小野照崎神社 / 東京都台東区

神社情報

小野照崎神社(おのてるさきじんしゃ)

御祭神:小野篁命
相殿神:菅原道真命
社格等:村社
例大祭:5月第3土・日曜
所在地:東京都台東区下谷2-13-14
最寄駅:入谷駅・鶯谷駅
公式サイト:http://onoteru.or.jp/

御由緒

852年(仁寿2年)、篁公が逝去された年、御東征の際に住まわれた上野は照崎の地に創建されました。江戸時代に入り、国策として寛永寺の建立が始まると、末社である稲荷神社の境内地であった現在の地に遷座されました。江戸時代後期には、学問の神様である菅原道真命も回向院より当社に遷祀され、御配神としてお祀りしております。(頒布の用紙より)

参拝情報

参拝日:2017/09/27(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2015/05/03(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:300円
授与所にて。

[2017/09/27拝受]

[2015/05/03拝受]

御朱印帳

初穂料:1,000円
授与所にて。

汎用の御朱印帳を用意している。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

学問・芸能の神である小野篁を祀る神社

東京都台東区下谷に鎮座する神社。
旧社格は村社で、入谷や下谷などの鎮守。
博学広才として知られた小野篁を祀り、学問・芸能の神として信仰を集める。
境内には「下谷坂本の富士塚」と呼ばれる富士塚や、日本三大庚申の1つとされる庚申塚が整備。
現在は「下町八社福参り」の一社にもなっている。

和歌・漢詩・書道・絵画にも通じた博学広才な小野篁

当社は主祭神として、小野篁(おののたかむら)を祀る。

小野篁(おののたかむら)は、平安時代前期の公卿。
博学広才の人物として知られる。

漢詩や和歌に秀でただけでなく、書においても天下無双で、画も「人の及ぶところではない」と称される程、和歌・漢詩・書道・絵画に通じる。
法律の解説書である『令義解』の編纂にも深く関与し、政務能力に優れ、皇太子付きの教育官である東宮学士を務めるなど、学問にも長けた人物であった。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首より)

異名は「野相公」「野宰相」として知られる。

「野」は小野氏の略称で、参議の官位についていた事から「宰相」や「相公」を付け「野相公」「野宰相」と呼ばれた。

真を好み権威に従わない野狂・清貧で親孝行な人物

篁は、真を好み権威に従わない反骨精神を持った人物としても知られる。
当時の貴族たちからは異端とみなされ「野狂」と称された。

反骨精神を伝える逸話としては、遣唐使のエピソードが挙げられる。

遣唐使の副使に任命された際、道理に逆らった要求をした大使の藤原常嗣と対立して、乗船を拒否。
『西道謡』という遣唐使や朝廷を風刺する漢詩を作ったため、嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐に流罪となる。
後に文才に優れているという理由から赦される。

また、母親孝行であり、金銭には淡白で家は貧しく「清貧」な人物であった。

(月百姿・孝子の月)

明治に活躍した月岡芳年が描いた『月百姿・孝子の月』という作品で、母親のために薪を集める小野篁を描いている。

このように博学広才であり、真を好み反骨精神に溢れ、清貧かつ親孝行者として知られ、数々の逸話や伝説が残っている。

閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた伝説

篁には、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという「冥官伝説」が古くから残っている。
昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府で閻魔大王の補佐をしていた云う。

平安時代から鎌倉時代にかけての書物に、小野篁と閻魔大王の伝説が多く記されており、『江談抄』『今昔物語集』『元亨釈書』などで見る事ができる。
当時の大臣・藤原良相が重病で死の淵をさまよっていた際、良相が閻魔大王のもとに赴くと、閻魔大王の隣には篁がいて、「彼は人格者であるため自分に免じて許して欲しい」と閻魔大王に直訴。
その甲斐があって、良相は死の淵から生還する事ができた。
良相は後日、参議として閣議に出席した篁に、閻魔大王とのやり取りを尋ねた。
すると、篁は自分が若い頃の失敗を良相が庇ってくれた恩だと答え、「この事はどうか他言しないよう」と耳打ちをしたと云う。

