駒込妙義神社 / 東京都豊島区

豊島区

神社情報

駒込妙義神社(こまごめみょうぎじんじゃ)

御祭神:日本武尊
相殿神:高御産霊神・神功皇后・応神天皇
社格等:─
例大祭:9月第3土・日曜
所在地:東京都豊島区駒込3-16-16
最寄駅:駒込駅
公式サイト:https://www.myogi.tokyo/

御由緒

 当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政十一年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
 くだって文明三年(1471)五月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、成氏を敗走させたという。
 続いて道灌は、文明九年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(1521-27)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(1569)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573-91)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
 境内には、寛永十九年(1642)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2018/03/23

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

※夏詣期間中は夏詣の限定印あり。

授与品・頒布品

吉凶福みくじ・授かり福守
初穂料:300円
授与所前にて。

大吉か凶の2つのみ入っている「吉凶福みくじ」を引いた上で、授与所に申し出ると「授かり福守」を頂ける。

[ 吉凶福みくじ ]

[ 授かり福守 ]

歴史考察

太田道灌が崇敬した戦勝の宮

東京都豊島区駒込に鎮座する神社。
旧社格は無格社で、旧上駒込村鎮守の内の一社。
豊島区最古の神社ともされ、日本武尊を祀り、古くは「白鳥社」と称された。
正式名称は「妙義神社」であるが、他との区別のため「駒込妙義神社」とさせて頂く。
中世には太田道灌が当社で戦勝祈願をして崇敬した事から、「戦勝の宮」「勝負の神様」として崇敬を集め続けており、境内社には太田道灌を祀る末社も鎮座。
境内や隣接する妙義児童遊園はソメイヨシノが綺麗で、地域の方からは桜の名所としても知られる。

日本武尊を祀る豊島区最古の神社

社伝によると、白雉二年(651)に創建とある。
かつて日本武尊が東征の際に陣を敷いたと伝えられている当地に創建。
日本武尊を祀り、当時は「白鳥社」と称したと云う。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は、第十二代景行天皇の皇子。
熊襲征討・東国征討を行ったとされる伝説的英雄。
東国征討を行ったため関東圏にも多くの伝承が残る。
日本武尊は死後に白鳥となって飛んだとされる事から大鳥信仰の神として祀られる事も多い。

「白鳥社」と称した事からも、日本武尊をお祀りする大鳥信仰が根底にあったと見られる。

白雉二年(651)創建であるのならば、豊島区内最古の神社だと云う。

太田道灌による戦勝祈願・戦勝の宮としての崇敬

文明三年(1471)、太田道灌は、古川公方・足利成氏との合戦に出陣。
その際に当社へ神馬・宝剣を奉納し、戦勝祈願を行った。

太田道灌(おおたどうかん)は、武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、当時の江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。

江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には、当社に戦勝祈願を行った際に、道灌とその家臣・樋口兼信が神前に供えたと伝わる歌が記されている。

雲払ふこの神垣の風の音 道灌
草をも木をも吹きしほり行 兼信

足利成氏との合戦に勝利した道灌は、凱旋した際に当社へ社領十五貫文を寄進、その際には以下の漢詩を詠んだと云う。

秋風靡雲社前庭 一皇戎凶賊平 月光不倣暉神武 千歯赦乎奉威明

文明九年(1477)、豊島氏との戦いでも当社へ戦勝祈願し勝利。
文明十一年(1479)、千葉孝胤との境根原合戦の際にも、当社へ戦勝祈願をして勝利。
当社の境内には「太田道灌公戦捷祈願之舊趾」の碑が整備されている。

