石濱神社(石浜神社) / 東京都荒川区

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神社情報

石濱神社(いしはまじんじゃ)

御祭神:天照大御神・豊受大御神
社格等:郷社
例大祭:5月下旬
所在地:東京都荒川区南千住3-28-58
最寄駅:南千住駅・鐘ヶ淵駅
公式サイト:http://www.ishihamajinja.jp/

御由緒

 聖武天皇の神亀元年(724)九月十一日勅願にり鎮座。文治五年(1189)源頼朝の奥州藤原氏攻めに際しての社殿の寄進、弘安四年(1281)蒙古襲来の折には必勝を祈念しての鎌倉将軍家お取次ぎによる官幣の奉幣などを経て、中世初めには大社としての発展する。殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられる。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと、市民の間にその名を馳せ、明治五年(1872)には社格が郷社に列せられた。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/10/19

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※神社の御朱印の他に、浅草名所七福神・寿老神の御朱印も拝受できる。

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歴史考察

古い歴史を持つ神明さん

東京都荒川区南千住に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、南千住・橋場の鎮守。
古い歴史を持つ伊勢信仰の神社で、地域からは「神明さん」と呼ばれる。
この地域一帯から崇敬を集めた大社であった。
現在は浅草名所七福神の寿老神も担っている。

源頼朝の寄進など大社として崇敬を集める

社伝によると、神亀元年(724)に聖武天皇の勅願によって創建とある。
古くから地域を代表する古社であった。

文治五年(1189)、源頼朝が奥州征伐の際に当社に立ち寄り「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み戦勝祈願をし、凱旋の際に社殿を寄進したと伝わる。
弘安四年(1281)、蒙古襲来の折には鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣のご奉納も行われた。
この頃は、千葉氏、宇都宮氏からの崇敬が篤く、また関八州(関東8か国)の庶民が「伊勢神宮」の代わりに当社に詣でたとも伝わる。

このように鎌倉時代には、当時の有力な武将、さらには庶民からも多くの崇敬を集め、関東における伊勢信仰の中心の一つとして栄えた事が分かる。
当地は、奥州街道に近い交通の要衝でもあったため、この頃は大社として発展したと伝わる。

当時は現在よりもやや西側の地に遷座していた。
古利根川(現在の隅田川)西岸地域を、古くから石濱(石浜)と呼んでいたため、「石濱神社朝日皇太神宮」と称された。

中世の城である石浜城

現在の当社鎮座地は中世の城である「石浜城」があった場所と伝わる。

中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352)、新田義興の追撃を受けた足利尊氏が石浜城で追撃を退けたと伝わる。
その後、千葉氏の内紛では下総国を追われた宗家生き残りが石浜城を拠点と武蔵千葉氏とした。
最終的には、豊臣秀吉による小田原征伐によって廃城となった城である。

石浜城は、江戸時代以後の古利根川から隅田川の流路の変化や都市化の進展によって地形も大きく変わっており、遺構なども見つかっておらず、城の所在地については諸説あるのだが、当社周辺にあったと云うのが最有力とされている。
img_1621この事から推測できるのは、鎌倉時代には大社として栄えた当社であったが、石浜城が築かれてからは戦乱の世に巻き込まれる事も多く、最盛期よりは少しずつ衰退していったものと思われる。

当地周辺はかつては石浜庄「橋場村」であり、橋場村の鎮守として地域からの崇敬を集めた。

江戸時代の当社と橋場地域

江戸時代に入ると「橋場村」が分けられる事となる。
現在の台東区側は町奉行支配で町として発展した「橋場町」で、農村だった荒川区側が「橋場町在方分」と呼ばれる事となった。

