石川町諏訪神社 / 神奈川県横浜市

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神社情報

石川町諏訪神社(いしかわちょうすわじんじゃ)

御祭神:建御名方命
旧社格:─
例大祭:8月第1土・日曜
所在地:神奈川県横浜市中区石川町4ー164
最寄駅:石川町駅・伊勢佐木長者駅
公式サイト:─

御由緒

 当石川町に鎮座の諏訪神社は、文明十三年(室町時代)の創立です。
 当時現在より高所に小祠があり、諏訪神社と号されて附近一帯の住民からの崇敬篤く燈明の絶えないことから石川河岸を出入りする漁船の目標となったと『武蔵風土記久良岐郡石川村の章』に見えます。
 災害により社殿焼失という不幸を経ましたが、現在三千戸の氏子を有し、昭和三十八年八月には新社殿の再建もなり「はまのお諏訪さま」と親しまれ、氏子と共に存続発展し続けています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2016/07/12

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

石川町諏訪神社御朱印

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考察

はまのお諏訪さま

神奈川県横浜市中区石川町に鎮座する神社。
旧社格は無格社。
正式社号は「諏訪神社」であるが、他との区別のため「石川町諏訪神社」とさせて頂く。
石川町の鎮守であり「はまのお諏訪さま」として地域の方に親しまれている。

石川村の諏訪山に創建・灯台の役目

社伝によると、文明十三年(1481)に創建とある。
創建当時は現在よりも高所に小祠があり、その高所を諏訪山と呼んでいたため、「諏訪神社」となったとされている。
image諏訪信仰の本社は信濃国(長野県)一之宮「諏訪大社」であり、当地の住民によってそちらから勧請されたものと推測できる。

現在もやや高台に鎮座しているのだが、当社の後方にかけて(横浜女学院中学校や横浜共立学園高等学校にかけて)さらに高台になっているため、古くはこの一帯を諏訪山と呼んでいたのであろう。

その諏訪山にあった小祠では、灯明が絶える事がなかったといい、出入りする漁船の目標となっていたと伝えられている。
いわば灯台の役目も果たしていたとされ、地域からの崇敬が篤かったという。

当時は「吉田新田」と呼ばれる、現在の横浜発展の基礎(関内地区の低地の市街地のほとんど)を築いた、埋立地・新田が開発される前である。
今も横浜は港町として名高いが、それ以上に海が近く、当地は正に入江にあり、漁船の出入りのある漁村であったのだろう。
そうした地において、灯台の役目を果たした当社が地域から篤く崇敬されるのは自然な事であろう。

江戸時代の石川町

石川町は鎌倉時代には石川郷とも呼ばれた一角に位置している。
その後、武蔵国久良岐郡(くらきぐん)に属し、石川村と称した。

この石川村はかなり広い範囲であり、慶長二年(1597)には3つに分村する事となる。
石川村が、横浜村・堀之内村・中村に分村し、その中でも中村は地域の方には根強く石川村と呼ばれる地であった。
正にこの中村が当社が鎮座している地である。

まだ江戸時代の初期までは、洲干湊(しゅうかんみなと)と呼ばれた入江があり、その入江の南岸にあったのが中村であり、上述のように当社が灯台の役割を果たしていたと伝わる。

この洲干湊は、明暦二年(1656)より順次埋め立てられる事になる。
これが上述した「吉田新田」という現在の横浜の基礎を作った埋立地である。

こうして中村にあった当地は、いつしか入江の岸ではなく中村川の川沿いとなり、灯台の役割も必要がなくなり、高台から現在地に遷座したものと推測できる。

文化・文政期(1804年-1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(中村)
諏訪社
除地4畝、25歩。

記載としては僅かであるが、中村の中に諏訪町という地区があった事が記されており、この一角が当社の鎮座地であったのだろう。
なお、この当時の中村の鎮守は「中村八幡宮」(横浜市南区八幡町)であり、当社は規模の小さな地域の社であった事が分かる。

明治以降の石川町と当社

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

当時の横浜は正に文明開化の先駆けであり、横浜港開港以降は更に埋め立てが進んでいる。
明治に入った頃には、中村川を隔てた地区は全て陸地化しており、現在の地形にかなり近くなっていたと思われる。

明治六年(1874)、中村のうち町並みが整っているところに石川町が成立。
明治七年(1875)には石川町から石川仲町が分立。
石川仲町は現在の石川町1丁目-5丁目にかけてであり、当社の氏子地域のため、当社は石川仲町の鎮守であった事が分かる。
昭和十年(1935)、石川仲町が併合され現在の石川町となる。

なお、当社は度々火災に見舞われたそうだが、昭和三十八年(1963)に現在の社殿が完成している。
image後述するが、当社はいつしか火防の神として崇敬を集めている。

戦後の昭和三十九年(1964)、根岸線が開通し石川町駅が設置。
当初は山手町駅、港横浜駅といった駅名が検討されていたそうだが、地元住民の運動により石川町駅となった経緯があり、それだけ当地の人にとっては石川町という地名に思い入れがあったのであろう。
この駅の開業により、特に駅周辺は山手や元町への通り道となったため、賑やかな町となり現在に至っている。

火防の神とされる御神徳

上述のように度々火災に見舞われたとされる当社。
何度も火災や被災により焼失の憂き目にあったとされているのだが、地域の方からは「火防の神」として崇敬を集めている。

当社は信濃国一之宮「諏訪大社」を本社とする諏訪信仰の神社であり、御祭神は建御名方命となっている。
建御名方命は一般的に軍神として名高い神であり、軍神として信仰されたほか、農耕神・狩猟神としても信仰される事が多かった。

そんな諏訪信仰の当社が「火防の神」として崇敬されるのは、当社は何度も焼失したものの町内には一度も火災が起きなかったとされる事によるもの。

当社が鎮守する地域には火災が起きなかったため、いつしか火防の神としても崇敬を集めるようになり現在に至っている。
現在では「はまのお諏訪さま」として地域の方に親しまれている。

こぢんまりとした境内

石川町の住宅街の奥に鎮座しており、土地勘がないとやや分かりにくいかもしれない。
image隣が牛坂下公園という小さな公園になっている。

石段を上った先に鳥居、その左手に手水舎。
小さな神社であるが手水舎にはしっかり水が出ており手入れされている。
imageその横には御籤掛け。

石段の正面に社殿というこぢんまりとした境内。
image社殿は昭和三十八年(1963)に再建されたもの。

社殿の右手に授与所と社務所が用意されている。
御朱印は社務所にて。
インターホンを鳴らすと社殿左手にあるお宅(宮司様宅)から出てきて対応して下さった。
社務所の中に入れて頂きとても丁寧な対応をして下さり有り難い。

所感

石川町の住宅街奥に鎮座する当社。
こぢんまりとした境内ではあるが、手入れが行き届いている。
この日も氏子と思われる地域の方が参拝に来ていたし、社務所内の出入りも多く、地域からの崇敬を集める神社なのが分かる。
規模としては小さく、境内も戦後に再建されたものがほとんどであるが、火防の神としてのエピソードなどからも、石川町の歴史・氏子と共に歩んできたのが伝わる鎮守であった。

神社画像

[ 鳥居 ]
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[ 狛犬 ]
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[ 手水舎 ]
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[ 社殿 ]
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[ 御籤掛・絵馬掛 ]
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[ 授与所・社務所 ]
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[ 案内板 ]
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