これが、平安時代から伝説として言い伝えられていた「冥官伝説」。

篁の死後すぐに出来上がったと思われる伝説であり、それだけ篁という人物が名を馳せていたという事なのであろう。

篁が逝去した後に上野の照崎の地に創建

仁寿二年(852)、病によって小野篁が逝去。

同年、上野の照崎の地に当社が創建されたと社伝に伝わる。

上野の照崎の地は、現在の上野公園にあたる位置で、篁が東征の際に住んだ縁の地であったとされる。

当時は「小野照崎大明神」として祀られていたと云う。

「誠の神」「学問の神」「芸能の神」として信仰を集めた。

寛永寺建立のため現在地に遷座

寛永年間(1624年-1645年)、「寛永寺」建立のため幕府より移転を命じられる。

「寛永寺」は、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として建立。開基は徳川家光、開山は天海。現在の上野公園一帯はほぼ全域「寛永寺」の境内であった。上野公園付近に鎮座していた当社は移転を余儀なくされる。

当社の末社であった坂本村の「長左衛門稲荷社」(現・境内社)の社地に遷座。
これが現在の鎮座地となり、坂本村の鎮守となった。

別当寺は「嶺松院」が担った。

江戸時代に富士塚・現社殿を整備・菅原道真を祀る

文政十一年(1828)、富士塚が築造。
これが現在も境内に残る富士塚で、現在は「下谷坂本の富士塚」として重要有形民俗文化財に指定されている。

江戸末期、「回向院」より菅原道真自刻と伝わる像が遷され相殿として祀る。
「江戸二十五天神」の一つに数えられた。

学問・芸能の神と信仰を集めていた当社に、学問の神で崇敬を集めた菅原道真公(天神様)が祀られた。

慶応二年(1866)、現在の社殿が造営。
多くの災禍を免れ、現存している。

江戸切絵図から見る当社

当社周辺の様子は江戸の切絵図からも見て取れる。

(今戸箕輪浅草絵図)

こちらは江戸後期の浅草周辺の切絵図。
右上が北の切絵図となっており、当社は図の左下に描かれている。

(今戸箕輪浅草絵図)

図を回転(北を上に)させ、当社周辺を拡大したものが上図になる。

左上の赤円で囲ったのが「小野照崎社」と書いてある当社。
当社の社頭には門前町が出来ていた事が分かる。
現在は南と西に参道があるが、当時は西側の参道が表参道であったのだろう。

中央の赤円で囲ったのが「庚申」と記された庚申堂。
現在は当社の境内にある庚申塚であり、「入谷庚申堂」と呼ばれ日本三大庚申の一つとされた。

江戸名所図会に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「小野照崎明神社」として描かれているのが当社。
現在の西側の参道から見たもので旧社殿が描かれている。

この後の慶応二年(1866)に現在の社殿が造営。

左手には「いなり」の文字があり、これが現在も境内社となっている「長左衛門稲荷」。
当社が遷座する以前より鎮座していた産土神である。
富士塚は描かれていないが、この当時には築造されていたと見られ、現在と同じく社殿の左手奥にあったのではなかろうか。

(江戸名所図会)

別ページには「入谷庚申堂」が描かれている。
これが現在、境内に整備されている当社の庚申塚。
大阪の「大阪四天王寺庚申堂」、京都の「大黒山金剛寺庚申堂」と共に「日本三大庚申」と呼ばれ崇敬を集めていたと云う。

明治維新以後と戦後の歩み

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。
坂本村の鎮守として崇敬を集めた。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に伴い、坂本村の一部が入谷区に編入。
入谷町となり、当社の氏子区域はこの一角を現在も引き継いでいる。

戦前の当社の古写真では、当時の当社の様子を知る事ができる。

(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖)

大正十一年(1922)に発行された『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖』より当社の写真。
慶応二年(1866)に造営した社殿が現存しており、当時の写真と現在の社殿を見比べてみても変わらない。

社殿は、関東大震災、東京大空襲という災禍を免れている。

昭和五十四年(1979)、当社境内にある富士塚が、「下谷坂本の富士塚」として重要有形民俗文化財に指定。

現在は「下町八社福参り」の一社としても崇敬を集めている。

境内案内

南側と西側の参道・かつては西側が表参道

入谷駅から西へ少し歩いたところに鎮座。
通りに面した南側が現在の表参道扱いになっており、大きな鳥居と狛犬が並ぶ。
大正時代に奉納された狛犬。

鳥居を潜ると右手に社務所、左手に境内社。
参道を進んだ右手に社殿となる。

一方で西側にも鳥居と参道がある。
現在は細い路地に面してある参道であるが、江戸時代の頃はこちらが表参道。社頭に門前町が開かれていた。

南参道側を進んで左手に手水舎。
綺麗に整備され常に水が張られている。

江戸時代に造営された社殿・狛犬が現存

社殿は、慶応二年(1866)に造営されたものが現存。
関東大震災や東京大空襲では地域一帯が火災となる中、当社の社殿は焼失を免れた。
都内に残る貴重な江戸時代の木造建築。
拝殿の彫刻も江戸後期を思わせる見事な造り。