なお、当社は両地域の鎮守であり、後にそのまま台東区と荒川区に分かれたため、当社の氏子区域は今も荒川区と台東区に跨っている。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(橋場町在方分)
神明社
村の鎮守なり。石濱神社朝日皇太神宮と称す。祭神は天照太神月読の尊なり。社地の外十石一斗の地を社領に免除せらる。当社は神亀元年九月十一日此地に鎮座すと云。例祭九月十六日社地にて生花の市あり故に生花祭と云。
末社
天満宮。社地の内にあり。随神門を構へ別に一区をなせり。明和四年六月五日高辻大納言家長勧請す。則同人の扁額あり。
妙義。御霊二。力明神。以上天神社地にあり。力明神は石像にて覆屋なし。
荒香。祭神は手置帆負命彦狭知命なり。又手彦明神とも号す。工匠を司とる神なり。安永八年八月八日御大工棟梁溝口内匠か勧請なり。以下十三宇共に神明社の左右にあり。
牛頭天王。町分の鎮守なり。別に供免三段五畝の地を附す。例祭六月十五日神輿を船に乗て町中を渡す。
稲荷九。疱瘡神。淡島。大黒。水神。
智庸靈社。神主山城か祖父鈴木智庸社再建の功あり、故に此に祀と云。
弘祷靈社。是も神主鈴木弘祷を祀れり。
摂社
真先稲荷社。神明社、東一町許を隔て別に一区をなせと神明除地の内なり。幣殿拝殿建続て頗る荘厳をなせり。社伝に拠に、昔千葉介平兼胤か家に傳へし神璽あり。此奇瑞により数の戦場に先懸の高名を得さることなし。其子季胤に至り神璽を常に膚に着ること恐ありとて、稲倉魂の神像を鋳させ戦場に出ることに草摺の内にこめしと云。天文年中千葉守胤石濱の城主たりし時、此地に宮柱を建かの神璽を祀り季胤か鋳させし像を前立として真先稲荷と崇祀ると云。其後往々祈願をなす者ありしか、延享の頃より殊に渇仰の輩多く、其頃一橋宗尹卿信仰ありて社頭を再建し祈願所とせられ、御子豊之助君(儀同三司冶済公御幼名)仙之助君疱瘡の時酒湯も当所より捧げしと云。今幣殿に掲たる鶴鷹の額は、宗尹卿浮田邊放鷹の時当社に祈念し鶴二羽まで得られし時、納られしものなりとなり。又将軍家いまた豊千代君と称し奉りし頃御参詣の時神符を捧け後御養君に立せ給ふに及ひて、御懐中の御守及ひ神符奉りしと云。此社前荒川の岸にて毎年夏越の祓をなす。其式京加茂の祓に異ならすと云。
社寶
白狐玉一顆。
八形の鏡一面。鏡は天明六年五月酒井たヽつくの納めしものなりと社司の傳れと、其文字も定かならず。もし忠次ならんには年代違り、加之後世酒井氏にしてたたつくと唱るもいかかはあらん。とにかく傳る儘を記せり、圓径七寸裏面の図左の如し。
随身門。額殿。榎一株、稲荷社前にあり、神木なり、老樹にて大さ三囲許。
神主鈴木山城。京吉田家の配下なり、真光稲荷の側に住す、本社摂社共兼司れり。

絵図付きで説明があり、江戸時代もかつての大社の名残を残している。
「神明社」と記されており、「石濱神社朝日皇太神宮」と称した。
旧橋場村である橋場町と橋場町在方分の鎮守であり、創建年なども記されている。
この頃から大変多くの境内社が置かれており、伊勢信仰としてだけでなく、当地周辺の信仰を集めていた事が分かる。
また当社に隣接していた「真先稲荷社」が摂社として、当社と共に崇敬を集めていた。

江戸名所図会で見る当社と真先稲荷

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

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「石濱神明宮」と描かれたのが当社であり、当時から見事な境内であったのが伝わる。
多くの境内社と立派な本社を持つ、地域の崇敬を集める神社だった事が分かる。

注目すべきは当社の下側にある「真崎稲荷社(真先稲荷神社)」。
当社と共に崇敬を集めた当社の摂社であり、当社への一之鳥居の左手に鎮座していた。
上述した石浜城城主となった千葉之介守胤が、一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の、尊い宝珠を奉納安置申して以来、真先かける武功という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られたと伝わる。

一橋徳川家の祈願所となって庶民の出入りができなくなった代わりに、庶民のために奥宮「招来稲荷社」が設けられ大いに栄えたという。

多くの浮世絵の題材に

こうした事からも、江戸時代には当社と「真先稲荷神社」が庶民からの人気スポットであった。
隅田川を渡る最古の渡し「橋場の渡し」が近くにあった事や、東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれた事も人気を高める事となった。

