赤羽八幡神社 / 東京都北区

北区

概要

赤羽地区の総鎮守である八幡さま

東京都北区赤羽台に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、旧赤羽村を含む岩淵郷五ヶ村の総鎮守。
現在の赤羽地区の総鎮守として崇敬を集めている。
平安時代初期に創建と伝わる古社で、歴代の武家より崇敬を集めた。
境内の下に東北・上越・北陸新幹線が走るため新幹線の上にある日本唯一の神社とされる。
授与品の下元八運御守が人気を博し、数字の8を横にして∞のマークが使用されているため、近年では関ジャニ∞のファンが訪れる神社としても知られている。

神社情報

赤羽八幡神社(あかばねはちまんじんじゃ)

御祭神:品陀和氣命(応神天皇)・帯中津日子命(仲哀天皇)・息長帯比賣命(神功皇后)
社格等:郷社
例大祭:9月15日
所在地:東京都北区赤羽台4-1-6
最寄駅:赤羽駅
公式サイト:http://ak8mans.com/

御由緒

 赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和氣命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇。『日本書紀』によれば、応神天皇の父)、息長帯比賣命(神功皇后。『日本書紀』によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷五ヵ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり(『新篇武蔵風土記稿』)、現在もその地域の総鎮守となっています。
 創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782-806、平安時代)坂上田村麻呂(758-811。平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として尊崇され、征夷大将軍の職名は長く武門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995-9、平安時代)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154-56、平安時代)源頼政が修造を加え、応永(1394-1428、室町時代)正長(1428-29、室町時代)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として一貫文の地を寄進し、文明元年(1469、室町時代)太田道灌が社殿を再建したといいます(『岩淵町郷土誌』)。
 これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文二十年(1551、室町時代)の寄進状が伝えられており、その文面は、
 岩淵之内赤場根八幡領之事 合壹貫文之所者
 右爲社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を爲本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥十二月廿八日 太田新六郎 康資 華押
 八幡 禰祇 朝日輿五右衛門殿
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
 また、『新篇武蔵風土記稿』に、「赤羽根村……今ハ東叡山及傳通院村内寶幢院八幡社領、入曾ノ村ナリ」と記されており、慶安二年(1649、江戸時代)に七石余の朱印が付されていることから(『岩淵町郷土誌』)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に七石余有していたことも確実といえましょう。
 現在の本殿は昭和六年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬三枚納められています。
 この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の冲積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(『東京都遺跡地図』東京都教育委員会)。
 この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一師団工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
 明治五年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同二十年、第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等があいつぎ、赤羽は「陸軍の町」となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残です。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2020/10/26

御朱印

初穂料:500円
社務所にて。

※月替りの御朱印を用意。
※誕生日・結婚記念日・還暦など記念日に参拝した人は申し出れば記念印を押印して下さる。

最新の御朱印情報
4月1日-30日まで「月替り御朱印」
一粒万倍日や天赦日にはスタンプを押印。誕生日(月)・還暦祝い・結婚記念日の印あり。ミニ御朱印帳への対応あり。詳細は公式サイトを参照。
開所時間:9時30分-16時30分(土日祝)/16時(平日)(毎週火曜日は社務所が閉所)

御朱印帳

オリジナル御朱印帳
初穂料:1,500円
社務所にて。

御朱印帳を複数用意。
筆者が頂いたのは2020年10月1日より頒布開始した御朱印帳。
他にも個性的なデザインの御朱印帳が複数用意されている。

歴史考察

平安時代初期に坂上田村麻呂によって創建

社伝にとると、延暦三年(784)に創建と伝わる。
坂上田村麻呂が東征の途中、当地に陣を張り八幡三神を勧請して戦勝祈願した事が始まりだと云う。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
征夷大将軍に任じられ蝦夷(えみし/えぞ)を征討した武官として知られる。
※蝦夷は朝廷から見て東方や北方の地域の事で、現在の関東地方・東北地方・北海道地方に住む人々を異族視した呼称。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた。
死後は軍神として信仰の対象となり、現在は武芸の神として親しまれている。

(大日本名将鑑)

幕末から明治に活躍した浮世絵師・月岡芳年が描いた『大日本名将鑑』より坂上田村麻呂。

長徳年間(995年-999年)、源頼光が社殿を再興。

源頼光(みなもとのよりみつ)
清和源氏の3代目で、後の清和源氏の興隆の礎を築いた武将。
『今昔物語集』『御伽草子』などで鬼の頭領・酒呑童子の討伐や妖怪・土蜘蛛退治の伝説で知られ、頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と呼ばれる家臣がいたと伝わる。

