鮫洲八幡神社 / 東京都品川区

品川区

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概要

鮫洲(旧御林町)総鎮守の八幡様

東京都品川区東大井に鎮座する神社。
旧社格は村社で、旧大井村御林町(現・鮫洲)の鎮守。
村開闢以来の神社とされ、猟師町として発展した御林町は後に鮫洲町と呼ばれた。
鮫洲運転免許試験場がある事で知られる鮫洲一帯の総鎮守となっている。
境内には立派な弁天池が整備。
元漁師町らしく漁業関係者からの奉納物や海に関する境内末社も多いのが特徴。

神社情報

鮫洲八幡神社(さめずはちまんじんしゃ)

御祭神:誉田別尊
相殿神:気長足姫尊・伊装諾尊・伊装冉尊
社格等:村社
例大祭:8月14日に近い金・土・日曜
所在地:東京都品川区東大井1-20-10
最寄駅:鮫洲駅
公式サイト:http://www.samezumaturi.com/

御由緒

 旧御林町(のち大井鮫洲町、現在は東大井一丁目、同二丁目の一部、同四丁目)の総鎮守です。
 創立の年代はさだかではないが、寛文の頃(1661~1673)には、すでにあったとされています。境内には漁師町の鎮守らしく漁業関係者が寄進した灯籠や狛犬があります。
 祭神には、誉田別尊、気長足姫尊、並びに昭和四年八月十四日に合祀した白山神社の伊装諾尊、伊装冉尊が祀られています。
 また、境内には稲荷神社(通称 出世稲荷社 御祭神 宇迦之御魂命)、厳島神社(通称 弁天社 御祭神 市杵島姫命 鮫祠)、漁呉玉神社(通称 水神社 御祭神 綿津見神)の末社も鎮座しています。(境内の掲示より)

歴史考察

御林町が開かれた頃よりの鎮守

創建年代は不詳。
社伝によると、寛文年間(1661年-1673年)には創建していたと伝わる。

寛文八年(1668)の『書上帳』に当社が記載されている事から、それ以前に創建していた事が分かる。

大井村の御林町(おはやしまち)と呼ばれた地区の総鎮守として創建。
江戸時代初期に御林町が開かれた頃よりの鎮守であったと推測されている。

御林町(おはやしまち)
江戸時代初期に開拓された漁師町で、大井村の小名(こな/村内を小分けした名)。
地名由来は、幕府の直轄林だった御林(おはやし)を開拓して町が開かれた事に因む。

元文三年(1738)、社殿の修復遷宮の記録が残る。
明和四年(1767)、『検地帳』に記載があり除地とされた。

御林町に鎮座していた事から古くは「御林八幡宮」と称され崇敬を集めた。

御菜肴八ヶ浦の1つ御林浦・漁師町であった御林町

御林町は、漁業線業者集落である漁師町として発展。
御林町のある御林浦(おはやしうら)は、「御菜肴八ヶ浦」の1つとされた。

御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)
徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた浦の事。
芝金杉浦・本芝浦・品川浦・大井御林浦・羽田浦・生麦浦・子安新宿浦・神奈川浦の8つの御菜浦(おさいうら)を云う。

御菜肴八ヶ浦であった御林浦は、幕府に海産物を献上する義務があった代わりに、江戸湾における漁業における特権を有していて、江戸湾44ヶ浦の漁業上の元締めとされた。
御林町も漁業が盛んな漁師町として発展した歴史を持つ。

御林浦では、様々な魚介類の収穫があったと云い、更に海苔の養殖も盛んで海苔の産地としても知られていた。

当社はそうした御林町の総鎮守として、漁師たちから篤い崇敬を集めた。
現在も門には魚仲買中の文字などが残る。

古くは現在よりも海岸線がもっと近く当社の社前に海岸が広がっていた。

幾つかの説が残る「鮫洲」の地名由来

当地を含む北浜川(現・立会川あたり)から南品川にかけての海(江戸湾)に面した地域を、古くから「鮫洲(さめず)」と称した。

鮫洲(さめず)の地名由来
鮫洲は古くは「さみず」とも言われ、地名の由来はいくつかの説が残る。
・「さみず」を砂水と書き、海岸が干潟になった時、砂の中から清水が出てくる事に由来。
・左の方の海辺に出水があったので「左水さみず」。
・「海晏寺」の寺伝によると、建長三年(1251)、品川の会場に大きな鮫が死んで浮き出たため、猟師が鮫の腹を裂いたところ、腹の中から木造の観音像が出現。鮫洲観音と呼ばれ「海晏寺」の本尊として祀られている。門前を鮫洲と呼んだと云う。
※「海晏寺」の寺伝を取る説が多い。

「海晏寺」の寺伝の通りならば、鎌倉時代から「鮫洲」の地名は残っていた事になり、古い地名だった事が窺える。

海晏寺(かいあんじ)
品川区南品川5にある曹洞宗の寺院。
建長三年(1251)開山。
上述の通り鮫洲の地名由来となった観音像を本尊とする。
松平春嶽や岩倉具視の墓所がある事でも知られる。
一説では当社も古くは「海晏寺」の境内に置かれていて、その後現在地に遷ったとする説もある。それが事実であるのならば、元文三年(1738)に社殿の修復遷宮が行われたとあるため、この時に遷ったと推測される。

