宇都宮二荒山神社 / 栃木県宇都宮市

宇都宮二荒山神社(うつのみやふたあらやまじんじゃ)

御祭神:豊城入彦命
相殿神:大物主命・事代主命
社格等:延喜式内社(名神大社論社)・下野国一之宮・国幣中社・別表神社
例大祭:10月21日(秋山祭)
所在地:栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
最寄駅:東武宇都宮駅・宇都宮駅
公式サイト:http://www.futaarayamakaikan.jp/

御由緒

 二荒山神社は大変歴史が古く、第十代崇神天皇の御代にさかのぼることができる神社です。
当社は何度も火災にあい、近年に入ってからも天正十三年、安永二年、天保三年、更に明治維新の戊辰の役と四度もあって古い史料のほとんどが消失しています。
現在残っている社記には、第十六代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に毛野國が上下の二国に別けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王(ならわけのきみ)が下毛野國の国造に任ぜられます。この時祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祭神として祀ったのが始まりで、その後承和五年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられています。
延長五年(927)に政治のよりどころとして完成した延喜式・神名帳には
下野國河内郡一座 大 二荒山神社 名神大
とあります。栃木県内には由緒ある神社が十一社記されていますが名神大社は当社のみで代々城主が社務職を兼ね「宇都宮大明神」と称し、郷土の祖神・総氏神さまとして篤い信仰を受け下野國一之宮といわれておりました。

(元國幣中社)
(※頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2015/06/11

御朱印

初穂料:500円
授与所にて。

挟まれていた紙には「御朱印について」という印刷がされていた。(画像:Twitter
他に「下野七福神」恵比寿様の御朱印も存在。

宇都宮二荒山神社

[ 御朱印受付 ]



歴史考察

下野国一之宮

栃木県宇都宮市にある古社。
式内社(名神大社)論社であり下野国の一之宮を称している。
旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社と規模も大きい。

当社の「二荒山神社」の呼び名は「ふたあらやまじんじゃ」。
地元の方などは「二荒さん(ふたあらさん)」と呼ぶ方が多い。
一方で日光にある「二荒山神社」は「ふたらさんじんじゃ」。
同じ漢字でも呼び名が違うので注意したい。

宇都宮の地名由来

宇都宮駅からも近く、都市部の中に鎮座するという見応えが見事なのだが、当社はその「宇都宮」の名称の由来になったとも言われている。

諸説あるようだが、一之宮(いちのみや)が訛ったという説、当地に遷座したことから「移しの宮」が転じたという説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として住み国が治まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれそ転じたという説など。
いずれにせよ当社が由来となり「宇都宮」という知名が生まれたのだろう。

約1600年前に創建の古社

当社は度々火事によって焼失しており、その度に再建された歴史を持っている。
そのため古い資料などが残っていないそうなのだが、社伝によると第十六代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎にて創建したようだ。
その後承和五年(838)に現在の鎮座地に遷座したという。
なお、旧鎮座地には現在は「下之宮」という摂社が鎮座している。

著名な武将が戦勝祈願・平将門を討った霊剣

当社の御祭神である豊城入彦命は武徳にも優れたとされ各時代の著名な武将が戦勝祈願している。
藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康といった著名な武将も寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。

他にも「平家物語」(巻第十一)によると、屋島の戦いにあって弓の名手として名高い那須与一は、平家船上の扇の的を射る際に「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったという。
その中には「我国の神明」のという一文があり我国とは、生国である下野国を指しており、宇都宮は当社を現している。
それだけ武徳があるとされたのだろう。

平将門伝説との関わりも出てくる。
敵対する側としてではあるが、上述した戦勝祈願した武将の中にいた藤原秀郷という武将。
藤原秀郷は平将門を討った武将として有名であり、その平将門の乱にあっては、藤原秀郷が当社で授かった霊剣をもって将門を討ったという言い伝えも存在する。

江戸時代の宇都宮

江戸時代には重要地点・宇都宮の鎮守として崇敬を集めた。
徳川家康が没して「日光東照宮」が造営され、これが家康の廟所となると、宇都宮城が将軍が墓参するための宿泊地となり、その重要性は著しく高まる事になる。
また下野国は古来より地勢が安定しており、その中心地であった宇都宮には譜代中の譜代の家臣が入封し宇都宮藩が作られた。