その証拠に多くの浮世絵の題材として取り上げられる事となる。
特に初代・歌川広重が好んで描いた。

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歌川広重による『東都名所図絵』では「隅田川渡しの図」として描かれている。
左手にあるのが「橋場の渡し」であり、「真先稲荷神社」と当社。
そして正面には筑波山の山を見る事ができ、名勝として人気が高かった。

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こちらも広重による『東都名所』から「真崎暮春之景」。
同じような構図であるが当時の橋場の渡しと隅田川の様子を見る事ができる。
左手の鳥居が「真先稲荷神社」であり、その奥にあるのが当社へ繋がる一之鳥居。
奥には筑波山を望む事ができ、やはり美しい景観。

%e7%9c%9f%e5%b4%8e%e3%81%ae%e5%a4%a7%e9%9b%aa(歌川広重・東都名所)

同じく広重の『東都名所』より「真崎雪晴ノ図」。
美しい雪景色の当地周辺を描いており、やはり「真先稲荷神社」を描いている。
右手にある鳥居が当社へ続く参道の一之鳥居で、奥に見えるのが当社であろう。

他にも数々の浮世絵で描かれており、当社と摂社「真先稲荷神社」は江戸庶民から崇敬を集めた神社であった。
特に夏越大祓は、江戸市中で最も名高い夏の行事であったと伝わっている。

明治維新後と戦後の遷座

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、郷社に列した。

明治二十二年(1889)、町村制が施行され当地は地方橋場町(後の南千住)となる。
橋場周辺の鎮守として多くの崇敬を集めた。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
その影響を受け、大正十五年(1926)に摂社「真先稲荷神社」とその奥宮「招来稲荷神社」が当社境内に遷座。
浮世絵に描かれた姿はこの頃を境に見れなくなったと云えるだろう。

昭和十二年(1934)、建築家である伊東忠太設計により本殿が建てられた。
伊東忠太は建築界で初めて文化勲章を受賞した日本建築を見直した第一人者である。

戦後の昭和六十三年(1988)、白ひげ西地区再開発事業によって、やや東の当地に遷座。
拝殿などもこの時に新築されている。
その後も境内整備が行われ、見事な境内を維持している。

江戸時代に入ると「橋場村」が分けられる事となる。
現在の台東区側は町奉行支配で町として発展した「橋場町」で、農村だった荒川区側が「橋場町在方分」と呼ばれる事となった。

当社は旧橋場村(橋場町・橋場町在方分)の鎮守であり、氏子区域は今も荒川区南千住と台東区橋場に及び崇敬を集め、隔年で本社神輿が渡御する本祭りが行われている。

文化財の石浜鳥居と新築された拝殿

南千住駅から東の隅田川沿い、白髭橋の近くに鎮座。
img_1622一之鳥居は安永九年(1780)に建立されたもので、荒川区登録有形文化財。
img_1623笠木の断面がカマボコ型となっている鳥居で、おそらく全国的にも当社のみに見られる非常に珍しい鳥居で、そのため石浜鳥居と称される事もある。
img_1625その奥の二之鳥居は更に古い寛延二年(1749)に建立され、こちらも荒川区登録有形文化財。
一之鳥居と同様に笠木の断面がカマボコ型となっている石浜鳥居。
参道の先に手水舎があり、その先に社殿。

拝殿は昭和六十三年(1988)に当地に遷座した際に新築されたもの。
img_1629神明造で少し変則的ながら大変立派な造りとなっている。
img_1660本殿は昭和十二年(1934)伊東忠太設計により造られたもの。

こちらから見る事が叶わないのだが、本社社殿の手前にあるのが麁香神社で、安永三年(1774)に建造されたものと伝わっている。
大工の祖神・工匠守護として建築関係者から崇敬を集めた。

摂社・真先稲荷神社と奥宮・招来稲荷神社

拝殿の右手には境内社が並ぶ。
img_1634左より江戸神社、北野神社、妙義八幡神社、寿老神、宝得大黒天、真先稲荷神社。
多くが江戸時代の頃より当社の境内社として鎮座しており、遷座した際にこうしてまとめられた。