歌川広重が描いた幕末の鮫洲

こうした鮫洲については、世界的に著名な浮世絵師・歌川広重も描いている。

歌川広重(うたがわひろしげ)
江戸後期を代表する浮世絵師。
『東海道五十三次』『名所江戸百景』などの代表作がある。
ゴッホやモネなどの印象派画家に影響を与え、世界的に著名な画家として知られる。

(名所江戸百景)

歌川広重が描いた『名所江戸百景』より「南品川鮫洲海岸」。

安政四年(1857)に刊行したもので、幕末の鮫洲の様子と云える。

当時は当地周辺だけを「鮫洲」と称した訳ではなく、北浜川(現・立会川あたり)から南品川宿南端にかけての東の海に面した南北に広い地域を「鮫洲」と称した。

当地周辺から北を見るように描いたものと思われるが、海に描かれているのは、海苔の養殖の様子で、鮫洲と呼ばれた地域は海苔の養殖で有名な地域であった事が分かる。

現在とは海岸線が違い、旧東海道のすぐ横が当時は海岸線であり、当社の社前に海があったと思われる。

こうした鮫洲と称された中の御林町の総鎮守として当社は崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(大井村)
八幡社
除地九十坪。小名御林町にあり。鎮座の年代は傳へざれども、當村開闢以来の神社といへば古社なるべし。御林町の持にて、祭年には八月十五日神輿を渡せり。又毎歳五月中神楽湯立等の神事を行へり。村内常林寺来福寺の兩寺より隔年にこれを司れり。入口に柱間二間ほどの石の鳥居を建。本社は宮造にて六尺四方前に拝殿あり。三間に二間東に向ふ。

大井村の「八幡社」として記されているのが当社。
「小名御林町にあり」とあるように御林町と呼ばれた地域に鎮座していて、村の開闢以来の神社で古社と記されている。
御林町の総鎮守であり、御林町持ちとなっていた事が分かる。

毎年5月になると神楽湯立の神事が行われ、「常林寺(来迎院)」(現・品川区大井6)と「来福寺」(現・品川区東大井3)が隔年で奉仕したと云う。

文化十年(1813)、社殿が再建された記録が残る。

明治以降の歩み・白山神社を合祀・御林町と大井鮫洲町

明治になり神仏分離。
明治四年(1873)、村社に列する。

明治二十二年(1889)、市制町村制が施行されるが大井村は単独で大井村を継続。
当社は大井村御林町の鎮守として崇敬を集めた。
明治三十年(1897)、神饌幣帛料供進社に指定。

明治三十七年(1904)、鮫洲駅が開業。

鮫洲駅の開業によって南北に広い地域を鮫洲と呼んでいたが、駅周辺を鮫洲と呼ぶように少しずつ変化していく。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲った箇所が当社の鎮座地で今も昔も変わらない。
当社の右にある鮫洲の文字は鮫洲駅を表すが、その下にも鮫洲とあるように当地周辺の海岸沿いを鮫洲と呼んでいた事が分かる。

当社の社前に広がっていた海岸線
特徴的なのは海岸線の位置。
旧東海道より東側は海であり、当社の社頭には海が広がっていた。
漁師町の鎮守らしく海に面した神社であった事が窺える。
大正から昭和三十年代にかけて鮫洲の海岸は埋め立てられたため、漁師町であった当地でも漁業は行われなくなる。

昭和四年(1929)、近隣の「白山神社」を合祀。
第一京浜の開通に伴い「白山神社」の氏子が離散してしまったため、当社に合祀されたと云う。

昭和七年(1932)、品川・大崎・大井の3町が合併して旧・品川区が成立。
この際に町名変更が行われ、御林町は「大井鮫洲町」に改称。
鮫洲町の鎮守として、当社は「御林八幡」から「鮫洲八幡」と呼ばれるようになっていく。

江戸時代から続く御林町の地名は消滅。現在も地名を残すものは殆ど見られない。

昭和三十八年(1963)、住居表示実施によって大井鮫洲町は、東大井1・2丁目に改称。

現在は住所として鮫洲の表記は消滅。しかし駅名や鮫洲運転免許試験場など、鮫洲の名は各地に多く残る。

昭和四十七年(1972)、現在の社殿が造営。
その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

鮫洲駅前に鎮座・江戸時代の石鳥居

最寄駅の鮫洲駅からすぐの距離に鎮座。
駅前から境内の裏手に繋がるが、表参道は東向きなので旧東海道から入る形。
駅から鮫洲商店街、旧東海道に当社への案内碑が立つ。
「十七番八幡神社」と書かれた先が当社。

http://www.shinagawa-samezu.com/

細い路地を進んだ先に鳥居と社号碑。
鳥居は江戸時代建立の古いもの。
寛政元年(1789)奉納と古いものが現存。

旧社殿の彫刻を使用した手水舎

鳥居を潜ると左手に手水舎。
大変立派な手水舎となっていて上部の彫刻が特徴的。
金網で保護されているが、この彫刻は旧社殿の彫刻を転用したものだと云う。
木鼻部分にも彫刻が施されていて、手水舎を見ても多くの方から崇敬を集めている事が伝わる。

