鵜ノ木八幡神社 / 東京都大田区

大田区

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概要

鵜の木の八幡さま

東京都大田区南久が原に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
当地の名主である天明家の守護神として祀られた歴史を持つ。
一説では延喜式内社の論社とされる事もある。
境内には江戸時代の灯籠や明治時代の狛犬などが残る。

神社情報

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)

御祭神:誉田別命
社格等:延喜式内社(小社論社)
例大祭:9月第2土曜
所在地:東京都大田区南久が原2-24-1
最寄駅:久が原駅・鵜の木駅・下丸子駅
公式サイト:─

御由緒

延徳元年(1489)下野国(現栃木県)佐野の在より天明五郎右衛門光虎が当地に移った際に一族の守護神として八幡大神を祀ったのが当社の起源である。創建より既に500有余年の時代が流れ一族の主神から地域の氏神として信仰されるようになった。長い年月の間には数々の補修があったが、特に弘化四年(1849)に建立された社殿は戦火で失うまで現存していた。その後平成十二年氏子崇敬者の寄進により待望の社殿社務所を始め付属建造物が再建され、これを機に八幡総本社である大分県宇佐神宮より御分霊を勧請し一層の神慮が深まり霊験あらたかな社として今日に至る。(頒布の資料より)

歴史考察

当地に移り住んだ天明家・一族の守護神として創建

社伝によると、延徳元年(1489)に創建と伝わる。

下野国(現・栃木現)佐野に住んでいた天明五郎右衛門光虎が当地に移住。
天明家は鵜ノ木村を開拓し当地の名主となった。
その際に天明一族の守護神として八幡大神を祀ったのが当社の起源とされている。

因みに現在も全国的に珍しい天明という苗字がこの鵜の木一帯に集中している。この事からもこの地に移り住んだ一族が名主として栄えた事が分かる。
天明(てんみょう)の由来
この天明の苗字は当地に移り住む前に居を構えていた、下野国の日光例幣使街道にあった天明宿(現・栃木県佐野市天明町)という地名に由来しているとされる。
この天明宿は天明鍛冶といわれる鋳物師で有名で、平安時代に河内国から移住してきたのが祖と伝えられている。
豊臣秀頼が「方広寺」の鐘を鋳造した際にも天明鍛冶師が上洛して制作にあたったと云う。

青山因幡守からの崇敬

寛文年間(1661年-1673年)、青山因幡守(青山宗俊)からの崇敬が篤く当社の社殿を修理したと云う。

青山宗俊(あおやまむねとし)
江戸時代前期に旗本から大名に上り詰めた人物。
徳川家譜代の重臣・青山忠俊(あおやまただとし)の長男として誕生。
信濃小諸藩主で大名となり、大坂城代、遠江浜松藩初代藩主となる。

青山宗俊は所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移された経緯があり、この鵜ノ木村一帯を所領としていた事もあったようで、そういった縁から社殿を修理したのであろう。

これらは口碑として伝わっているもの。

新編武蔵風土記稿から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(鵜ノ木村)
八幡社
除地二段余。村の北にあり。社は二間半四方。前に石の鳥居を建て入口に石階五級を設く。鎮座の年暦を詳にせず。祭礼九月なり。村内増明院のもちなり。

別当寺は現在も近くにある「増明院」であり、既に天明家の手から離れて地域の鎮守的な一社になっていたと思われる。
当社は鵜ノ木村にいくつかある神社のうちの一社であった。
鵜ノ木村の項目には他に鵜ノ森明神社・天神社・熊野社・道祖神社・稲荷社などが記されている。

後の弘化四年(1849)には社殿を建立。建立された社殿は東京大空襲で焼失するまで現存していた。

鵜ノ森明神社の謎・鵜の木の地名由来

中でも「鵜ノ森明神社」は当地に古くから鎮座していた神社とされる。
『新編武蔵風土記稿』には「鵜ノ森明神社」についてこう記されている。

(鵜ノ木村)
鵜ノ森明神社
名主五郎右衛門が構へにあり。語り伝へに此辺、鵜の森、烏の森、鷺の森、鈴ヶ森を合せて四の森と昔より土人いひならはせり。今北蒲田村の八幡を薭田神社と称するは訛りにて薭田神社は則当社なり。当社の祭神鴎鵜草葺不合尊なる故に村をも古へは鵜ノ森と唱えられしと。光明寺の先住故有て鵜ノ木村と書せしより今の村名となりしなど云へども、この家にのみにて伝ふることなれば疑ふべし。
接に梅花無尽蔵に分明十七年十月二日、僧萬里世戸井を出て江戸に赴く途中、鵜ノ森をすぎて品川に至りしことのせたり。世戸井は何れの地なりや今その唱なし。恐くは久良岐郡瀬戸のことなるべし。若しからんには品川へ行んとして、当所をすぐへきの理なし。比邊別に鵜ノ森と云所ありし歟。万里かしるせしは、その地に老松あり屈して、其の様龍の如しなといへり。今すべて考ふへからず。当所のみにもかきをす児玉郡にも鵜ノ森と云う地名あり。又多磨郡一分方にも鵜ノ森神社あり。これは住吉明神を祀れりといふ。鵜森は、その邊の庄名にて小川の流れあるゆへ鵜多く来て森に巣をつくへに名の起これりといへり。因にしるして参考に備ふ。
又郡内八幅塚村八幡神社を薭田神社なと書せたものありとも、これも覺束なし。尚 蒲田村八幡宮の条と照しみるへし。