歴代将軍が日光を参詣する時に必ず立ち寄った宇都宮。
そして当時は「宇都宮大明神」とされていた当社への崇敬が篤かったのも当然の事であろう。

江戸時代の当社を記した資料がいくつか現存している。
江戸時代後期の天保十四年(1843)に徳川十二代将軍家慶の日光社参の行程を示した「日光道中絵図」という絵図が存在。
4月13日に江戸城を出発し、13日岩槻、14日古河、15日宇都宮に宿泊しており、その様子を事細かに描いているため、当時の日光道中を知る上で大変貴重な資料。
この「日光道中絵図」の宇都宮に当社の存在を確認する事ができる。

宇都宮の当社周辺が描かれている。
左上にある「宇都宮大明神」が当社であり、詳しい説明が記載されている。
当時の様子が分かる大変貴重な資料となっている。

戊辰戦争の舞台に

当社は明治維新の際に、宇都宮戦争(戊辰戦争)の舞台に。
旧幕府軍と新政府軍との戦いの舞台となった宇都宮。
宇都宮城や当社の多くが焼失の憂き目に合っている。

城下は放火され当社も本殿をはじめ殆どの社殿が全焼した。
当社の宝物は社家により城外の「平野神社」に移されたため戦火からは逃れた。

明治になり神仏分離。
旧社格では国幣中社に列する。
その後、明治十年(1877年)に明治新政府によって仮社殿として再建された。

日光二荒山神社との関係

上述したように、式内社(名神大社)論社であり下野国の一之宮となっているのだが、実はこの論社には日光の「日光二荒山神社」もあり、古くから議論がされている。
平安時代の『延喜式神名帳』には名神大社として「下野国河内郡 二荒山神社」の記載があるだが、宇都宮か日光、どち
らを指しているのか、という議論。

現在ではどちらも式内社(名神大社)を称しているし、どちらも下野国一之宮を称している。
両社とも「全国一の宮会」には加盟しているので、下野国一之宮という扱いで間違いはないだろう。
個人的には歴史的や地名などから、『延喜式神名帳』に記されているのは当社こと「宇都宮二荒山神社」のほうが有力かなと思う。

かなり歴史的には揉めたようなのだが、どちらも見事な格式を感じさせてくれるので、一般参詣者の身としてはどちらもそれに値する古社なのは間違いない。

宇都宮都市部に現れる見事な境内

宇都宮の都市部にある境内は実に見事。
これぞ一之宮といった格式があり、発展した都市部に出現する大鳥居は迫力満点。
この大鳥居は、樹齢400年の栃木県産のケヤキを用いて作られている。

大戦で焼失してしまった江戸時代の両部鳥居を復元したものだそうで、平成二十年(2008)に建て替えられた。

長い石段による参道があり、これは江戸時代の資料からも変わらない配置。

石段の上には神門があり、発展した街中にあってそれを忘れさせてくれる境内は素晴らしい。

現在の社殿は明治十年(1877)に明治新政府によって仮社殿として再建されたもの。

古くは20年毎に立て替えられる式年遷宮も行われていたという。
戦国時代以降は度重なる戦火によって再建された。

境内には多くの境内社が鎮座。
また「明神の井」という井戸も存在。

明神の井の湧き水は江戸時代には宇都宮名水「七水」のひとつとして数えられたという。
明治天皇の御行幸の際はこの水を茶の湯としたと伝えられる。

御朱印は社務所内にで頂ける。
案内が出ているが500円なので注意したい。
「下野七福神」の恵比寿神を担っているため、そちらの御朱印も頂ける。

所感

宇都宮の都市部に鎮座する古社。
ビルや商業施設が立ち並ぶ中、広い境内を維持し清々しい空気を楽しめる雰囲気はお見事。
大通りに突如洗われる両部鳥居の存在感、そしてそこから続く参道と長い階段、境内の雰囲気。
とても都市部にあるとは思えない見事な造りになっている。
下野国(栃木県)にとって重要な神社だったのが伝わってくる当社。
「二荒さん」と親しまれ、この日も多くの参拝客の姿を見る事ができた。
今も地域の方から崇敬され、そして憩いの場としても親しまれている、そんな素敵な一之宮。
宇都宮という県都の象徴とも言える古社。

神社画像

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]


[ 神門 ]

[ 手水舎 ]

[ 参道 ]

[ 拝殿 ]


[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 神馬の像 ]

[ 須賀神社・市神社 ]

[ 女体宮 ]

[ 十社 ]

[ 初辰稲荷神社 ]

[ 神輿庫 ]

[ 明神の井 ]

[ 神楽殿 ]

[ 斎館 ]

[ 神札所 ]

[ 社務所 ]
[ 与謝蕪村句碑 ]

[ 前田雀郎句碑 ]

[ 松苧神社・荒神社・水神社 ]

[ 剣宮・十二社・菅原神社 ]

[ 東照宮 ]

[ 御由緒案内板 ]

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