道灌は30回以上もの合戦を戦い抜き勝利を収め、ほぼ独力で主君・扇谷上杉家の危機を救ったと云える。

このように勝利を収め続けた道灌が崇敬した当社は「戦勝の宮」とも呼ばれ、「勝負の神様」として信仰を集めるようになったと云う。

中世の衰廃と江戸時代の再建

大永年間(1521年-1527年)、江戸城代・遠山丹波守が社殿を修理。
永禄十二年(1569)、守護・富永神四郎も修理をしたと伝わる。

天正年間(1573年-1593年)、後北条氏の家臣・松田憲秀(新編武蔵風土記稿には松田尾張守康秀と記されている)が当社の社領を没収。
その後は衰廃していった。

戦国時代にあたり当社も幾度か戦災に巻き込まれたと見られ、そうした影響もあり衰微したのであろう。

江戸時代に入ると当社が再建される。
寛永年間(1624年-1645年)、代官・野村彦太夫によって再建。

境内には寛永十九年(1642)の庚申塔が残る。
駒込村の農民による庚申塔で、当地の信仰拠点になっていた事が窺える。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう書かれている。

(上駒込村)
妙義社
祭神、日本武尊、左は高産霊神、右は神攻皇后・応神天皇。凡四座皆白幣を神體とす。社傳曰、日本武尊東征の時此所陣営となる、後社を建て白鳥社と号す。白鳳二年官人日奉部年雄下向して祀を奉せしと云。按に武蔵風土記豊島郡日頭白鳥神社、白雉二年辛亥五月所祭日本武尊也、神貢五十三束三毛田と載す。白鳳は白雉の誤にて、此風土記に掾て設し説ならん。殊に鳥越明神、妻戀稲荷も祭神日本武尊にて、白鳥神社の由傳ふれば、何れを是とも定かたし。又云文明三年五月足利成氏古河より葛西に出張して、上杉と対陣、然に上杉は鎌倉に退て長尾太田等同六月古河を攻落し、成氏千葉に奔走す。此出陣の前太田道灌当社に神馬寶劔を捧て祈念し、
雲拂ふ此神垣の風の音 道灌
草をも木をも吹しほり行 兼信
兼信は道灌か近臣樋口與三郎なり。凱旋の後社領十五貫文を寄附す其時の詩云、
秋風靡雲社前庭、一皇戎凶賊平、月光不倣暉神武、千歯赦乎奉威明
文明九年春道灌豊島勘解由左衛門と戦ひ、同十一年春千葉孝胤を攻の時も、当社にて牛込赤城の僧圓勧稲附普門院開山宥鎮等、怨敵降伏の法を修して合戦戦利あり。其後大永中江戸城代遠山丹波守修補す。永禄十二年武田信玄当国乱入の時守護富永神四郎財を棄て修補す。天正年中松田尾張守康秀か計として社領悉没収す。其後衰廃せしを寛永中代官野村彦太夫再建す。相殿神明宮、昔の地頭今井弥平四郎茂義と云人の祀る所なり。茂義は上野の人なり。永享中に忠功ありて上杉憲実此地を與ふ。同十一年八月本国新田郷神明村の神明宮を当所新恩の地に移し祀ると云。神體天照太神荒御魂木の立像長一尺二寸八分、左に宝珠右に寶劔を持、又別に相殿一座天満宮太田道灌を祀る、神體は筑紫天拝山の青石也、長一尺余圍一尺六寸富永神四郎も崇信し、永禄中に社修造の時神明を左とし天満宮を右として祀ると云。又太田道灌の木像あり。長二寸八分束幣の姿なり元亀年中の棟札存す其図左の如し。(図は下記画像)
社寶
刀一腰。菊一文字の作と云。錆て銘字読へからす。菖蒲作りなり長さ三尺二寸太田道灌寄附すと云。
木印一顆。八角面径一寸五分松蔭印と云傳ふ。印文滅して読へからす。相傳ふ観應年中護国親王寄附せらると護国は宗良親王の御事にて守邦親王にはあらすと云。
尊意僧正像一体。運慶の作と云長二寸八分。右手に羽扇を持左手に念珠を掛け脊に翼あり。天満宮社傳曰法性坊尊意僧正は、延暦寺十三代の座主にて菅公祈の師なりと。
千手観音像。木像なり。長二寸、文明年中太田道灌戦陣に臨まんとして、僧圓勧宥鎮二人に修法を命せし時の本尊なりと云作しらず。
曲玉十六顆。
鏡一面。圓鏡径三寸六分に和歌を刻す。増鏡掛てそ頼む神風の吹起すへき名をも家をも、三楽斎とある、させる古物ともみえず。
板碑一枚。長八寸余の断碑なり、暦應□□□八月日白鳥宮と彫る、是恐らくは後人のものせしなるへし。
幣殿。拝殿。勝軍宮の三字を扁す。
末社
稲荷庚申。寛永寛文の碑二あり是を神體とす。
天王。点曲津日神を祀る。相殿に健日命健熊命を祀る。是を弓箭社劔刀社と号す。俗には二座を眷族社と呼て一神を二座に祀るとも云り。
月社。太田氏家人十二名月待の碑を神體とす。(以下略)

