芝大神宮 / 東京都港区

神社情報

芝大神宮(しばだいじんぐう)

御祭神:天照皇大御神・豊受大御神
相殿神:源頼朝公・徳川家康公
社格等:准勅祭社・府社
例大祭:9月16日
所在地:東京都港区芝大門1-12-7
最寄駅:大門駅・浜松町駅・御成門駅・芝公園駅
公式サイト:http://www.shibadaijingu.com/

御由緒

 芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。
 古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。
 その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至ります。公式サイトより)

参拝情報

参拝日:2017/03/22(御朱印拝受/ブログ内画像撮影)
参拝日:2016/01/13(御朱印拝受)
参拝日:2015/10/15(御朱印拝受)

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※以前は初穂料300円だったが、2017年に参拝した際は初穂料500円の掲示あり。
※その代わり「道中安寧守」と「生姜飴」を頂けるようになった。
※日によっては書き置きのみ場合があり、その際は朔日祈願(日付なし)の御朱印となる。
※兼務社「讃岐小白稲荷神社」の御朱印も頂ける。

[2017/03/22拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2016/01/13拝受]
(東京十社めぐり御朱印帳)

[2015/10/15拝受]
(朔日祈願)

御朱印帳

初穂料:1,200円・2,000円(木製)
社務所にて。

オリジナルの御朱印帳を2種類用意。
銀を記帳として神紋と社名が入った御朱印帳。(初穂料:1,200円)
日光杉並木古材を使用し千木筥の印判が押された大判サイズの御朱印帳。(初穂料:2,000円)
東京十社めぐり御朱印帳(紫色)も用意されていた。(初穂料:1,500円)

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

授与品・頒布品

道中安寧守・生姜飴
初穂料:─
社務所にて。

※御朱印を拝受した際に一緒に頂ける。


歴史考察

芝神明と称された関東のお伊勢様

東京都港区芝大門に鎮座する神社。
旧社格は准勅祭社、その後に府社。
現在は東京十社のうちの一社に数えられる。
かつては「芝神明」と称され、今でも一部崇敬者はそう呼ぶ事がある。
関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」と呼ばれる事もある。

伊勢神宮を勧請し創建・源頼朝による寄進

社伝によると、寛弘二年(1005)に「伊勢神宮」の内外両宮を勧請して飯倉山に創建と伝わる。
当初は「神明」と称していたが、飯倉山(現・芝公園)に鎮座していた事から「飯倉神明」とも称された。

飯倉山(いいぐらやま)とは、現在の港区芝公園一帯。芝丸山古墳という5世紀前後の前方後円墳が発掘されており、当宮は飯倉山の丸山に創建したと伝わり、古くから聖地とされた古墳の上に勧請されたものと推測できる。

元暦元年(1185)、源頼朝が神領を寄進。
建久四年(1193)、再び源頼朝が自ら参詣した上で、1300余貫の地を神田として寄進したと伝わる。

『吾妻鏡』によると、元暦元年(1184)に源頼朝が飯倉の地を「伊勢神宮」の御厨として寄進したと記されており、この事から飯倉の地は「飯倉御厨」と呼ばれ、当宮を含め、古くから「伊勢神宮」と繋がりが深かったと思われる。
御厨(みくりや)とは、有力神社の領地・荘園の事。

「伊勢神宮」と繋がりが深かった飯倉の地に創建し、関東における伊勢信仰の中心地として崇敬を集めた。

中世における武家からの崇敬

建武四年(1337)、足利尊氏の実弟・足利直義が戦勝祈願へのお礼の書状を奉納。

当宮に『足利直義御教書』として保管されている。
港区の文化財保護サイトは港区の公式ページです。

康正三年(1457)、太田道灌が江戸城を築城。
太田道灌も当宮を崇敬したと伝えられている。

戦国時代になると、後北条氏(小田原北条氏)が関東を支配。
後北条氏の五代当主・北条氏直による制札も当宮に所蔵されている。
天正十六年(1588)、後北条氏の配下となった吉良氏から朱印状を賜っている。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐および奥州仕置のため江戸を通った際に、当宮で戦勝祈願を行ったと伝わる。

