神社情報
井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)
御祭神:八幡大神・応神天皇
社格等:郷社・別表神社
例大祭:9月30日-10月2日(3年に1度神幸祭/5年に1度流鏑馬)
所在地:東京都杉並区善福寺1-33-1
最寄駅:上石神井駅・上井草駅・西荻窪駅
公式サイト:https://www.igusahachimangu.jp/
御由緒
当宮の鎮座地は武蔵野台地の真っ只中にあり、当社の境内及び周辺の地域からは、石器時代の居住跡が数多く発見され、種種の土器や石器が発見されています。中でも縄文中期の釣手型土器(当社所蔵・重要文化財)は、儀式に用いられたもので、当社が古代の聖地の上に位置し、古くから崇めれて来たことがわかります。
文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原氏征討の途次、当社に祈請しましたが、この年は干天続きで水が涸れていました。伝説では、頼朝自ら弓で地面に穴を穿ち、七度目にしてようやく水が湧き出しました。水の出があまりに遅かったことから、この湧水は「遅の井」と名付けられました。江戸時代までこの地は遅野井とも呼ばれ、当社は遅野井八幡宮と呼称されていました。
源頼朝の来参により、春日社をお祀りしていた当社は八幡宮としての形態を整えていきます。
文明九年(1477)には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。
江戸時代に至って三代将軍家光は朱印地(六石)を寄進し、以後江戸末期の蔓延元年(1860)に及んでいます。地頭の今川氏も深く当社を尊崇し、氏堯が寛文四年(1664)に改築した本殿は、現存する杉並区最古の木造建築物であり、拝殿の奥の覆殿に納められています。
明治の制では、村社と定められ、昭和三年郷社に、昭和四十一年には別表神社に列せられ今日に至っています。
十月の例祭日には、三年に一度神幸祭、五年に一度古式流鏑馬神事が行われます。(境内の掲示より)
参拝情報
参拝日:2017/05/18
御朱印
初穂料:500円
社務所にて。
※2017年5月に頂いた際は初穂料300円だったが、現在は500円とのこと。
御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。
オリジナルの御朱印帳を用意。
当宮の御由緒にも伝わる源頼朝をデザイン。
頼朝が湧水を掘る姿で『遅野井伝説図』に描かれたもの。
※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。
歴史考察
都内有数の境内を誇る八幡宮
東京都杉並区善福寺に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、井草村・上井草村(現・杉並区北部一帯)の総鎮守。
現在は神社本庁の別表神社となっている。
元は「春日社」であったが、源頼朝によって「八幡宮」として形態を整えた。
都内有数の広さと立派さを誇る境内で、5年に1度、境内にて流鏑馬も催行。
最近はTVアニメ『〈物語〉シリーズ』に登場する「北白蛇神社」のモデルになった事でも知られる。
縄文時代から聖地とされた当地
創建年代は不詳。
当地は古くから人々の生活があった事が分かっており、古代の聖地に神社が創建したと見られている。
当宮周辺や境内東側付近からは、縄文時代中期(約4,000年前)の住居址が発見。
多くの土器が出土している。
土器の内側に火を灯した痕跡がある事から、儀式に用いられたと推測されている。
このように縄文時代より人々の生活があり、当地は聖地として崇められていた。
そうした古代の聖地の上に、神社が創建したのであろう。
神社として形態を整えたのは、平安時代末期と見られており、創建時は「春日社」として創建されたと伝わる。
かつては春日神を祀る神社であった。
源頼朝の伝承・遅野井と呼ばれた当地
文治五年(1189)、源頼朝が奥州征伐の途中に当宮へ参詣。
その際にこうした伝説が残っている。
すると頼朝自ら弓の本筈で地面に穴を穿つものの水の出が大変悪い。
弁財天に祈願し、7度目にしてようやく水が湧き出し、水を得る事ができた。
水の出があまりに遅かったことから、この湧水は「遅の井」と名付けられ、いつしか当地も「遅野井」と呼ぶようになったと云う。
(杉並区公式サイトより)
上絵は天保十一年(1840)に氏子が当宮に奉納した『板絵着色遅ノ井伝説図』(杉並区指定文化財)で、源頼朝の「遅の井」の伝承を描いた板絵。
建久四年(1193)、奥州から凱旋した頼朝は、当宮に社殿を造営。
源氏の氏神である八幡大神を勧請、合祀したとされる。
頼朝の伝承から当地が「遅野井」と呼ばれた事から、「遅野井八幡宮」と称された。
この際、頼朝が雌雄の松を手植えしたと伝わる。
雌松(赤松)は明治初年に枯死ししたものの、雄松(黒松)は都の天然記念物に指定。
