神社情報
岩槻愛宕神社(いわつきあたごじんじゃ)
御祭神:迦具土命
社格等:─
例大祭:7月24日
所在地:埼玉県さいたま市岩槻区本町3-21-25
最寄駅:岩槻駅
公式サイト:─
御由緒
神社の創建は明らかではありませんが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されています。言い伝えによりますと、「長禄元年(1457)太田資清(一説には道灌)が岩槻城を築くにあたり城郭として外濠と土塁(土居)を造った。するとその傍らに小さな祠一社があり風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と云う字が見えた。これは火防の神(愛宕大神)であるので土塁上に移し奉祀した。」とされています。この日が七月二十四日であるという事であり、現在でも祭礼日として賑々しく祭典を行っております。
迦具土命は火伏の神として知られており、当社では郷土の安全、家内安全、盗難除の信仰を集めております。また、境内末社には松尾神社、稲荷神社、天神社が祀られており、松尾神社には岩槻町内の寺院から東照宮が遷座合祀されています。
氏子区域は元の武州岩槻藩の久保宿五ヶ町(上宿、中宿、下宿、丹過町、大工町)で、現在は町の発展と伴に愛宕町、西町、緑ヶ丘の地域が加わり計十二の各自治会の皆様が氏子となり、それぞれ総代を選出し神職と伴に祭典、清掃、整備等の神社運営を行っており、当社はこれら地域の産土神様として尊崇されています。(頒布の用紙より)
参拝情報
参拝日:2019/12/04(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/10/28(御朱印拝受)
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
歴史考察
武州岩槻久保宿鎮守・愛宕神社
埼玉県さいたま市岩槻区本町に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧久保宿五ヶ町の鎮守。
江戸時代までは「三光寺」の境内社であったが、神仏分離され独立。
正式名称は「愛宕神社」であるが、他との区別のため「岩槻愛宕神社」とさせて頂く。
旧岩槻城の大構(土塁)の上に鎮座しているのが特徴的で、歴史的にも貴重な境内。
近年はひな祭りの際に27段の石段をひな人形で飾る「大ひな壇飾り」が行われる事で知られている。
岩槻城の築城・土塁の上に創建された火防の神
社伝によると、創建年代は不詳。
長禄元年(1457)、太田資清(別説として太田道灌とも)が岩槻城を築城。
室町時代中期から戦国時代前期の武将。
相模守護代・扇谷上杉家の家宰として活躍。
関東の知恵者と称された。
子に有名な太田道灌がいる。
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
太田資清・道灌父子によって江戸城・河越城と共に築かれたとする平城。(諸説ある)
戦国時代には後北条氏と太田氏の戦い「岩付城の戦い」の舞台にもなる。
明治に廃藩置県で廃城となり、現在は一部が岩槻城址公園として整備されている。
資清は岩槻城の城郭として外濠と土塁を建造。
するとその傍らに小さな祠があり「迦具土命」と云う字が見えたと云う。
火の神として知られ、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神。
「迦具」は「輝く」の意であり、「土」の「つ」は「の」に相当する古語で、「ち」は神の霊力を表す意とされ「輝く火の神」という意味になる。
「火防の神」を祀る愛宕信仰の御祭神とされる。
この祠は火防の神である愛宕大神であるため、土塁の上に遷し祀ったと云う。
古くから当地に愛宕信仰の祠が置かれていて、岩槻城の土塁を築く際に発見、それを土塁の上に祀ったのが当社と云う事ができる。
現在も土塁の遺構の上に鎮座しているのが特徴的。
戦国時代に勃発した岩槻城の争奪戦
戦国時代になると岩槻城を巡って各勢力による争奪戦が繰り広げられる。
大永五年(1525)、扇谷上杉家の家臣・太田氏が居城としていた岩槻城に後北条氏が攻略。
後北条氏によって岩槻城は陥落。
享禄三年(1530)、再び太田氏が岩槻城を奪還。
天文十五年(1546)、太田氏の主君である扇谷上杉家は後北条氏によって滅亡。
