対する信仰というのは、古い史料に幾つか見る事ができ、当社はそうした田沢湖畔に広まった浮木に対する信仰の一社と云う事ができるだろう。
更に田沢湖に伝わる「辰子伝説」が加わり、御祭神は辰子を神格化した金鶴姫之命だと云う。
現在は田沢湖のシンボルにもなっている舟越保武作「たつこ像」と共に、人気の名所となっていて、小さな社ながら社殿内に関係者の常駐があるのも有り難い。
美や縁結びのパワースポットとしてだけでなく、田沢湖の信仰の歴史を伝える、そんな興味深い神社である。

神社画像

[ 社頭 ]

[ 鳥居 ]

[ 狛犬 ]


[ 社殿 ]

[ 扁額 ]

[ 拝殿前 ]

[ さかなのえさ ]

[ 案内板 ]

[ たつこ像 ]


Google Maps

コメント

  1. 小林 忠通 より:

    看板に、漢槎宮のルビは”かんさぐう”、浮木神社は“うききじんじゃ”とあります。
    この看板を昨日訪問して確認したところ、ルビは白く塗られて消されていました。
    『田沢湖案内 初版』は明治44年の発行。大正10年に4版でルビを追加され、漢槎宮は“かんさきう”(かんさきゅう)、浮木神社は“うきじんじゃ”、槎木明神は“うききみょうじん”のルビになっています。4版は秋田県立図書館にあります。

  2. 神社メモ 神社メモ より:

    ■小林忠通様
    とても貴重かつ有益な情報ありがとうございます。

    「漢槎宮」「浮木神社」の読み方については、特に違和感もなく「かんさぐう」「うききじんじゃ」と紹介していました。
    看板にルビが振られていた事と、授与所にいらした方をお話したところ、上記の読みで発言していたので、違和感を感じる事もなかったのですが、今は看板のルビが消されているのですね。

    そうなると何らかの読みの違いがあるのか、以前訪れた時も上書きされたようなルビだったので、消えてしまったのか…。
    都内在住で気軽に現地に行くこともできないので、詳しい調査ができないのですが、資料のご提示もありがとうございます。

    「かんさきゅう」「うきじんじゃ」と読み方はしっくりきます。
    本来はこちらの読み方が正しいのかもしれません。
    ただ古い資料を眺める事がよくあるのですが、戦前と戦後だと読みが変わっている神社や当時の資料でもバラバラな読みを採用している例が結構あるため、当時と現在では読み方が変わって浸透している可能性もあるのかなと思います。

    また現地に行く機会がありましたら、関係者の方などに直接お話を伺ってみますね。
    念の為、教えて頂いた読み方も追記で記載させていただきます。

    また何かありましたらぜひ教えて下さい。
    ありがとうございました。

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