守谷総鎮守八坂神社 / 茨城県守谷市

守谷市
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神社情報

守谷総鎮守八坂神社(もりやそうちんじゅやさかじんじゃ)

御祭神:素戔嗚尊(牛頭天王)
社格等:村社
例大祭:7月最終土曜(祇園祭)
所在地:茨城県守谷市本町629
最寄駅:守谷駅
公式サイト:http://www.yasakajinja.or.jp/

御由緒

 八坂神社は今から約千二百年前の大同元年九月二十七日に守谷町本宿天の窪の地に神主吉信により奉祀されたのが始まりと言われている。
 お祀りされているご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、別名牛頭天王(ゴズテンノウ)とも呼ばれていたところから古老たちは最近まで天王様と呼び親しまれ多くの人々の信仰を集めてきた。
 慶長三年に土岐山城守によって現在の地に社殿を造営遷座したと伝えられている。その後、寛文二年に火災により焼失、同年堀田備中守により再建されたが、寛文五年に再び火災により焼失した。
 寛文十一年、城主酒井河内守によって再造営、元禄五年関宿城牧野備後守により大修復され、その後、幾度かの改修を図り今に至っている
 明治初年に天王社から現在の八坂神社に社号が変更されている。八坂とは弥栄(いやさか)の意味を持ち、ますます栄える事の意味を持つ社号である。また、八坂神社の神紋は織田木瓜と巴紋である。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2019/02/20(御朱印拝受/御朱印帳拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/04/23(ブログ内画像撮影)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

最新の御朱印情報
令和元年5月1日より見開きの新しい御朱印を開始
※詳細は公式Twitterにて。

御朱印帳

初穂料:1,700円
社務所にて。

平成二十九年(2017)よりオリジナルの御朱印帳の頒布を開始。
御祭神のスサノオによるヤマタノオロチ退治伝説をデザインしたもの。
十拳剣を掴みヤマタノオロチを退治する姿を描いている。

[ 表面 ]

[ 裏面 ]

歴史考察

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守谷総鎮守の八坂神社(天王様)

茨城県守谷市本町に鎮座する神社。
旧社格は村社で、守谷の総鎮守。
正式名称は「八坂神社」だが、他との区別のため「守谷総鎮守八坂神社」とさせて頂く。
かつては牛頭天王(スサノオと習合)を祀る「牛頭天王社」であった事から、天王様と呼び親しまれた祇園信仰の神社。
例大祭の祇園祭は多くの大幟が揚がる事から「幟祭」とも称され、北総三大祇園祭の1つに数えられ、大変賑わう事でも知られている。

平安時代に牛頭天王を祀り創建

社伝によると、大同元年(806)に創建と伝わる。
守谷町本宿天の窪と呼ばれる地(現・守谷市高野)に神主吉信により創建。

創建地の「守谷町本宿天の窪」と呼ばれる地は、現在の守谷市高野周辺。現在の鎮座地よりも南側に創建していたと伝わる。

守谷郷の守護として牛頭天王を祀ったのが始まりとされている。

牛頭天王(ごずてんのう)
日本における神仏習合の神。
釈迦の生誕地に因む祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされたため、牛頭天王を祀る信仰を祇園信仰(ぎおんしんこう)と称する。
総本社は祇園祭でも知られる京都の「八坂神社」で、全国の「八坂神社」「天王社」「須賀神社」などに祇園信仰の神として祀られた。
神道ではスサノオと習合したため、明治の神仏分離後の神社では、御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)に改められたところが多い。

牛頭天王を祀ったため「牛頭天王宮」「天王社」などと称され信仰を集めた。

守谷の地名由来・平将門伝説も残る守谷

守谷の鎮守とされた当社であるが、中世の記録は不詳な部分が多い。
そのため守谷の歴史を軽く触れたい。

「守谷」は古い地名で、その由来には諸説ある。

守谷(もりや)の地名由来
・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に当地を訪れ、鬱蒼と茂る森を見た際に驚嘆し「森なる哉」(もりなるかな)と発した事から「森哉」(もりや)となった説。
・平将門が当地に守谷城を築いた際、丘が高く谷が深かったため「守るに易き谷」と評した事に由来する説。
他にも諸説伝わる。
地名の由来 守谷市公式サイト-Moriya City
守谷の地名の由来を調べてみましょう。