同年、関東移封によって徳川家康が江戸入り。
家康自ら社参を行い、天正十九年(1591)に朱印地15石を寄進している。

現在地へ遷座・徳川将軍家からの庇護

慶長三年(1598)、徳川菩提寺である「増上寺」が、江戸城の拡張に伴い、現在地の芝(現・芝公園)へ移転。

江戸城の裏鬼門に当たる芝に「増上寺」を移転。
鬼門に当たる上野に「寛永寺」を創建している。
鬼門と裏鬼門を菩提寺に守護させたのが分かる。

飯倉山(現・芝公園)に鎮座していた当宮は、「増上寺」の移転に伴い現在の鎮座地(現・芝大門)へ遷座。
かつての「飯倉神明」とも「芝神明」とも称されるようになる。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに際し、徳川家康が当宮に社参して戦勝祈願。
慶長十九年(1614)・慶長二十年(1620)、大阪の陣(大阪冬の陣・夏の陣)では、徳川方の戦勝祈願をするべく、二代将軍・徳川秀忠の正室・お江の方(崇源院)の代参として、春日局が社参をしている。

春日局(かすがのつぼね)は、二代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の三代将軍・徳川家光)の乳母で、江戸城大奥の礎を築いた人物。

以後、歴代の徳川将軍家より庇護を受けた。
江戸市中の度重なる火災により、社殿は幾度も焼失をしているが、その都度幕府により再建が行われている。

江戸切絵図から見る当宮

当宮の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(芝愛宕下絵図)

こちらは江戸後期の芝・愛宕周辺の切絵図。
上が北の切絵図となっており、当宮は図の中央下に描かれている。

(芝愛宕下絵図)

当宮周辺を拡大したものが上図。
赤円で囲ったのが当宮で、「飯倉神明宮」と記されている。
左手にあるのが広大な敷地が「増上寺」で、当宮の創建の地。
当宮の前の通りが東海道。

街道沿いという事や、「増上寺」がほぼ隣接している事から、江戸時代には参詣者が増え大変賑わう事になる。
「伊勢神宮」に参拝する代わりに、当宮へ参拝する江戸庶民が多く、「関東のお伊勢様」として崇敬を集めた。

当宮の参道は、江戸でも有数の盛り場として栄え、茶屋、娯楽店・風俗店、見世物小屋などが多く出て賑わい、特に当宮近くの太々餅は土産物として名物であった。

め組の喧嘩の舞台

文化二年(1805)、当宮境内で勧進相撲が行われた際、町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件が発生。
これが後に講談・歌舞伎・芝居・錦絵などの題材とされた『め組の喧嘩』である。

当宮の境内で、勧進相撲が開かれた時、木戸御免と呼ばれる無料入場が認められていた町火消し「め組」 の鳶職2人が、町火消し以外の仲間の1人を連れて中へ入ろうとするが、町火消し以外の仲間の分も無銭で入ろうとしたため、相撲小屋木戸番の力士に咎められ言い合いになる。
力士の助っ人もあったため鳶職側が折れ、相撲見物を諦め、代わりに当宮境内で行われていた芝居小屋へ向かったところ、芝居小屋でも力士を見つけ、先程の腹いせに野次り恥をかかせ、怒った力士が鳶職を投げ付け、芝居を滅茶苦茶にしてしまう。
火消しの頭や相撲の年寄の仲裁もあり、一旦は収まりかけたが、同部屋の力士が復讐をたき付け、部屋から力士仲間を応援に呼び集め、茶屋で飲んでいた鳶職たちに殴り掛かる。鳶職たちは火の見櫓に上り、半鐘を乱打し加勢の仲間を集めたので、喧嘩の輪が広がっていき、4時間あまり続く大騒動になり、遂には与力、同心が出動して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛された。
庶民の注目を集めたのは事後処理の裁き方。
町火消しは町奉行、相撲側は寺社奉行、それぞれ管轄が違っていたためで、更には農民の訴訟を取り扱う勘定奉行も乗り出す事となる。
評定所の基本的な構成員である三奉行が1つの裁判に関与するのは、極めて稀な事だった。
結果、火消し側に厳しい裁定が出て、相撲側には甘い裁定となった。
事件の発端が 「め組」 の鳶職にあった事と、火事以外に叩くことを禁じられていた半鐘を喧嘩のために打ち鳴らして騒動を大きくした罪に問われたからである。
しかしながら、死罪などで罰せられるものはなく、全体的にそこまで厳しく問われる事がなかった。
これは当時の南町奉行・根岸肥前守鎮衛が「芝神明の半鐘が勝手に鳴り出したのが喧嘩の原因である」と断罪し、人ではなく半鐘に 「遠島」(島流し)を申し付けると云う粋な計らいをしたためと伝わる。