久寿年間(1154年-1156年)、源頼政が神領を寄進し社殿を修造。

源頼政(みなもとのよりまさ)
従三位に叙せられ源三位(げんざんみ)と称された武将・公卿。
平清盛から信頼され武士としては破格の従三位に叙せられ公卿に列した。
平家への不満が高まると後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)と組み、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えたものの計画が露見し、平家との「宇治平等院の戦い」に敗れ自害。
『平家物語』には鵺(ぬえ)と呼ばれる妖怪を退治した伝説が記されている。

坂上田村麻呂による創建の伝承、更には源氏の伝説的な武人からの逸話が残る。
八幡神は源氏の神であるため、特に武家からの崇敬が篤かった。

当社の境内からは、縄文式土器・弥生式土器・土師器が発掘されていて、古くからの聖地に神社が創建されたとも推測できる。

太田資清による社領寄進・太田道灌による社殿再建

応永・正長年間(1394年-1429年)、地頭であった太田資清が社領として一貫文の地を寄進。

太田資清(おおたすけきよ)
相模守護代で扇谷上杉家の家宰(かさい/家政を取り仕切る職責)。
江戸城を築城した太田道灌の父として知られる。
知略に優れ長尾景仲と共に「関東不双の案者」と称された。

文明元年(1469)、資清の子である太田道灌が社殿を再建。

太田道灌(おおたどうかん)
武蔵守護代・扇谷上杉家の下で活躍した武将。
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸城の城主であり、江戸周辺の領主でもあった。
武将としても学者としても一流と評されるが、道灌の絶大なる力を恐れた扇谷上杉家や山内家によって暗殺されてしまったため、悲劇の武将としても知られる。
この頃に荒廃していた当社が再建したものと思われる。

天文二十年(1551)、道灌の曾孫である太田康資が寄進状を送っている。

岩淵之内赤場根八幡領之事 合壹貫文之所者
右爲社領如前々闕之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を爲本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件
天文廿年辛亥十二月廿八日 太田新六郎 康資 華押
八幡 禰祇 朝日輿五右衛門殿

太田康資(おおたやすすけ)
太田新六郎とも称された戦国時代の武将。
後北条氏第3代目当主・北条氏康から偏諱(へんき)を賜って太田康資と名乗った。
北条氏康は母方の伯父にあたり、江戸城築城で有名な太田道灌は曽祖父という家柄。
家督を継いだ際には、江戸城代を担っていた。
駿河国に侵攻した武田信玄の家臣・原虎胤を撃退するなど、武勇に優れた武将だったと伝えられている。

このように代々の太田一族からの崇敬が大変篤かった事が窺える。

後に康資は恩賞が少なかった事への不満などから上杉謙信への寝返りを画策したものの失敗。当社の禰祇は太田氏の家臣と判断されて社領を召上げられ、さらには多くの貴重な神宝や旧記古文書類を焼失したと伝わる。

岩淵郷五ヶ村の総鎮守・徳川家光より朱印地を賜る

江戸時代に入ると岩淵郷五ヶ村の総鎮守とされた。

岩淵郷五ヶ村(いわぶちのさとごかむら)
赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿の5つの村。
室町時代の『小田原衆所領役帳』には「太田新六郎知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、上述したように太田康資の知行地であり、岩淵街道沿いは特に栄えたと云う。
現在の地名では赤羽・赤羽北・赤羽台・赤羽西・赤羽南・岩淵町・浮間・神谷・桐ケ丘・志茂・西が丘に相当。

赤羽根村に鎮座していた当社は、これら岩淵郷五ヶ村の総鎮守として崇敬を集めた。

元々戦国時代に太田康資が所領する知行地のうち、当地を含む岩淵郷五ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)と呼ばれた地が最も広く、特に当社が中核的な位置にあったと推測できるため、古くから一帯の総鎮守であったと思われる。