中でも平将門については守谷市内に多くの伝説や伝承が残されている。

平将門(たいらのまさかど)
平安時代中期の関東の豪族・桓武天皇の五世子孫。
下総国・常陸国で伯父の平国香・平良兼ら一族と将門との争いが発生し、一族の争いが、やがては関東諸国を巻き込む争いへ発展する事になり「平将門の乱」が勃発。
争いの延長でやむを得ず将門は国府を襲撃して印綬を没収、関東一円を手中に収め京の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇(しんのう)」を自称し、独自に岩井(現・茨城県坂東市)に政庁を置いて東国(坂東)の独立を標榜した。
朝廷は将門を朝敵とみなし討伐軍を結成、天慶三年(940)2月14日、藤原秀郷・平貞盛らとの戦いで、飛んできた矢が将門の額に命中し討死。
将門の首は平安京へ運ばれ、晒し首にされた。獄門(晒し首)を歴史上で確認できる最も古く確実な例が将門である。

(芳年武者旡類 相模次郎平将門)

幕末から明治前期に活躍した浮世絵師・月岡芳年の「芳年武者旡類 相模次郎平将門」。相模次郎は将門が称した「名相馬小次郎」をもじったもの。将門の勇猛な戦いぶりを描いた。

守谷城(現・守谷城址公園)は平将門が築城したという伝説が残る。
他にも守谷市内に伝わる将門伝説については、守谷市公式サイトをご覧頂きたい。

平将門伝説 守谷市公式サイト-Moriya City
守谷の平将門伝説を紹介します。
なお、守谷城を築城しのが将門だと云うのは伝承で、実際は後世の相馬氏(将門の子孫とも伝わる)とも推測されている。

鎌倉時代になると、守谷城は相馬氏(下総相馬氏)の本城となる。

相馬氏(そうまし)
初代の相馬師常は、千葉常胤(千葉氏中興の祖)の次男。
師常が父・常胤より相馬郡相馬御厨(現・千葉県北西部)を相続されたことに始まる。
伝承によると師常は平将門の子孫とされる信田師国の養子であったと云う。

鎌倉時代後期には内紛によって衰退。
室町時代に入り、古河公方に従属して守谷城を本拠地として再興した。

記録としては残っていないものの、守谷鎮守であった当社は、相馬氏など守谷を所領とした武将からも崇敬が篤かったと推測される。

土岐山城守によって現在地へ遷座

天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。
相馬氏は後北条方についたが、浅野長政らの勧告を受け降伏し、守谷城を開城。

同年、徳川家康が関東移封で江戸入り。
徳川家康の命により、相馬氏に代わって土岐定政が守谷一万石として治める事となった。

これが守谷城を藩庁とした守谷藩の起源。
土岐定政(ときさだまさ)/土岐山城守(ときやましろのかみ)
土岐氏流明智氏の系統で、戦国時代の武将。
徳川家康の家臣となり軍功を挙げたため、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。
文禄二年(1593)、従五位下・山城守に叙任された上、没落した土岐家の跡を継いで、大名として再興することが許され、土岐定政に改名し、土岐山城守とも称された。

慶長三年(1598)、守谷の領主・土岐山城守が当社を現在の地に遷座。
社殿を造営したと伝わる。

土岐定政は既に没しており、当社を遷座させた土岐山城守(ときやましろのかみ)とは、その嫡男の土岐定義(ときさだよし)にあたる。その後、江戸時代の守谷は土岐氏の他、堀田氏、酒井氏、幕府直轄、関宿藩など領主が転々と変わる事になる。

領主によって再建が繰り返された江戸時代

寛文二年(1662)、火災によって社殿が焼失。
同年、堀田備中守によって社殿が再建。

堀田正俊(ほったまさとし)/堀田備中守(ほったびっちゅうのかみ)
慶安四年(1651)、家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、守谷城1万3,000石の大名となり、従五位下・備中守に叙任された。
その後も順調に昇進し、江戸幕府の老中や大老を担った。

寛文五年(1665)、火災によって再び社殿が焼失。
寛文十一年(1671)、当時の守谷城主・酒井河内守によって再造営。

酒井忠挙(さかいただたか)/酒井河内守(さかいかわちのかみ)
幕府の大老を務めた酒井忠清の長男で、守谷城の最後の城主。
天和元年(1681)に転封となり、守谷城は城主がいない空城となり、城下町としては衰微していく。

その後の守谷は、関宿藩(せきやどはん)の領地となる。

関宿藩(せきやどはん)
下総国(現・千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。
藩庁は関宿城で、様々な譜代大名が藩主となった。
現在の守谷市一帯で見ると、関宿藩の他に天領(幕府領)・田安領・旗本領などに分割された。

元禄五年(1692)、関宿藩主・牧野備後守によって社殿を大修復。

牧野成貞(まきのなりさだ)/牧野備後守(まきのびんごのかみ)
上野館林藩家老で、第5代将軍・徳川綱吉の側用人。
後に下総関宿藩主。

その後も幾度も改修が行われた。

守谷は領主が頻繁に変わった地であるが、江戸時代は各領主によって社殿造営など崇敬を集めた事が窺える。

明治の神仏分離以降の当社の歩み

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、「天王社」から現在の「八坂神社」に社号を改称。
これを機に御祭神も牛頭天王から素戔嗚尊に改められた。

