金ヶ作熊野神社 / 千葉県松戸市

松戸市

神社情報

金ヶ作熊野神社(かねがさくくまのじんじゃ)

御祭神:伊弉冉命・日本武命
社格等:村社
例大祭:10月20日-22日
所在地:千葉県松戸市金ヶ作361
最寄駅:常盤平駅
公式サイト:http://kumano.in/top.htm

御由緒

 金ヶ作は元武州川越藩郷士石川家五代目石川彦次右ェ門氏が、当地の新田開発を計画されて天明二年(1782年)元締として九家を引き連れて此の地に入植し、一家当り五丁歩を与いて開拓され、翌年七月六日の浅間山の大噴火により大量の火山灰の降灰により、田畠が大被害を蒙り急遽、氏神様を祭神するに当り、石川彦次右ェ門氏が神社敷地として、1,409.83坪寄進されて、紀州和歌山の熊野本宮より御魂を拝受、其の名も熊野神社と称して祭神されました。
当所は木造平家茅葺でしたが、明治二十八年に建替されて百余年経過し老朽化した為、平成七年二月五日臨時総会を開催、氏子一同のご賛同により、同年四月着工し、同年十月完成されました。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2019/04/12

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

※以前は社務所に常駐のない神社で、御祈祷日のみ御朱印対応をやられていたが、現在は基本的に常駐があるため、日にちを問わず御朱印を頂く事ができる。(書き手がいない場合は書き置き対応)

(2019年4月限定)

御朱印帳

初穂料:1,500円
社務所にて。

汎用の御朱印帳を用意。

※筆者はお受けしていないので情報のみ掲載。

歴史考察

金ヶ作(常盤平)鎮守の熊野神社

千葉県松戸市六高台に鎮座する神社。
旧社格は村社で、金ヶ作(常盤平を含む)の鎮守。
江戸時代に金ヶ作周辺の新田開発がされた際に、鎮守として創建された熊野信仰の神社。
平成造営の現社殿と明治造営の旧社殿が並ぶようにして鎮座。
金ヶ作自治会館も備え地域交流の場としても親しまれている。

困難を極めた金ヶ作の開墾

社伝によると、天明三年(1783)に創建とされる。
金ヶ作の開墾・新田開発にあたり鎮守として創建されたと云う。

金ヶ作の開墾は困難を極め、当社が創建される60年近く前にも忠七と善右衛門と云う人物が開墾に手を出したものの、失敗して撤退した歴史がある。

天明二年(1782)、石川彦次右ェ門が当地の新田開発を計画。
元締として九家(40数戸とも伝わる)を引き連れて当地に入植を行った。

この頃から「天明の大飢饉」と呼ばれる大飢饉が始まっているため、石川彦次右ェ門たちは困窮する状況を打破するため新田開発と入植を計画したと見られている。

天明三年(1783)、浅間山(長根県・群馬県)が大噴火。
開墾を行っていた金ヶ作の田畑にも甚大な被害を受ける。

浅間山の天明噴火
浅間山(あさまやま)は、長野県と群馬県の境にある標高2,568mの成層火山。
活発の活火山として知られ、中でも天明三年(1783)の天明噴火では大被害を起こし「天明の大飢饉」の決定打ともなる。
犠牲者は1,600人以上と云われ、利根川や江戸川にも泥流が流入して、多くの死体が下流域に打ち上げられたと云う。

金ヶ作の新田開発は、浅間山の天明噴火・天明の大飢饉によって困難を極め、大部分の者は脱落。
一時は入植者が三軒だけになったとも伝わり、残った者の生活は困難を極めた。
彦次右ェ門はそうした人々の生活費用を立て替えなど行い支え続けた。

金ヶ作の鎮守として当社を創建

天明三年(1783)、こうした困窮を極める金ヶ作の鎮守として当社を創建。
彦次右ェ門が社地として約1,400坪を寄進し、「熊野本宮大社」より勧請。
「熊野神社」と称され、地域の氏神とされた。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
和歌山県田辺市本宮町本宮に鎮座する神社。
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の一つ。
熊野三山は全国にある熊野信仰の神社の総本社。
熊野本宮大社
熊野本宮大社の公式ホームページです。全国3000社ある熊野神社の総本宮全国熊野神社です。上四社、中四社、下四社の三社からなり熊野三所権現と言われます。
当社の創建は困窮を極めた金ヶ作の守護神、さらには地域の結束を強める事になったとみられる。