(歌川芳年・新撰東錦絵)

こちらは明治に歌川芳年が描いた『新撰東錦絵』の『神明相撲闘争之図』。
歌舞伎・講談・芝居・錦絵などの題材にされ人気を誇った。

この半鐘は、明治になって遠島の刑が廃止された後、当宮に返却。現在も当宮に安置されていると云う。

題材にされる際に脚色は入っているものの、『め組の喧嘩』は実際に当宮の境内で起こった事件であり、この事からも相撲小屋・芝居小屋など庶民の娯楽が集まる盛り場だった事が伺える。

江戸名所図会に描かれた当宮や例祭

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「飯倉神明宮」として3ページに渡り描かれている。
その横には「世は芝の神明宮といふ」とあり、一般的には「芝神明」として崇敬を集めていた。
現在よりもかなり広大な敷地を有していたのが分かる。

総門があり鳥居、その先に楼門と立派な参道が整備されている。
その先には実に立派な拝殿・本殿があり、境内には多くの境内社、裏手には神池も見る事ができる。
こうした境内社は現在は全て当宮に合祀されている。

(江戸名所図会)

社殿を中心に境内を拡大したものであるが、特に注目すべきなのは、当宮の境内に多くある娯楽施設。
ここに見えるだけでも、茶屋、吹矢、土弓、芝居小屋を見る事ができる。
参道にはこうした茶屋、娯楽施設だけでなく、風俗店や見世物小屋も立ち並んでいた。
それだけ参詣者が多く、いわば江戸の人気娯楽スポットであった。
それ故に上述した『め組の喧嘩』の舞台にもなったのであろう。

(江戸名所図会)

祭礼の様子を描いており、当宮の例祭は当時から現在にかけて「だらだら祭」と称される。

神輿渡御などの各種神事が行われるが、それらが長期間「だらだら」と続くために古来「だらだら祭」と呼ばれる。

また期間中に生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称した。

当宮の例祭の名物は、例祭時のみ授与された「千木筥(ちぎばこ)」である。
千木筥は、千木が千着にも通じるので、女性はこれを箪笥に入れて、着物が増えるのを願ったと伝わる。
門の左手に物売りが描かれているが、箱のような形をしているので千木筥の一種であろう。

左手奥に「太好庵」という看板が見える。
こちらは薬屋であり、門前町に住む医者が経営している店で、先祖伝来の長命薬として「万金丹」や「金粒丸」を売っていて評判であった。

浮世絵に描かれた芝神明

このように江戸有数の盛り場として人気となった当宮は、浮世絵などの題材にも多く取り上げられている。

(歌川広重・名所江戸百景)

こちらは歌川広重による『名所江戸百景』で、題名は「芝神明増上寺」とある。
当宮と「増上寺」に合わせて参詣する人が多く、右手奥に見えるのが当宮の社殿。
夕方の様子であるので、旅支度の旅人たちは江戸に戻ってきた旅人たちであろうか。
その左手に見える僧たちは「七つ坊主」と呼ばれる僧である。