中でも有名なのが摂社「真先稲荷神社」。
img_1636上述のように、江戸時代の頃より浮世絵の題材として多く取り上げられた神社であり、本社である当社よりも「真先稲荷神社」のほうを多く見る事ができるくらいである。
かつては当社に隣接するように鎮座していたが、関東大震災の影響もあり大正十五年(1926)に当社境内に遷座した。

戦場の先駆けたれ、という願いを込めて真っ先、真崎と名付けられたと伝わる。

江戸時代には、一橋徳川家の祈願所となって庶民の出入りが禁止された。
代わりに奥宮が設けられたのだが、それが「招来稲荷神社」である。
img_1637こちらも「真先稲荷神社」と共に大正十五年(1926)に当社境内に遷座した。

なお、江戸庶民からは奥宮「招来稲荷神社」の人気が高く、門前の茶屋の田楽が評判だったと伝わる。
さらに江戸後期の随筆家・喜多村筠庭の風俗百科事典『嬉遊笑覧』にこう記している。

かたはらに野狐の住める穴あり。真崎いなりの奥の院とぞ、志願あるもの、狐の好む食物を用意して、此穴際に来り。神主は御出々々と手をうてば、狐出てこれを食ふ。食はざるは願かなはずなん。(喜多村筠庭・嬉遊笑覧)

穴の前に油揚げを置いて、神主が「おいでおいで」と手を打って、出てきて食べてくれれば願いが叶うというエピソード。
そこからこの神社は「招来(おいで)稲荷」となった。

この狐穴はいまも「白狐祠」として祀られている。
img_1638赤い鳥居の先が白狐祠であり、逸話によるもの。

なお、右手には富士塚や庚申塔が置かれており、当地周辺の信仰を知る事ができる。
img_1639他にも石碑や力石などが多く置かれており、当地の歴史が伝わる。

御朱印は社務所にて。
img_1648神社の御朱印の他に、浅草名所七福神・寿老神の御朱印も拝受できる。
歴史や地理など色々教えて頂いて有り難い。

池波正太郎著「剣客商売」の舞台にも

また「真先稲荷神社」は、池波正太郎の小説『剣客商売』の舞台としても知られる。

『剣客商売』1972年から1989年まで『小説新潮』で断続的に連載された作品。

主人公の1人である秋山大治郎が、「真先稲荷神社」の近くに道場を構えたという設定になっており、池波正太郎ファンの方にはお馴染みのエリアである。

荒川が大川(隅田川)に変って、その流れを転じようとする浅草の外れの、真崎稲荷明神社に近い木立の中へ、秋山大治郎が無外流の剣術道場をかまえてから、そろそろ半年になろうか。(池波正太郎・剣客商売)

絵図や浮世絵を見るからに当時の「真先稲荷神社」の裏手のあたりだろうか。
現在は当社境内に遷座しているので、当時の場所には鎮座していないものの、おそらく現在の白髭橋近くだと思われる。
いわゆる聖地巡礼のように、参拝に訪れる方もいるようだ。

所感

橋場一帯の鎮守として地崇敬を集めた当社。
聖武天皇の勅願によって創建、源頼朝の社殿寄進など、中世には大社として発展し、江戸時代も庶民からの崇敬が篤く人気を博した神社であった。
特に摂社「真先稲荷神社」は浮世絵の題材としても多く描かれている。
戦後になり当地に遷座(やや東に遷っただけ)した後も、見事な境内を維持しており、今もなお多くの崇敬を集めている事が伝わる。
新しい拝殿と、歴史を感じさせる建造物や奉納物、そして多くの境内社や摂社などがうまく融合しており、とても心地よい空気を感じる境内。
東京を代表する一社であり、素晴らしい良社である。

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神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]
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[ 一之鳥居 ]
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[ 二之鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 社殿 ]
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[ 江戸神社・北野天満宮・妙義八幡神社・寿老神・宝得大黒天・真先稲荷神社 ]
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[ 真先稲荷神社 ]
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[ 社務所 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 神楽獅子 ]
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[ 招来稲荷神社 ]
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[ 白狐祠 ]
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[ 庚申塚・富士遙拝所 ]
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[ 石碑・力石 ]
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[ 神楽殿 ]
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[ 石碑 ]
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[ 石碑 ]
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img_1656
[ 神輿庫 ]
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[ 案内板 ]
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[ 東鳥居 ]
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[ 玉垣 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps