師岡熊野神社 / 神奈川県横浜市

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神社情報

師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)

御祭神:伊邪那美尊・事解之男命・速玉之男命
旧社格:県社の後に郷社
例大祭:8月24日
所在地:神奈川県横浜市港北区師岡町1137
最寄駅:大倉山駅
公式サイト:http://www.kumanojinja.or.jp/

御由緒

 この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ、熊野山の中腹に鎮座し、和歌山県熊野三社(本宮・那智・速玉)の祭神と御一体である。
 仁和元年七月には、光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わり、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は天暦三年より実に1060回余にもなる。
 観応二年六月十七日、雷火のため社殿は消失したが、御神体・社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えている。
 例えば、勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)、参向儀式の行われた式坂、更に「い」の池(指定地域史跡)、「の」の池、「ち」の池の故事等、枚挙にいとまがない。
 室町期に北条早雲公、慶長四年徳川家康公、寛永十九年家光公、寛文五5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め、代々の将軍家の崇敬極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。
 明治元年神仏分離の際、熊野神社と隣接の法華寺とに二分され、明治三年には県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治六年三十三ヶ村の郷社に列した。
 その後、各所の整備造営工事を行ってきたが、平成十七年「平成の大修造」と称し、覆殿・翼殿をはじめとする壮大な造営事業を実施、更に平成二十六年「平成の大修造第二期」に着手し、手水舎新築、境内社整備参集殿改修等の事業を完遂し、面目を一新した。
 当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。(頒布のリーフレットより)

参拝情報

参拝日:2016/07/19(ブログ内の画像撮影)
参拝日:2015/06/30(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

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歴史考察

横浜北部の総鎮守

神奈川県港北区師岡町に鎮座する神社。
旧社格は県社の後に氏子の陳情により郷社。
横浜北部の総鎮守とされ、古くから関東における熊野信仰の重要拠点を担っていた。
「関東随一大霊験所」とされ古くから信仰を集める古社であり、横浜北部の総鎮守とされる。
正式社号は「熊野神社」であるが、地名より「師岡熊野神社」とされる事が多い。

奈良時代に創建の古社

当社の御由緒は、別当寺であった熊野山全寿院「法華寺」の瑞海が貞治三年(1364)に記したものであり、これの大変貴重な縁起が現存している。

その縁起によると、神亀元年(724)に全寿仙人による創建とされる。
当地に居住し木食して昼夜怠ることなく法華経を読誦することを長年続けた全寿の元に、熊野大権現の神札が空から降って来たため、その神札を当地の梛の大木のうろに納め祀ったと伝えられる。

この事から古くは当地を熊野山と呼び、その中腹に鎮座。
現在もやや高台に鎮座しているのはその頃の名残であろう。

御祭神は和歌山県の熊野信仰の総本社「熊野三山(本宮・那智・速玉)」の祭神と一体であり、古くから関東における熊野信仰の地として崇敬を集めた。

関東随一大霊験所の称号

仁和元年(885)、光孝天皇の勅使である六条中納言・藤原有房が下向し「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わる。
以後、宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇の勅願所となった。

このように平安時代には朝廷にも名の知れた霊験所だった事が分かる。
「関東随一大霊験所」という称号、さらに天皇の勅願所となった事からも、その威光を知る事ができる。
当時は当社と別当寺「法華寺」が神仏一体の霊場として多いに崇敬を集めた。

この頃から多くの神事が行われており、中でも筒粥神事と呼ばれる神事は、村上天皇の天暦三年(949)以来、今でも続けられている神事である。
image現在は横浜市指定無形民俗文化財となっている。