慶安二年(1649)、三代将軍・徳川家光より7石の朱印地を賜る。

朱印地(しゅいんち)
幕府より寺社領として安堵された土地。
朱印が押された朱印状によって安堵された事から朱印地と呼んだ。

以後、地域一帯の総鎮守として崇敬を集めた。

新編武蔵風土記稿に記された当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』にはこう書かれている。

(赤羽根村)
八幡社
當村及下村・袋村・稲付村・岩淵宿等の惣鎮守とす。社領七石餘。慶安二年十月十七日御朱印を賜ふ。延暦年中の鎮座とのみ傳へて詳ならざれど天文二十年太田新六郎康資が領寄附の状あり。其文左の如し。(中略)
是に據ても古き鎮座なること知へし。社地に東照宮を勧請し奉れり。其年代詳ならず。
社寶
古鏡一面。白河法皇の御鏡なりと云、傳ふ裏面の圖左の如し。
古鏡一面。後鳥羽院の御鏡と云裏面の圖左の如し。
古面一枚。大山祇園命の面と稱す、春日の作と云、圖左に載此餘古面三枚有。
獅子頭一箇。是も春日の作と云傳ふ。其圖左の如し。
鋒一本。木にて作る長五尺許古物とみゆ。
末社
神明、春日、稲荷、第六天、香取、熊野、牛頭天王、諏訪、妙義権現、湯殿権現、頼政明神。
神主朝日安房
京都吉田家の配下なり。天文二十年の神領寄附状に朝日與五右衛門と見えたれば古き家なる事論なし。此與五右衛門を中興の神職也と稱す。是より第二代を大蔵常永と云。寛永五年九月五日卒す。今の安房まて九代に及へり。

(新編武蔵風土記稿)

赤羽根村の「八幡社」として記されているのが当社。
「當村及下村・袋村・稲付村・岩淵宿等の惣鎮守とす」とあるように、岩淵郷五ヶ村の総鎮守であった。
太田康資による寄進状についてや、徳川将軍家からの朱印地についても記されている。
多数の宝物を有していて、一部はイラスト付きで掲載。

また数多くの末社を有していた事が分かる。

中には頼政明神と記してあり、当社の御由緒にも名がある源頼政を祀る末社があった事が窺える。

別当寺は現在も近くにある「宝幢院」であった。

文化財説明板宝幢院|東京都北区

江戸名所図会に描かれた赤羽八幡

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「赤羽山八幡宮」として描かれているのが当社。
赤羽山と呼ばれた山の上に鎮座していた事が窺える。
現在も高台に鎮座していて立地的にはほぼ変わらないのだろう。

山の麓には別当寺の「宝幢院」や神主の家も描かれている。

現在は当社とこれらを横断する形で東北・上越・北陸新幹線や埼京線などの線路やトンネルが置かれている。

(江戸名所図会)

社殿を中心に境内を拡大したものが上図。

高台の上に鎮座する様子、表参道や石段の位置は今と変化はないだろう。
その前の参道や鳥居などの配置は現在は線路の敷設もあり様変わりしている。
赤羽山とも呼ばれた高台に位置し、地域一帯から崇敬を集めた。
当時から見ても鬱蒼とした古社であった事が窺える。

明治以降の歩み・軍都赤羽・戦後の整備

明治になり神仏分離。
明治五年(1872)、村社に列する。

後に郷社へ昇格している。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行に際し、岩淵本宿町・稲付村・赤羽村・袋村・下村・神谷村が合併し岩淵町が成立。
当地は岩淵町赤羽となった。

岩淵町はいわゆる岩淵郷五ヶ村とされた地とほぼ同じ。当社が総鎮守とした地域が合併した事となる。

明治四十二年(1909)測図の古地図を見ると当時の様子が伝わる。

今昔マップ on the webより)

赤円で囲っているのが現在の鎮座地で、現在も変わらない。
既に東北本線の線路や赤羽駅ができていて、現在のような社地に近くなっている事が窺える。
陸軍省ならびに鉄道省に2,300坪もの社地を供出したと云う。
岩淵町・赤羽・袋・岩淵本宿といった地名を見ることもできる。

隣には第一・近衛両工兵隊兵営
当社の隣、現在の星美学園がある一帯は第一・近衛両工兵隊の兵営が整備。
2つの工兵大隊を合わせて赤羽工兵隊と呼び、兵営は「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれた。
そのため通りは今も師団坂通りと名残があり、今も当社前の坂を工兵坂とも師団坂と呼ぶ。
戦前の赤羽は「軍都赤羽」と呼ばれるように軍都として栄えた。特に陸軍の施設が多く陸軍の街として発展していく。

大正十二年(1923)、関東大震災が発生。
当社も拝殿が倒壊する被害を受けた。

昭和六年(1931)、社殿を再建・改築。
この時の社殿が改築されつつ現存。

昭和七年(1932)、郷社へ昇格。

前年の境内整備によって郷社へ昇格した事が窺える。

戦後になると境内整備が進む。

昭和六十年(1985)、東北・上越新幹線の建設が決定。
当社の社地に線路が敷設される事となり、社務所の下を通ることとなった。

これには氏子や当社も大反対をしたと云うが最終的には国の決定を受け入れざるを得なかったと云う。

その後も境内整備が進み現在に至る。

境内案内

師団坂通り沿いに鎮座

最寄駅の赤羽駅から師団坂通りを北上すると社頭に辿り着く。
戦前はこの先に赤羽工兵隊の兵営が置かれたため師団坂通りの名が残る。
「赤羽八幡神社」の社号碑。
通りに面して「八幡神社入口」の看板があり、その上にあるのは新幹線などの高架線。

