玉姫稲荷神社 / 東京都台東区

台東区

神社情報

玉姫稲荷神社(たまひめいなりじんじゃ)

御祭神:宇迦之御魂命
社格等:村社
例大祭:6月初旬
所在地:東京都台東区清川2-13-20
最寄駅:南千住駅・三ノ輪駅・三ノ輪橋停留所
公式サイト:─

御由緒

 社伝に天平宝宇四庚(760年)の創建とあり、享保年間に出版された『江戸砂子』に「新田義貞朝臣、鎌倉の高時を追討のみぎり、弘法大師の筆の稲荷の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃の宝塔にこめて当所におさめまつり給ふ。故に御玉ひめの稲荷と申のよし」。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2019/12/16

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

旧山谷町や旧玉姫町の鎮守・靴の神社

東京都台東区清川に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧山谷浅草町・旧浅草玉姫町などの鎮守。
当地周辺はかつて山谷と呼ばれていた一帯の一部で、都市スラムとしても知られる「山谷のドヤ街」があり、当社はそうした一帯の鎮守とされる。
氏子地域に靴製造業者が多く皮革産業が地場産業であり、当社の境内では年に2回(4月・11月)靴の市が開かれる事から「靴の神社」としても親しまれている。
近くにあった泪橋は漫画『あしたのジョー』の舞台であるため、地元商店街が街おこしの一環として周辺を整備していて、当社の境内には『あしたのジョー』のバネルが置かれているのが特徴的。

奈良時代に伏見稲荷より勧請し創建

社伝によると、天平宝字四年(760)に創建と伝わる。
「伏見稲荷大社」から御分霊を勧請し創建されたと云う。

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
京都府京都市伏見区に鎮座する神社。
式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社、旧社格は官幣大社。
全国の稲荷神社の総本社として知られ、千本鳥居などが有名。
伏見稲荷大社
1300年にわたって、人々の信仰を集め続ける「お稲荷さん」の総本宮 伏見稲荷大社の公式ホームページ
詳しい史料は残っていないが口碑によると奈良時代創建の古社とされる。

新田義貞の戦勝祈願・玉姫の由来

正慶二年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時を追討するに際に当社で戦勝祈願。

新田義貞(にったよしさだ)
鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった武将。
同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立。
後醍醐天皇側について南朝の総大将として奮戦したものの、越前藤島で戦死。
南朝の総大将として忠節を尽くし続けた忠臣と知られる。
北条高時(ほうじょうたかとき)
鎌倉幕府第14代執権。
後醍醐天皇が挙兵した後、上野国(現・群馬県)の新田義貞も呼応し挙兵。
義貞は鎌倉幕府軍を連破して鎌倉へ侵攻すると、高時は北条家菩提寺「東勝寺」へ退き、北条一族や家臣らと共に自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。

義貞は当社への戦勝祈願に際して、弘法大師による筆の襟掛をした稲荷像を、瑠璃の宝塔(玉塔)へ納めたと云う。
これが「玉姫」の由来と伝わる。

玉姫(たまひめ)の由来
義貞が稲荷像を瑠璃の宝塔(玉塔)へ納めた事から、「玉秘め」と称された。
これが転じて「玉姫」となったと江戸時代の地誌『江戸砂子』や『新編武蔵風土記稿』に記されている。
この他、当地には玉姫と呼ばれた娘の話も伝わる。(後述)

当地周辺は山谷村と呼ばれ、当社は山谷村の鎮守とされた。

砂尾長者の娘・玉姫の悲恋伝説

当地には古くから玉姫と云う娘の伝説も伝わる。

当地に伝わる玉姫の伝説
中世の頃、当地付近に砂尾長者と呼ばれた土豪が住んでいたと云う。
その1人娘に玉姫と呼ばれる美しい娘がいたと云う。
しかし、恋いに破れ、鏡が池に身を投げて命を絶ってしまう。
その玉姫を哀れみ当社に祀った事から「玉姫稲荷」と称された。
砂尾長者は当社の別当寺であった「橋場寺不動院」の開基だと云う。
不動院 - 天台宗砂尾山橋場寺不動院 橋場不動尊-台東区SP