子授けの霊験がある三対の狛犬

表参道には三対の狛犬が置かれている。
鳥居のすぐそこにかなり小ぶりな狛犬。
昭和十六年(1941)に奉納されたもので、通常とは逆に左が阿形、右が吽形となっている。

手水舎の先には嘉永二年(1849)に奉納された古い子持ちの狛犬。
右は阿形で子が乳飲みをしている姿。
左も阿形で子持ち。
石工・飯嶋吉六の作品で、阿吽になっておらず、どちらの狛犬も口を開いた阿形で子供を抱いており、当時としてはとても珍しい狛犬。

子授けの霊験
この狛犬には子授けの霊験があるとされ、男子が欲しい場合は右の狛犬、女子が欲しい場合は左の狛犬にお願いをすると授かると云う。

拝殿前にも一対の狛犬。
台座と狛犬の材質が異なる。
そのため台座は大正時代の銘が残るが、狛犬はその後に奉納されたものと思われる。

戦後に造営された鉄筋コンクリート造の社殿

社殿は昭和四十七年(1972)に造営されたもの。
鉄筋コンクリート造で再建された。
朱色の社殿でやや色あせてはいるが綺麗に維持されている。
旧社殿は上述した通り、解体された彫刻が手水舎に転用された。
本殿も同様の造り。

社殿の右手には神楽殿。
神楽殿の左手から鮫洲駅に抜ける事ができる。

漁師町の歴史を偲ぶ境内社・弁天池も整備

社殿の右手には境内社の出世稲荷神社。
この他にも当地周辺には小さな稲荷社が多く鎮座している。

境内の左手には弁天池が整備。
途中には多くの石碑が置かれ、当地の歴史を伝える。
鳥居を潜った先に当地の富士講を伝える碑があり、ちょっとした富士塚のようになっている。
その奥には大きな常夜灯。

進むとその先が大きめな弁天池。
中々に立派に整備された弁天池。
池の真ん中には祠が置かれている。
鮫祠とも呼ばれるもの。

弁天池に面するように境内末社が2社。
左手にあるのが厳島神社。
通称・弁天社。
右手にあるのが漁呉玉神社(なごたまじんじゃ)。
通称・水神社で、中々に見事な彫刻が施されている。

弁天様と習合した「厳島神社」や、水神社と呼ばれる「漁呉玉神社」は、どちらも水と繋がりが深い神を祀っており、漁師町として発展した当地の歴史を伝える。

弁天池には境内から入る形になるが、かつては門が置かれていて、外から入る事もできた。
そうした当社を囲む門、玉垣からも当地の歴史が伝わる。
魚仲買中とあり漁業組合から奉納された事が窺え、かつては当社の社前すぐが海であった。

御朱印は拝殿前でセルフ形式

鳥居を潜ってすぐ右手に社務所。
社務所には神職の常駐はしておらずほぼ不在。
令和二年(2020)に参拝時は社務所前に「御朱印は本殿右側に御座います」の掲示。

現在は拝殿前に御朱印が置かれる形となっている。
セルフ式で頂き、初穂料の300円は賽銭箱に納める形。
半紙サイズに印判が押されているため各自御朱印帳のサイズに合わせてカットして貼るのがよい。

以前頂いた御朱印
基本的に不在の当社であるが正月三が日などに御朱印を頂けた。
こちらは2018年正月三が日に頂いたもので、こちらには「鮫洲の八幡さま」などの印も押されている。
御朱印は簡素なものとなったが、基本的に人の常駐がない神社で御朱印を頂く事が中々に困難だったため、セルフ式で頂けるようになったのは有り難いと思う。

所感

大井村の御林町の総鎮守として崇敬を集めた当社。
江戸の切絵図や浮世絵、明治の古地図などを見ても分かるように、かつては海岸線がもっと近く、旧東海道に沿って海岸があったため、当社の社前まで海があった事が窺える。
海に面した漁師町の鎮守と云う事もあり、境内にはそうした歴史を伝える物が多く残る。
現在の鮫洲は「鮫洲運転免許試験場」がある事で知られ、免許の更新などでお世話になる方も多いだろう。
そうした鮫洲の鎮守であり、駅前に立派かつ歴史を伝える境内が残っているのが喜ばしい。
鮫洲の歴史と信仰を伝えるとても良い神社である。

御朱印画像一覧・御朱印情報

御朱印

初穂料:300円
拝殿前にて。

※現在は拝殿前に書き置き(印判)のものが置かれているセルフ形式。
※以前は正月三が日など社務所に神職がいる時のみ頂けた。

参拝情報

参拝日:2020/06/05(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2018/01/02(御朱印拝受)

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