しかしながら、昭和四十七年(1972)の強風で折れ、翌年に枯死。
現在は境内の廻廊に保管されている。
後年になって、元々祀られていた「春日社」が末社となり、当宮は八幡信仰の神社として形を整えていく事となる。
太田道灌による戦勝祈願
文明九年(1477)、太田道灌が、石神井城の豊島氏と戦う際に当宮に戦勝祈願。
頼朝によって八幡大神を勧請された当社は、特に武家からの崇敬が篤かったとされる。
徳将軍家からの庇護・井草村の成立
江戸時代になると、徳川将軍家から庇護される。
寛永年間(1624年-1645年)、三代将軍・徳川家光の命により、井上正利が社殿造営。
慶安二年(1649)、家光より朱印地6石を賜った。
以後、幕末まで歴代将軍家より朱印地を安堵されている。
江戸時代までは「遅野井」と呼ばれていた当地だが、この頃には現在の杉並区北部一帯を「井草」と呼ぶようになり、井草村が成立していたと見られている。
正保二年(1645)、井草村は旗本・今川直房の所領となり、幕末まで今川氏の知行地となった。
この頃には、上井草村・下井草村(井草村)に分村しており、両村を所領とした今川氏も当宮を深く崇敬。
この頃には「井草八幡宮」と称されていたと見られる。
寛文四年(1664)、今川氏堯の寄進により本殿を造営。
この本殿が現存しており、杉並区最古の木造建築として覆殿内部に納められている。
その後、氏子崇敬者により多くの奉納が行われ、境内整備が行われた。
新編武蔵風土記稿から見る当宮
文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当宮についてこう書かれている。
(上井草村)
八幡社
青梅街道の南にあり。本社は五間四方。拝殿五間に二間半南向。鳥居二基をたつ。本地弥陀の坐像長七寸なるを安ず。社領御朱印六石を附せらる。別当は勝鬼山金胎寺林光坊と云。本山派の修験にて同郡府中宿門善坊の配下なり。鎮守年代詳ならず。当村及井草村の鎮守。例祭八月十五日。
上井草村の「八幡社」とされているのが当宮。
上井草村と井草村(下井草村)の鎮守であった事が記されている。
現在の杉並区北部一帯の総鎮守と云う事ができるだろう。
朱印地6石を賜った事、別当寺が「勝鬼山金胎寺林光坊」(現・廃寺)であった事も記載。
神仏習合の中、地域から崇敬を集めた事が伝わる。
明治以降の歩み・戦後に別表神社に指定
明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列した。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、上井草村・下井草村・上荻窪村・下荻窪村が合併し「井荻村」が成立。
明治四十二年(1909)の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
(今昔マップ on the webより)
当宮の鎮座地は今も昔も変わらず、当時から広い境内を有していた事が伝わる。
井草一帯と荻窪一帯が合併した「井荻村」の文字を見る事ができ、「上井草」という地名や「善福寺」という地名もこの頃から見る事ができる。
大正十五年(1926)、社殿を改築し大規模な境内整備が行われる。
現在の立派な境内になったのはこの境内整備によるところが大きい。
昭和三年(1928)、郷社に昇格している。
戦後になり更に多くの境内整備が行われる。
昭和四十一年(1966)、神社本庁の別表神社に指定。
その後も境内整備が進み、現在は都内有数の広大で立派な境内を有する神社として、崇敬を集めている。
境内案内
流鏑馬が行われる東参道と大燈籠が置かれた北参道
最寄駅は上石神井や西荻窪駅になるがいずれからも徒歩20分ほどの距離。
青梅街道沿いにあるので分かりやすい。
大きな参道は2つ用意されており、東に面して東参道。
高さ9mの立派な朱色の大鳥居が存在感を放つ。
昭和三十三年(1958)に建立されたものとなっている。
東参道は真っ直ぐ直進に伸びているのが特徴的。
当社の例祭では5年に1度、流鏑馬が行われており、この東参道が使われる。
参道には「一の的」「二の的」といった目印も置かれているのが特徴的。
青梅街道の井草八幡前の交差点に面して北参道が整備。
両脇には高さ約9mもの大燈籠が置かれている。
別表神社に指定されたのを記念して、昭和四十二年(1967)に建立された。
北参道も広く綺麗に整備された参道が伸び、都内有数の広大な境内が窺える。
立派な楼門・趣のある神門と社殿
東参道・北参道どちらからも参拝順路に進むと、大変立派な楼門の前に出る。
昭和四十六年(1971)に建立されたもので、随神が一対納められている。
鉄筋コンクリート造によるものであるが実に立派な楼門。
左右両側は氏子各町会の神輿庫として整備されている。
楼門を潜ると右手に手水舎。
手水石は安政四年(1857)に奉納されたもの。
進んだ先、右手に神門と廻廊で整備された一画。
大変趣がある一画で、大社たる存在感を放っている。
神門を潜ると神域として凛とした空気に変わる。
