平塚神社 / 東京都北区

北区

神社情報

平塚神社(ひらつかじんじゃ)

御祭神:源義家命(八幡太郎)・源義綱命(賀茂次郎)・源義光命(新羅三郎)
社格等:郷社
例大祭:9月14・15日
所在地:東京都北区上中里1-47-1
最寄駅:上中里駅・西ヶ原駅・梶原停留所
公式サイト:http://hiratsuka-jinja.or.jp/

御由緒

 平塚神社の創立は平安後期・元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝受した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
 徳川の時代に、平塚郷の無官の盲目であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川家光の近習となり立身出生を果たした。その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。(境内の掲示より)

参拝情報

参拝日:2017/03/16

御朱印

初穂料:300円
社務所にて。

歴史考察

源氏三兄弟を祀る上中里の鎮守

東京都北区上中里に鎮座する神社。
旧社格は郷社で、上中里の鎮守。
御祭神は、当地に伝承が残る源義家(八幡太郎)・源義綱(賀茂次郎)・源義光(新羅三郎)の源氏三兄弟であり、当地にあった平塚城鎮守として創建された歴史を持つ。
徳川将軍家からも篤い庇護を受けた神社としても知られる。

豊島氏が築いた平塚城の伝承

平安時代、領主であった豊島近義が、豊嶋郡の郡衙があった当地に城館を築いたと伝わる。
後に「平塚城」と呼ばれる平城であり、当社は平塚城跡に鎮座していると云える。

豊島近義(としまちかよし)は、平姓秩父氏の流れを汲む豊島氏の当主で、武蔵国豊嶋郡を領主として発展し当地に城館を築く。豊島氏は、室町時代まで当地周辺の領主として存続した。
古くより当社周辺の台地が、平塚城であると推定されていたものの、正確な所在については永らく不明となっていた。
近年の発掘調査で、当社周辺から遺構が多数発見されており、当社を始めとして周辺に平塚城があった事が分かっており、当社は平塚城跡に鎮座する神社である。

八幡太郎を筆頭とした源氏三兄弟の伝承

平安時代後期、後三年の役が発生。
源義家(八幡太郎)が、奥州から凱旋途中に当地を訪れたと伝わる。

後三年の役は、1083年-1087年に奥州で発生した戦いで、奥州を実質支配していた清原氏の内紛に、源義家(八幡太郎)が介入した事で始まり、清原氏を滅亡に追いやった戦い。奥州藤原氏が登場するきっかけとなった。

義家とその兄弟は、領主である豊島近義の城館(後の平塚城)に逗留。
近義は義家たちを手厚くもてなしたと云う。
これに感激した義家は、鎧一領と十一面観音像を近義に下賜したと伝わる。

源義家(みなもとのよしいえ)は、源頼義の長男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称した。
関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。
義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていく。
源義綱(みなもとのよしつな)は、源頼義の次男で、「賀茂神社」(京都府京都市)で元服したことから「賀茂次郎」と称した。
父や兄と共に前九年の役で戦ったものの、後三年の役は参戦せず京都に留まったため、史実としては当地を訪れたとは考えにくい。
源義光(みなもとのよしみつ)は、源頼義の三男で、「新羅明神(現・三井寺/園城寺)」(滋賀県大津市)で元服したことから「新羅三郎」と称した。
後三年の役で兄の義家と共に戦い恩賞を受けたが、家光の没後に野心を起こし、兄弟や一族間の争いをもたらしている。

この事から、社伝通りであるのならば、義家と義光が凱旋後に当地に立ち寄ったと推測できる。

(江戸名所図会)

『江戸名所図会』には、源義家兄弟が凱旋の際に平塚に立ち寄り、豊島近義へ鎧一領と十一面観音像を下賜した伝承の様子が描かれている。
左の上座に座るのが義家で、右の下座で手をついているのが近義である。

