神社情報
宗任神社(むねとうじんじゃ)
御祭神:阿部宗任公・阿部貞任公
社格等:村社
例大祭:1月11日(追儺祭)・8月16日(輪くぐり祭)・11月25日(例大祭)
所在地:茨城県下妻市本宗道89
最寄駅:宗道駅
公式サイト:─
御由緒
阿部宗任公死一等を減じて、肥前に流され九州在住四十七年、天仁元年戊子九月九日享年七十八歳にして亡くなる。
松本七郎秀則の夢の中に、宗任公の霊魂妙音を以て告げる、『・・・・是より南尽未来際に鎮衛、有緑の地有り。抑も汝秀則、秀元父子は、是れ則ち我が家臣の末裔なり。且つ将に落葉の諸臣処処に漂泊して、在在に沈没す。其中に於て、稀に我が祖先の恩顧を追憶し、志を一にし、信を凝らす者有り。昔年我が著くる所の青龍と名づけし甲冑、封じて今現に鳥海の古城の石窟に在り。尋ねて探索し出だして各々護持し、以て南方に行くべし』。天仁二年、松本七郎秀則子八郎秀元父子と旧臣(普代郎)二十四名(和泉氏、栗原氏、小田氏、岩瀬氏、高野氏、黒川氏、佐藤氏、村山氏、岩手氏、上山氏、斉藤氏、岩沼氏、山本氏、安積氏)等と共に、宗任公の遺物を奉じ出羽国鳥海山麓を発して、野州二荒山麓にたどりついた。そこで一夜の宿を求めた樵の教える通りであった。一同は魚夫に頼んで、その小舟に乗せてもらい、川を下ることとなった。魚夫は二十八人もの人と沢山の荷物が乗れるかどうか案じたが、不思議にも納まってしまった。舟は水流に乗り、矢のごとく下った。そして、あっと言う間に下野と常陸の国境を過ぎ、下総国に入った。川が湾曲しているところへ来ると、小舟が動かなくなり、一同は宗任公の霊魂だろうと上陸した。田間の道に入ると、道が滑りて歩くことかなわず。奇怪にして恐らく察するに神慮、必ず此の奇事を随わせる。里人と語らいて、その日のうちに一棟の霊祠を造建し、滑田郷と名づけ、滑田明神(下妻市二本紀の香取神社)と号す。尚、一同は東に行く。しばらくすると侘人が持ちし宝器重く動かなくなり、松本氏が代わりに持つが、やはり動かず。それを見ていた旧臣の一人が「松本殿岡の如く動かず」と言い、松岡明神と号す。尚、東南方に三里行く。黒巣郷有り、一同は郷長に頼み宿泊した。するとその夜、秀則の夢の中に、宗任公の霊魂超勝絶妙の音韻を以て親しく告げる、『我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。・・・一基の神祠を祝祭すべし。・・・郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)・・・次に、三分の中、鎧一具を以て東南の鯨郷に鎮祭し、鎧明神と号すべきなり。(黒巣郷からみて東南巽は風の暴ら神の住む方向であるから、その暴らき風神を鎮め樹木をまもるため)・・・次に、東に大苑木郷あり、青龍逆角の一分の兜を鎮祭し、甲明神と号すべきなり。(青龍は雷神で雨を齎す農業の神から、東方の大苑木の繁った郷に)・・・』。翌朝、郷長に話語らい、一社を造建して、宗道郷鎮守宗任大明神と尊称す。元永二年晩秋良辰吉日に、神職松本七郎秀則、長男八郎秀元親子、慎み敬いて、宗任大明神の因縁起来由を書き記す。
その後、郷長黒須大学、娘を八郎秀元に嫁がせ、黒須家は、赤巣(赤須)郷に鹿島香取社と共に転宅する。それにより地名若宮戸と呼ぶ。又、鯨郷大苑木郷に其々社を鎮め祀る。
