七郷神社 / 埼玉県川口市

川口市

神社情報

七郷神社(ななさとじんじゃ)

御祭神:素盞嗚尊
社格等:村社
例大祭:10月15日
所在地:埼玉県川口市戸塚3-13-6
最寄駅:東川口駅・戸塚安行駅
公式サイト:─

御由緒

 神社の創立については、別当であった西光院の火災で記録が焼失したため分かっておりません。別当の西光院が天正元年(1573年)の創立と伝えられていることから同時期に祭られたものと思われます。また、現在戸塚消防分署がある場所から弥生時代の遺跡が出ていることから、神社神道のおこる前からこの場所で祭祀が行われていた可能性もあります。明治40年以前七郷神社は、氷川社でした。明治6年の神仏分離により別当の西光院から別れて村社となり、明治40年には、下立山の神明社、一本木の諏訪社、平沼の厳島社、佐藤の稲荷社、藤兵衛新田の稲荷社、久左衛門新田の天神社の6社を合祀して七郷神社と改称しました。
 神社の小高い裏山は、古墳では無いかと言う方もおられますが、定かではありません。通常神社は、南か東向きですが、この神社は西を向いています。西には富士山、反対側に筑波山があり、関係があるのかもしれません。
 七郷神社の主祭神は、素盞嗚尊(スサノオのみこと)で、五穀豊穣、厄除け、家内安全、縁結びの神様です。江戸化政年間の書かれた『新編武蔵風土記稿』には、「氷川熊野峰岳明神社 小名上組の鎮守なり 西光院の持 末社 天神社 荒脛社 稲荷社 諏訪社」と記載されています。この末社のうち「荒脛社」(アラハバキ)の神様は、アイヌの神様であると言う説がありますが、詳しくは、分かってはおらず、現在の末社とは異なっています。
 現在の末社(神社の左の社)に祭られているのは、三峰社、獅子社(猿田彦の神)、厳島社、疱瘡社、菅原社、稲荷社の6社です。(頒布の資料より)

参拝情報

参拝日:2018/10/02

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

川口市戸塚の鎮守の氷川さま

埼玉県川口市戸塚に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧戸塚村上組の鎮守。
かつては「氷川社」で、川口市に数多くある氷川神社の一社であった。
現在も御祭神として氷川信仰の素盞嗚命を祀る。
明治の合祀政策によって、近隣の6社を合祀したため「七郷神社」に改称。
戸塚周辺の鎮守として崇敬を集めている。

天正年間に氷川社として創建

創建年代は不詳。

別当寺「西光寺」の火災で縁起等古文書が焼失したため、それ以前の御由緒等が不詳。

当社の別当寺を担った「西光寺」が、天正元年(1573)の創建と伝えられているため、当社も同時期の創建と推定されている。

当地は古くから人の定住があったと見られ、当地に隣接する戸塚消防分署の場所からは弥生時代の遺跡が出土しており、古代より土着の祭祀があった神聖な土地だった事も考えられる。

当社の小高い裏山は古墳ではないかと云う説もある。

その後、中世から近世にかけて、当地(旧戸塚村)の開拓と共に当社が祀られたものと思われ、周辺に数多く氷川信仰の神社と同様に「氷川社」として創建したものであろう。

氷川信仰
武蔵一宮氷川神社」(埼玉県さいたま市大宮区)を総本社とし、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を御祭神とする信仰。
その数200社以上と言われているが、全国的に見ると東京・埼玉といった旧武蔵国以外ではほぼ見ることができない信仰となっている。
様々な側面を持つが、開拓の神(出雲族が開拓したため出雲の神・素盞鳴尊が祀られている)として信仰を集める事が多かった。
武蔵一宮氷川神社 / 埼玉県さいたま市
武蔵国一之宮。氷川神社総本社。氷川の由来・大宮の地名由来。埼玉や東京に点在する氷川信仰。見沼の水神を祀る太古の信仰。出雲族の移住と出雲の神。明治天皇が関東の神社で最初に行幸。約2kmの氷川参道。国費で改築・楼門や社殿。限定御朱印。御朱印帳。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(戸塚村)
氷川熊野峯岳明神合社
小名上組の鎮守なり。西光院の持。
末社。天神社。荒脛社。稲荷社。諏訪社。

戸塚村の「氷川熊野峯岳明神合社」として記されているのが当社。
当時は「氷川社」だけでなく「熊野社」「峯岳明神社」が合祀された合社だった事が分かる。
戸塚村の中でも上組という地域の鎮守であった事も記してある。

末社は、天神社、荒脛社、稲荷社、諏訪社。
荒脛社は現在は祀られていないが、当社の御由緒にはアイヌの神とも伝わっている。

氷川信仰の総本社「武蔵一宮氷川神社」にも荒脛巾(あらはばき)を祀る末社が置かれていて、こちらは地主神とされており、古くから当地に祀られていた神というのがこの荒脛巾であり、後に氷川神がやってきたと云う形になっている。当社の末社も「武蔵一宮氷川神社」からの流れであったかもしれない。