「名主五郎右衛門が構へにあり」とあるように、名主の天明家とも繋がりが深い神社だった事が伺える。
御祭神は鴎鵜草葺不合尊だったと云う。

鴎鵜草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)
山幸彦として知られる火折尊(ほのおりのみこと)と龍宮に住む豊玉姫(とよたまひめ)との間に生まれた神。
初代天皇である神武天皇の父とされる。
鴎鵜草葺不合尊を祀る神社は全国的にも大変珍しい。
鵜の木の地名由来
・鴎鵜草葺不合尊を祀っていた事から「鵜ノ森」と呼ばれた。
・この一帯は鵜が非常に多く住み着いていたことから「鵜ノ森」と呼ばれた。
「光明寺」の僧が故有って「鵜ノ木」と書いてからは鵜ノ木村になったと云う。
天平勝宝年間(749年-756年)に開創されたとされる「光明寺」の記録によれば、正応五年(1292)には既に「鵜ノ木」の呼称が使われていたとある。

この「鵜ノ森明神社」については現在は所在が不明。
現在も残る当社に合祀されたのかすら謎となっている。

延喜式内社「薭田神社」の論社説

上述の『新編武蔵風土記稿』には「鵜ノ森明神社」について興味深い事が記されている。
「今北蒲田村の八幡を薭田神社と称するは訛りにて薭田神社は則当社なり」の一文。
ようするに当社が「薭田神社」であると云う。

薭田神社(ひえだじんじゃ)
延長五年(927)に編纂された『延喜式神名帳』で小社に列格する神社。
所在は不明となっていて比定される論社が幾つか存在している。
延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
『延喜式神名帳』に記載された神社を、延喜式内社(式内社)と云う。

「薭田神社」に比定される論社は大田区蒲田「薭田神社」、港区三田「御田八幡神社」などが代表的な論社。
そして江戸時代に存在していた「鵜ノ森明神社」もそのうちの一社となっている。

薭田神社(稗田神社) / 東京都大田区
蒲田村鎮守。延喜式内社に比定される古社。菖蒲のカラフル御朱印。行基による創建・日蓮の開眼伝説。正史に残る蒲田神社と式内社論社の考察。江戸名所図会に描かれた当社。蒲田の中心だった戦前。江戸時代の石鳥居。蒲田菖蒲園。本務社は「蒲田八幡神社」。
御田八幡神社 / 東京都港区
三田総鎮守の八幡さま。釜鳴神事のお社。飛鳥時代創建の古社・式内社「薭田神社」論社。嵯峨源氏渡辺一党の氏神。頼光四天王の筆頭・渡辺綱の伝説。綱八幡と称される。江戸時代に現在地へ遷座。元禄年間の狛犬。一陽来復御守。第一京浜沿いに鎮座。御朱印。
特に大田区蒲田「薭田神社」が古くから最も有力視されている。

但し『新編武蔵風土記稿』には「この家にのみにて伝ふることなれば疑ふべし」の一文も付随している。
ようするに天明家のみ伝わる事なので疑いの余地があるという事。
そのためあくまで伝承として天明家に伝わっていた程度と思ったほうが良いと思われる。

戦後に編纂された『式内社調査報告』では、上述の『新編武蔵風土記稿』を根拠として当社を「薭田神社」の論社の一社としている。これは「鵜ノ森明神社」が所在不明になっているため当社に合祀されたと見ているのだろう。

いずれにせよ当地に古くから鎮座しており鵜の木の地名由来にもなった「鵜ノ森明神社」と当社との関係、「鵜ノ森明神社」の所在の謎は中々に興味深い。

明治以降の歩み・戦災と平成の再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治二十二年(1889)、市制町村制によって鵜ノ木村・上沼部村・下沼部村・峰村と合併して調布村が成立。
当地は調布村鵜ノ木となり、この頃には当社が一帯の鎮守を担うようになっていた。

明治三十九年(1906)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で現在も変わらない。
鵜ノ木の文字も見る事ができる。
こうして鵜ノ木周辺を見ると神社の記号が当社にしか記されていないのも分かる。

既にこの時点で「鵜ノ森明神社」がなくなっていたのか、地図に表示されないほどの規模だったのかは不明。個人的にはこの頃には当社に合祀されたのではないかと推測している。