戦国の世は、小田城主氏治殿月参り、豊田城主四郎将基殿日参りの程共に尊崇篤く、社途中より下馬参向の礼をとり、今日『駒止め』の地名のこる。又、豊田氏よりは、当社に祭祀料として、滑田、松岡、田下、下栗、宗道、鯨、大苑木の地を奉納。(これが手向郷の根源と一説に伝う)他、豊田氏、当社の御分霊を豊田城外に祀る。(阿部神社)鎌倉時代より当社は、豊田三十三郷幸嶋十二郷総社となる。(計四十五郷鎌倉時代の水帳《地検帳》当社に現存す)江戸時代、三代将軍家光公より代々、祭祀料朱印五石を賜る。又、日光東照宮完成のおり家光公より、本殿拝殿を奉納。(当里宗道河原より日光へ資材等を送る)明治時代、廃社の厄を恐れ、祭神阿部宗任命の仮名とし、天津彦々穂之瓊々杵命と号した。同十三年、大火にて本殿拝殿失う。同十七年、本殿拝殿完成。昭和五十三年、『第一期モデル神社』指定。平成元年、宗任神社の森『茨城県の自然100選』に選ばれる。(頒布の資料より)
参拝情報
参拝日:2019/04/12
御朱印
初穂料:300円
社務所にて。
※「宗道神社」など兼務社の御朱印も頂ける。
歴史考察
豊田三十三郷・幸嶋十二郷の総社
茨城県下妻市本宗道に鎮座する神社。
旧社格は村社で、宗道一帯の鎮守。
鎌倉時代には豊田三十三郷・幸嶋十二郷の総社とされた。
前九年の役で源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任公を祀る珍しい神社。
地方豪族や武将に崇敬され、徳川将軍家からも庇護を受けた。
境内の裏手には国登録有形文化財の「江連用水旧溝宮裏両樋」が残る。
前九年の役で源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任
社伝によると、天仁二年(1109)に創建とされる。
「前九年の役」で源頼義の軍勢に敗れた阿部宗任(安倍宗任)を祀り創建された。
陸奥国(東北地方)の俘囚(ふしゅう/朝廷の配下に入った蝦夷)の長とされる豪族・安倍氏の一族。
俘囚長・安倍頼時の三男で、鳥海柵(とのみのさく/岩手県胆沢郡の城柵)の主であったため、安倍鳥海三郎宗任とも称された。
永承六年(1051)-康平五年(1062)に陸奥国(東北地方)で起こった戦い。
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・阿部氏を滅亡させた戦い。
前九年の役では、宗任は父・頼時、兄・貞任(兄の貞任も当社に祀られている)と共に源頼義の軍勢と戦い奮戦したものの、父・兄は何れも戦死し、奥州の有力豪族・阿部氏は滅亡。
宗任は降服し一命を取り留めたものの、源頼義の嫡男・義家によって都へ連行された。
都へ連行された宗任には、以下のようなエピソードが残されている。
陸奥国(東北地方)の俘囚(朝廷の配下に入った蝦夷)であった阿部氏を侮蔑していた都の貴族は、蝦夷に梅など分からぬと思い、梅の花を見せて「これは何か?」と嘲笑。
すると「わが國の 梅の花とは 見つれとも 大宮人は 如何か言ふらむ」(意訳:私の故郷にもあるこの花は、我が故郷では梅の花だと呼ぶのだが、都人は何と呼ぶのだろう)と詠み都人を驚かせたと云う。
宗任が文武に優れていた事を表すエピソード。
その後、伊予国(現・愛媛県)に配流。
治暦三年(1067)、筑前国(現・福岡県)の筑前大島に再配流。
嘉承三年(1108)、77歳で死去したと伝わる。
宗任の家臣・松本氏による創建
天仁二年(1109)、宗任が死去した翌年に当社が創建。
これには阿部氏の家臣・松本氏の当地までの旅路が伝わっている。
阿部氏の家臣・松本七郎秀則の夢に、亡き主君・宗任が現れたと云う。
宗任の神託によって、旧臣二十余名と共に宗任公の遺物を奉じ、出羽国・鳥海山麓を出発。
出羽国(現在・山形県と秋田県)にある標高2,236mの活火山。
古くからの名では鳥見山(とりみやま)と云う。
山岳信仰・修験道の聖地として、大物忌神(おおものいみのかみ)の名で正史にも登場し、山頂には出羽国一之宮「鳥海山大物忌神社」本社が鎮座している。
出羽国の鳥海山麓を出発した一行は、幾多の困難に見舞われながらも下総国に入る。
黒巣郷と呼ばれていた当地に入ると、再び秀則の夢に宗任が現れ神託を告げる。