別当寺は「西光院」(川口市戸塚2丁目)が担った。

西光寺
天正元年(1573)に当地に来た叡雅上人により庵として結ばれたのが始まりで、文禄二年(1593)に再び上人が当寺に来た際に「青竜山西光院伝福寺」と号した。
寛永年間(1624年-1644年)に第三世長雅上人により再興したと云う。
神仏分離まで当社の別当寺を担った。
現在は武州川口七福神の弁財天。

明治以降の歩み・6社が合祀され七郷神社へ改称

明治になり神仏分離。
当社は「氷川熊野峯岳明神合社」から「氷川社」へ改称。
明治六年(1873)、村社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制施行によって、戸塚村・西立野村・長蔵新田・久左衛門新田・藤兵衛新田の2ヶ村3新田が合併し、戸塚村が成立。

明治三十九年(1906)に測図された古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが当社の鎮座地で、古地図のほうには神社の地図記号が見えないが近くに旧別当寺「西光院」があるので、同じ一角に鎮座していたと思われる。
戸塚村の文字も見る事ができ、現在も戸塚という地名で残る。

他にも数多くの地名が見る事ができ、これらの鎮守が後に当社に合祀される事となる。

明治四十年(1907)、下立山「神明社」、一本木「諏訪社」、平沼「厳島社」、佐藤「稲荷社」、藤兵衛新田「稲荷社」、久左衛門新田「天神社」を合祀。
「七郷神社」へ改称。

七郷神社の社号由来
明治四十年(1907)に6社が合祀されたため、当社を含め合計7つの村組(郷)の鎮守が合わさったと云う意味で「七郷神社」に改称。
明治後期以降に政府が推し進めた合祀政策の影響を見て取れる。

戦後になり境内整備が進み現在に至る。

境内案内

戸塚小学校の隣に鎮座

最寄駅の東川口駅からは南東へ徒歩数分の距離。
右隣には戸塚小学校、左隣には戸塚消防分署の立地。

小学校からは子どもたちの元気のよい声が境内に響く。
石段を上った先に一之鳥居。
社号碑には「村社七郷神社」の文字。

一之鳥居の両脇に一対の狛犬。
まだ新しい狛犬であるが表情がとてもユニーク。
10年近く当社の氏子総代を務めた方からの奉納。

一之鳥居を潜ると二之鳥居。
二之鳥居を潜ってすぐ左手に手水舎。
水が張られていて綺麗に整備されている。

戦後に再建された社殿・古墳の説がある裏山

二之鳥居を潜った先に社殿。
戦後に再建された社殿だが綺麗に維持。
社殿は比較的珍しい西向きの社殿となっている。
地域からの崇敬が篤い神社となっている。

社殿の裏手には小高い裏山。
緑溢れる一角であるが、一説ではここは古代の古墳ではないかとも云われている。

当社の左隣に隣接する戸塚消防分署の場所からは弥生時代の遺跡が出土しており、古代より土着の祭祀があった神聖な土地だった事も考えられている。

境内社・古い水盤・賑やかな境内

社殿の左手には境内社。
三峰社・獅子社・厳島社・疱瘡社・菅原社・稲荷社の6社が並ぶ。

手水舎の裏手に古い水盤。
回り込んでも銘が確認できなかったが、かなり古いものと見られる。

右隣には戸塚小学校があるため、子どもたちの元気な声が響き、左隣には戸塚消防分署があるため、出動時のサイレンが鳴ったりとなんとも賑やかな境内で、地域から愛されている鎮守なのが伝わる。

御朱印・川口九社詣勾玉巡りにも参加

御朱印は授与所にて。
社殿横の授与所にインターホンがあるので、鳴らすと向かいのご自宅から出てきて対応して下さり、大変有り難い(ご不在の場合もあり)

2017年11月より、川口市内の9社による御朱印巡り「川口九社詣 勾玉巡り」が開始され、当社はそのうちの一社となっている。
勾玉巡御朱印帳(初穂料:1,200円)も頒布している。

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所感

戸塚鎮守として地域から崇敬を集めている当社。
創建年代は不詳ながら、おそらく戸塚村の開拓と共に創建されたものと思われる。
氷川信仰の神社として創建され、その後地域の信仰が合わさったのであろう。
明治の合祀政策で、6社が合祀され、7つの郷の鎮守が合わさったと云う意味で「七郷神社」と改称され、その後も戸塚一帯の鎮守として崇敬を集めている。
小学校が隣にあり賑やかな声が聞こえてくる境内は、地域と密接に関わった良い神社であると思うし、地域の方が通る度に手を合わせるのを見ると何だか嬉しい。
地域に愛される良い鎮守である。

神社画像

[ 一之鳥居 ]





[ 社号碑 ]

[ 狛犬 ]


[ 二之鳥居 ]


[ 拝殿 ]




[ 本殿 ]


[ 裏山 ]


[ 授与所 ]

[ 社務所 ]

[ 参集殿 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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