鎧を埋め塚を築き当社を創建・平塚の由来

元永年間(1118年-1120年)、近義は下賜された鎧を城の鎮護とするため、義家が没してから、この鎧を清浄な地に埋めて塚を造った。
この塚は「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とも称された。

室町時代までは当地を武蔵国豊島郡平塚郷と呼んでおり、平塚郷の由来は当社の「平塚」に由来。

さらに近義は社殿を造営。
義家・義綱・義光の三兄弟を「平塚三所大明神」として祀り、豊島一族の繁栄を祈願。
これが当社の起源とされている。

この塚は現在も社殿裏手に残されているが非公開となっている。
北区によって「甲冑塚古墳」と登録されており、銀環(古墳時代に耳飾りに用いた切れ目のある銀色の輪)が出土している事から、この塚は古代の古墳であった可能性が高い。
社伝通りであるのならば「鎧を埋めた清浄な地」というのが、古くから古墳として神聖な地であった当地であり、古代の古墳に鎧を埋めたと推測できる。

平塚城の鎮守として源氏三兄弟を祀っていたため、豊島氏を始めとした武将より崇敬を集めた。

中世の戦乱で荒廃・太田道灌と豊島氏の戦い

室町時代中期、豊島氏は石神井城を築城したため、平塚城や練馬城はその支城となる。

文明八年(1476)、豊島氏が関東管領上杉氏に反旗を翻して挙兵。
文明九年(1477)、上杉氏の家臣である太田道灌が豊島氏を攻めると、豊島氏は逃亡。
文明十年(1478)、豊島氏は平塚城で再挙兵したものの、道灌が再び攻撃に向かったため逃亡。

(江戸名所図会)

『江戸名所図会』に描かれた「平塚城戦」。
太田道灌が豊島氏の要害へ押し寄せた様子を描いており、左手が太田道灌の軍勢で、右手の防衛側が豊島氏の軍勢。
豊島氏は平姓秩父氏の流れを汲んでいたため、九曜紋の家紋だった事も分かる。

平姓秩父氏など坂東平氏の流れを汲む一族は九曜紋など「曜星」を家紋としている一族が多い。

以後、消息が分からなくなっており、豊島氏本宗家は太田道灌によって滅亡。
同時期に平塚城も廃城となった。

太田道灌(おおたどうかん)は、江戸城を築城した事で知られ、当時は江戸城の城主であった。当社東側にある「蝉坂(せみざか)」の名は、道灌が攻め上った「攻め坂」から転訛したものと伝わっている。

平塚城の鎮守として創建された当社も、こうした戦乱によって荒廃の一途を辿る事となる。

江戸時代に入り再興・徳川将軍家の庇護

江戸時代に入ると当社は再興される。

平塚郷の無官の盲目であった山川城官貞久が、当社に出世祈願をして江戸へ出立。
その後、検校の地位となり、三代将軍・徳川家光の近習となり立身出生を果たした。

検校(けんぎょう)とは、目の不自由な人(盲人)が属する当道座という職能集団における最高位の名称。

寛永年間(1624年-1645年)、家光が病に倒れた際も、山川城官は当社に病気平癒を祈願。
家光の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は私財を投じて当社を修復し再建している。
寛永十一年(1634)、山川城官は当社の別当寺として「城官寺」を再興。

寛永十七年(1640)、家光が鷹狩の際に当地を訪れると、当社を見てその立派さに驚き、誰が造営したのか村長に尋ねたところ、山川城官が家光の病気平癒を日々祈願し治癒した事に感謝して私財を投じて再建した事を伝えた。
これを聞いた家光は感激し、山川城官を呼び出して、当社に50石もの朱印地を寄進、さらに山川城官に200石の知行地を与えた。
その後は、家光自ら度々参詣に訪れたと伝わっている。

新規に朱印地が下賜されるのは異例であり、50石もの朱印地は江戸の神社の中でも破格の待遇であった。

以後、歴代の徳川将軍家より庇護され、桂昌院(五代将軍・綱吉の生母)や、八代将軍・吉宗も当社に立ち寄ったとされ、地域を代表する神社となった。

江戸切絵図から見る当社

当社の鎮座地は江戸の切絵図からも見て取れる。

(巣鴨絵図)

こちらは江戸後期の王子・巣鴨周辺の切絵図。
左上が北の切絵図となっており、当社は図の中央上に描かれている。

(巣鴨絵図)

当社周辺を拡大したものが上図。

赤円で囲ったのが当社で、「平塚社」と記されている。
裏手には「鎧ツカ」の文字もあり、当社と甲冑塚(平塚)は広く知れれていたのだろう。
橙円で囲った部分は当社の御由緒が記されており、源氏三兄弟の名と「平塚三所明神」の名を見る事ができる。

江戸時代の史料から見る当社

文政十三年(1830)に成立した『新編武蔵風土記稿』には当社についてこう記されている。

(上中里村)
平塚明神社
源義家義綱義光靈を合祀す。神體三軀は豊嶋太郎近義の作なり。今は秘して扉を開かず、別に畫像を置り。縁起云、義家兄弟奥州凱陣の時當所平塚城に滞留有しに、城主豊嶋某厚く饗しけるにそ、其忠誠を賞せられて鎧一領と守本尊十一面観音の像一軀を與へらる。其後元永年中豊嶋氏城の鎮護の爲として彼鎧を城内に埋み、其上に塚を築きしが塚の形高からさるを以て平塚と唱へ、又具足塚とも號せり、是地名の由て起る處也。又義家義光の武功をしたひて一社を建て、影像を安置するもの今の三所明神是なり。夫より遙の星霜を過ぎ寛永年中大猷院殿御病悩のとき、山川城官當社へ祈誓して御平癒有しかは、報賽として自己の力を以て本社以下再建せしに、其事公の御聴に達し、同十八年九月廿七日社領五十石の御朱印を賜ひしとなり。
末社。豊島明神氷室明神天神合社。石神。稲荷二。

上中里村の「平塚明神社」と記されているのが当社。
源義家・義綱・義光を祀り、御神体の三体は豊島近義の作と記してある。
義家兄弟が平塚の地に逗留した伝承を記してあり、「平塚」の由来についても記されている。
山川城官と家光の逸話も記されているように、当社へ伝わる御由緒は当時から変わっていない。

江戸時代に描かれた当社

天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。

(江戸名所図会)

「平塚明神社」として見開きで描かれている。
現在も同様であるが、大変長い参道が描かれており、その先に立派な社殿。
右手にあるのが別当寺「城官寺」。

(江戸名所図会)

社殿を中心に拡大したものが上絵。
社殿の裏手に「よろひ塚」が描かれている。
源義家より賜った鎧を埋めたとされる塚で、平たい塚であったため「平塚」とも称された。
この塚は、現在も非公開ながら社殿裏手に古墳として残っている。

このように地域屈指の神社として崇敬を集めた。

明治以降の当社の歩み

明治になり神仏分離。
当社も別当寺「城官寺」とは分離し、「平塚明神社」から現在の「平塚神社」に改称。
明治五年(1872)、村社に列した。

明治二十二年(1889)、市制町村制施行によって、西ヶ原村・上中里村・中里村・田端村・西ヶ原村・滝野川村の一部・下十条村の一部が合併し、滝野川村が成立。
当地は滝野川村上中里となり、当社は上中里の鎮守であった。

大正十三年(1924)、郷社に昇格。
昭和七年(1932)、東京市に編入するに至り滝野川区が成立しており、当社は滝野川区の鎮守として崇敬を集めた。

戦後になると境内整備も進み現在に至っている。

 

境内案内

江戸時代からの長い参道は駐車場として整備

最寄駅の中里駅は当社の裏手にあるので徒歩すぐの距離にあるが、表参道は本郷通り沿いとなる。
当社の表参道の左手に隣接するように和菓子屋「平塚亭つるをか」が営業している。
参道は江戸時代と同様に大変長いものの、両脇は駐車場として整備されているのは致し方ない事か。