大正十三年(1923)、東急目蒲線に鵜ノ木駅(現・東急多摩川線の鵜の木駅)が新設。

昭和二十年(1945)、東京大空襲にて社殿が焼失。
旧社殿は弘化四年(1849)に建立されたものだった。

その後、戦後に瓦葺平入の質素な仮社殿で再建。

平成十二年(2000)、社殿や社務所を造営。
これを機に八幡信仰の総本社である大分県「宇佐神宮」より御分霊を勧請している。

宇佐神宮(うさじんぐう)
大分県宇佐市に鎮座。
豊前国一之宮で、全国にある八幡信仰の神社の総本社。
宇佐八幡と呼ばれ崇敬を集めている。
八幡総本宮 宇佐神宮
宇佐神宮公式ホームページ。宇佐神宮は全国に4万社あまりある八幡様の総本宮です。八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神にお祀りし、神亀2年に創建されました。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

南久が原の住宅街に鎮座

最寄り駅は鵜の木駅・久が原駅・下丸子駅などでいずれからも同じくらいの距離。
南久が原の入り組んだ住宅街の一画に鎮座。
やや高台に位置する。
平成十二年(2000)に再建されたため境内は全体的にまだ新しい印象を受ける。
「鵜ノ木八幡神社」の社号碑。

鳥居を潜ると左手に手水舎。
水盤はかなり古いものが現存している。

平成に再建を果たした社殿

参道の正面に社殿。
旧社殿は弘化四年(1849)に建立されたものだったが東京大空襲で焼失。
その後長らく仮社殿で維持されていたが、平成十二年(2000)に氏子たちの力によって再建。
中々に立派な造りで、まだ新しさすら感じ綺麗に維持されているのが分かる。
氏子崇敬者たちの再建への気持ちが伝わる。

授乳狛犬や灯籠など天明家による古い奉納物

拝殿前に一対の狛犬。
明治二十四年(1891)に奉納されたもの。
阿吽ともに子持ちの狛犬。
中でも阿形は授乳の姿の狛犬とあって、子育てに縁起が良さそう。
天明家による奉納。

鳥居の先には一対の石灯籠。
元禄十四年(1701)奉納とかなり古い。
やはり天明の文字もあるため天明家による奉納物である事が分かる。

天明家の守護神として創建した当社は、江戸時代・明治になっても天明一族からの崇敬が絶えなかった事が分かる。当地には今も全国的に珍しい天明の苗字を多く見かける。

発掘された奨兵義会記念碑

境内の左手隅に奨兵義会記念碑。
明治三十五年(1902)に当社境内に建てられたもので、旧鵜ノ木村・旧鵜ノ木山谷から兵役の義務に服した子弟を顕彰する石碑だったが、第二次世界大戦の混乱で境内に埋蔵されて行方不明に。
平成十一年(1999)、当社建て替えの時に発掘され復元された。

境外には庚申塔と稲荷社

玉垣の左手隅に庚申塔と稲荷社。
『新編武蔵風土記稿』に道祖神社、稲荷社の姿が見られるのでそちらが遷されたのかもしれない。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)という虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申(ひゃくこうしん)と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

添え印が押された書き置き御朱印

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。
基本的に社務所前に御朱印が置かれたセルフ式になる事が多い様子。

筆者が参拝した時は人がいらっしゃったので対応して頂けた。

御朱印は「鵜ノ木八幡神社」の朱印、境内や季節の添え印付き。添え印は月替りで変わる様子。

以前頂いた時は帳面に朱印と印判のみのシンプルなものだったが、現在は書き置きのみでこうしたカラフルな添え印が押されるようになっている。

所感

住宅街の一画に鎮座している当社。
平成十二年(2000)に再建されたため、まだ新しい印象を受ける神社で清々しい。
歴史を見てみると、今もなお多く末裔が残る天明家の守護神としての創建が分かり、こうして再建できたのも崇敬者が多く残っているからこそなのだろう。
そして当地の地名由来ともなった「鵜ノ森明神社」の所在の謎も興味深く、当社に合祀されたのか、そういった関連性も気になるところ。
現在は天明家の守護神というよりもこの地の鎮守として崇敬を集めている。
南久が原、鵜の木、西嶺町、千鳥町の一部が氏子区域であると云う。
再建を果たした地域の鎮守としてこれからも崇敬され続けるのだろう。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※現在は社務所前に置かれたセルフ式。(社務所に人がいる場合は書き置きのみだが直接対応可)
※社名部分は墨書きではなく印版によるもの。

最新の御朱印情報
12月1日-31日まで「月替りの添え印付き御朱印」
※御朱印は社務所前のセルフ式。社務所に人がいる場合は直接対応も可。但し書き置きのみ。

参拝情報

参拝日:2025/12/23(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/06/17(御朱印拝受)

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