浅草橋須賀神社 / 東京都台東区

台東区

神社情報

浅草橋須賀神社(あさくさばしすがじんじゃ)

御祭神:素盞鳴尊
社格等:村社
例大祭:6月8日
所在地:東京都台東区浅草橋2-29-16
最寄駅:浅草橋駅
公式サイト:─

御由緒

 當社牛頭天王縁起によれば、御創建は推古天皇九年(600年)。江戸時代には牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていたが明治元年、須賀神社と改称。御神徳は家運隆昌、疫病退散など。東京都神社庁より)

参拝情報

参拝日:2019/09/19

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

団子天王とも称された浅草橋の須賀神社

東京都台東区浅草橋に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧大蔵前の総鎮守。
推古天皇御代に牛頭天王を祀ったと云う祇園信仰の古社。
江戸時代には祭礼が盛大で、祭礼の日には氏子が団子を作り笹の枝に刺して奉納、参拝者が持ち帰り厄除けの御守にしたことから「団子天王」「笹団子天王」と称され親しまれた。
神仏分離で「須賀神社」に改称し、厄除けの御神徳で信仰を集めている。

推古天皇御代に牛頭天王を祀った古社

社伝によると、推古天皇九年(601)に創建と云う。

『求涼雑記』『江戸名所図会』などには天暦年間(947年-957年)に鎮座と記載されている。

当地で疫病が流行した際、村人などが牛頭天王に病難平癒を祈願。
すると悉く快復したため、当初に祠を建立したのが創始と伝わる。

牛頭天王(ごずてんのう)
日本における神仏習合の神。
釈迦の生誕地に因む祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされたため、牛頭天王を祀る信仰を祇園信仰(ぎおんしんこう)と称する。
総本社は祇園祭でも知られる京都の「八坂神社」で、全国の「八坂神社」「天王社」「須賀神社」などに祇園信仰の神として祀られた。
神道ではスサノオと習合したため、明治の神仏分離後の神社では、御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)に改められたところが多い。

以後「祇園祠」「牛頭天王社」などと称され、地域から崇敬を集めた。

江戸時代には老中の命で社殿造営・大蔵前の総鎮守

天正十八年(1590)、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
その後は江戸の再開発が進む。

元和六年(1620)、幕府は全国の天領からの米を収蔵するため、隅田川沿いに浅草御蔵を造営。
浅草御蔵の周辺は、大蔵前(御蔵前)と称され、当社は大蔵前の総鎮守とされた。

浅草御蔵(あさくさおくら)
江戸幕府が天領から収納する年貢米や買上げ米を保管する倉庫。
収納米の多くは旗本や御家人などの幕臣の給米にあてられた。
現在の「蔵前」の地名は浅草御蔵が由来。

寛永十六(1639)、老中・松平信網が奉行の神尾元勝や朝倉在重に命じ、当社の社殿を造替。
立派な社殿となり崇敬を集めた。

松平信網(まつだいらのぶつな)
松平伊豆守信綱の呼称で知られる大名。
忍藩や川越藩の藩主。
三代将軍・徳川家光の時代には、老中の筆頭である老中首座とされ、幕政を支えた。

江戸切絵図から見る当社

江戸時代の当社周辺については、江戸切絵図を見ると分かりやすい。

(浅草御蔵前辺図)

こちらは江戸後期の浅草や蔵前周辺の切絵図。
右が北の地図で、当社は中央左付近に描かれている。

(浅草御蔵前辺図)

当社周辺を拡大し反時計回りに90度回転させ北を上にしたものが上図。

赤円で囲った箇所に「天王社」と記されているのが当社。
別当寺であった「大円寺」も合わせて書いてあり、その隣には「閻魔堂」で知られた「華徳院」。
当社周辺は「天王町」と記してあり、「牛頭天王社」と称された当社が町名由来となっていた事が分かる。

緑円で囲ったのが浅草御蔵で、浅草御蔵の周辺を大蔵前(御蔵前)と呼び、当社はその総鎮守とされた。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「大蔵前 閻魔堂 牛頭天王 十王堂」として描かれているページ。
右手にあるのが「華徳院」の「閻魔堂」で、江戸三大閻魔の1つに数えられ閻魔詣が盛んだった当時は賑わった。
当社は一番左手に描かれている「てんのう」と「十王堂」。

(江戸名所図会)

当社を中心に拡大したのが上絵。

「てんのう」と記されていて、「牛頭天王社」「天王社」と呼ばれた他、祇園信仰から「祇園社」とも称された。
老中・松平信網が命じて造営された社殿が現存していたのか、実に立派な社殿が窺える。
境内の中央には御神木があり、その奥には「十王堂」の姿も見える。

十王堂(じゅうおうどう)
慶長十八年(1613)に建立されたと伝わるお堂で、地蔵菩薩や冥府十王像を安置していたと云う。
当社の境内にあり別当寺「大円寺」と共に、神仏習合の元で崇敬を集めた。

盛大だった江戸時代の祭礼・団子天王と称され崇敬を集める

浅草御蔵が設置された事で、大蔵前(御蔵前)の総鎮守とされた当社。
当社の氏子には経済力がある「札差」が数多くいた事でも知られる。

札差(ふださし)
江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介や、金貸しを業とした人。
浅草御蔵があった現在の蔵前周辺に店を出す場合が殆どで、米の受け取りや売却による手数料を取るほか、蔵米を担保に金貸しを行い大きな利益を得た。
米の支給手形を「札」と呼び、蔵米が支給されると札を竹串に挟んで藁束に差していた事から「札差」と呼ばれるようになったと云う。

江戸時代の札差は大変な利益を上げていたため、当社の氏子はかなりの経済力を有した。
そのため当社の祭礼は実に盛大で、『江戸名所図会』などにも掲載されている。

(江戸名所図会)