観応二年(1351)、雷火のため社殿が消失。
しかしながら上述した縁起が記された熊野山縁起は焼失を免れ現存している。

徳川将軍家から庇護・江戸時代の資料

関東における重要な霊場として当地を治める武将により崇敬を集める。
室町時代には、後北条氏の祖と北条早雲より朱印地を賜っている。

慶長四年(1599)、関東移封で江戸入りした徳川家康によって朱印地を賜る。
以後、寛永十九年(1642)には徳川家光より、寛文五年(1665)には徳川家綱より朱印地を賜ったように、代々の徳川将軍家から幕末まで庇護された。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(古師岡村・新師岡村)
熊野三社
字寺家谷と云所にあり。大門を入て坂あり凡三丁ばかりのほり放生池あり。其形假名のいの字に似たるを以ていの字池とも云、ここに鳥居を建つ前に石階六級を設け夫より七十七級を經また七級をすぎて、則拝殿の前に至る廣五間半に二間半、夫より少しく隔てて本社あり。二間四方の宮作りにて五間四方の上屋を設く、いかにも物舊たる神社なり。關東随一靈験所熊野三社権現と云、貞治三年五月記せしと云縁起あり。其文を閲るに其説に至りては甚いぶかしきことのみ多し、今暫く其要をつまみて左に記せり。抑當社は聖武天皇の御宇神亀元年ある老僧いづくより来りけん當所の梛樹のうろにすみ、火食せずして偏に法華經をのみ轉讀せり名をは全壽と云。斯して年月を送りけるにある暁、暫く眠る夢の中に熊野證誠権現の告によりて、本地彌陀の像毘首羯摩が造るものを、大和國春日明神へ参籠して感得し當所に負かへり。小祠を造り安置し専ら信心をこらせしと、今の本地の像是なり長二尺六寸許、此全壽後には和州に住て金峯山に跡を隠し遂には仙し去れりと云。その後光孝天皇の御宇仁和元年七月天皇御悩のとき靈験ありしにより、六條の中将有房を勅使として同十二月宣旨を下し、神社御造營ありて粧嚴頗る美を盡せしと云。宣旨の文なりとて記せしものあり其文尤疑ふべし、遥の後源平合戦の頃は廢社の如くなりたるを、高倉院承安四年大に旱魃せり、時に武蔵前司義信の子息桑門延朗と云人ありしかば、これを勅使として當所に雨を祈らしめたまふに、忽ち靈験ありければ勅ありて再建せさせたまふ。又元暦元年右大将頼朝當所に於て大般若轉讀せしめしことありと云、其後観應二年六月十七日雷火の爲に堂宇殘らず焼亡し、宣旨を始め社寶悉く烏有せしかと、程經て貞治二年近郡の人擧りて上木の費を供し堂塔を營み本尊を安置せり。此時八日朔日に遷宮ありしかば今に至るまで此日を以て祭禮の日と定めたる由、此等のこと縁起に見えたれどあかりし世のことなれば、其詳なることはすべて傳はらず。又當社に粥筒と云ことあり、梛の樹根に於て筒の中へ粥を入梛の葉を交へて暫く煮、その筒を割て年の豊凶を占ふて穀物野菜等の種時を定むと云。此は天暦三酉年正月七日神託により、村民さしつとふて是を行ふに靈験甚だ著しければ今に至るまで絶ず。又祭禮の日鳥居の前にて相撲を興行せり是を草相撲といへり、江戸より相撲の者来りて行ふことなり、斯ることは他の神事にも有ことなれど、土俵などいかめしくしつらいをき、殊に賑はへることなりと云。
(中略)
末社。
稲荷社、石階を上り右の方にある小祠なり。
山王社、鳥居の左の方にあり。
辨天社、いの字池の中にあり、是も小祠。
梛樹。全壽仙人の隠棲して法華經を轉讀せし所なり。其古木は枯てわづかに形のみ殘れり、近き頃童木三株を植ゆ、又この山の麓に廣四五尺四方ばかりの小池あり、是権現の御手洗池なりいかなる久き旱なりとも古より渇することなしとなり、一に禅定水となづく。