(新編武蔵風土記稿)

上駒込村の「妙義社」と記されている。
上述したような当社の御由緒について、基本的にこの『新編武蔵風土記稿』に記してある。
注目すべきは社宝であろう。
菊一文字とも伝わっていた太田道灌が寄進したと云う刀など、当社には数多くの道灌ゆかりの社宝が残っていた事が分かる。

江戸時代には残っていたこれらの社宝であるが、昭和二十年(1945)の東京大空襲によって社殿や社務所と共に全て焼失してしまっている。

拝殿の扁額には「勝軍宮」と記されているとあり、当社がこの頃にも「戦勝の宮」として「勝負の神様」として崇敬を集めていた証拠とも云えるであろう。

また数多くの末社が鎮座していた事も分かり、当社は上駒込村の中でも多大な崇敬を集めていた地域の中核神社だったように思う。

江戸切絵図から見る妙義大権現

江戸時代の当社は江戸切絵図を見ると位置関係が分かりやすい。

(巣鴨絵図)

こちらは江戸後期の染井・王子・巣鴨周辺の切絵図。
上駒込村は地図の中央上に描かれている。

(巣鴨絵図)

北が上にくるように回転させ当社周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当社で、「妙義大権現」として描かれている。
既に江戸時代には「妙義社」「妙義大権現」として崇敬を集めていて、現在隣接する妙義児童遊園を含め、中々の規模がある神社であったようだ。

青円で囲ったのが現在の駒込駅周辺や「大國神社」。
大國神社 / 東京都豊島区
駒込妙義坂上のだいこく神社。大黒天(大黒様)。駒込駅前の好立地に鎮座。懐かしい10円のおみくじ販売機が健在。60日毎の甲子祭・木彫の大國像が授与。宮司の先祖・大島氏の屋敷内に奉斎。徳川家斉が参詣した出世大黒。江戸切絵図から見る駒込。御朱印。
桃円で囲ったのが「染井稲荷神社」。
染井稲荷神社 / 東京都豊島区
ソメイヨシノ発祥の地・染井村鎮守のお稲荷様。造園師や植木職人などが集落を作り、村全体が花園だった染井村。浮世絵や双六の題材にもされ花見や遊覧の場として人気を博す。関東大震災や戦災を免れた社殿・火防の神。染井よしの桜里祭り。御朱印。

妙義神社を称するようになった考察

上述したように、当社は日本武尊を祀り、古くは「白鳥社」と称されていた。
日本武尊をお祀りする大鳥信仰が根底にあったと見られる。

一方で江戸時代の史料を見ると既に「妙義社」「妙義大権現」と称されていた事が分かる。
当社が「妙義社」と称されるようになった由来などは、地誌や由緒書など文献に残っておらず謎となっている。