金ヶ作陣屋・金ヶ作は天領の地

苦難の開墾となった金ヶ作だが、彦次右ェ門らが入植前より「金ヶ作陣屋」と呼ばれる陣屋が設けられていた。

金ヶ作陣屋(かねがさくじんや)
小金牧などを管轄するために設けられた江戸幕府の陣屋。
支配下の村を管轄しただけでなく訴訟業務も取り扱った。
小金牧(こがねまき)
江戸時代に幕府によって軍馬育成のため設置された放牧場。
遡ると平安時代以前の古くから軍馬育成の地として知られ、慶長十九年(1614)には幕府によって制定されたとされる。
現在の千葉県北西部の下総台地のかなり広い範囲にあたる。

この事からも分かるように、金ヶ作は古くから天領(江戸幕府の直轄地)とされていた。
開拓ににあたり役人などとも協力して、困難を極めた金ヶ作の開墾が少しずつ進む事となる。
その中心にあったのが石川彦次右ェ門であり、彦次右ェ門が創建した当社であった。

明治以降の歩み・社殿の建て替え

明治になり神仏分離。
当社は村社に列した。

隣接する五香(ごこう)・六実(むつみ)などの一画は、古くは小金牧(幕府の放牧場)の一画であったが、明治二年(1869)に牧が廃止され開墾。金ヶ作周辺も開墾された事で金ヶ作への入植も増える事となる。

明治二十八年(1895)、社殿の建て替えが行われる。
これが旧社殿で、現在も境内には現存。

明治三十六年(1903)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲ったのが当社の鎮座地で、鎮座地は今も昔も変わらない。
明治の地図にも「熊野神社」を見る事ができ、地域の目印になるような存在。
現在も残る金ヶ作の地名を見る事もできる。
周辺は田畑のみでまだ発展はしていない一画であった。

当時はまだ常盤平の地名は存在していない。

戦後になり境内整備が進む。

昭和三十年(1955)、金ヶ作駅(現・常盤平駅)が開業。

常盤平は常盤平団地が由来
日本住宅公団によって、金ヶ作の51万2251坪の土地を、団地やショッピングセンター・集会所・病院・小学校などの施設を有する街が建設、昭和三十四年(1959)から入居募集が開始された。
団地名は公募によって選出され、松戸市の松から連想された「常盤の松」に因む「常盤平」と命名された他、昭和三十五年(1960)には金ヶ作駅が常盤平駅に改称。
一帯の地名も常盤平に関連する地名と変更されていき、現在では「常盤平さくら通り」が「日本の道100選」に指定されるなど知られている。
現在の常盤平の大部分は古くは金ヶ作の一画であり、当社は常盤平の鎮守も兼ねる。

平成七年(1995)、旧社殿の老朽化に伴い現社殿を造営。
平成十九年(2007)、塗装の塗り替えが行われた。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

常盤平駅の北側に鎮座・金ヶ作自治会館も併設

最寄駅は常盤平駅で北へ徒歩数分の距離に鎮座。
賑やかな駅前から住宅街に入った静かな一画。

常盤平は戦後に出来た新しい地名(大部分が旧金ヶ作)で、常盤平駅も古くは金ヶ作駅として開業された。

社頭には石鳥居。
昭和四十年(1965)に建立されたもの。
社号碑や扁額には「熊野神社」の文字。

境内に併設されるように、左手には金ヶ作自治会館。
各種会合や趣味の場として開放されており、当社含め地域の交流場となっている。

302 Found

大正時代の狛犬・古い庚申塔・幕末の水盤

鳥居を潜るとその先に一対の狛犬。
狛犬と台座は年代が違う。
狛犬は大正(1922)に奉納されたもの。
台座は平成二十七年(2015)に改修で作られたばかり。
柔和な笑顔のように見える狛犬が特徴的。