七つ坊主とは、「増上寺」を出て江戸市中を毎夕七つ時(16時頃)から拍子木を打ち、念仏を唱えて托鉢して歩いた僧。

(歌川広重・江戸高名会亭尽)

同じく広重によって描かれた『江戸高名会亭尽』に「芝神明社内」として描かれたもの。
『江戸高名会亭尽』は有名料理茶屋を描いたシリーズものの錦絵。
当宮の境内に多くの料理茶屋があった事が分かり、江戸でも有名な店であった。
門前ではなく境内の様子を描いており、境内にこうして料理茶屋が並ぶという、正に盛り場であったと云えるだろう。

(歌川広重・江戸名所之内)

こちらも広重による『江戸名所之内』の「芝神明社内之図」。
火災で焼失する前の当時の社殿の様子が分かる貴重な資料。
子供たちが鶏と触れ合っている姿も描かれているが、伊勢信仰の神使は鶏である。
境内で鶏を放し飼いにして大切にしていたのであろう。

こうした浮世絵・錦絵からも当宮が江戸庶民から崇敬を集め、人気の盛り場だった事が伺えるであろう。

明治以降の歩み・古写真で見る当宮

明治になり神仏分離。
明治元年(1868)、准勅祭社に列する。

准勅祭社に指定された十二社のうち、東京23区内の神社十社が現在の「東京十社」となる。

明治三年(1870)、准勅祭社は廃止。
明治五年(1872)、府社に列し、「芝神明宮」から現在の「芝大神宮」に改称。
明治九年(1876)、火災により社殿を焼失。
明治十年(1877)、再建される。

(東京府史蹟)

こちらは大正八年(1919)に刊行された『東京府史蹟』に掲載されている当宮。
明治に再建された社殿で、江戸時代のものとは違うが、神明造りの立派な社殿となっている。
この社殿もこの4年後には倒壊してしまう。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当宮の社殿は倒壊延焼。

昭和二年(1927)、本殿などを再建。
昭和十二年(1938)、上述の古写真のような社殿にほぼ完全に再建された。

昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。
境内の殆どを焼失してしまっている。

江戸時代の頃から度重なる火災によって焼失していた社殿だが、明治に入ってからも計3度焼失し、その度に再建された。

昭和二十二年(1947)、本殿を再建。
明治三十九年(1964)、本殿を再造営。
境内も縮小され、数多く合った境内社は本殿に合祀される形となった。

平成十七年(2005)、鎮座1000年奉祝の「芝大神宮壱千年祭」を斎行。
社務所等の改築を行い、現在の姿となっている。

境内案内

まだ新しさを感じる大鳥居

最寄駅は大門駅もしくは浜松町駅で、第一京浜沿いに社号碑があるので分かりやすい。
ビルが建ち並ぶ参道で、この先に鳥居が見えてくる。
現在は都心の一角にこぢんまりと鎮座しており、往年の姿は見る事はできない。

参道の先に綺麗な神明鳥居。
旧大鳥居は昭和三十八年(1963)に奉納されたものであったが、現在の大鳥居は平成二十三年(2011)に新たに建てられた比較的新しいもの。
その下に賽銭箱があり、足腰が悪い方はこちらで参拝する事も可能。

戦後に再建された境内

石段を上ると社殿となる。
手水舎は石段を上った左手に置かれているので、参拝前に左へ向かう事。
昭和四十一年(1966)の例大祭の際に、氏子崇敬者によって寄進された。