拝殿の前には一対の狛犬。
明和元年(1764)に奉納された江戸中期の狛犬。
状態もよくウェーブがかった複雑な毛並みが見事な阿吽の狛犬となっている。

重要有形民俗文化財の富士塚・下谷坂本富士

社殿の左手には富士塚が整備されている。
社号碑には浅間神社の文字。
閉ざされた門の奥が富士塚。
文政十一年(1828)の築造で、塚は富士の溶岩で覆われ、富士山も模している。
原形がよく保存されており、「下谷坂本の富士塚」として国の重要有形民俗文化財に指定。

普段は閉門しており登拝する事はできないが、毎年富士山の山開きに合わせて、6月30日と7月1日に一般の登拝が可能。
当日は限定の御朱印も用意されている。

産土神である稲荷神社など境内社

境内社は西参道側に長左衛門稲荷神社があり、当社の鳥居の隣にもう1つ鳥居が並ぶ。
扁額には「稲荷神社」と掲げられており、境内社「長左衛門稲荷神社」の鳥居となっていて、文政六年(1823)に奉納された古い石鳥居。
長左衛門稲荷神社には織姫神社が合祀。
この長左衛門稲荷が元々当地に鎮座していた産土神と云え、当社は「寛永寺」建立に際して長左衛門稲荷があった当地に遷座して来た形。

かつての表参道であった西参道に、当社の鳥居の他、長左衛門稲荷の鳥居が並べて建てられている事からも、元々当地に祀られていた産土神を古くから大切にしていた事が伝わる。

南参道側の左手には三社殿。
御嶽社・三峰社・琴平社が合祀されている。

日本三大庚申に数えられた庚申塚

社殿の向かい側近くには庚申塚が整備。
現在は当社の一角に整備されているが、かつては『江戸名所図会』にも描かれたように「入谷庚申堂」として独立した存在であった。

大阪の「大阪四天王寺庚申堂」、京都の「大黒山金剛寺庚申堂」と共に「日本三大庚申」と呼ばれ崇敬を集めていたと云う。

整備された一角には古い庚申塔が並ぶ。
最も古い庚申塔は正保二年(1647)のものと伝わる。
猿田彦や青面金剛を祀り、申は干支で猿に置換えて「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた庚申塔。
庚申信仰とも云える民間信仰で篤く信仰され、今も各地にこうした庚申塔が残る。

渥美清が願掛け『男はつらいよ』寅さんの大役オファーが届く

和歌・漢詩・書道・絵画にも通じた博学広才な小野篁を祀った当社は、古くから学問・芸能の神様として信仰を集めていた。

近年になると芸能の神にちなんだ「仕事運向上の神」としても知られるようになる。
それは渥美清のエピソードによるもの。

渥美清がまだ役者として大成功を収める前、芸能の神として知られた当社に「禁煙と引き換えに仕事が欲しい」と願掛けを行った。
その数日後に『男はつらいよ』寅さんの大役オファーが届くこととなり、国民的人気を博すようになった。

こうしたエピソードがメディアなどで紹介された事から、若手芸人や音楽家、芸術家などが夢の成就を願って、仕事運向上を願い、願掛けをしに参拝に訪れるようになっている。

御朱印は授与所にて。
丁寧に対応して頂いた。

所感

学問・芸能の神様として崇敬を集める当社。
小野篁を祀る神社は比較的珍しく、博学広才と伝えられる人物を古くから信仰していた事が伝わる。
境内はそう広いものではないものの、江戸時代の社殿の他、狛犬・鳥居、当時の富士講による富士塚の原型を留める貴重な下谷坂本富士、さらに庚申塚など見どころは多数。
当地周辺の歴史を伝える素晴らしい境内。
渥美清の逸話から、今も当社に願掛けをする参拝者は後を絶たず、今もなお氏子崇敬者より信仰を集める良い神社である。

神社画像

[ 南鳥居 ]


[ 狛犬 ]


[ 南参道 ]

[ 手水舎 ]


[ 社殿 ]






[ 狛犬 ]


[ 絵馬掛 ]

[ まゆ玉結び ]

[ 西鳥居 ]


[ 稲荷神社鳥居 ]

[ 長左衛門稲荷神社・織姫神社 ]


[ 浅間神社(富士塚) ]






[ 御嶽神社・三峰神社・琴平神社 ]


[ 百度石 ]

[ 庚申塚 ]







[ 神楽殿 ]

[ 神輿庫 ]

[ 授与所 ]

[ 社務所 ]


[ 案内板 ]

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