「妙義神社」の名は、現在の群馬県富岡市にある妙義山信仰の神社で使われる事が多く、特に妙義山東嶺に鎮座する「妙義神社」がその中心となっている。
「妙義神社」は、江戸の乾(戌亥)天門の鎮めとして、家運永久子孫繁昌を願って、歴代の徳川将軍家に深く信仰された神社として知られ、『日本三代実録』にも載る古社。
御祭神は日本武尊。
妙義神社公式サイト
妙義神社公式サイト 信仰と祈願の社 妙義神社 家内安全・商売繁盛・交通安全・合格祈願・良縁祈願・心願成就など

このように徳川将軍家に深く信仰されたのが群馬県の「妙義神社」。
当社は江戸時代に再建されており、日本武尊の繋がりもあり、徳川将軍家にあやかり改称した、もしくは村民に妙義山信仰への崇敬者がいるなどして、「妙義神社」に名を変えたのかもしれない。

何れにせよ、当社と妙義山信仰の「妙義神社」への関連性は、文献などには載っていないため、推測の域を出ないがとても興味深い。江戸城を築城した太田道灌ゆかりの伝承と、江戸城を居城とした徳川将軍家が崇敬した「妙義神社」の号を持つのが当社である。

明治以降の当社の歩み・戦災からの再建

明治になり神仏分離。
当社は無格社であった。

明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、当時の古地図には神社の地図記号を見る事ができないが、江戸時代の切絵図に比べて社地が縮小していたものと見られる。

上駒込・駒込染井と呼ばれた一画で、当社の東側には「駒込妙義坂下」の文字も見る事ができる。現在も妙義坂という坂が残るが、坂の名の由来は当社に由来しており、駒込妙義坂下・坂上といった地名も当社に由来していた事が分かる。

昭和二十年(1945)、東京大空襲では駒込地区は焼け野原となる。
当社も甚大な被害を受け、社殿・社務所などが焼失。
この際に、太田道灌が奉納した刀剣など多くの宝物、さらに古文書なども焼失してしまっている。

焼失した社宝や古文書などは公式サイトにて一部公開されているのでそちらをご覧頂きたい。
フォトギャラリー
第二次大戦での戦禍で焼失した社宝や古文書などを写真でご紹介します。

昭和四十年(1965)、現在の社殿が再建。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

駒込駅から細い路地を通った先に鎮座

最寄駅の駒込駅からは徒歩数分の距離。
少し分かりにくいが、細い路地に「妙義神社参道近道入口」の道標があり、その先が社頭となる。
社号碑には「妙義神社」とあり、正面に石製の一之鳥居。
右手には当社に隣接する妙義児童遊園があるが、その下は車庫となっている。

一之鳥居を潜ると石段があり、その先に二之鳥居。
やや小高いところに鎮座しているが、古くは境内に稲荷山と呼ばれる小高い山があったと云い、社伝に残る太田道灌の逸話などでは、道灌は稲荷山から戦略を立てたとも見られる。

二之鳥居を潜ると左手に手水舎。
水が綺麗に張られて整備されている。

戦後に再建された鉄筋コンクリート造の社殿

参道の正面に社殿。
東京大空襲で駒込一帯は焼け野原になっており、当社の社殿も焼失。
昭和四十年(1965)になってようやく現在の社殿が再建となった。
クリーム色を基調とした鉄筋コンクリート造の社殿。
小さな神社で社殿も簡素ではあるが、既に老朽化しつつあり、復興事業が計画されている。

現在、当社では「妙義神社復興事業」が計画され平成三十年(2018)に案内が出た。
奉賛の支援を受け付けているので、気になる方は案内に目を通して欲しい。

太田道灌を祀る道灌霊社・江戸初期の庚申塔

社殿の右手に境内社や庚申塔が整備。
鳥居の前に鎮座するのが道灌霊社。
当社と縁の深い太田道灌公を祀る末社となっていて、当社同様に「勝負の神様」として崇敬を集める。