社殿は明治三十九年(1964)に再造営されたもの。
伊勢信仰らしい神明造りで綺麗に整備されている。
幾度も焼失の憂き目に遭ったが、現在は石段の上に立派に鎮座。

社殿の左手には力石が置かれている。
当宮で勧進相撲が行われていたように、力比べで使われたもの。
石段の下には灯籠や石碑などが並ぶ。

御朱印は社務所にて。
オリジナルの御朱印帳も用意されている。
兼務社「讃岐小白稲荷神社」の御朱印も頂ける。

讃岐稲荷と小白稲荷が合祀された神社。高松藩松平家の下屋敷に祀られた讃岐稲荷。高松藩松平家の下屋敷の位置。芝湊町の邸内社であった小白稲荷。貧困街の歴史を持つ芝新網町。鳥居や扁額が別々に用意された境内。力石や狐穴。本務社は「芝大神宮」。御朱印。

だらだら祭りと称される例祭と人気の千木筥

当宮の例祭は古くから「だらだら祭り」と称される。
祭礼が長期間続く事から「だらだら祭り」。

現在も9月に行われ、16日の例大祭を挟み、11日から21日まで10日間にわたって行われる。

芝大神宮は一千年の歴史を誇る東京都内有数の神社です。神前挙式・神前結婚式をはじめ、各種ご祈願・ご祈祷に、日々のご参拝まで、ぜひ由緒正しき当神社をお選びください。

この例祭で江戸時代の頃から人気の授与品が「千木筥(ちぎばこ)」である。

公式サイトより)

現在は一部が通年で授与されているが、当時は例祭時のみ授与されていたもの。

千木が「千着」に通じることから、着物が増えるとして江戸時代から女性から人気を集めた。

現在は女性の衣服が増えるとして、祝いの贈り物として受ける方も多く、また良縁結びの縁起物としても人気となっている。

更に例祭では生姜が授与されるため、「生姜祭り」とも称された。
当宮が創建された頃、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたと伝わる。
この生姜を属すると風邪にかかりにくくなると評判を呼び、江戸時代の頃から人気であった。

(二代歌川広重・江戸自慢三十六興)

二代歌川広重・歌川国貞による『江戸自慢三十六興』。
例祭での当宮門前を描いており、店が多く出て常に賑わった様子が分かる。

女性の片手には「千木筥(ちぎばこ)」を見る事ができる。
左の物売りで、売られているのは生姜。
このようにこの一枚に「だらだら祭り」「生姜祭り」の様子が凝縮されている。

その奥に「太々餅」の暖簾がかかっており、これが江戸屈指の名物。
当宮の「だらだら祭り」にちなんだ「太々餅」で、土産として大人気であった。

現在は一部の千木筥やそれを模した根付などが通年授与されているので、お受けするのもよいだろう。
また日光杉並木古材を使用した木製の御朱印帳には、千木筥の押印がされているとの事。

所感

「飯倉神明」「芝神明」などと呼ばれ、関東における伊勢信仰の中心として「関東のお伊勢様」と尊称され崇敬を集めた当宮。
江戸時代に現在の鎮座地に遷座してからは、徳川将軍家からの庇護もあり立派な境内であった。
門前や参道、さらには境内にも、多くの茶屋や遊戯店、見世物小屋、芝居小屋などが立ち並び、江戸有数の盛り場として栄えており、『め組の喧嘩』の舞台としても知られる。
現在は規模がかなり小さくなり、当時の面影を見る事はできないが、社殿は幾度も焼失の憂き目に遭い、その度に再建されているように、氏子崇敬者からの崇敬は篤い。
神前結婚式などがよく行われており、良い立地にあるため参拝者が途切れる事もなく、江戸時代の頃とは様相はガラリと変わる中でも、人気の一社である。

神社画像

[ 参道・社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 社号碑・鳥居 ]


[ 鳥居・石段 ]

[ 賽銭箱 ]

[ 手水舎 ]


[ 社殿 ]




[ 狛犬 ]


[ 御籤掛・絵馬掛 ]

[ 百度石 ]

[ 石碑 ]

[ 力石 ]


[ 社務所 ]

[ 生姜塚 ]

[ 灯籠 ]


[ 案内板 ]

[ 祈祷殿入口 ]

[ 裏参道 ]

Google Maps