その先、左手に庚申塔。
その左手に二十三夜塔があり、いずれも当地の古い民間信仰を伝える。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。
二十三夜塔(にじゅうさんやとう)
旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔。
月待行事とは講中と称する仲間が集まり、飲食を共にし、経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという民間風習。

その先、参道の右手に手水舎。
綺麗に身を清める事ができる。
水盤が古く、文久三年(1863)奉納のものを現在も利用。

その先が緑のある参道。
右手には休憩所などもあり、地域の憩いの場となっている。

平成造営の社殿・明治造営の旧社殿が並ぶ

参道の正面に社殿。
平成七年(1995)に建て替えられた社殿。
鉄筋コンクリート造と木造の組み合わせで、朱色の柱が特徴的。
木造部分には幾つかの彫刻。
旧社殿の老朽化に伴い、氏子の総意で建て替えが行われた。
側面は紫と白の塗装が施されていて、朱色の部分を含め平成十九年(2007)に塗装の塗り替えが行われた。

社殿の左手に旧社殿が現存。
明治二十八年(1895)に建て替えられた木造社殿。
老朽化に伴い現社殿が造営されたが、こうして旧社殿も隣に保存。
地域の鎮守の往時の姿を今に残す。

境内社・御神木のくすのき

社殿の左手に境内社。
右手にある2社は御嶽神社。
木曽御嶽信仰の神社。
その隣にあるのが稲荷神社。

さらに左手にはいわゆる太子堂で、空海(弘法大師)を祀る。
境内に大師堂があるのは、当社が新四国八十八箇所霊場を担うため。
東葛印旛大師を巡る八十八箇所霊場のうち、当社は第56番に指定されており、南無大師遍照金剛の文字。

遍照金剛と云うのは空海の金剛名。「南無大師遍照金剛」とは空海に帰依するの意。四国四十八箇所霊場を巡るお遍路ではこの名号を唱える。

参道の左手に御神木。
現在はくすのきが御神木となっているが、平成二十八年(2016)に御神木とされたばかり。
古くは社殿の前、境内の中央に「まてばしい」と呼ばれた御神木があったものの、倒壊の危険性が高まったため伐採を余儀なくされ、平成二十八年(2016)にいまのくすのきに御神木を更新する形となった。

旧御神木の様子と御神木更新記録の詳細は下記公式サイトにて。
302 Found

熊の一文字が特徴的な御朱印

御朱印は社務所にて。
とても丁寧に対応して頂いた。

以前は社務所に常駐のない神社で、御祈祷日のみ御朱印対応をやられていたが、現在は基本的に常駐があるため、日にちを問わず御朱印を頂く事ができる。(書き手がいない場合は書き置き対応)

御朱印は「熊野神社」の朱印、墨書きで大きく「熊」の一文字が特徴的。
2019年4月に参拝したため「平成最終月の御朱印となります」の添え書きも。

御朱印帳も用意。
汎用のものとなる。

所感

金ヶ作の鎮守として創建した当社。
天領であった金ヶ作は未開の地で、その開墾には困難を極めた。
開墾と入植が始まった翌年には浅間山の噴火で大被害を被り、そのため鎮守として当社が創建され、当社は地域の守り神として開墾を見守ったのだろう。
戦後になると常盤平団地によって周辺に多くの人々が住むようになり発展。
常盤平駅はかつては金ヶ作駅であり、常盤平周辺の地名もその大部分が金ヶ作の一部であった。
境内には金ヶ作自治会館も併設されていて、地域の憩いの場となっている。
金ヶ作(常盤平含む)一帯の鎮守として今も愛される良い神社である。

神社画像

[ 鳥居 ]



[ 参道 ]

[ 社号標 ]

[ 狛犬 ]


[ 庚申塔 ]

[ 二十三夜塔 ]

[ 手水舎 ]


[ 参道 ]



[ 社殿 ]








[ 旧社殿 ]




[ 御嶽神社 ]




[ 稲荷神社 ]


[ 太子堂 ]


[ 絵馬掛・御籤掛 ]

[ 社務所 ]

[ 御神木 ]



[ 石碑 ]

[ 休憩所 ]

[ 案内板 ]



[ 金ヶ作自治会館 ]

[ 石碑 ]

Google Maps

コメント

タイトルとURLをコピーしました