神社情報
東沼神社(とうしょうじんじゃ)
御祭神:木花咲耶姫命・素盞鳴命・倉稲魂命・菅原道真公
社格等:村社
例大祭:7月1日(夏の大祓/開山祭)・10月8日(例大祭)
所在地:埼玉県川口市差間2-15-45
最寄駅:東川口駅
公式サイト:http://www.asahi-net.or.jp/~PN6Y-KJRI/
御由緒
●木花咲耶姫命を奉斎した浅間神社として天正元年(1573年)以前に創立される
●明治四十年五月二十九日、差間村の菅原社・稲荷社、間宮村の大白天社・氷川社、北原村の稲荷社、行衛の稲荷社・天神社の合社により社名を東沼神社と改称される
●明治四十四年十一月二日、大門村社、神饌幣帛料供進神社に指定される
●昭和二十七年三月一日、宗教法人東沼神社として神社本庁に所属する
●昭和五十九年五月三日、第四期神社振興対策モデル神社に神社本庁より指定される
●昭和六十一年三月二十九日、現社殿竣工により遷座祭、五月三十一日、竣工奉祝祭が施行される(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2018/10/02
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※朱色の墨書きもあり。(1度にお受けできるのは1種類まで)
※桜の花びらを貼って下さる。
歴史考察
富士浅間大神・東沼神社
埼玉県川口市差間に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧差間村(後に大門村)の鎮守。
かつては「浅間神社」で、富士山を崇拝する浅間信仰の神社。
現在も御祭神として浅間信仰の木花咲耶姫命を祀る。
明治の合祀政策によって、近隣の7社を合祀したため「東沼神社」に改称。
境内には富士塚が修繕工事され、立派な見沼富士が復元されているのが特徴。
富士山を崇拝する浅間神社として創建
創建年代は不詳。
富士山を崇拝する浅間信仰「浅間神社」として創建。
富士山を崇拝する富士信仰の一種で、富士山の神霊として考えられている富士浅間大神を祀る信仰。
「富士山本宮浅間大社」(静岡県富士宮市)を総本宮とし、富士浅間大神は木花咲耶姫命の事とされる事が多い。
江戸時代に富士講の丸岩一信講が起こる
江戸時代に入ると富士信仰が隆盛を極める。
当社周辺にも岩槻発祥である富士講の丸岩一信講が起こった。
江戸時代に成立した民衆信仰で、オガミ(拝み)と富士登山(富士詣)を行う講社。
地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、特に江戸を中心とした関東で流行したため、各地に数多くの講社があり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と云われる程であった。
当社周辺の富士講が岩槻発祥の丸岩一信講と云う講社である。
当時の宮司は、丸岩一信講の講元と、富士山のお中道(富士山5合目一周)や富士山登頂33回以上を信者と共に行ったと云う。
絵馬に描かれた江戸時代の富士塚(見沼富士)
江戸時代後期になると当社の境内に「見沼富士」と呼ばれた富士塚を造営。
浅間信仰の信者から大いに崇敬を集めた。
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚。
本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
(文化遺産オンラインより)
天保十一年(1840)奉納の絵馬で川口市有形民俗文化財に指定。
鳥居と社殿の他、境内の左手に富士塚が描かれている。
富士塚が造営されたように、当地周辺の富士講の中心となって信仰を集めた。
差間村の鎮守・新編武蔵風土記稿から見る当社
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。
(差間村)
浅間社
村の鎮守。興照寺の持。下同じ。
稲荷社
天神社
差間(さしま)村の「浅間社」として記されているのが当社。
「村の鎮守」とあり、差間村の鎮守であった事が分かる。
別当寺は現在も近くにある「興照寺」が担った。
明治以降の歩み・7社が合祀され東沼神社へ改称
明治になり神仏分離。
当社は後に村社に列する。
明治二十二年(1889)、町村制施行によって、大門町・下野田村・北原村・間宮村・差間村・玄蕃新田の1町4ヶ村1新田が合併し、大門村成立。
当社が鎮守した差間村は大門村差間となる。
明治三十九年(1906)に測図された古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
赤円で囲っているのが当社の鎮座地で、今も昔も変わらない。
今はない大門村の地名、そして当社付近には差間という地名も見える。
明治四十年(1907)、差間「菅原社」「稲荷社」、間宮「大白天社」「氷川社」、北原「稲荷社」、行衛「稲荷社」「天神社」を合祀。