かなり詳しく記されているのが特徴で、本来は「宝物」の項目もあったのだが、大変長くなるため割愛させて頂いた。
当社にまつわる縁起について記してあり、それに対する論考も書かれている。
「関東随一大霊験所」についての記載や、後述するが「い・の・ちの池」についても記されていたりと興味深い内容。
また現在も続く筒粥神事についても記述されている他、当時は奉納相撲も行われていたとある。
当時から見ても古さと格式を感じる神社であったようだ。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

師岡熊野権現宮国立国会図書館デジタルコレクションより)

「師岡熊野権現宮」として描かれている。
左手にあるのが別当寺だった「法華寺」になる。
当時も現在と配置など変わらない部分が多く、現在も当時の姿を感じるできる。

鳥居の先の石段、そして拝殿、本殿と覆殿と配置がそのままである。
本殿は正徳二年(1712)に再建されたのが現存しているため、こちらに描かれた本殿が今もなお現存している。

右下の「弁天」の場所は現在も「いの池」と弁天社として残っているし、石灯籠も当時のものが現在も同じ位置に置かれている。
石段右手の稲荷社も現在も同じ位置におかれているように、江戸時代とほぼ変わらぬ配置でこの規模を維持しているのが実に素晴らしい。

神仏分離と現在

明治になり神仏分離。
神仏習合の元、一体となって霊場となっていた当地も「熊野神社」と「法華寺」に分離。

明治三年(1870)県社に列した。
その後、氏子の陳情によって明治六年(1873)に33ヶ村の郷社に列した。

社格では、県社から郷社というのは格下げの扱いなのだが、氏子の陳情によるものだそうで、近辺の神社との兼ね合いや合祀など、何かしらの事情があったのかもしれない。

総鎮守となった近隣33ヶ村は以下の通り。

師岡、獅子ケ谷、駒岡、上末吉、下末吉、馬場、北寺尾、生麦、鶴見、東寺尾、西寺尾、東子安、西子安、白幡、東神奈川、西神奈川、六角橋、三枚橋、片倉、神大寺、羽沢、下菅田、岸根、鳥山、小机、篠原、菊名、大豆戸、 太尾、大曾根、樽、南綱島、北綱島

現在の横浜市北部のほぼ全域とも云えるだろう。
そのため当社は横浜北部の総鎮守と云う事ができるかもしれない。

国立国会図書館デジタルコレクションより)

上の写真は昭和十三年(1938)に万朝報横浜支局が発行した『神奈川県神社写真帖』。
かなり黒つぶれしてしまってはいるが、戦前の社殿の様子が伺える。
当時は茅葺屋根でかなり風情のある大社であった。

戦後になり、平成十七年(2005)より「平成の大修造」が行われた。
更に平成二十六年(2014)には「平成の大修造第二期」も行われた。
『江戸名所図会』に描かれた配置そのままに、現在は境内整備によって素晴らしい境内となっている。

鬱蒼とした境内と見事な社殿

大倉山駅から少し離れた入り組んだ地に鎮座する当社。
綱島街道の熊野神社入口の交差点が参道入口となっている。
その先の住宅街を抜けると鬱蒼とした高台にある鎮守の杜が見えてくる。
image社号碑には「関東随一大霊験所」の文字。
image鳥居を潜りその先にやや急勾配な石段。
こうした配置は『江戸名所図会』に描かれたものと変わらず、江戸時代の面影を感じる事ができる。

石段を上ると左手に手水舎。
image立派な手水舎であるが平成二十六年(2014)に新築されたもので新しい。

正面には立派な社殿が見える。
image拝殿は明治十七年(1884)に再建されたものが現存。
image平成十七年(2005)より「平成の大修造」では覆殿・翼殿などが造営され大変見事な造りとなっている。
覆殿によって保護された本殿は、正徳二年(1712)に造営されたものが現存。
image覆殿の中にあるためその様子は伺えないものの、権現造杮葺となっている。

境内社は社殿の裏手に立ち並ぶ。
imageこれらは平成二十六年(2014)に整備されたもので、左手には神明社も。
imageさらに古い馬頭観音像や青面金剛像など庚申信仰を感じさせるものも残る。
imageこの横には、「い・の・ちの池」のうち「のの池」があるのだが、それは後述。