左手に坂が整備。
こちらは車向けの参道となっているので、車で参拝した場合はこの坂を上る。
坂の上には大鳥居が整備。

車で鳥居を潜ると右手に駐車場が整備されている。

急勾配な石段の上に鎮座・江戸時代の道標

一方で高架線を潜り抜けると徒歩の参拝者向けの参道。
高架線下には児童向けの遊具などが置かれる。
「八幡宮」の扁額が掲げられた鳥居。

鳥居を潜った先に道標。
天保十年(1839)の道標。
かつて日光街道より当社参道に入る地点に建てられていたもので、現在は境内に移設。

当社が街道沿いの名所だった事を伝えている。

その先に参道と急勾配な石段。
この参道が表参道で、江戸時代は社殿から真っ直ぐ伸びていた。(明治に鉄道敷設にあたり社地が削られてしまい現在のような形の参道となっている)
急勾配な石段。
江戸時代以前よりこの石段の配置は変わっておらず「赤羽山」とも称された。
右手にも参道があるがこちらは現在はほぼ使われておらず獣道状態。

石段の上に鳥居。
鳥居を潜ると境内。

左手に手水舎。
綺麗に整備されている。

戦前に再建された立派な社殿

石段を上った先に立派な社殿。
旧拝殿は関東大震災で倒壊。
現在の社殿は昭和六年(1931)に改築されたものが現存。
戦前の拝殿には彫りの深い彫刻。

木鼻の獏や獅子。
状態もよく大切に維持管理されているのが伝わる。
本殿も同様に状態が良い。
社務所からは社殿全体を見下ろす事ができ、屋根の造りなどが見事。

拝殿前に一対の狛犬。
昭和六十三年(1988)に奉納された岡崎現代型。
新しい狛犬であるがややデフォルメされた造形が可愛らしい。

末社合祀殿・縁結びの大黒様・白兎・撫で牛・庚申塔

社殿の左手には末社合祀殿。
手前に一対の狛犬。
なかなかに古めの狛犬と思われるが奉納年代は不詳。
シュッとした体躯でいながらどこかくねった体型が特徴的。

その先にあるのが末社合祀殿。
左から大国主神社・疱瘡神社・稲荷神社・住吉神社・大山神社・阿夫利神社・御嶽神社・北野神社。
大国主神社の脇には大黒様の像。
その隣に大国主と縁の深い因幡の白兎の像。

大国主命(おおくにぬしのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、武力交渉の末に、天津神に国土を献上した事から「国譲りの神」とも呼ばれる。
国津神(天孫降臨以前より国土を治めていた土着の神)の最高神ともされ、古くから「出雲大社」の御祭神として知られる。
民間信仰によって「大国」が「だいこく」と読める事から、七福神でもある「大黒天(大黒様)」と習合していった。
大国主さまは縁結びの神様
御祭神の大国主命は「出雲大社」の御祭神としても知られる。
「出雲大社」は古くから全国的な崇敬を集め、縁結びの神様としても信仰を集める。
そのため同じ大国主命を祀る大国主神社も、現在は「縁結びの神」として信仰される。

一番右側の北野神社の近くには撫で牛。
北野神社の御祭神・菅原道真公と牛の繋がりによるもので、天神信仰の神使は牛。
かなり小さな牛像の姿も。

末社合祀殿の各社には神使などの小さな像が置かれていて何れも可愛らしい。

末社合祀殿の左手に古峯神社。
火伏せの神として進行され、今も「古峯神社」(栃木県鹿沼市)へ参拝する講が続いている。

この一画には古い庚申塔も。
古い庚申塔。
赤羽台団地に赤羽台猿田彦神社として整備。
赤羽台団地建て替えに伴い平成二十九年(2017)当社に移設となった。

庚申塔(こうしんとう)
庚申信仰に基づいて建てられた石塔。
60日に1度巡ってくる庚申の日に眠ると、人の体内にいると考えられていた三尸(さんし)と云う虫が、体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ寿命を縮めると言い伝えられていた事から、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われ、集まって行ったものを庚申講(こうしんこう)と呼んだ。
庚申講を3年18回続けた記念に庚申塔が建立されることが多いが、中でも100塔を目指し建てられたものを百庚申と呼ぶ。
仏教では庚申の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)とされる事から青面金剛を彫ったもの、申は干支で猿に例えられるから「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を彫ったものが多い。