牛頭天王は神仏習合の神のため、神仏分離後は同一神とされた素戔嗚尊(すさのおのみこと)に改められた。

明治五年(1873)、村社に列する。
明治二十二年(1889)、市制町村制によって守谷町・小山村・赤法花村が合併して守谷町が成立。
当社は守谷町の鎮守として崇敬を集めた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地。
守谷町と云う地名を見る事ができ、周辺の地理も興味深い。
まだ守谷駅や路線もなく国道294号線も整備されておらず、旧道の様子も伝わる。
当社を中心に旧道沿いに町家が形成されている事からも、当社を中心に地域が発展した事も窺える。

本宿のあたりが当社の創建の地と思われる。

大正十三年(1924)、社殿を改築。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

平成十四年(2002)、市制施行により守谷市が誕生。
現在の当社は守谷総鎮守として崇敬を集めている。

100年以上無人社だった当社
守谷総鎮守として崇敬を集める当社であるが、江戸時代より100年以上も神職の常駐がない無人社(兼務社)であったと云う。
2000年代に入り、社家ではなかった現在の宮司が就く形で、現在は基本的に常駐のある神社となり、地域からの崇敬はもちろん、遠方からの参拝者も増えている。
詳しくは宮司の個人ブログが大変興味深く面白いのでそちらをご覧頂きたい。
【Trial&Error】守谷総鎮守八坂神社 社家じゃない宮司の個人的なブログ
守谷総鎮守八坂神社の社家じゃない宮司が、神社界に身を投じて感じる出来事を客観的、個人的に綴るブログです。

境内案内

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旧道沿いに鎮座する守谷総鎮守

最寄駅の守谷駅からは南東へ徒歩10分ほどの距離に鎮座。
現在は守谷駅周辺や国道294号線などが主要街道になっているが、古地図を見ると、かつては社頭の旧道がメイン街道であり当社を中心に地域が発展した事が窺える。
玉垣で囲まれた境内、石段の上に平成元年(1989)に奉納された鳥居。
まだ真新しさを感じる社号碑は平成二十九年(2017)に奉納されたばかりで、神紋の三つ巴紋と五瓜に唐花紋が刻まれている。

2015年に参拝時は一之鳥居の奥に、古い木造の両部鳥居が置かれていたが、現在は撤去。以下の画像は2015年参拝時の画像。
以前の両部鳥居の様子
一之鳥居の先にあった木造の両部鳥居は明治元年(1868)に建立されたもの。
2019年4月参拝時は撤去されていたが、令和元年5月に新しい両部鳥居の再建を果たした。(詳細:公式Twitter

鳥居を潜り、参道の右手に手水舎。
水盤は明治三十三年(1900)のもの。

幾度も改修された木造社殿

参道の正面に社殿。
大きな社殿ではないが、村の鎮守といった雰囲気のよい社殿。
木造社殿で幾度も改修されたと云う。
公式サイトには大正十三年(1924)に斎行された上棟祭の写真も掲載されている。
神前幕には神紋の三つ巴紋と五瓜に唐花紋。
本殿は覆殿になっていて、中に江戸時代の古い社殿が納められている。

樹齢400年・幸結びの御神木

拝殿前左手に立派な御神木。
推定樹齢400年前後の欅(けやき)の木。
手を触れる方も多いと云い、幸結びの御神木として整備。
1度分かれた枝が再び合わさっている事から、縁結びや夫婦和合の御利益があると信仰を集めている。
御神木を囲むように絵馬掛。
手前には百度石。
当社境内でも特別な場所として整備されている事が窺える。

また鳥居の左手にも立派な大木。
こちらは銀杏の木。
幹から根の一種である気根(コブ)が多数垂れているのが特徴的で、こうした銀杏は乳銀杏と呼ばれ崇敬を集めている事が多い。

乳銀杏
幹から根の一種である気根(コブ)が垂れていて、これが乳房に似ている事から、子授け・安産・母乳が出るようになど各地で信仰の対象となる事が多い。

社殿裏手の境内社・力石・元禄の石灯籠など

社殿の裏手には小祠が並ぶ。
いずれもかなり古い小祠。
頂いた資料には境内社として、稲荷神社・道祖社・厳島神社・日枝神社と記されている。
当社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の兄神にあたる月読尊(つくよみのみこと)の碑。
両端にはユニークな狛犬も。

境内の左手には力石。
村人が力比べに使ったもの。
現在はこの石に振れると無病息災・子安成長・立身出世の御利益があると云う。

参道途中にある一対の石灯籠がかなり古い上、当時の当社を知る上でも貴重。
元禄八年(1695)に奉納されたもの。
「牛頭天王宮」と記してあり、当社がかつて「牛頭天王宮」と称され信仰を集めていた事を偲ぶ。