岩槻城は太田氏が守り抵抗を続けたものの、永禄七年(1564)に後北条氏へ降伏、さらに謀略などが続く。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐(後北条氏征伐)が開始。
後北条氏の直轄になっていた岩槻城は戦略的重要地とされ、城の防御力強化と、兵糧・武器など必要品を確保する為に巨大な土塁と堀を築き、城と城下町を一体化して長期戦に備えている。
岩槻城の外郭に築かれたこの土塁と堀を大構(おおがまえ)と呼び、長さは約8kmにも及ぶ巨大なものだったと云う。
現在は当社周辺にその土塁の一部が残る。
その後の岩槻城は抵抗むなしく豊臣軍により陥落。
後北条氏滅亡後、関東移封によって徳川家康の領地となる。
岩槻藩の成立・久保宿の鎮守とされる
天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
岩槻城は岩槻藩の藩庁とされ、徳川家の様々な譜代家臣の居城となった。
徳川家康が江戸入りすると、家康は岩槻を関東支配拠点の1つとして重要視。
譜代大名で、家康三河時代の三奉行の一人である高力清長に2万石を与えて入部、岩槻藩の始まりと云える。
高力家の後は、青山家、安倍家、板倉家、戸田家、松平家、小笠原家、永井家が藩主となり、江戸中期に第九第将軍・徳川家重の側用人・大岡忠光(おおおかただみつ)が入って以降は大岡家が藩主となった。
徳川家と君臣関係が強い譜代大名のみが城主(藩主)となっている。
岩槻城や城下町の総鎮守とされたのは「岩槻久伊豆神社」。
一方で岩槻城の城郭である土塁の上に鎮座していた当社は、久保宿の鎮守とされた。
新編武蔵風土記稿に記された当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(久保宿町)
三光寺
天台宗東叡山の末。愛宕山満蔵院と號す。本尊地蔵。開山元立寛永年中起立とのみ傳へり。愛宕社。稲荷社。松尾社。
久保宿町の「三光寺」の項目に記されている「愛宕社」が当社。
江戸時代の当社は「三光寺」(現・廃寺)の境内社のような扱いだった事が分かる。
寺院と並ぶ形で土塁の上に鎮座していた。
日光道中絵図に描かれた当社
江戸時代の史料には当社を記したものが幾つか残る。
江戸時代後期の『日光道中絵図』にも岩槻城と当社が描かれている。
天保十四年(1843)に十二代将軍・徳川家慶の日光社参の行程を示した絵図。
4月13日に江戸城を出発し、13日岩槻、14日古河、15日宇都宮に宿泊しており、その様子を事細かに描いているため、当時の日光御成道を知る上で大変貴重な史料となっている。
左上が岩槻城。
城下町と岩槻宿が上図。
当社はこの中央やや左に見る事ができる。
赤円で囲った箇所に「愛宕社」と描かれていて、これが当社。
朱色の社殿で、現在と同様に土塁の上に鎮座している事が分かる。
その隣にある青円で囲ったのが「三光寺」で、現在は廃寺となっているが、当時の当社は「三光寺」の境内社的な扱いであった。
緑円で囲ったのが久保宿町。
当社はこれら一帯の鎮守として崇敬を集めた。
明治以降の歩み・岩槻城の廃城
明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。
明治四年(1871)、岩槻城が廃城。
岩槻城の大構(土塁)は破壊されてしまったため、今は当社周辺にその面影を残す。
明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当社の鎮座地は今も昔も変わらない。
かつての岩槻城の区画が今より見て取る事ができる。
当社は西側の城郭の土塁に鎮座し、「岩槻久伊豆神社」は北側の城郭に鎮座、また現在の岩槻城址公園は曲輪の一部であったこと、本丸は「岩槻久伊豆神社」と城址公園の間にあり、現在は住宅街(住所は本丸)となったあたりである。
大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も甚大な被害を受けて社殿が倒壊。
その後、現在の社殿が再建されている。
戦後になり境内整備が進む。
昭和四十九年(1974)、社殿や境内の修復、愛宕会館(社務所)が建設。
平成二十四年(2012)、社務所が新築。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
東武野田線沿い・岩槻区本町の住宅街に鎮座
最寄駅の岩槻駅からは徒歩数分の距離で、ほぼ東武野田線沿いに鎮座。
東向きが表参道となっていて、住宅街の一画に社号碑。