お稲荷様と共に玉姫を祀ったと云う伝説であるが、現在はお稲荷様である宇迦之御魂命のみ祀る。
別当寺であった「橋場寺不動院」にも伝わる伝承なので、古くから知られていた伝説であった。

但し、神社の御由緒や江戸時代の地誌などには、「玉姫」の由来として上述した新田義貞による奉納の話が記されている。

江戸切絵図から見る当社・小塚原刑場と泪橋

江戸時代になると山谷村が発展。
正徳三年(1713)、一部が山谷浅草町など町奉行所の支配下になる。

山谷地域の発展は、近くに新吉原の遊郭が設置された事などによる。

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の今戸・浅草の切絵図。
右が北の地図で、当社は右側に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

当社周辺を拡大し半時計回りに90度回転させ北をほぼ上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「玉姫社」と記されているのが当社。
すぐ下には山谷浅草町の文字も見え、当社は一帯の鎮守であった。
橙円で囲った箇所が「鏡ヶ池」とあり、玉姫伝説で玉姫が身を投げたと伝わる池。

桃円で囲った箇所が新吉原遊郭。
紺円で囲った箇所には「仕置場(刑場)」とありこれが「小塚原刑場」である。

小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう)
江戸時代から明治初期にかけて存在した刑場。
慶安四年(1651)に小塚原町に創設されたので小塚原刑場と呼ぶ。
磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行された刑場で、南の鈴ヶ森刑場(品川区南大井)、西の大和田刑場(八王子市大和田町)と共に三大刑場と称された。

この江戸切絵図には記されていないものの、近くには泪橋(なみだばし)があり、泪の由来はこの刑場が深く関わっている。

泪橋(なみだばし)
江戸時代の刑場の1つ小塚原刑場では、獄門が行われ首が運ばれて晒された。
刑場に行くには橋を渡る必要があり、罪人にとってはこの世との最後の別れの場、家族や身内の者にとっては罪人との今生の別れの場、互いにこの橋で涙を流した事から「泪橋」と名付けられた。
(現在は思川が暗渠化されているため橋自体はない)
南の鈴ヶ森刑場(品川区南大井)側にも同様の理由で「泪橋」と名付けられた橋があり、現在は浜川橋と云う名で残っている。(近くの「天祖諏訪神社」参照)
天祖諏訪神社 / 東京都品川区
濱川総鎮守。天祖神社と諏訪神社が合祀。勝の文字や嵐カラー仕様が特徴的な御朱印帳。嵐ファンの聖地に・勝守が人気。泪橋と呼ばれた浜川橋。立派な弁天池。平安時代以前に創建された天祖神社。江戸時代初期に創建の諏訪神社。東海七福神・福禄寿。御朱印。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(山谷町在方分)
珠姫稲荷社
身體はキツネに乗たる翁の像なり。例祭は隔年四月十五日獅子の頭を出し町内を渡せり。或書に社傳を引て云、當者は新田義貞追討の時祈願により襟掛の御影弘法の筆なるを瑠璃寶塔に収め此處に祀る故に玉姫稲荷と號すとあれと今此傳なし。橋場町不動院持。
末社。稲荷三。
釈迦堂。田山の像を安す。
供所。神輿蔵。

山谷町在方分の「珠姫稲荷社」として記されているのが当社。
御神体は狐になる翁の像であったと云う。
新田義貞の伝承についても記してあり、これが玉姫の由来となったとある。

末社として稲荷社が3社鎮座。
このうちの一社が現在も境内社として祀られている「口入稲荷神社」であろう。

新吉原の口入れ屋の高田屋に祀られていたお稲荷様であったが、主人が夢告を受けて、安永年間(1772年1781年)に当社の境内に遷座した。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷」と描かれたのが一枚。
当社は左ページの上に描かれている。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上図。