駐車場として整備された参道を進むと、その途中に一之鳥居。
左手には神輿庫が置かれ、この先もしばらく駐車場が続く。
長い参道を200mほど進むと駐車場が終わり、下乗の立て看板の先からは神域となる。

神域に入り左手に手水舎。
正面に社殿となるが、その前にやや小さな木製鳥居が立つ。
この先に社殿となる。

珍しい寄棟造の拝殿・御神紋は五本骨扇に月丸

拝殿は神社としては珍しい寄棟造となっている。
一見すると寺院のお堂にも見える造りとなっていて、神社としては珍しい。
『江戸名所図会』にも同様の寄棟造の社殿を見る事ができるので、当時の様相を残しているのだろう。
本殿は細かい彫刻を遠目で見る事ができる。

拝殿前の賽銭箱には「五本骨扇に月丸」の紋。
至るところにこの御神紋が使用されている。

「五本骨扇に月丸」の紋は他ではあまり見かけない珍しい紋であるが、当社を創建した豊島氏の庶流で後北条氏に仕えた宮城泰業が同様の旗印を使用していたため、その関連ではないかと推測できる。また源義光の末裔とされる秋田藩(久保田)藩主・佐竹氏も「五本骨扇に月丸」の家紋を使用した事で知られる。
社殿の裏手に「甲冑塚(平塚)」が今もあるそうが、一般公開はされていない。

獅子山や境内社など

社殿の前には立派な獅子山と狛犬。
獅子の子落としを表現していて良い造り。

境内社は境内の左手に並ぶ。
瓦葺の立派な境内社は菅原神社で、『新編武蔵風土記稿』に「豊島明神氷室明神天神合社」と記されていたものであろう。
御料稲荷神社・大門先元稲荷神社と稲荷社が並ぶ。
石室神社は、豊島氏の後に当地の領主となった蘓坂兵庫頭秀次を祀るという。

御朱印は社務所にて。
丁寧に対応して頂いた。
源氏三兄弟を祀る神社であるため、「勝守」や「魔除けの破魔弓」などの授与品が人気。

浅見光彦シリーズの舞台

作家・内田康夫の『浅見光彦ミステリーシリーズ』では、主人公の浅見光彦が住む街として当社周辺を舞台に登場する事が多い。(2作目『平家伝説殺人事件』など。)

当社や当社門前にある和菓子屋「平塚亭つるをか」がお馴染みとなっている。

所感

かつては当地にあったという平塚城の鎮守として創建された当社。
源義家(八幡太郎)・源義綱(賀茂次郎)・源義光(新羅三郎)の三兄弟を祀る神社というのは大変珍しく、特に義家によって下賜された鎧を埋めたと伝わる「甲冑塚(平塚)」は、平塚郷や当社の名の由来となり、現在も非公開ながら残されている。
中世の戦乱によって荒廃するが、江戸時代に再興され、家光など徳川将軍家より崇敬を集めた。
江戸時代と同様の長い参道は、現在は駐車場となってはいるものの、その先の神域は落ち着いた空気であり、神社としては珍しい寄棟造の拝殿や日の丸扇の御神紋など、見所を残す。
この日は地域の散策レクリエーションの集合場所になっていたようで、境内に多くの人が集まっていたりと、地域に親しまれている事が伝わり和やかな雰囲気であった。

神社画像

[ 玉垣・社号碑 ]


[ 社号碑 ]

[ 参道 ]

[ 鳥居 ]

[ 参道 ]

[ 手水舎 ]

[ 鳥居 ]

[ 拝殿 ]





[ 本殿 ]

[ 狛犬(獅子山) ]


[ 神楽殿 ]

[ 御神木 ]

[ 神輿庫 ]

[ 菅原神社 ]

[御料稲荷神社・大門先元稲荷神社 ]

[ 石室神社 ]

[ 社務所 ]

[ 神輿庫 ]

[ 東鳥居 ]

[ 案内板 ]

Google Maps

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