赤羽招魂社は軍都赤羽を偲ぶ

社殿の右手には赤羽招魂社。
かつて神社の裏手に兵営があった赤羽工兵隊の戦没者と赤羽出身の戦没者を慰霊する社。
軍都赤羽を偲ぶ。
近くには忠魂碑も整備。

その手前にも境内社。
おそらく春日神社と天祖神社。
使用されていない社。

更に近くに稲荷社。
神狐像が赤いのが特徴的。
お稲荷様の社が朱色はよく見かけるが神狐像が朱色なのは実に珍しい。

その他、社務所の近くにもお稲荷様。
多くの神狐像や小祠などが並ぶ。

日本唯一・新幹線の上に鎮座する神社

当社は日本で唯一、新幹線の上に鎮座する神社として知られている
当社の社頭にある高架線が新幹線などの高架線。
昭和六十年(1985)に東北・上越新幹線の線路建設が決定。
氏子や神社は大反対したと云うが国の決定に逆らえず、社務所の下にトンネルが開通。
結果的に神社の下を新幹線が通ると云う大変珍しい神社となった。

当初は東北・上越新幹線だけであったが、現在は山形新幹線・秋田新幹線・長野新幹線の各車両を見る事ができ、平行して走る埼京線・りんかい線、更に東側には京浜東北線・宇都宮線・高崎線・湘南新宿ラインなど、鉄道路線に挟み込まれるように境内があるのが特徴的となっている。

下元八運御守・関ジャニ∞ファンが訪れる神社

当社の授与品に下元八運御守と云う御守が人気を博している。
神古代中国の風水思想によるもので、八幡の八ともかけ合わせたもの。

下元8運
当社では数字の8を横にした∞を下元八運期の最大吉のマークとして使用。授与品・御朱印・御朱印帳などの多くに使われている。

この∞のマークが「関ジャニ∞」のマークと同じと話題になり、ファンが多く訪れるように。

そのため絵馬掛けには数多くのファンによる祈願を見る事ができる。
∞マークの絵馬にはライブの当選祈願をよく見ることができる。

御守などは郵送受付をしている。
下元8運∞お守りについて

∞マークの月替り御朱印・誕生日/結婚記念日/還暦に押印も

御朱印は社務所にて。
一段更に高い所に社務所が整備されていて、この下を新幹線が走っている。

御朱印は月替りの御朱印を用意していて「赤羽八幡神社」の朱印とカラフルな∞マーク付き。
こちらは2020年10月の御朱印でお月見をデザインした御朱印。

また誕生日や結婚記念日、還暦などの記念日に特別な印を押印されるのが特徴的。
誕生日(月)、還暦のお祝いの印。
結婚記念日(月)のお祝いの印とあり、いずれも申し出れば押印して頂ける。

個性的なデザインで賑やかな御朱印帳

オリジナルの御朱印帳も複数用意。
2020年10月参拝時は4種類の御朱印帳を用意していて、いずれも∞マークと賑やかな御朱印帳。

筆者が頂いたのは2020年10月1日より頒布開始した御朱印帳。
黒を基調に白兎や∞マークなど賑やかな御朱印帳で「下元八運」も記されている。

一部の御朱印や御朱印帳は郵送対応も行っている。
赤羽八幡神社
赤羽八幡神社

所感

赤羽地区の総鎮守である当社。
坂上田村麻呂などの伝承を残す古社で、古くから武家からの崇敬を集めた。
特に太田道灌を始めとする太田一族からの崇敬は篤く、古文書などの記録が残る。
江戸時代に入ってからは岩淵郷五ヶ村の総鎮守とされ、徳川将軍家から朱印地も賜っている。
地域一帯の総鎮守として崇敬を集め、当時の様子は『江戸名所図会』などに記録。
明治に入ると近代化と鉄道敷設によって社地が縮小、軍都となった赤羽の鎮守として信仰された。
戦後になり新幹線の整備によって再び境内整備が必要となるなど、国や鉄道によって現在のような姿に変遷していった事が伝わるが、結果的に新幹線の上に鎮座する神社と云う個性的な面を持ち合わせたので、個人的にはとても面白いと思う。
∞のマークから関ジャニ∞のファンの人が多く訪れると云い、最近は御朱印にも力を入れていて、可愛らしい月替り御朱印を求めて参拝者も増え続けていると云う。
赤羽一帯の歴史と信仰を伝えながらも、新しい一面も見る事ができる実に良い神社である。

Google Maps

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