社殿は実に立派な権現造り。
氏子崇敬者による崇敬の念が伝わる社殿。
都内有数の境内にふさわしい格式ある造り。
向拝には見事な彫刻が施されているのが分かる。
廻廊に囲まれているため本殿を眺める事は叶わないが、手水舎付近から朱色の覆殿を窺える。
昭和四十九年(1974)に鉄筋コンクリート造で造営された覆殿で、この内部に寛文四年(1664)に今川氏堯の寄進された本殿が納められており、杉並区最古の木造建築とされる。
源頼朝に手植えされた松・古い力石や狛犬
神門の前にはかつて、源頼朝が手植えしたと云われた雌雄の松があった。
雌松(赤松)は明治初年に枯死ししたものの、雄松(黒松)は都の天然記念物に指定。
しかしながら、昭和四十七年(1972)の強風で折れ、翌年に枯死。
現在は廻廊に衝立として保管されているため、神門を潜った左手で見る事ができる。
現在、神門前には2代目松が植えられている。
かつての松はさらに立派であっただろうが、現在も綺麗に整備されている。
神門前の狛犬は、嘉永六年(1853)奉納。
阿吽共に良い表情。
楼門を潜って左手に立派な神楽殿。
平成七年(1995)に改築されたもので、この神楽殿の右手奥に多くの力石が置かれている。
江戸時代から大正にかけての力石で、力比べなどに使われた。
旧拝殿が使用された招神殿・富士講の歴史
楼門を潜り正面左手に招神殿が置かれている。
立派な社殿となっているが、これは当社の旧拝殿。
文化十年(1813)に造営された旧拝殿を、現在は祖霊舎として利用している。
手水舎の奥に境内社が2社。
右手が祓戸神社。
左手が三宮神社(天照大神・春日大神・天満天神)となり、元々「春日社」として創建した当社の春日大神はこうして祀られている。
社務所の左手に境内社が3社。
左が三谷稲荷神社、中央が三峯神社、右が新町稲荷神社。
その正面の木の下に、庚申塔などかつての信仰を伝えるものが置かれている。
更に北参道から鳥居を出て、北側駐車場に面したところに浅間神社。
社の背後がこんもりとした塚になっている。
昭和五十年(1975)、境内から移築された富士塚である。
こうした富士塚など、当地には富士信仰を篤く信仰する氏子が多く、富士講が結成されていたのが窺える。
東参道の先に一対の石灯籠があり、この石灯籠には「富士浅間宮」の文字を見る事ができる。
文政元年(1818)に、氏子地域の富士講によって奉納されたもの。
広大な境内には他にも多くの施設などが置かれている。
井草民俗資料館や幼稚園なども併設しており、地域に親しまれる神社である。
御朱印は社務所にて。
オリジナルの御朱印帳も用意されている。
『〈物語〉シリーズ』北白蛇神社のモデル神社
最近はTVアニメ『〈物語〉シリーズ』に登場する「北白蛇神社」のモデルになった事でも知られる。
作中に出てくる「北白蛇神社」と当社の大燈籠と鳥居の構図などがかなり近い。
西尾維新による小説『〈物語〉シリーズ』。
TVアニメ版は、アニメ制作会社「シャフト」によって制作されている。
シャフトは杉並アニメ振興協議会会員で、杉並区上井草に会社を置くため、氏神である当社をモデルにしたという事なのであろう。
聖地巡礼という程に広く認知はされていないが、作品ファンが訪れる事もある様子。
所感
井草村の鎮守であった当宮。
かつての井草村は杉並区北部一帯と云え、そうした一帯の総鎮守と云う事ができるだろう。
源頼朝の伝承が残り、この事から源氏の氏神である八幡神を祀り八幡信仰の神社となった当宮は、武家からの崇敬が篤く、太田道灌や徳川将軍家から庇護された歴史を持つ。
何より今もなお氏子崇敬者よりの崇敬が篤い神社なのが伝わる。
大正期に大規模な境内整備が行われ、その後は郷社に昇格した事や、戦後に別表神社に指定された事は、そうした氏子崇敬者による崇敬の賜物であろう。
都内有数の広大で立派な境内は、かつての官社格にも引けを取らない大社の風格があり、実に素晴らしい。
都内でも指折りの大社であり良社であると思う。
神社画像
[ 東参道大鳥居・社号碑 ]
[ 東参道大鳥居 ]
[ 東参道 ]
[ 石灯籠 ]
[ 参道 ]
[ 北参道社頭 ]
[ 北参道社号碑 ]
[ 大燈籠 ]
[ 北参道鳥居 ]
[ 北参道 ]
[ 楼門 ]
[ 神輿庫 ]
[ 手水舎 ]
[ 境内 ]
[ 神門・廻廊 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿覆殿 ]
[ 源頼朝手植え松衝立 ]
[ 御神水 ]
[ 狛犬 ]
[ 二代目松 ]
[ 倉庫 ]
[ 招神殿(旧拝殿) ]
[ 神楽殿 ]
[ 力石 ]
[ 社務所 ]
[ 三谷稲荷神社・三峯神社・新町稲荷神社 ]
[ 庚申塔・石碑 ]
[ 神輿庫 ]
[ 祓戸神社 ]
[ 三宮神社 ]
[ 絵馬掛 ]
[ 西鳥居 ]
[ 手水舎 ]
[ 民俗資料館 ]
[ 浅間神社 ]
[ 富士塚 ]
[ 案内板 ]
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