現在の「東沼神社」へ改称。
明治四十四年(1911)、「大門神社」(さいたま市緑区大門)と共に、大門村の村社に列し、神饌幣帛料供進神社に指定された。
戦後に入り境内整備が進む。
昭和五十七年(1982)、川口市の都市計画により境内を模様替え。
昭和五十九年(1984)、神社本庁より第4期神社振興対策モデル神社に指定。
氏子と神社の関わりを密にすべく、様々な創意工夫で神社の振興対策をはかる事を目的とされ指定される。
第4期で指定されたのは埼玉県内で唯一当社のみであった。
昭和六十一年(1986)、現在の社殿が竣工、遷座祭が行われた。
平成二十四年(2012)、富士塚の修繕工事が行われ、見沼富士が復元。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
広々とした表参道
最寄駅の東川口駅からは徒歩30分程とかなり距離があるため、公共交通機関を利用する場合は、東川口駅より国際興業バスを利用するのが好ましい。
表参道・裏参道どちらにも大きな駐車場も用意。
南東に面して表参道。
平成八年(1996)に設置された大きな「東沼神社参道」の立て看板が立ち、参道が続く。
道幅の広い参道の先に鳥居。
昭和六十二年(1987)に建立されたもの。
鳥居を潜り表参道が続く。
表参道途中左手に手水舎。
水が張られていて清める事ができる。
緑溢れる裏参道・朱色の大鳥居
一方で西側に面して裏参道。
裏参道にはとても立派な朱色の大鳥居。
東沼神社の扁額が架かり、鳥居の先は緑溢れる裏参道。
こちらから社殿横に出る事ができる。
昭和後期に造営された立派な社殿
表参道の正面、南東向きに社殿。
昭和六十一年(1986)に竣工した社殿。
同年、遷座祭や竣工奉祝が行われている。
氏子崇敬者の気持ちが伝わる実に立派な社殿。
社殿には至る所に社紋の桜紋が施されている。
浅間信仰の神社として富士浅間大神(木花咲耶姫命)を祀る。
社殿の左手に境内社の御嶽社。
富士信仰(浅間信仰)と同様に山岳信仰の神社。
富士塚を修繕し復元された見沼富士
境内の左手に立派な富士塚(見沼富士)。
富士講から崇敬を集めた当社には江戸時代の絵馬にも描かれた富士塚が存在。
その後も富士塚は縮小されながら維持。
平成二十四年(2012)に富士塚を修繕し、江戸時代の絵馬にも描かれていたような立派な富士塚を復元。
「見沼富士」と呼ばれ信仰を集めている。
富士塚(見沼富士)は、年中登拝する事が可能。
古くから残る七合目・八合目などの碑も残されている。
山頂には浅間社の小祠。
また境内を見晴らすこともできる。
天気が良い時は富士山を見沼富士山頂より遥拝する事ができると云う。
注意書きの看板が多い境内
当社の特徴として境内に注意書きが多い事が挙げられる。
拝殿前にも七五三詣の人に向けた注意書き。
見沼富士にも登拝する人に向けた注意書き。
他にも裏参道の入り口など、かなり注意書きが目立つため、人によってはあまり良い印象を受けないかもしれない。
御朱印は黒と朱の墨書きを用意・川口九社詣勾玉巡り
御朱印は授与所にて。
この日は台風の影響で、停電中な事を知らずに参拝したが、とても丁寧に対応して頂き感謝。
御朱印は2種類の墨書き色を用意。
通常は黒の墨書きであるが、朱色の墨書きでも対応して頂ける。
御朱印には桜の花びらを貼って頂ける。
当地は桜の名所でもあり、浅間信仰の当社の社紋は桜紋と云う事での配慮で有り難い。
また、2017年11月より、川口市内の9社による御朱印巡り「川口九社詣 勾玉巡り」が開始され、当社はそのうちの一社となっている。
所感
旧差間村の鎮守で、現在も当地一帯の鎮守として崇敬を集めている当社。
もともとは「浅間神社」であり、富士山を信仰する浅間信仰の神社である。
富士講も盛んになり当社は当地一帯の浅間信仰の中心として信仰を集めた。
江戸時代には富士塚も造られており、それが現在は見沼富士として立派に復元。
晴れた日は山頂から富士山を遥拝する事もできると云い、江戸時代の頃もおそらく富士山を見る事ができたのだろうと思いを馳せる。
自然溢れる境内もとても清々しい。
境内に多くの注意書き看板が立っていて、人によっては少し驚いてしまうかもしれないが、地域に親しまれる良い鎮守である。
神社画像
[ 表参道看板 ]
[ 表参道 ]
[ 鳥居 ]
[ 表参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 裏参道鳥居 ]
[ 裏参道 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 御嶽社 ]
[ 富士塚(見沼富士) ]
[ 御籤掛・絵馬掛 ]
[ 宝物殿 ]
[ 納札所 ]
[ 社務所 ]
[ 案内板 ]
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