表参道に二基の鳥居、裏参道にも鳥居が設けられているのが分かる。
規模としては現在とそう変わりはないように思う。
周囲は大変のどかな田園で、町屋から少し離れた場所に鎮座していた、鬱蒼とした神社であった。

明治以降の歩み・火災で度々焼失と再建

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。

明治二十四年(1891)、浅草玉姫町が成立。
玉姫町の由来は鎮守であった当社が由来となった。

但し、当社は浅草山谷町に鎮座していたので、実際は隣町という事になる。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地。
玉姫町や山谷町といった地名も見る事ができる。
当社はこうした一帯の鎮守であった。

明治四十四年(1911)、吉原大火が発生。
当社の社殿も類焼し、後に再建されている。

同年の吉原大火は映画『吉原炎上』のモデルとなった。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
再び社殿が焼失し、後に再建。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
昭和二十七年(1952)、社殿が再建。
これが現在の社殿となっている。

昭和四十一年(1966)、住居表示によって玉姫町や山谷町は清川・東浅草・日本堤といった住所となり、山谷と云う地名は公式には消滅。

ドヤ街として名を馳せた山谷(さんや)
現在の清川・日本堤・東浅草付近は「山谷」と称した。
戦前より多くの貧困層や労働者が居住しており、戦後になると東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが簡易宿泊施設へとなっていく事となる。
安宿が多かった事から労働者が集まるようになり、都市スラムとも呼ばれるドヤ街として発展した。
近年はバックパッカーなど訪日外国人の宿泊地としても人気を集めているため、かつてのドヤ街から少しずつ変化しつつある。
当社はこうした山谷地域の鎮守として崇敬を集めた。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

境内案内

ドヤ街として知られる山谷地域に鎮座

最寄駅の南千住駅から徒歩10分程の住宅街に鎮座。
隣接するように北側(右隣)には玉姫公園があり、ドヤ街としての山谷地域が色濃く残る一角。

玉姫公園は日雇い労働者や野宿する人、ホームレスなどが多くいる事でも知られる。

東に面して鳥居と社号碑。
昭和十五年(1940)に建立された鳥居。
社号碑には「玉姫稲荷神社」の文字、かつての玉姫町の町名や、隣の玉姫公園などは当社の社号が由来となっている。

鳥居を潜ると開けた境内。
境内の手前側は駐車場として利用されているが、すっきりと広さを感じる境内。

参道を進むと途中に狛犬。
こちらも鳥居と同様に昭和十五年(1940)に奉納された狛犬。
いずれも紀元二千六百年記念行事として整備された。

鳥居の奥左手に手水舎。
龍の吐水口よりかなりの水量の水が出ていて身を清める事ができる。

戦後に再建された木造社殿

参道の正面に社殿。
明治以降の当社は、吉原大火、関東大震災、東京大空襲と社殿が焼失。
現在の社殿は昭和二十七年(1952)に再建された木造社殿。
幾度も焼失しながらもその度に再建され、氏子地域の人々の思いが伝わる。
拝殿の扁額の左右には多くの奉納提灯。

良縁祈願に霊験がある口入稲荷神社

摂社として境内社の口入稲荷神社が参道右手に鎮座。
朱色の柵と一体化した鳥居。
鳥居を潜ると手水舎や小祠など。
良縁祈願の霊験があるとされるお稲荷様。

口入稲荷神社(くちいれいなりじんじゃ)
新吉原(吉原遊廓)の口入れ屋(現代で云う人材斡旋業者/人買いと揶揄される事も多かった)であった高田屋に祀られていたお稲荷様。
高田屋の主人が夢告を受けて、安永年間(1772年1781年)に当社の境内に遷座した。

口入れ屋のお稲荷様であった故に「口入稲荷」。
歌舞伎役者・八代目松本幸四郎による謹書。

口入稲荷のお狐さまで良縁結び
良縁を祈願する人は、裃を着た座り姿のお狐さまを頂き、願いが叶うともう1体頂く。
雌雄一対にした状態で神社に納めると良いと云う。
社殿右手に細い参道があり、その奥に狐穴も設けられている。

拝殿の左手済に八神殿。
8つの神社を合祀した境内社。
白山神社・八幡神社・八坂神社・春日神社・金刀比羅神社・松尾神社・天祖神社・王子神社の8社。

『あしたのジョー』矢吹丈と白木葉子のパネル

手水舎の奥、拝殿手前に『あしたのジョー」のパネルが置かれている。
「あしたのジョーのふるさと」と記してあるように、当社から程近い泪橋(現在は橋はない)が漫画『あしたのジョー』の舞台の1つであった事に由来し、地元商店街が町おこしの一環として色々と努力されている。

あしたのジョーと泪橋
泪橋(なみだばし)の下に丹下段平がジムを構えていたという設定。
「あしたのジョー」連載50周年記念サイト
マンガ連載中から、実写映画化、舞台化など様々なメディアで表現された「あしたのジョー」。「週刊少年マガジン」連載開始から50周年を記念して「あしたのジョー」についての情報をお届けします。

年に2回(4月・11月)靴の市が開催・靴の神社

当社の例大祭は6月初旬であるが、当社では年に2回「靴の市」が開催。

こんこん靴市
毎年4月に行われるのが「こんこん靴市」。
巨大な靴を模した神輿である靴神輿の練り歩きや、履き古した靴等をお焚き火し足の健康を祈念する靴供養等も行われる。
こんこん靴市
靴のめぐみ祭り市
毎年11月に行われるのが「靴のめぐみ祭り市」。
こんこん靴市同様に、靴神輿の奉納や、靴供養等も行われる他、シューズベストドレッサー賞やクラフトマン部門の授賞式なども行われる。
ホーム
今年で49回目を迎える、浅草、玉姫稲荷神社で行われる、「靴のめぐみ祭り市」の特別企画、「第16回シューズベストドレッサー賞」が今年も開催されます。今年は一般の皆様の投票も参考になります。ふるってご投票ください!
どちらも10万足もの靴が売られ相当安い値段で売られる。

これらは氏子地域に靴製造業者が多く皮革産業が地場産業である事がきっかけとなっている。
このような事から当社は「靴の神社」としても知られている。

御朱印には玉姫稲荷と口入稲荷の印

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して下さった。

御朱印は上に「玉姫稲荷神社」の朱印、下は抱き稲の社紋。
さらに「口入稲荷神社」の印も押印されている。

所感

山谷地域の鎮守とされた当社。
「玉姫」の社号については、新田義貞のよる「玉秘め」が由来と伝わるが、当地には古くから「玉姫」と呼ばれる娘の悲恋の話も伝わっていて、かつては身投げしたと云う鏡ヶ池も存在していた。
山谷地域と云うと都内最大のドヤ街として知られるが、最近はバックパッカーなど訪日外国人の宿泊地としても人気を集め、かつてのドヤ街から少しずつ変化しつつある。
そうした中でも隣の玉姫公園などは今もドヤ街の様相を色濃く残しており、当社はそうした地域の鎮守として信仰を集めた歴史をもつ。
氏子地域は皮革産業が地場産業であり、そうした縁で長年「靴の市」が開催されているのも、こうした地域の鎮守として大切にされているからこそであり、今では「靴の神社」としても親しまれていて、良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]



[ 常夜灯 ]


[ 参道 ]



[ 狛犬 ]


[ 手水舎 ]


[ 拝殿 ]






[ 本殿 ]

[ 社殿 ]

[ あしたのジョーパネル ]

[ 八神殿 ]


[ 口入稲荷神社 ]





[ 絵馬掛 ]

[ 南鳥居 ]

[ 神輿庫 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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