鳥居を潜った石段の右手には稲荷社。
image『江戸名所図会』にもこの場所に稲荷社があるので、古くから祀られていたのが分かる。

御朱印は社務所にて。
宮司様が大変丁寧に対応して下さった。

いのちの池の伝説

当社には、伝説に包まれた「い・の・ち」の3つの池が存在していた。
現在は「い」の池、「の」の池が現存しいるものの、惜しくも「ち」の池は、埋められてしまって大曽根第二公園となっている。
古くはこの三つの池を合わせて「いのち」の池と呼んでいた。

当社の鳥居前には比較的大きな池があり、それが「い」の池となる。
image「い」の字の形をしており、雨乞神事もこの池で行われたとされる。
この池には片目の鯉の伝説が伝えられている。
遠い昔、熊野権現がこの地の悪者を退治した時に、弓矢で片目を射られてしまう。
その時に、この池に棲む鯉がその美しい目を権現さまのために差し出したという。
現在はこちらに弁天社が祀られている。

「の」の池は本殿の裏手にある。
image正月の筒粥神事はこの池の水を使って行うという。
また社殿が落雷にあい焼失した際は、この水が御神体を守ったと伝えられている。

最後の「ち」の池は、上述したように埋められてしまって大曽根第二公園となっている。

このように古くは「いのちの池」と呼んで大切にされていた池であり、当時の人々にとって池・水というものは大変尊く重要なものだったと思わせるネーミングである。

現在はサッカー神社としても

熊野神社と八咫烏の関係もあり、当社は最近ではサッカー神社としても知られている。

当社の神紋は熊野神社らしく三足烏である。
熊野三山において信仰された八咫烏に由来するもの。
熊野信仰の神使は八咫烏であるため、熊野信仰には多く見られる。

この八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマークでもある。
そのため、こういった縁もあり、授与品にサッカー日本代表の公式エンブレムのついた御守や絵馬などが頒布されている。

さらに社殿内にはエンブレムやサッカーボールなどが奉納されている。
imageこれは2002年の日韓ワ-ルドカップ時にメイン会場となった日産スタジアム(横浜国際総合競技場)が横浜市港北区にあり、横浜北部総鎮守である当社との関係もあるのだろう。

所感

かつて天皇の勅願所にもなっていた当社。
関東における熊野信仰の重要拠点として崇敬を集め、横浜北部の総鎮守として当地で大変な崇敬を集めてきた。
普段は場所柄とても静かで落ち着いた境内となっているのが特徴で、広々として綺麗に整備された境内に鬱蒼と生い茂りる鎮守の杜は、澄んだ心地良い空気に包まれている。
江戸時代に描かれた姿と変わらぬ配置を残しており、当時の面影を感じる事ができるのも素晴らしい。
「関東随一大霊験所」の名に恥じぬ立派な良社である。

神社画像

[ 鳥居・狛犬・社号碑 ]
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[ 鳥居・石段 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 石段 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 拝殿 ]
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[ 覆殿・本殿・幣殿・翼殿 ]
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[ サッカー関連奉納物 ]
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[ 覆殿・本殿 ]
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[ 神明社 ]
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[ 庚申塔群 ]
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[ のの池 ]
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[ 境内社 ]
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[ 社殿裏手(熊野山) ]
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[ 絵馬掛 ]
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[ さざれ石 ]
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[ 社務所 ]
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[ 稲荷社 ]
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[ いの池・弁天社 ]
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[ 案内板 ]
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Google Maps

    脚注
  • 当ブログに掲載している情報は筆者が参拝時の情報です。最新のものではない可能性がありますのでご理解下さい。
  • 当ブログ内の古い資料画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「インターネット公開(保護期間満了)」から使用しています。
  • その他、筆者所有以外に使用した資料画像がある場合は別途引用元を明示しています。
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