「我、兼て吾が子に示す所の処は、即ち此れ是の境地なり。一基の神祠を祝祭すべし。郷名を改め、是れ自り後来、宗道郷と称すべき者なり。」
(黒巣の地名を、天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と改めれば、人はすこやか、地は栄えるであろう。)
天仁二年(1109)、神託の通り黒巣郷と呼ばれていた当地を宗道(そうどう)郷に改称。
宗任の家臣である松本七郎秀則と、その息子八郎秀元によって当社が創建。
宗道郷鎮守「宗任大明神」と称した。
鎌倉時代に豊田三十三郷幸嶋十二郷総社とされる
鎌倉時代に入ると、当社は豊田三十三郷と幸嶋十二郷の総社とされた。
合計45郷(村数にすると約170村)の総鎮守に値する。
豊田三十三郷幸嶋十二郷の総社として、周辺住民の多くから崇敬を集めた。
戦国時代には小田氏や豊田氏などからの崇敬
戦国時代に入ると、周辺武将からの崇敬が篤かったと云う。
小田城主・小田氏治は月参りを欠かさなかったと伝わる。
戦国時代の常陸の武将で、小田城(現・茨城県つくば市)の城主。
小田城をめぐる攻防で、佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返し、30年以上にも及ぶ小田城争奪戦が行われた。
豊田城主・豊田将基は、日参りをする程、当社への崇敬が篤かったと云う。
豊田氏は、滑田・松岡・田下・下栗・宗道・鯨・大苑木の地を当社に奉納。
さらに当社の御分霊を豊田城外に祀った。(現・常総市豊田に鎮座の「阿部神社」)
前九年の役(平安時代後期)以降、豊田郡を所領としていたのが豊田氏。
戦国時代には、豊田城(現・常総市本豊田)などを拠点とし、支配領域の維持と共に小田氏と姻戚関係を結び、下妻城主・多賀谷氏の南進を防いでいた。
このように周辺武将からの崇敬も篤かった。
徳川家光より朱印地を賜る・徳川家からの庇護
慶安元年(1648)、三代将軍・徳川家光より5石の朱印地を賜る。
幕府より寺社の領地として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと。
朱色の印(朱印)が押された朱印状により、所領の安堵がなされた事に由来する。
また「日光東照宮」完成(寛永の大造替)の際には家光より、本殿拝殿が奉納されたと云う。
以後、十四代将軍・徳川家茂の代まで代々の徳川将軍より同様に庇護された。
明治以降の歩み・第1期モデル神社に指定
明治になり神仏分離。
「宗任大明神」から「宗任神社」へ改称。
明治十三年(1880)、村内の大火にて社殿が類焼。
明治十七年(1884)、社殿を再建。
明治二十二年(1889)、市制町村制が施行され、本宗道村・新宗道村・田下村・下栗村・渋田村・伊古立村・長萱村・唐崎村・見田村が合併して宗道村が成立。
当社は一帯の総鎮守とされた。
明治四十年(1907)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。
赤円で囲ったのが当社の鎮座地で、鎮座地は今も昔も変わらない。
宗道村の他、本宗道とあり、これが当社の鎮座していた地。
まだ常総線も通る前で、当社周辺を中心に地域が発展していた事が窺える。
明治四十二年(1909)、神饌幣帛料供進神社に指定。
戦後になり境内整備が進む。
昭和五十三年(1978)、第1期神社振興対策モデル神社に指定。
これを機に社殿の改修、宗任橋の造営など境内整備が行われた。
氏子と神社の関わりを密にすべく、様々な創意工夫で神社の振興対策をはかる事を目的とされ指定される。
基本的には各都道府県で1社のみ選定される。
平成元年(1988)、境内が「アラカシの森」として茨城県の自然百選に選定。