「祇園會篠団子」として描かれいるのが当社の祭礼。
「牛頭天王御祭禮」の旗幟が立ち、実に大勢の人々で賑わっている事が窺える。
題名に「篠団子(笹団子)」と書いてあるのは、当社が「団子天王」「笹団子天王」と称された事による。

団子天王の由来
当地周辺で疫病が大流行。
当地周辺に住む若い娘も病にかかり、両親は病を治そうと疫病除けの当社に21日間の願掛けをしたところ、無事平癒したため、両親はその御礼として、笹に娘の年の数と1年の月の数を合わせた数だけ団子を刺して、例大祭の日に牛頭天王の御神前に供えた。
当社の例祭と笹団子の風習
上述の由来から、祭礼の日には氏子が団子を作り笹の枝に刺して奉納。
参拝者が持ち帰り厄除けの御守にする風習が流行。
「団子天王」「笹団子天王」と称され親しまれた。
上絵も手に笹を持ち歩いている人々の姿を見る事ができる。

「団子天王」と称され多くの人々から崇敬を集め、盛大な例祭と、江戸時代の当社は隆盛を誇った。

明治以降の歩み・須賀神社へ改称・戦後の再建

明治になり神仏分離。
明治二年(1869)、社号を「牛頭天王社」から「須賀神社」へ改称。
これを機に御祭神も牛頭天王から素戔嗚尊に改められた。

牛頭天王は神仏習合の神のため、神仏分離後は同一神とされた素戔嗚尊(すさのおのみこと)に改められた。

明治五年(1872)、村社に列する。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、今も昔も変わらない。
町の発展と、神仏分離によって既に手狭な境内になっていたものと見られる。

江戸時代に当社を経済面で支えた札差は、幕臣に対して金貸し行っていたため、倒幕され明治政府が成立すると、新政府は幕臣の負債は引き受けず、札差は貸し倒れとなり殆どが廃業している。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』。

「須賀神社」として、当時の写真が記録されている。
関東大震災以前の当社の貴重な姿が掲載。
拝殿前には獅子山も奉納されている他、『江戸名所図会』に描かれた立派な社殿とは形が違うため、一度社殿が建て替えられた事と、境内が縮小している様子が窺える。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生し当社も被災。
昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。

昭和三十六年(1961)、社殿を再建。
この社殿が現存している。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

江戸通り沿いに鎮座する小さな神社

最寄駅の浅草橋から徒歩すぐの距離に鎮座。
江戸通り沿いに鳥居が設けられているのでとても分かりやすい立地。
社号碑は「須賀神社」とあり、昭和九年(1934)に奉納されたもの。

鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
水が張られ身を清める事ができる。

1体のみ置かれた江戸時代中期の狛犬

参道は少し変則的な形。
鳥居の正面には神輿庫があり、社殿は斜め右手に鎮座。

境内が狭く土地を有効活用するため、社殿の向きが現在のような形になったと思われる。

参道の先、社殿側ではなく境内の左手にひっそりと狛犬が1体置かれている。
延享元年(1744)奉納でとても古い狛犬、江戸中期の狛犬の特色を残していて保存状態も綺麗で素晴らしい。

残念ながら置かれているのは阿形のみ。対となる吽形は現存していない。

戦後に再建された鉄筋コンクリート造社殿

参道の右斜前に社殿。
当社は関東大震災や東京大空襲で被災。
昭和三十六年(1961)に再建を果たした。
手狭な境内ながら鉄筋コンクリート造の中々に立派な社殿。
なるべく社地を有効活用して立派な社殿で再建しようとした気持ちが窺える。

拝殿前には一対の狛犬。
昭和八年(1933)奉納の狛犬。
いわゆる岡崎現代型ではあるが表情は少し個性的。

笹団子天王と厄除の御朱印・4ヶ国語対応おみくじ

御朱印は社務所にて。
呼び鈴を鳴らすと玄関ではなく左の窓が開いて丁寧に対応して下さる。

ご不在な事もあるためその点はご理解の上、参拝して頂きたい。

御朱印は中央に「須賀神社」の朱印、五瓜に唐花の社紋が押されている。
「笹団子天王」「厄除」の文字と、笹団子の印も押してあり、江戸時代に当社で信仰を集めた笹団子についての歴史を伝える。

当社と笹団子
江戸時代の頃より、当社の祭礼の日には氏子が団子を作り笹の枝に刺して奉納。
参拝者が持ち帰り厄除けの御守にする風習が流行し、「団子天王」「笹団子天王」と称され親しまれた。

少しユニークなのが拝殿前に置かれた御神籤。
4ヶ国語対応の御神籤となっていて、外国人観光客でも楽しめる仕様となっている。

所感

古くから牛頭天王を祀る祇園信仰の神社として信仰を集めた当社。
特に江戸時代になり浅草御蔵が設置され、大蔵前の総鎮守となってからは大いに崇敬された。
蔵前と云う土地柄、氏子には莫大な利益を上げた札差が多く、そうした氏子によって当社の祭礼は実に盛大で、江戸時代の地誌などにも取り上げられる程であった。
特に笹団子を奉納し厄除けとする風習から「団子天王」と称され親しまれた事で知られる。
明治の神仏分離、関東大震災や東京大空襲など時代の変遷を経て、現在はかなり手狭な境内となっているが、当社にまつわる江戸時代の頃の歴史は実に面白く、当時の風習や歴史を伝えるとても良い神社である。

神社画像

[ 鳥居・社号碑 ]


[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 狛犬 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬 ]


[ 天水桶 ]

[ 神楽殿 ]

[ 御神木 ]

[ 社務所 ]

Google Maps

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