牛頭天王宮の御朱印・スサノオとヤマタノオロチの御朱印帳

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。

現在は基本的に常駐がある神社だが、筆者が2015年と2017年に参拝時はご不在であった。

御朱印は「守谷総鎮守 八坂神社 下総國相馬郡」の朱印に、墨書きが特徴的。
墨書きには現在の社号「八坂神社」ではなく、神仏分離前の社号「牛頭天王宮」。

最新の御朱印情報
令和元年5月1日より見開きの新しい御朱印を開始
※詳細は公式Twitterにて。

平成二十九年(2017)よりオリジナルの御朱印帳の頒布も開始。
御祭神のスサノオによるヤマタノオロチ退治伝説をデザインしたもの。

スサノオとヤマタノオロチ伝説
『日本書紀』『古事記』にも記された伝承。
高天原を追放されたスサノオは、美しい娘(クシナダヒメ)と泣いている老夫婦に出会う。
老夫婦には8人の娘がいたが、年に1度やって来るヤマタノオロチと云う、8つの頭と尾を持った怪物によって娘が食べられてしまい、今年もヤマタノオロチが来る時期が近づいたため、最後に残った末娘のクシナダヒメも食べられてしまうと泣いていた。
スサノオはクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチ退治を約束し、クシナダヒメの姿を櫛に変えて自分の髪に挿し、ヤマタノオロチ退治の準備を始めた。
作戦でヤマタノオロチを酔わせ、酔って寝てしまったすきに、十拳剣(とつかのつるぎ)で切り刻み退治したと云う。
この時、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきたため、アマテラスに献上した。
これが三種の神器の1つ、「天叢雲剣(草薙剣)」。

余談になるが、当社の御朱印帳を巡って転売騒動がありニュースなどでも話題になった。
当社に限らず御朱印や御朱印帳の転売行為はくれぐれもやめて頂きたい。

「転売目的の人は来ないで」 『ヤフオク!』御朱印帳出品に対する茨城・八坂神社のツイートにさまざまな意見 - ライブドアニュース
寺社を訪れた際に神職や僧侶によって押印や参拝日を書いてもらう御朱印帳。寺社で授与されるお札などと同等のもので、神棚などの上げているという人も少なくないありがたい存在ですが、最近ではそれを『ヤフオク!』

幟祭とも称され賑わう祇園祭

7月最終土曜には例大祭の祇園祭が開催。
病気を祓う祭りとして多くの参拝者で賑わい、北総三大祇園祭の1つにも数えられる。

祇園祭(ぎおんまつり)
起源となるのは祇園信仰の総本社「八坂神社」(京都府京都市)の例祭で、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれ、貞観年間(859年-877年)より続く京都の夏の風物詩。
こうした影響から全国各地の祇園信仰(かつて牛頭天王を祀り現在は素盞嗚命を祀る)の祭礼では、夏に祇園祭が行われる事が多い。

当社の祇園祭は多くの大幟(おおのぼり)が揚がる事から別名「幟祭」とも称されると云う。
祇園祭の詳細は公式サイトをご覧頂きたい。

守谷総鎮守八坂神社

当社の祇園祭の歴史としては延享元年(1744)以前より執行されていたとされ、文政六年(1823)から昭和五十五年(1980)までは旧暦6月11日から15日までが祭日であったと云う。
現在は守谷市指定無形民俗文化財となっている。

無形民俗文化財 守谷市公式サイト-Moriya City

所感

守谷総鎮守とされる当社。
祇園信仰の神社であり、かつては牛頭天王を祀る「牛頭天王宮」であった。
神仏分離によって「八坂神社」となったが、現在も御朱印には「牛頭天王宮」の墨書きがされる事は、古い歴史を表していて頂く側としても嬉しい。
守谷は平将門伝説が幾つか残り、そうした面で散策してみるのも楽しいだろう。
相馬氏が支配した中世、江戸時代に入ると領主が変わる地であったが、地域から当社への崇敬は篤かったとみられ、今も続く祇園祭が大変盛り上がる事からも伝わる。
古き良き村の鎮守といった雰囲気の境内もとてもよく、まさ近年は色々と活動もされているようで、今後も楽しみな神社である。
宮司の個人ブログも大変興味深く面白いのでぜひそちらもご覧頂きたい。

【Trial&Error】守谷総鎮守八坂神社 社家じゃない宮司の個人的なブログ
守谷総鎮守八坂神社の社家じゃない宮司が、神社界に身を投じて感じる出来事を客観的、個人的に綴るブログです。

神社画像

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[ 社号碑・鳥居 ]




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