社号碑の奥に鳥居。
真っ直ぐ参道が続く。
岩槻城の大構(土塁)を偲ぶ境内
参道を進むと玉垣に囲まれた境内。
玉垣の中、左手に手水舎。
水が流れ身を清める事ができる。
石段の手前に狛犬。
昭和六年(1931)に奉納された狛犬。
どちらも目が特徴的でユニーク。
その先に石段。
この石段を上がかつて岩槻城の土塁だった場所。
明治の廃藩置県で岩槻城が廃城となってから、岩槻城の大構(土塁)は破壊されてしまったため、今は当社周辺にだけその面影を偲ぶ事ができる。
かつてはこの土塁が長さは約8kmにも及ぶ巨大なものだったと云う。
後北条氏の直轄になっていた岩槻城は戦略的重要地とされ、城の防御力強化と、兵糧・武器など必要品を確保する為に巨大な土塁と堀を築き、城と城下町を一体化して長期戦に備えている。
岩槻城の外郭に築かれたこの土塁と堀を大構(おおがまえ)と呼ぶ。
長さは約8kmにも及ぶ巨大なものだったと云う。
関東大震災後に再建された社殿
石段の上に社殿。
大正十二年(1923)の関東大震災で旧社殿が倒壊。
その後再建された木造社殿。
控えめな社殿ではあるが拝殿には細かい彫刻も施されている。
社殿は昭和四十九年(1974)に修復が行われている。
獏や獅子が施された木鼻。
土塁の上に建つ社殿。
松尾神社・稲荷神社などの境内社
石段の上、社殿のすぐ左手に小さな祠。
御由緒不詳ながら天神社の祠。
石段の下、右手には稲荷神社。
近くには稲荷大明神の祠。
その横にも祠。
これらは全てお稲荷様だと思われる。
石段の下、左手には松尾神社。
鳥居が設けられその奥に覆殿。
江戸時代の「三光寺」(現・廃寺)には、愛宕社(当社)の他に、稲荷社と松尾社が置かれていた事が『新編武蔵風土記稿』に記されているので、それらが現在も祀られているのが分かる。
覆殿の中にはかなり年季を感じさせる古い社殿。
社殿の向かい側には小さな児童公園。
近隣の人々に根付いた神社。
御朱印は社務所にて
御朱印は「愛宕神社之印」の朱印に、「武州岩槻久保宿鎮座」の印。
2019年に頂いた御朱印には社紋が追加されている他、左下の印も変更となっている。
石段に置かれる大ひな壇飾り・人形のまち岩槻
社務所には当社の名物になりつつある「大ひな壇飾り」の写真が色々と掲示。
ひな祭り期間中に社殿までの石段27段に飾られたひな人形。
2017年より岩槻中心市街地まちづくり協議会の主催で、地元住民の力によって開催。
まだ歴史は浅いものの地域住民たちで盛り上げる素晴らしい施策で、今や名物になりつつある。
岩槻城下にあたる岩槻周辺では古くから岩槻人形と呼ばれる雛人形を専門とする人形店が軒を連ねるため「人形のまち」として知られる。
歴史的には「日光東照宮」造営に関わった職人が、日光道中の途中の岩槻に留まり、江戸初期に始めたものと伝えられている。
2020年2月22日には「岩槻人形博物館」が開館予定。
所感
岩槻駅からほど近い場所に鎮座する愛宕神社。
かつて岩槻城下の久保宿と呼ばれた一画の鎮守を担った。
岩槻の総鎮守といえば旧県社であり境内も立派な「岩槻久伊豆神社」が有名だが、当社は村の鎮守と云ったどこか懐かしさを感じる佇まいになっている。
小さな境内ではあるが、氏子衆の崇敬の篤さを感じさせてくれ心地よい空間。
そして歴史的に見ても、岩槻城という岩槻の中心となった平城の遺構が残る貴重なエリア。
廃城となり破壊された8kmにも及ぶ大構(土塁)ではあるが、こうして当社の境内には未だに残されているのも、それだけ当社が大切に守られていた証拠とも言えるのではないだろうか。
2015年に参拝時は行われていなかった「大ひな壇飾り」が、地域の人々の力によって2017年より開始され、今では当社の名物にもなっているように、地域の人々に愛される神社である。
岩槻は人形の町・旧岩槻城など歴史的に興味深いところも多く、当社はぜひ岩槻散策の際に行っておきたい良社だと思う。
神社画像
[ 鳥居・社号碑 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 狛犬 ]
[ 石段 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 天神社 ]
[ 絵馬掛・御籤掛 ]
[ 稲荷神社 ]
[ 松尾神社 ]
[ 土塁 ]
[ 御神木 ]
[ 社務所 ]
[ 御由緒 ]
[ 石碑 ]
[ 案内板 ]
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