その右手にあるのが古い庚申塔。
寛永十九年(1642)の銘が残るもので、『新編武蔵風土記稿』に記された末社・稲荷庚申の御神体の1つとして祀られていたものと見られ、昭和四十年(1965)の社殿再建時に発見されており、現在は豊島区有形文化財に指定されている。

左手には小石祠。
かつての末社の一部であったと思われる。

柄杓を触る人懐っこい猫・桜の隠れた名所

また当社では人懐っこい猫に遭遇できる事でも、一部の人には知られている。
野良猫になるが当社に居着いていて、近隣住民など多くの方に愛されている。

水が欲しくなると手水舎に向かって手水舎の水を飲む姿を見る事ができるのだが、この際にかなりの確率で柄杓に手を伸ばし、チョンチョンと触ってから水を飲み始める事に驚く。
まるで人が柄杓を使い手を清めるのを真似ているようで、とても不思議な光景。
柄杓へ挨拶を終えると水を飲み、また定位置へ戻る。
近隣住民の多くはリンちゃんと呼び、優しく見守っている。

当社の境内でよく遭遇できるが、近隣住民と同様に優しく見守ってあげて欲しい。

また当社の境内や、隣接する妙義児童遊園はソメイヨシノが綺麗で、地域の方からは桜の名所としても知られる。
ソメイヨシノ発祥の地、かつて染井と呼ばれた地も当社からは程近い。
隣接する妙義児童遊園。
かつては児童公園も当社の社地であったと思われるが、現在は地域の人々の憩いの場となっている。

戦勝の宮の勝守・大吉か凶かどちらかの吉凶福みくじ

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して頂ける。

夏詣期間中は夏詣の限定印あり。

当社の授与品として古くから知られているのが「勝守」と呼ばれるもの。
戦勝の宮と呼ばれた当社に古くから伝わる守護守りで、所願成就、成功発展、開運発達、 試験合格、健康長寿等の御祈祷が行われ人気を博している。

お守り・縁起物
妙義神社には古くから『勝守』と言われる守護守りがあったと伝わっております。 「勝守」の勝は勝敗の勝であることはもとよりでありますが、ただこれのみに とどまらず、この文字の意味するところはきわめて広く、苦難に打ち勝つ、学問技芸に勝る優れる、子宝に勝る宝はない、健康に勝れる等、私達が強く、たくましく生きぬくために必要な力、...

また社殿前にはとても個性的なオリジナルのおみくじを用意。
「吉凶福みくじ」と呼ばれるもので、大吉か凶の2つのみが入っている運試しおみくじ。
引いた上で授与所に申し出ると、「授かり福守」を頂ける。
面白い試みでとてもユニークなので、ぜひ運試しにもチャレンジしてもらいたい。

所感

日本武尊の伝承が残る地に創建した豊島区最古とも伝わる神社。
古くは白鳥社と呼ばれ大鳥信仰の神社であったと見られるが、いつしか妙義社と称され、駒込妙義坂など古い地名の由来になる程、当地周辺の信仰を集めてきた。
太田道灌が戦勝祈願をして篤く崇敬した事から「戦勝の宮」とも呼ばれ、江戸時代には「勝軍宮」の扁額が掲げられていた史料があるように、古くから勝負の神様として崇敬を集めた。
現在は規模の小さな神社となっているが、勝守の授与など、今も地域からの崇敬が篤い。
戦災に見舞われながらも地域の歴史や信仰の一端を伝える良い神社である。

神社画像

[ 一之鳥居・社号碑 ]

[ 二之鳥居 ]


[ 手水舎 ]

[ 社殿 ]







[ 碑 ]

[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 神輿庫 ]

[ 道灌霊社 ]


[ 庚申塔 ]


[ 小祠・碑 ]

[ 手水石 ]

[ 倉庫 ]

[ 社務所 ]

[ 車庫 ]

[ 案内板 ]


[ 猫 ]




[ 妙義児童遊園と桜 ]

Google Maps

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