その後も境内整備が進み現在に至る。
境内案内
県道357号線沿いに鎮座・立派な社頭
最寄駅は宗道駅で徒歩10分程の距離に鎮座。
社頭には大きな一対の狛犬。
石造りの一之鳥居。
第1期モデル神社を機に整備された境内
一之鳥居を潜ると比較的長い参道。
氏子と神社の関わりを密にすべく、様々な創意工夫で神社の振興対策をはかる事を目的とされ指定される。
基本的には各都道府県で1社のみ選定される。
参道の右手に手水舎。
手水舎のすぐ先に二之鳥居。
明治の社殿が改修しつつ現存
社殿は明治十七年(1884)に再建されたものが改修されつつ現存。
その手前に一対の狛犬。
数多くの境内社・交通神社や子宝神社・神馬舎など
境内には大変多くの境内社が鎮座。
社殿の右手に御神馬と札された建物。
参道の左手には稲荷社。
社務所の左手には交通神社。
参道の右手にユニークな神社。
旧江連用水の桜並木は桜の名所
境内の左手に宗任橋と云う橋が架かる。
桜は当社の社頭にも植えられている。
国登録有形文化財の江連用水旧溝宮裏両樋
桜並木の小川の先(当社の裏手)にあるのが、江連用水旧溝(えづれようすいきゅうこう)宮裏両樋(みやうらりょうひ)。
日本一早い豆まきの追儺祭・輪くぐり祭
当社の例祭は11月25日だが、それより前の2つの祭りが知られる。
毎年1月11日に斎行。
当社の御祭神は大晦日に眠りに入り1月11日に太鼓を鳴らして起こす風習が残り、その厄払いとして追儺祭が行われていた。
古くは旧暦の大晦日に追儺祭としてで行われていたが、そのまま新暦の日付に移行したため、現在では「日本一早い豆まき」の祭事として知られるようになり、豆まきの他、お菓子などもまかれる「宝まき」が神楽殿から行われる。
毎年8月16日に斎行。
古くから「宗道の輪くぐり」として地域に知られる。
茅の輪をくぐり罪や穢を払うと云うもので、現在各社で行われている夏越の大祓い(6月30日)に近い。
参道には露店も出ると云う。
御朱印・兼務社の御朱印も対応
御朱印には豊田三十三郷幸嶋十二郷総社の印。
所感
豊田三十三郷幸嶋十二郷総社として崇敬を集めた当社。
前九年の役で、源頼義・義家父子によって安倍氏(阿部氏)は滅ぼされた一方で、源頼義・義家の子孫には鎌倉将軍家(源頼朝など)・室町将軍家(足利尊氏など)がおり、英雄視され八幡神社を筆頭に、関東圏には源頼義・義家の数多くの伝承が残る。
そうした中、前九年の役で敗れた安倍氏(阿部氏)である阿部宗任を祀る神社は全国的にも珍しく、その家臣によって創建された歴史は大変興味深い。
奥羽国や出羽国といった東北の蝦夷だった安倍氏(阿部氏)を祀る神社が、地域一帯の総社とされたのも、家臣たちが当地に入植し大切に祀ったからこそだと思う。
明治以降も神饌幣帛料供進神社、第1期神社振興対策モデル神社などに指定され、今もなお境内整備によって立派な境内を有している。
宗道周辺の歴史を伝える良い神社である。
神社画像
[ 一之鳥居・社号碑 ]
[ 狛犬 ]
[ 社号看板 ]
[ 社頭の桜 ]
[ 参道 ]
[ 手水舎 ]
[ 二之鳥居 ]
[ 参道 ]
[ 拝殿 ]
[ 本殿 ]
[ 狛犬 ]
[ 裏参道鳥居 ]
[ 小祠 ]
[ 旧社号碑 ]
[ 石像 ]
[ 倉庫 ]
[ 神明社 ]
[ 神馬舎 ]
[ 神楽殿 ]
[ 神輿庫 ]
[ 稲荷社 ]
[ 神輿庫 ]
[ 石碑 ]
[ 社務所 ]
[ 交通神社 ]
[ さざれ石 ]
[ 霊神社 ]
[ 西鳥居 ]
[ 石碑 ]
[ 小祠 ]
[ 休憩所 ]
[ 子宝神社 ]
[ 石碑 ]
[ 小川(旧江連用水) ]
[ 江連用水旧溝宮裏両樋 ]
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